補講3-1
「はーい、そこまで。ほら、ペンおきな」
ベルが鳴ったと同時にエルザは手をたたいて学生たちに試験終了を告げた。季節は初夏。卒業生以外の学生たちの試験がすべて終了したところである。卒業生たちの記念パーティーはすでに終わっており、エルザもこの試験が終了すれば王都に行く予定だ。……イングラシア公爵邸に。
エルザはルカと結婚し、イングラシア公爵夫人と呼ばれるようになったが、大学教員をやめるつもりはなかった。一応ルカにも許可を取ったのだ、これでも。
ルカはかなり寛容だ。普通の夫は認めないようなこともあっさりと許可する。その寛容さに助けられながらも、何となく悪い気もしてくるエルザだった。
「せんせぇ!」
いつものようにロザリアが間延びした声でエルザを呼ばわった。学生たちの回答を抱えたエルザは、ロザリアと、彼女のあとにやってきたイラリアを見る。
「なんだ。解答は教えないぞ」
「ううん。そうじゃなくて」
イラリアが微笑み、ロザリアが尋ねた。
「王都に帰るんですよね」
「ああ。まあね」
「そうですよねぇ。旦那様が待ってますもんねぇ」
普通は妻の方が待っているものなのかもしれないが、イングラシア公爵家の場合は夫の方が待っている。
エルザがこうして好きなことをして飛び回っていても、ルカは何も言わない。エルザが顔を出すと、「お帰り」と嬉しそうに言ってのけるのだ。犬みたい。
「……夫に感謝の気持ちを示す時は、どうすればいいんだろう」
無事に大学から王都にやってきたエルザは、その日、実家であるロンバルディーニ公爵家に顔を出していた。同じく嫁いでいるアレシアとテレーザもやってきていた。なお、ほか二人の妹は、国外に嫁いだためそうそう帰ってこられない。
「……エルザ。旦那を調子に乗らせたら駄目よ」
アレシアが真顔で忠告してきた。まあ、マルキジオ侯爵夫妻は、どう見ても夫が妻の尻に敷かれている。恐妻家と言うわけではなさそうだが。
「アレシアは極端すぎよ。エルザ。どうしてそう思ったの?」
アレシアとは違い話を聞く姿勢を見せたのはテレーザである。エルザは少し考えてから言った。
「いや……ルカは普通では考えられないほど寛容だなと思って」
「うーん。それは否定できないかも……」
先ほどツッコミを入れたアレシアも、これには賛同せざるを得なかったようだ。テレーザもそうねぇ、と微笑む。
「普通、妻が大学で働くなんて許可しないわよね。しかも、学期中は離れて暮らしてるでしょ」
「旦那が単身赴任、っていうことはあるけど、この場合、逆だもんね」
テレーザもアレシアもそう述べた。ほら、エルザが少し罪悪感を覚える理由がわかってきた。
「それで『感謝』なのね。普通に『ありがとう』じゃだめなの?」
テレーザが小首をかしげた。似たような系統の顔立ちなのに、テレーザがやるとかわいらしく見える。
「もう言ってみた」
「反応は?」
「キョトンとした後照れた」
「……何それ公爵の方が女子力高くない?」
アレシアがそう言ってティーカップを傾けた。エルザも「そうだね」と同意する。お茶を飲みほしたアレシアが「でも意外」と口を開く。
「イングラシア公爵、クールそうなイメージなのに」
「見た目だけな」
エルザはバッサリとそう言って切り捨てた。たぶん、ルカにあこがれる少女たちが彼のあの顔を見れば幻滅するに違いない。
「と、いうより、あなたの前でしかそう言う顔はしないのよ、きっと」
にっこり笑ってテレーザが言った。エルザは目をしばたたかせ、「……なるほど」と納得した。道理で周囲が彼はポンコツであると気付かないわけである。
「エルザの方が男気あるもんね」
「見た目通りクールよね。公爵といる時もこんな感じなの?」
アレシアの言葉に答えるようにテレーザが尋ねてきた。エルザは「ああ」とうなずく。すかさずアレシアが、「ほら! その答え方とか!」と指摘してきた。
「エルザは昔からさばけた性格だものね。そうしたら、こういうのはどうかしら」
まるっとアレシアを無視したテレーザに手招かれ、エルザはアレシアを気にしつつテレーザの方に体を傾けた。テレーザも顔を近づけて小声で言った。
「あのね――――」
△
「ああ、お帰り」
エルザがイングラシア公爵邸に帰ってきたルカに声をかけた。エルザは学期休み中で研究と学生が書いたレポート添削くらいしかやることがないが、ルカは今日も仕事であった。
「ただいま。エルザ。社交シーズンの最後に賢者会議が開かれるそうだ。これ、案内状」
「わかった。ありがとう」
ルカが差し出した案内状を受け取り、エルザは中身を検めた。内容を読んでからうなずいて、それを箱の中にしまった。
外出着から部屋着に着替えるルカを見て、エルザはテレーザが言っていたことを思い出した。
『甘えてみれば?』
テレーザはそう言った。若干面白がっている気はしなくもなかったが、確かに自分から甘えたことはあまりないかもしれない、と思ったエルザである。
だが、甘えるとはどうすればよいのか。ふらふらとルカに近づいたエルザは、彼の服の背中部分を握った。
「どうかしたか?」
ルカが不思議そうに尋ねた。エルザは彼の整った顔をじっと見つめて言った。
「甘えるってどうすればいいのかと思って」
「は?」
さすがに意外だったらしく、振り返ったルカが口を開いて間抜けな表情になった。
「抱き着いてみればいいのかとも思ったけど、ルカ的に駄目かなと思った」
エルザの中でルカは女性恐怖症、という思いが強いのだ。その割に彼からはいろいろちょっかいをかけてくるし、結局結婚もしている。だから、大丈夫なのだろうとも思うのだが。
「前にも言ったが、エルザなら大丈夫だ」
「……なら遠慮なく」
エルザは後ろからルカに抱き着いた。顎をルカの肩に乗せる。実は、ちょっとやってみたかったのだ。
「珍しいな、エルザ」
「うん。まあ、ちょっとね」
テレーザに提案されたのも理由の一つであるが、エルザもやってみたかったと言うのもある。
「だが、お前から甘えられると言うのもいいな」
ルカが自分の肩に顎を乗せたエルザの頭を撫でる。エルザが首を傾けた時、空気を読まずにエルザの腹が鳴った。
「……」
「……」
沈黙が場を支配した。その挙句に、ルカは笑いもせずに言った。
「見事な落ち」
「言うな」
ちなみに、二人はお互いに相手よりも自分は愛想があると思っている。
現在、王都のイングラシア公爵邸にはイングラシア公爵ルカとその妻エルザしかいない。春ごろにはルカの両親もいたのだが、すでに隠居の身ということで、領地に帰ってしまったのである。
そのため、この屋敷には(一応)新婚夫婦が暮らしていることになる(使用人は除く)のだが、この二人、結婚してもあまり関係性が変わらず、新婚どころか熟年夫婦か、と言われることすらある。
「……何これ」
「いや、私もエルザを甘やかしてみようかと」
ルカがスプーンですくったドルチェのティラミスをエルザの口元に差し出していた。若い恋人がたまにやっているのを見かける「あ~ん」と言うやつである。確かに「甘えるには」と言ったが、どうしてこうなった。
「やってみたかったんだ」
ルカはいつも通りの真顔で言った。ぽかんとしている使用人たちはいないものとみなし、エルザはそれを口に含んだ。当たり前だが、ティラミス自体はおいしい。
「おいしい。けど、効率重視で自分で食べる」
「そうか?」
そうか? じゃない。二十年近い付き合いであるが、未だにルカが良くわからない。
「そう言えば、宰相に明日の舞踏会にはエルザを必ず連れて来いと言われた」
「いや、言われなくても行くけど、一応聞く。何故だ」
「通訳を頼みたいらしい」
「……本職に頼めよ」
エルザは様々な言語を習得しているが、本職の通訳者ではない。だが、ちょくちょく通訳を頼まれる。通訳をするくらいなら、翻訳した方がましだとエルザは言っているのだが、「同じことでは」とルカに言われてしまった。
「宰相がエルザを気にいってるみたいだな」
苦笑気味に言うルカに、エルザはため息をついた。まったくうれしくない。
「……私はルカに好かれているならそれでいい」
ため息交じりの言葉に、ルカが相好を崩した。そして、熟年夫婦のようだと思っていたイングラシア公爵夫妻のデレ期に、使用人たちがざわついていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ルカは真顔でやらかすからなんとも言えない。照れてるとか、たぶん、エルザしか読み取れない。これでエルザもデレる……。
今なら砂糖吐けそう。




