表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

きみのめ

作者: 千葉






 お菓子作りの上手い友人が大学に居る。お互いの授業の関係で週に一度くらいしか顔を合わせないのだが、いつも何かしら手作りの菓子を持参していた。断っておくが、男性だ。髪が短くて、いつもよれよれのTシャツを着て、アディダスのスニーカーを履いている。度の強い眼鏡は、いつもレンズが汚れていた。容姿に似合わない趣味なのだ。

 今日はその彼と、確実に顔の合う唯一の曜日だった。教室に入るとすでに彼は席についていて、傍らには黒い紙袋が置かれている。今日のおやつは何だか大物そうだ。おはよう、と挨拶を交わして、少し離れた席に座った。じきに授業が始まり、緩慢な90分間が流れた。


「今日はなに」

 だらだらと授業道具の片付けをしていた彼に声を掛ける。ルーズリーフを纏める手を止めないまま、彼は少し視線をこちらに向けた。

「シフォンケーキ」

 紙袋を覗くと、ふわふわとした茶色い塊が鎮座しているのが見えた。顔を近づけると、小麦粉のいい香りがする。そうこうしている間に、同じ授業を受けていた友人たちが集まって来た。女の子が二人と、男の子が一人。他の学生が居なくなった教室の隅で、試食会の開始である。

 彼は袋からシフォンケーキを取り出し、これもまた持参してきていたペティナイフで五等分にした。いや、等分というのは正しくない。大きさは五つともバラバラだった。ナイフを入れた人物の性格が窺える。とはいえ、小さいものにしたところでなかなかのサイズがあった。贅沢だ。各々いただきます、と彼に挨拶をして、自分の取り分に手を伸ばす。ふわふわとして、適度な弾力。かぶりつくと、仄かにバナナの香りがした。おいしいおいしい、幸せだなあ、とみんなでもぐもぐして、くだらない話しをして、ごちそうさま、また来週、と言い合って、二人の女の子は次の場所―教室や、家や、バイトや、その他の場所へ向かって去って行った。

 教室には私と彼と、もう一人の男が残った。男は彼に、今日の授業の感想と、愚痴を言った。彼はそれに言葉を返して、笑っていた。


 それから三人でだらだらと、学校を出て駅へ向かって歩いた。彼と男は学校や、将来や、恋人や、音楽や、本や、映画のことを次々と話しながら歩いた。私は二人の半歩後ろをついて歩いた。話しの内容は全ては聞えず、途切れ途切れに私の耳に届いて来た。私はそれらをぼんやりと聞きながら、今日の夕飯のことについて考えていた。


 駅まであと少し、というところで、三人の共通の友人である男とばったり会った。少し立ち話をしているうちに、飲みにでも行かないかという話しになった。彼は帰ると言ったので、私もそうすることにした。二人は特に引き留めようとはしなかった。誰か誘おうか、などと相談を始めていた。

 二人を残して、私と彼は駅へ向かうべく、また来週、と言って手を振った。シフォンケーキを一緒に食べた方の男が、気を付けてね、と言って私の眼を見た。その日、初めて眼が合ったのだった。本当は明日にでも会いたいのに、と思いながら、私は眼を逸らした。

 二人で居る間も、複数で居る間も、男はほとんど私の眼を見なかった。それでも、別れ際だけはいつも、しっかりと、私の眼を見据えるのだ。笑いもしない、名残り惜しそうな顔もしない。睨むような眼で、私の眼を見るのだった。私はいつもその表情を、しっかりと記憶して帰る。話したかったことや、触れたかった手のひらのことを忘れて、その表情だけを覚えて帰るのだ。私はその眼だけに生かされて、生活していこうと思うのだ。多くを望まず、別れ際だけでも、しっかりとその眼が私を見てくれるという、そのことだけを糧にして。


「来週は何にするの」

 駅まで向かいながら彼に問うと、どうしようかなあと間延びした返事が返って来た。今日の、すごく好きだった、と言うと、彼は無表情のまま、そうか、と言った。

「じゃあ来週は、違う味のシフォンケーキにしよう」

 彼は言った。来週も楽しみだ、と私は答えた。

 彼の電車は上りで、私の乗るのは下りだった。一緒に改札を潜った後、手を振ってそれぞれの方向へ別れた。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ