マチルダ ①
婚約の話を聞かされたのはまだ修道院にいる頃、14歳になってすぐでした。
結婚や婚約というものはずっと先の事だと思っていましたので婚約の話を聞いても自分の事ではないような気がしておりました。
お会いしたこともないお相手でしたし、私はまだ親の加護ある子供だと思っていましたし、子供でした。
なんの実感もないまま婚約の話と一緒にお城に戻る事になり、突然の別れに驚きよりも悲しみの方が大きかった気がします。
あの日の乾いた青い空は忘れられません。
その頃はまだ陛下の噂なに一つ知りませんでした。
初めて見た陛下の肖像画はどこにでもある綺麗な顔をした絵でした。
今ではどんな絵だったかも思い出せないくらいありふれたものでした。
お城に戻るとすぐ婚約の御祝いと一緒に秋の収穫の御祝いの仮装パーティーの用意がされていました。
それが初めての社交界です。
幼い頃から憧れていた社交界、まさか自分の婚約パーティーが社交界デビューになるとは思いもしませんでした。
私が主役のパーティーですからみんなが仮装や仮面をしているなか私だけが正装でした。
ご挨拶の度に皆様から御祝いの言葉をいただき、そこで初めて陛下の噂を聞きました。
初めて聞かされた陛下の噂はどれも我が儘や、破天荒なものばかりで、不安にさせるものばかりでした。
女の子が憧れる白馬の王子様とは遠くかけ離れており、伝承詩のような武勇伝とは言い難いものでした。
あまりにも陛下の噂が散々なものばかりなので年の離れた姉や 兄嫁様は私の事を心配しておりました。
両親や兄はこの婚約をとても喜んでおりましたので、私の不安を口にすることははばかれました。
ご挨拶や、噂話に少々疲れたので夜風に当たろうとバルコニーに出ると、真っ黒な空に大きな満月が出ていました。
その時はいつもより月が近くにあるような気がします。
月明かりの中に星の瞬きなどないに等しい空でした。
バルコニーの手すりに黒い吸血鬼をしたがえた白い妖精が腰掛けていました。
白いシャツに取って付けたような雑な妖精の羽根
仮面を弄ぶ横顔にはなにもセットされていない金色の髪が月明かりに輝き光をこぼし、澄みきった青い空のような瞳に吸い込まれるような錯覚を感じました。
そこだけが本当の妖精の世界であるように思い、ずっと見ていたいと思いました。
吸血鬼に促され、私に気がついた妖精は微笑みました。
「はじめまして。マチルダ姫様」
妖精は膝をつき、私の手にキスをしました。
「俺はクリストファー。婚約者がこんなにも可愛い方で嬉しいです」
まさかこの場に婚約者がいるとは思いもしませんでしたからとても驚き、可愛いと言われとても照れました。
ここに隣の国の王子様、婚約者が来ているなんて聞いていませんでした。
ましてや来ているのならば、父王や私と一緒にご挨拶で忙しいはずです。
お忍びでいらっしゃることに本当に驚きました。
私の驚きように陛下は本当に愉しそうに笑っていました。
「クリストファーそんなに笑っては…」
「悪い。悪い。心配していた婚約者がかわいくって…いくら色男のヴィンセントでも俺の婚約者よりも可愛い人は見つけられないだろ?」
「そうですね。マチルダ姫様、クリストファー王子、御婚約おめでとうございます。」
吸血鬼に扮したヴィンセントさんが膝をつき頭を下げました。
「さあクリストファー。マチルダ姫様にもお会いしたんですから、もう帰りますよ」
「え?もう?まだまだ夜はこれからじゃないか」
「学校はすぐ始まるし、約束では一目見るだけでした」
「なんだヴィンセントはもう眠いのか?お子様だな」
「私はクリストファーに無理やりここまで連れてこられたんですよ?第一クリストファーは授業の準備はできてますか?」
「そんなものすぐに終わるさ。問題ない」
御二人の軽口を聞いていたら今までの緊張も解けて、私笑ってしまいました。
「クリストファー王子様は学校に通っていらっしゃるんですか?私、まだなにも知らなくて…」
今すぐにでも帰ってしまいそうな陛下ともう少し一緒にいたいと思ってしまったんです。
陛下は優しく微笑み、
「俺もマチルダ姫様が可愛いってことしか知らないよ?もっと知りたいけどこの堅物が…」
ヴィンセントさんは呆れたようにため息をもらしました。
「マチルダ姫様クリストファー王子は狼ですのでお気をつけ下さい」
「将来一緒になる相手に問題ないだろ?」
私、ヴィンセントさんの言っていることがはじめは解らなかったんですけど、言葉の意味がわかると恥ずかしくなってしまって…きっと顔が真っ赤になってしまったと思います。
私、パーティーのことなどすっかり忘れてしまって陛下の時間が許す限り二人でおりました。
陛下と結婚する日までお会いできるとは思ってもいませんでした。
それに不安になるような噂ばかりでしたので、陛下とお話し出来て嬉しくて安心しました。
ほんの僅かな時間ですが陛下を知ることができたんです。
政略結婚であるにも関わらず、陛下と結婚前に会えたことはこれ以上ない喜びでした。
しばらくは陛下の事を思うと胸がドキドキして眠れませんでした。
陛下にお会いしたことを知らないみんなには心配をかけてしまいましたけど。