先生
私は、大人になって二年が過ぎた頃、先生になりました。
特に子供が好きなわけではありませんが、安定した生活を送りたいという私の願いと、先生と呼ばれることを苦痛に感じてしまう症状が流行っていましたので学校に人が足りていなかったのが、上手く噛み合ってしまいました。最初は私も迷ったのですが、愛されず育つ子供よりも、先生がいない子供のほうがまだ可哀想か、という形の曲がった天秤が私の迷いを決断へと傾けていきました。
そんな理由で始めた私でしたから、大きな使命感というものが私にはあまりにも重く、初めからどこかに置いてきてしまいました。でも、重荷のせいでドンドン苦しそうな顔をしていく同僚を見ていると、やっぱりおいてきてよかったと心から思ってしまうのです。それは、3年がたった今でも思います。
今日は梅雨の真っただ中、じめじめとした空気が蔓延しています。
そのせいか、みんな気怠そうにしていました。こんなときばかりは生徒が制服を着崩して少しでもこの空気から逃れようとしているのを見かけても、見逃してあげることにしています。だって熱中症なんかで倒れられたら、私の責任になってしまうでしょう?
それは、とてもめんどくさいことです。
春の訪れを教えてくれる風はあんなにもさわやかなのに、夏の訪れを知らせてくれる風はどうしてこんなにもじめじめとした陰湿な奴なのでしょう、不思議でたまりません。
そんなことを考えながら、私は夏目漱石のこころを読む授業を適当にこなしました。
「先生が何を考えていたのか、次の授業までに自分なりに考えてみましょう」
こころの登場人物である先生がどういう気持ちで自殺したのか、そのこころを考えてくるように宿題を出しましたが、しまった、自殺した人のこころを考えるあまり誰か自殺してしまわないかしら、と私は心配になりました。誰が自殺してもいいように、いじめなんてありませんでした、という言葉をいかに丁寧にマスコミに伝えるかを考えることで必死になりました。頭を働かせるために、机の中に入れてあった苦いチョコレートを口に放り込みました。
苦みを楽しみながら、私がウンウン言って頭を悩ましていると、一人の生徒が入ってきました。
男の子です、中肉中背、顔は整ってはいますがそれを武器に出来るほどではありません。成績は国語は優秀なのですが、どうやらほかの教科はあまり良くなく、合計では平均より少し下の成績、こういうタイプの子は地頭が良いけれど、そのせいで努力することを学ばず、このままいけばどこかでつまずいてしまうだろうな、と思ったことを覚えています。ただ、それだけです。
彼は私の名前を呼びました。どうやら私に質問があるようです。恐らくさっきの宿題のことでしょう、やっぱり出さなければよかった、と私の後悔は水を吸ったタオルのように重くなっていきました。
「先生、あんな、俺、先生が何を考えてるか教えてほしいねん」
私は、はぁ、とばれないようにため息をつきました。
宿題の答えを先生に尋ねに来るのはおかしなことではありませんが、まるまる全てを教えてくださいと言われてもそういうわけにはいきません。それくらい、高校生にもなればわかりそうなものだけれど、と思いつつも優しく諭してあげることにしました。
「あのね、宿題の答えは先生教えてあげられないの、自分で考えてきてね」
「あ、ちゃうちゃう!こころの先生じゃなくてな、先生が何考えてるか教えてほしいねん!」
うわぁ、なんてことを聞くのでしょう。最高級のめんどくさいというのがあれば、恐らくこれだろうな、と思いました。
しかし、先生という立場は、答えられないということが許されないのです。
だから、これまでの勉強で得た知識を使って模範解答を作り出すことにしました。
「先生はね、生徒のみんなが幸せになってくれればいいなっていつも考えてるのよ」
完璧です。自分で自分をほめてあげたくなりました。これがテストならおそらくお花が咲くほど丸をもらえるでしょう、私はいい気分になりました。だけれども、そんな気分を一撃で壊してくるので、やっぱり子供を好きになることは出来ません。
「そんなん嘘や、先生はほかの先生とちゃうもん、なんかな、先生は良くきれいごと言うけど、ちゃんとドロドロした汚い部分を認めながらきれいごとを言うから、俺先生のきれいごと好きやねん。でもな、今のは置きにいったで先生。全然いつもと違う、あからさますぎて違和感半端ないわ」
そういって彼は笑いました。私はというと焦りを感じて苦笑いしていました。やっぱり子供は好きになれません、たとえ気づいたって、一々触れないのが大人のマナーというものです。
しかし、好きと言ってくれたことは評価に値するので、彼が要望しているきれいごとを仕方なくいってあげてもいいかもしれません。
「全く、あなたはよく見てるわね。でもさっき言ったのも嘘ではないのよ?先生は、嘘つかないもの」
「そりゃ、そうなんやろうけどさ、うーん、なんていったらいいんやろ、それって先生として言ってるやんか、先生としての職業として用意された答えっていうかさ。俺が聞きたいのは、先生の気持ちやねん。先生個人が、どんな気持ちなのか聞きたいねん、だってこころの先生も、職業としての先生ちゃうかったやん!」
私は、困ってしまいました。そんなことを言われるとは思ってもいなかったからです。
「えっと、なんでそれを知りたいのか聞いてもいいかしら?」
「え、そんなん気になったからに決まってるやん!俺、掃除あったけどいつもよりがんばって早く終わらしてきてんで!」
ああ、なるほど、彼はかしこいのです。そして、哀れに思うほど素直だ。気になることを知らずにはいられないのでしょう。それが知らなくてもよいことでも。
恐らく、彼はこの後の人生で多くの迷いが生まれ、孤独を感じるでしょう。中途半端にかしこいということは、生きる上では不利なのです。かしこい人というのは当然少ないです、だから、孤独を紛らわせるにはバカみたいなことをする集団にまぎれなければいけない。明らかに矛盾が見つかるような話でも、そこを指摘してはいけない、ただ周りに合わせて笑っていればよいのです。それが、中途半端にかしこい人が人と生きるということです。それは、私の出した答えでした。
私も、同じようなことを昔、先生に聞いたことがあるのです。
当然、先生という立場上、そのまま言ってしまうことは許されないので、今度は彼の求めていたように、本当のことを混ぜながら話します。
「先生はね、あなたを心配しているわ」
だって、私に似ているもの、という言葉は体の中に閉じ込めておきました。
「うん、今度は、ほんまみたいやな。聞きたかったこととはちゃうけど、本当のこと言ってくれるから先生の話は好きやわ。ほかの先生の言葉は、なんか、気持ち悪い。何が嫌ってな、理想しか言わんし、あの人らがいうことをほんまに信じ切って社会に出ていく奴らが幸せになれるとは、到底思えへんねん。犯罪も、いじめも、本当に知らないみたいな無垢な顔でそれを言うねん、俺からしたらそんなん見て見ぬふりやで、だから、嫌いや、良くないものを全部見ないふりする大人に教えてもらうことなんて、きっと役に立たないんや」
思わず笑ってしまいました。子どものため、汚い部分は隠すのだ、善いことをさせるのだ、と大きな使命感を背負ってがんばっているはずなのに、その荷物のせいでこんなことを言われているのですから、それがおかしくてたまりませんでいた。
「ふふ、それもそうね。世の中は良くないものばっかりだもの。でもね、やっぱりほかの先生のほうが正しいのよ。だって、本当のことを全部教えてしまったら、とても苦くてみんな食べられないでしょ?だから、甘いものをみんなには食べてほしいの。好きでしょ、甘いもの」
そういって一口、ビターチョコレートを口に入れました。彼にもいるか聞いてみましたが、どうやら苦手なようでした。
私は、彼の前では、素直でいることにしました。職業としての先生なら決して口にしてはいけない言葉でしたが、彼に必要なのは先生ではないと分かったので、私はこれから始まるであろう彼の困難で厳しい人生の手助けを少しだけすることにしたのです。きっと彼も、それを求めて私のもとに来たのですから。
彼は少し考え込んで、しっかりと私の冗談に対応する言葉を選んできました。やはり彼はかしこいなと思いました。
「でもな、甘いものだけみんな食べてたら、栄養が偏って死んでまうで。その証拠に、俺もう、調子が悪くなってしもうたわ。先生、こういうときはどうしたらええんかな」
なるほど、言い方が少しまずかった、と私は反省をしました。もっとも、この話し合いを先にやめるというのは負けた気がするので、どうにか言い返し方を探すことにします。
それから私は少し考え込み、言いました。
「だからその分は、おかあさんが最初に栄養をくれているのよ。そして、その栄養が尽きてきたら、どんどん苦いものが好きになってくるの。でね、その頃にはおかあさんから離れても大丈夫になってくるの、自分で栄養が取れるからね。一人でも生きていけるようになるし、苦いものも食べられるようになる。それが、大人になるってことだと、先生は思うなぁ」
それを聞いた彼は少し悩み、沈黙が場を支配しました。でも、この沈黙は不思議と悪いものではないのが、また不思議でした。
彼は薄い唇を開き、こころの奥深くでしっかりと練りこまれた言葉を私に解き放ちました。
「じゃあ、俺は大人になれば、この気持ちもなおるんかな。俺な、嘘が大嫌いやねん。子どものころから嘘をつくなって言われてきたし、今でもそれは正しいと思う。でもな、ここの大人は嘘つきばっかや、それに昔から友達やった奴らも、最近は自分に嘘ついて苦しそうに生きてる。なんか、ずっと、モヤモヤして、苦しいねん。俺も、苦いとこいっぱい食べたら、気にならんくなるんかな」
彼はとても苦しそうな顔をしていました。世の中がドロドロに見えて、自分の信じていたものが歪んで見えてきて、そのはざまで苦しんでいるのです。私には、彼をもとのきれいなところに戻してあげることは出来ないことがすぐにわかりました。私は、そのドロドロしたものをたくさん食べてしまったから、すっかり嘘のことを愛してしまったのです。ダメな男から逃げられない人も、きっとこんな気持ちなのでしょう。
それでも、こちらから少しでも遠ざけることは出来ます。
「いいえ、それは違う、違うのよ。苦いものをたくさん食べてしまったら、今度はずーーっと口の中に苦みが残ってしまうの。それは、今と同じくらい、きっと苦しいわよ。だから、甘い部分もしっかり食べるの。苦い部分を食べた後に食べる甘いものっていうのは、ただ食べるよりもずっとおいしいんだから」
何も具体的なことは言えませんでした。それでも彼は、満足してくれた様子で、お礼を言ってくれました。
「ありがとう、やっぱり先生はほかの先生とちゃうな。こんな質問すると、ほかの大人はどうやって黙らせようかとばっかり考えるんやもん。ほんまにすっごい参考になったわ、もう一回自分でよく考えてくるな!」
そういって、深くお辞儀をし、去っていきました。
彼はきっと、これからたくさん悩み、自分なりの答えを出すのでしょう。そして、未来のことを一心に思い、大人になっていくのです。
私はいつの間にか、大人になっていました。大人になってからは過去のことばかり考えて、何かを諦めて生きていることばかりです。いつからだろう、私はいつから、苦しみながらも前へ進むことを諦めて、停滞の中に身体をうずめてしまったのでしょうか。人に傷つけられるのが怖くて、ただ変化のない日常を過ごすようになったのでしょうか。夢も、大事なものも、昔は持っていたはずなのに、どこに忘れてきてしまったのでしょうか。それはきっと、なくしてはいけないものだった。
雨はまだ、強く降り注いでいます。
ビターチョコレートの後味が、ひどく口の中に残っていました。
もうすぐ、私は大人になります。
今でも、他人の考えることなんて、わかりません。
正しい生き方も、見当が付きません。
それでもわたしは、子供ではなくなるのです。