6
部屋に戻ったタケルは、すぐにシャワーを浴びて汗を流した。
演習が終わって部屋に戻ってきた時に一度汗を流していたのだが、食事中、妙な緊張感があって、なんだか汗をかいたような気がしたのだ。
鬱屈した気分を吹き飛ばすためにも、シャワーは必要だった。
予想通り、ヤマトに会ってしまった。そして、彼は決勝まで勝ち進んできた。
「当然か。あいつはヤマトなんだから」
ベッドに腰掛け、タオルで髪を拭きながらうつむく。
演習前はぐちゃぐちゃになっていたベッドだが、おそらく、生活衛生コースの生徒が整えてくれたのだろう。パイロットスーツに着替えるときに床に放り投げていた服たちも、全てたたんで机の上に並べてあった。
「……エル」
小さくつぶやいて顔を上げる。
ずるりと、頭に乗っかっていたタオルが肩に降りた。
今回の演習は、いやなことだけではなかった。
エルと、再会できた。
「ほんとに、メカニックになるなんてね……」
くすぐったそうに、タケルは微笑む。
ヤマトとタケルがレイダー乗りになって、エルがメカニックとして二人を支える。
子供じみた夢だと思っていたのに、彼女は、その約束を守ろうと必死に努力している。
それを知ることができただけでも、今回の演習に参加した意義があったように思える。
たとえ、『ヤマト』と顔を合わせることになっても。
ふいに、ノックの音が部屋に響く。
ユウイにしては早すぎると思いながら返事をすると、開いた扉の向こうから、イサがやって来た。
「なんだよ、また風呂に入ったのか? 演習が終わったあとに、汗を流したんじゃないのかよ」
濡れた髪や、首に掛かったままのタオルを見て、イサが問いかける。
タケルは「なんとなく」とはぐらかした。
「どうしたんだよ。せっかくの自由時間、サキさんと一緒にいなくていいのか?」
タケルがベッドをぽんぽんと叩いて座ることを促すが、イサは頭を振ってこのまま立っていることを伝える。
「うん、ちょっとな。気になることがあって」
「気になること? そういや、さっきそんなこと言っていたっけ。今日はえらく気になることが多いんだな」
「あぁ、うん。自分でもらしくないのは分かってる。でもさ、どうしても、聞きたいんだ。お前、さっきの演習の時……わざと負けなかったか?」
にこやかに話を聞いていたタケルだったが、さぁっと、表情が消えてなくなる。
「……え?」
愕然とした様子で、イサを見る。
イサは、とても真剣な目で、タケルを見つめていた。
「あのとき……あの、決勝戦でヤマトの背後をとったとき。お前、わざと撃たなかっただろ?」
「な……なにを根拠にそんなこと……」
「俺はタケルの相棒だ。だから、お前がどうレイダーを動かすのか、だいたい分かる」
「だとしても、ここはいつもの学校じゃないんだ。あんな小惑星群の中で、簡単に撃てるわけが――」
「撃てるよ」
否定しようとするタケルの声を、イサの強い声がかき消す。
「お前なら、撃てる」
逃げ道を塞ぐように、イサは断言した。
タケルは困惑のあまりなにも言えないでいる。そこへ、さらにイサは問いかける。
「お前は言っていたな。ヤマトには勝てないと。あのとき俺は、お前にとって、ヤマトは越えられない壁なんだと思った。けど、本当は違う。お前は、ヤマトに勝っちゃいけないんだ」
「違う……」
「だからあのとき、ヤマトの背後をとっておきながら、お前は撃とうとしなかった。最初から負けるつもりで、ああやって背後をとったのも、わざと負けたとばれないための、カモフラージュだったんだな」
「違うっ!」
タケルが床に向かって怒鳴る。
彼がこうやって声を張り上げるのを、イサは初めて見た。
「俺は……わざと負けてなんかいない!」
顔を上げて、イサを強くにらんだ。
全てを、拒絶するように。
初めて受けるこれほどまで強烈な拒絶に、イサは言葉に詰まる。だが、ぐっと自分を奮い立たせて、口を開いた。
「……嘘だ、嘘だ! お前はわざと負けたんだ。どうしてそんなことするんだよ! コンプレックスを抱えた弟の振りなんて、そんなことして意味があるのかよ!」
「違うっ、振りなんかじゃ――」
「振りじゃねぇか。わざと負けて、悔しそうな顔作って、あれが振りじゃなくてなんなんだよ!」
問い詰めるイサに、タケルはまたうつむく。
「違う、タケルは……」
追い詰められた自分をかばうように、タケルは両手で顔を隠す。
「『タケル』は、『ヤマト』に勝てないんだよ!」
タケルが叫んだ。
まるで、こらえていたものが破裂するかのように。
その悲痛な叫びに、イサは、一瞬息を止める。
「……それ、どういう意味だ?」
イサの冷静な言葉がタケルを落ち着かせ、自分が失言したことに気付く。
だが、もう遅い。
「タケルはヤマトに勝てないって、お前たちの間に、何かあるのか? だから、この演習にもずっと参加しなかったのか?」
詳しく話しを聞こうと、イサは一歩足を進める。
「……出てけ」
小さくつぶやいて、タケルは立ち上がった。
「出てけ、出てけ……ここから、出て行け!」
あまりの剣幕に、驚き戸惑うイサをタケルは両手で押し、無理矢理部屋の外へ追い出した。
扉を閉めて、ロックをかける。
部屋を追い出されたイサが、扉を叩いて必死に呼びかけていたが、タケルは答えようとはしなかった。
扉のすぐ前でうずくまって両耳を塞いで、自分の殻の中に閉じこもった。
夕食の後片付けと、明日の朝食の仕込みを終え、生活衛生コースの一日の仕事は終了する。
晴れて自由時間を手に入れたユウイは、一度部屋に戻って汗を流してから、タケルの部屋へと向かった。
レイダーコースの生徒が集まるフロアは、もうみんな眠ってしまったのか、静まり返っている。衝撃吸収用のゴムでできた床のはずなのに、足音がよく聞こえた。
ヤマトの部屋に辿り着いたユウイは、軽く自分の身なりを確認して、髪の巻き具合を手で整えてから、扉をノックする。
「タケル、私よ。開けてくれるかしら?」
タケルから返事はない。
もう一度ノックをしようかと手を伸ばしたとき、唐突に扉が開いた。わずかなモーター音を響かせて、自動ドアが横へずれる。
部屋の中は、真っ暗だった。
照明がひとつもついておらず、部屋の奥のガラスの壁から降り注ぐ星明かりが、淡く部屋を照らしている。
ユウイが部屋に入ると、扉が閉まる。
すると廊下から差し込んでいた光も消え、いっそう薄暗くて辺りが見えにくくなった。
「タケル……いるの?」
声をかけながら、ユウイは目を懲らして部屋を探る。
暗闇になれ始めた目が照明スイッチを見つけたので、操作しようと手を伸ばした。
「つけないで」
弱々しいタケルの声が、それを止めた。
思いのほか声が近くから響いてきたので、ユウイは足下を見る。
扉から部屋までの細く短い通路の終わりに、タケルが座り込んでいた。
タケルは壁にもたれて、どこを見るわけもなく、ただ、前を見ている。
「……泣いているの?」
ユウイがそう問いかければ、ふっと、鼻で笑う声が響く。
「泣いてないよ。もう、涙は涸れたから……知っているだろう」
「えぇ、知っているわ」
二年前、母が死んだときに。
彼は一度、壊れたのだ。
そして、涙が涸れた。
ユウイはタケルのすぐそばに座り込む。
すると彼は、すがるようにユウイに抱きついた。
「なぁ、ユー。呼んで欲しい。僕の名前」
「いまは……だって、誰かが廊下を通るかもしれないし……」
タケルは頭を振って、ユウイの胸に顔を埋める。
「大丈夫。このフロアの廊下に、人の気配はしない。隣も、もう眠ってる。監視カメラもない。僕には分かるの、知っているだろう」
「そうだけど、でもっ……」
断ろうとするその口を、タケルはキスで塞いだ。
ただ唇を合わせるキスではなく、舌を絡める、濃厚なキス。
「やっ、待って……」
突然のことにユウイは戸惑い、彼から離れようとする。
だが、タケルは力任せに彼女を引き寄せて、キスの続きをする。
ユウイが抵抗できなくなると、タケルは離れて、彼女をじっと見つめた。
「お願いだ、ユー。僕の名前を、呼んで」
あんなに情熱的なキスをするのに、ユウイを見つめるタケルの目は、とてもとても冷たい。
なにも感じない。
なにも見ていない。
全てを閉ざして、ただ、自分をつなぎ止めることだけに必死なのだ。
そんな彼に、ユウイは手を伸ばす。
包むように、彼の両頬に触れる。
そして、彼女は言うのだ。
「ヤマト」
その瞬間、タケルの冷たい目は、壊れるように、揺らぐ。
「ユー」
タケルは秘密の名前でユウイを呼ぶ。
「ヤマト」
ユウイも同じように、二人だけしか知らない名前でタケルを呼ぶ。
お互いの存在を確かめるように何度も何度も名前を呼び合って、キスを交わして。
そして二人は、そのままベッドに沈んだ。
ひとり部屋でリラックスしていたヤマトは、今日の仕事が全て終わったというエルのメールをPMに受け取り、彼女と軽くやりとりをして、もう寝ようということで連絡を切った。
寝る前に、もう一度シャワーを浴びようと、ヤマトはシャワー室に入る。
演習が終了してパイロットスーツから私服に着替えるとき、汗は流したが、きちんと身体は洗っていない。こういうところでずぼらをすると、あとでエルにばれて怒られるのだ。
どういうわけか、エルはヤマトが手を抜くとすぐに気付いてしまう。
おかげで、この八年、気を抜く暇がなかった。
きちんと髪も身体も洗い、髪をタオルで拭きながら、歯磨きをしようと洗面台に立つ。
ふと、洗いざらしの濡れた髪がはねて、今日会ったタケルと似た髪型になった。
こうやって見ると、本当に、どちらがどちらか分からなくなる。
ヤマトは洗面台の隅に積み上げてあるフェイスタオルを一枚とり、右手に巻き付けると、そのまま鏡に映る虚像の顔へ拳を叩きつけた。
タオルを巻いていたので、鏡に傷はついていない。
だが、虚像をにらむヤマトの目は、とてもとても険しい。
「……クソ兄貴が……」
絞り出すように、つぶやいた。
照明がついておらず、相変わらず薄暗い部屋の中で、ユウイのPMが単調な電子音を繰り返す。
ベッドから白く細い腕を伸ばして、ユウイはアラームを止めた。
PMに表示される時刻は、午後十一時半だった。
ユウイはタケルのベッドから抜け出て、床に散らばった自分の服を着る。
彼女の背後でベッドの膨らみがもぞもぞと動き、タケルが顔を出した。
「……戻るのか?」
「えぇ。十二時に点呼があるもの。部屋にいないと、何かと問題でしょう? あなたも、ちゃんと服を着ないと」
ユウイは服を着るのを中断し、同じように散らばるタケルの服を拾い上げる。
タケルが布団の中に潜り込んでしまったので、ユウイはベッドに腰掛け、布団越しに彼の肩を揺さぶった。
「今日はことごとくらしくないわね」
タケルは顔を出し、「たまには強引なのもいいだろう?」と面倒そうに言った。
ユウイは目を細め、鼻で笑う。
「ヤマトはいつも、優しく触れるものね。今日は少し驚いたけれど、あれはあれで素敵だわ。新しいあなたを発見できたのは、八年ぶりに再会したあの二人のおかげかしら?」
ユウイはベッドに腰掛けたまま、タケルへと身を乗り出す。
下着のうえに白シャツを羽織っただけの彼女は、ガラス越しに降り注ぐ月明かりで青白く浮かび上がり、妖艶な色気があった。
タケルは彼女の首に手を回すと、そのまま、鎖骨の辺りに口をつける。ユウイはぴくりと反応しながらも、すぐに彼を突き放した。
「……時間がないと言ったでしょう」
「分かってるよ。別に、続きをするつもりなんてない」
タケルは自分の服をつかみ、ユウイに背を向けてベッドから出ると、服を着始める。
そんな彼をにらみながら、ユウイはキスされた場所を指で触れた。見ると、赤い花びらが散っていた。
「痕をつけるなんて、珍しいわね。合宿中だというのに、嫌がらせ?」
「別に。ただ、あんまり真っ白だったから、色をつけたかっただけ」
タケルの言葉が嬉しかったのか、ユウイは彼の背中に抱きついた。
「時間がないんだろう?」
「えぇ。けれど、あと少しくらいなら平気よ」
タケルの、細いながらも筋肉質な背中に、ユウイは頬を寄せる。
タケルは黙って、腹に回る彼女の手に触れた。
「……ねぇ、ヤマト。あなたは私が好き?」
タケルは何も答えない。
だが、ユウイが傷つく様子もなく、ふっと笑みをこぼした。
「あなたが私をどう思っていようと、構わないわ。だって、あなたは私なしでは生きられないでしょう?」
「そういう君だって、僕と同じだろう」
ユウイの絶やさなかった微笑みが消え失せる。
まるで、心が凍り付くように。
「……ヤマト。キスして」
ユウイが抱きつくことをやめると、タケルは彼女へと向き直り、頬に手を添え、キスをする。
合わせた唇を離して、二人は見つめ合う。
「私の名前を呼んで」
「ユー」
「心なんてこもってなくていい。私を好きだと言って」
ユウイはタケルに抱きついて、懇願する。
震える彼女の身体を、タケルは両腕で受け止め、優しく包んだ。
「……好きだよ、ユー」
胸に頬を寄せ、ユウイは目を閉じてささやく。
「私もよ、愛してる」
この言葉が、本当は誰に向けた言葉なのか、タケルは知っている。
目を閉じている彼女が、心の奥で誰に抱きしめられているのか、分かっている。
けれど、タケルはそれで構わないと思っている。
二人の関係は、はじめから、そういうものなのだから。
最後にもう一度キスをして、ユウイは自分の部屋へ戻った。