第13講義
夜会会場には気分が悪くなった招待客のために部屋が用意されているものだが、その部屋もそうだった。ソファとテーブルとベッドが用意され、エルザはソファに腰かけていた。
「ほら」
「ありがと」
ルカが手渡してきたグラスを受け取り、冷たい水を飲む。それで何とか一息つく。
「落ち着いたか?」
「うん。というか、びっくりしただけだし」
隣に座ったルカに、エルザはしれっといつも通りに返答する。
「絡んできた男、知り合いか?」
「学者なんだよ。前の学会で一緒だったんだよね」
すべての学者がすべての学会に出てくるわけではないので、必ず遭遇するわけではない。なので、たまたまだ。
「着眼点はよかったのに、論文がぬけぬけでさ。気になったんだよね」
「ちなみに何の論文だったんだ?」
「民俗学」
「……そうか」
ルカは相槌を打ちながらエルザの髪を撫でた。実際にくすぐったいわけではないのに、何となくくすぐったい気がしてエルザは身をすくめた。ルカの手がそのまま頬を撫でた。今度こそくすぐったくてエルザは顔を逸らした。
「どうした?」
「むしろお前がどうした!?」
不思議そうに尋ねてくるルカに突っ込むエルザ。女性恐怖症はどうした!? ああ、エルザは女の範疇に入っていないのか。なるほど。何となく切なくなるエルザだった。
「何となく怯えてるような気がして」
「むしろ私はお前のその行動の方が怖いわ」
冗談半分にそう返したエルザだが、途中で違和感に気付いた。ルカの手をつかむ。
「お前、手、熱くない?」
「……そうか?」
手を握ってみるが、やはりいつもより熱い気がする。いや、エルザが冷たいのか? そんなこともないと思うのだが。
「ちょっと我慢しろ」
先にそう言ってエルザはルカの額に掌を当てた。ルカはびくっとしたが、おとなしく触られてくれた。それからエルザはルカの首にも手を当てる。
「やっぱり熱いよお前。熱あるんだよ」
「……自覚はないんだが」
「それ、一番危ないやつ」
エルザも徹夜のし過ぎで熱を出したことがあるが、その時自覚はなかった。助手のサビーナが気づいてくれなければ、そのままぶっ倒れていたかもしれない。
「……でもそう言われるとだるいような気がしてきた……」
そう言ってうなだれるルカである。エルザは苦笑を浮かべ立ち上がった。
「つらかったらベッドで寝てなよ。私、ヴェルディ公爵に話してくるから」
「……すまん」
「気にしない気にしない」
ルカの頭をぐしゃっと撫で、エルザは部屋を後にした。自分より不調の人間がいると、しっかりしてくるから不思議である。眼鏡もないし、さすがに一人で夜会会場に戻るのは気が引けたので、屋敷の使用人に伝言を頼んだ。使用人もエルザのことを知っていたのか、すぐにヴェルディ公爵夫妻を連れてきてくれた。
「教授。もういいのか?」
ベネデットがかすかに笑みを浮かべながら言った。エルザはうなずく。
「ええ。もともと、ちょっと驚いただけですし」
「ちょっとだなんて。男の人に腕をつかまれて、怖かったでしょうに」
心配そうにフィオナが言った。エルザとしてはそんな感じはしなかったのだが、そうだ、と言われるとそんな気がしてくるのが人間の不思議である。ではなく。
「それより、ルカが体調が悪いみたいなんです。ちょっと熱っぽい気がして」
「あらあら。あの子ったら」
と言ったのは当たり前だがフィオナである。ベネデットが「フィオナ」とたしなめるように言った。フィオナは懲りた様子もなく肩をすくめている。
「では、薬を用意させよう。今使っている部屋に泊まっていきなさい」
「ありがとうございます」
すぐに許可をくれたベネデットに感謝である。
当たり前であるが、ルカがこの屋敷に泊まることになるのなら、エルザも宿泊することになる。エルザとしても心配なので、様子を見ていたい気もする。
「……ちょっとルカ。寝るならベッドにしようよ」
戻ってくると、ルカがソファの上で縮こまるように横になっていた。いや、だるくて移動もしたくないと言うのはわからないではないが、長身のルカにはソファはせますぎるだろう。
エルザはまずベッドのシーツを引っぺがし、ルカの元に戻った。
「ほら。立ち上がれる?」
できだけ優しく言い、体を支えて何とかルカを立ち上がらせる。いくらエルザが長身であろうと、成人男性一人を支えるのは結構大変だった。しかし、ソファからベッドくらいまでの距離なら何とかなった。ルカが倒れ込むようにベッドに横になった。とりあえず一安心である。
「ちょいと失礼」
エルザは一応そう言うと、ルカのジャケットを脱がしはじめた。いや、そこ、痴女扱いするな。このまま寝ると、ジャケットがしわになる。それに、ルカも寝苦しいだろう。何とかジャケットを脱がせ、タイも取る。それからおおざっぱにシーツをかけた。
「少し熱が上がってきたかな」
ジャケットとネクタイを椅子に引っ掛けたエルザは、ルカの額に手を当てて言った。心なしか、先ほどより熱い気がした。
「……エルザの手」
「うん?」
うわごとのように名を呼ばれ、エルザは思わずほほえんだ。
「冷たくて、気持ちいいな……」
「……あはは」
早く使用人が氷嚢を持ってきてくれるといいのだが。エルザの手が熱くなる。
エルザはベッドに腰掛けると、何気なくルカの髪を撫でた。普段は女性恐怖症の彼に遠慮するのだが、今は弱っているのでここぞとばかりに頭を撫でてみたのである。
「失礼いたします」
ノックと女性の声が聞こえ、エルザは立ち上がった。使用人が薬を持ってきてくれたのだ。
「薬と飲み水、氷嚢をお持ちしました」
「ありがとう。そこに置いといて」
「かしこまりました」
女性使用人は持っていたお盆をエルザが示したテーブルに置くと、彼女に向かって言った。
「何かありましたら、遠慮なくお呼びください。それと、エルザ様がこの屋敷にお泊りになると、すでにロンバルディーニ公爵につたえてあります。夜会の方も、心配しなくていいので、イングラシア公爵についているように、と旦那様からの伝言です」
「わかった。ありがとう、と公爵に伝えておいてくれ」
「承りました」
さすがはヴェルディ公爵家。使用人の動きが洗練されている、と思いつつ、エルザはその女性使用人が頭を下げるのを見ていた。
と言うか、エルザがルカの看病をすることが決定事項となっている。先ほどの使用人は普通に出て行ってしまったし。まあ、エルザも気づかなかったし突っ込み損ねたので、いいか、と思うことにした。
本人は気づいていないが、ルカが熱を出したことで彼女も少し動揺していたのかもしれない。
「ルカ、起きられる? 薬が届いたけど」
エルザは軽くルカの肩をたたく。本格的に熱が上がってきたのか、やや顔が赤くなっている。
「ルカ。起きろって言ってんだろ」
やや強めに言うと、ルカが眼を開けた。そのアイスブルーの瞳もうるんで見えた。顔立ちからややクールな印象を受ける彼だが、今はその面影はどこにもない。
「薬あるから、飲んでから寝ろ」
「……わかった」
ルカは緩慢な動作で身を起こした。ここで駄々をこねるようだったら、無理やり口を開かせて薬を流し込もうと思っていたエルザはほっとした。いくら加虐趣味と言われる彼女でも、病人にそんなことはしたくない。
さすがに薬を飲むのは手伝ってやる。粉の薬にむせつつ、水を飲みルカは何とか薬を嚥下した。再び横になったルカに、エルザはかいがいしくもシーツをかけてやる。
「……口の中が苦い……」
「子供みたいなこと言わない。どうしても耐えられないなら、口直しをもらってあげるけど」
ツッコミを入れつつ、何となく優しくしてしまうエルザだった。ルカの額に氷嚢も載せてやる。
「いや……そこまではいい」
代わりに、というようにルカはベッドに腰掛けているエルザの手を握った。その手は先ほどよりもだいぶ熱くなっている。エルザはその手を握り返した。
「ここにいるから、寝ちゃいなよ。その方が楽だよ」
「……なんだか嫌な言い方だ……」
病人に突っ込ませつつ、エルザは笑った。眼を閉じたルカがほどなく寝息をたてはじめる。エルザは立ち上がろうとしたが、手を握られたままなのでしばらくそうしていることにした。
どれくらい時間が経っただろうか。徹夜慣れしているエルザもさすがにうとうとしてきたころ、部屋にノックがあった。エルザは振り返り、「はい」と返事をする。
「お邪魔するわね。弟の様子はどうかしら」
フィオナだ。ルカを心配して様子を見に来たらしい。エルザはあわてて立ち上がる。
「公爵夫人。すみません。夜会を途中で出てしまって」
「構わないわ。どちらかというと、この子のせいでしょう?」
そう言ってフィオナはおっとりと笑った。エルザもつられて微笑む。
「夜会は無事に終わったわよ。あなたのご両親にも、ちゃんと事情を説明しておいたわ」
「重ね重ね、すみません……助かります」
「こちらこそ。この面倒くさい弟に付き合ってくれてありがとう」
そう言われると、なんだか心苦しくなってくる。付き合ってもらっているのは、自分の方かもしれない、と思うから。
「それで、様子はどうかしら」
最初の質問に戻った。エルザはそう言えばまだ答えてなかった、と思い、口を開く。
「薬が効いたのか、だいぶ容体が安定している気がします。まあ、本人はずっと寝ていますけど」
「そうね」
目を細め、フィオナは安心したように息をついた。
「あなたの分の部屋も用意させるわね。泊まっていくでしょう?」
「……お邪魔いたします」
まさかルカを放っておくわけにもいかず、エルザはうなずいた。かくして、彼女はルカの隣に部屋を用意してもらい、ヴェルディ公爵家にお泊りとなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ちょっとぶっきらぼうなのはエルザなりの照れ隠し(たぶん)。