二章 不思議の森
もしかしたら光一は神社に行ったのかもしれないと思い、ゆっくりと参道に入った。ついさっきまではあれほど濛々と流れていた霧が、山肌からも既に消えていた。頭上から覆い被さるたっぷりの緑。でも森の中は、昨日の日中のように薄暗くはなかった。まだ朝が早く、光が薄いせいだろう。この後太陽の陽射しが強くなるに従い、この緑が闇を作り始める。しんと空気が冷えて、森の匂いがした。
石段を上る。一歩一歩踏みしめて行く。遠くで鳥が鳴いている。チョットコイ、チョットコイ。そう聞こえる。面白い鳴き声だ。耳を澄ませば澄ますほど、益々はっきりと、チョットコイと言っているように聞こえてくるから不思議だ。甲高い声で山中に響いている。そうだ、この鳥の声は前にも聞いた事がある。何と言う名前だったろう。この鳴き声は去年ここに来たときに始めて聞いて、鳥の名前も光一に教わった筈だったが、忘れてしまった。
神社への石段は概ね上り坂だが、場所によっては平らに近い処や、ほんの少し下り気味になっている場所もあった。地形の関係だろう。入り口から凡そ百メートル程も進んだ処にほぼ平坦な場所があり、その左の土手に石積みがあった。ゴツゴツした石の台座が草叢に埋もれていて、その上に平べったくて大きな石碑が立っている。そしてその石には、馬頭観世音と深々と刻み込まれていた。
「ばとうかんぜおんって読むのかな? 馬の頭の仏様って何だろう? この村には本当に不思議なものがいっぱいあるなぁ」
遼一はもぐもぐと独り言を言いながら、取り敢えず手を合わせた。神妙な気持ちで礼をした。この村にある石碑にはみんな意味がある。そしてそれは迷信やおまじないなどではなく本物なのだと、光一に聞かされていたからだ。敬意を払っておけば間違いはない。森はとても静かだった。風もなく、チョットコイの声が時折遠くから聞こえてくるが、鳴き終わるとまた、気味が悪い程の静けさに戻る。緑のトンネルは長く続いていて、一人でいると少し不安な気持ちになってくる。静寂とは怖いものだ。
いや・・・ 何か聞こえる。何か変な音が聞こえてきた。気のせいだろうか。寂し過ぎるから、何か音が聞こえて欲しいという無意識が起こした幻聴だろうか。そうでは無さそうだ。確かに聞こえる。何の音だろう。耳を澄ます。
パッカ、パッカ、パッカ、パッカ・・・ なんだろう。
パッカ、パッカ・・・ 段々大きくなってきた。こっちへ向かってくるような気がする。何の音だろう。
パッカ、パッカ、パッカ・・・ まさか。まさか、馬。そんな馬鹿な。
遼一は生きた馬など見たことも無いが、この音はいつかテレビの番組で見た、馬が歩くときの蹄の音に似ている。しかし、そんなことがあるだろうか。この山の参道を馬が歩いている筈がない。第一この村に馬などいるのだろうか。いや、馬ぐらいいるかもしれない。この村だから。
しかし、それにしても・・・
パッカ、パッカ、パッカ、パッカ・・・
考えている間にも蹄の音は迫ってくる。石段を歩いて来るからだろうか、だんだん音が大きく響いて聞こえてきた。とても不気味だ。怖い。
道の先は大きく右へカーブしていて緩い上り坂になっている。その先には、ただ鬱蒼と茂る藪があるばかりだ。馬はそこをこちらへ下って来ているのだ。そんな気がする。
太陽の高度が上がってきたのだろう。森は大分薄暗くなってきて、あちこちの葉っぱの切れ目から木漏れ日が射してきた。
パッカ、パッカ、パッカ・・・
音の間隔が早くなった。少し駆け足になったらしい。音もどんどん大きくなってくる。確かにこっちへ向かって来ている。心臓がドキドキする。もうこれまでだ。とても怖い。馬はすぐそこまで来ている。このまま一心に来た道を駆け戻ったとしても間に合いそうもない。竦みそうになる身体を励まし、咄嗟に土手を駆け上がって石碑の後ろに隠れた。慌てて石碑の後ろに蹲ったとたんに、馬は現れた。遠くの茂みのカーブから、ザッと勢いよく姿を見せた。背筋が寒くなるような恐怖に襲われ、遼一は思わず目を閉じた。しっかりと石碑の裏で丸くなっていた。
パッカ、パッカ、パッカ、パッカ・・・
馬が軽やかな足取りで走ってきた。そして石碑の前まで来ると止まった。遼一は益々石碑に身体を寄せ、ひやひやする思いだった。胸の鼓動は最高潮に打っている。
馬はその場でパカパカと脚をならしながら、石碑に向かい大きく首を振っている。そしてブルルッと息を吐いた。それはまるで挨拶でもしているような風情だったのだが、遼一には判らない。馬はそのようにして暫くその場に留まっていたのだが、するとまた、軽やかに石段を下って行った。
パッカ、パッカ、パッカ、パッカ・・・
遠ざかる蹄の音を聴いてほっとした遼一は、漸く顔を上げ、石碑の裏から何とかその後姿を見ることができた。焦げ茶色の身体に黒い鬣。とてもがっちりとした体躯で足も太い。身体中にごわごわとした毛が生えている。テレビ番組で見るような馬とはちょっと違うような気がした。鞍もついていないし、誰も乗っていない。裸馬だった。怖くてまだドキドキしているくせに、そのように観察する気持ちがあるのは感心だ。
それにしてもおかしな事があるものだ。まだ小さく聞こえている蹄の音に注意深く耳を澄ませながら、益々もって不思議な村だと思った。
馬は消えたが気持ちはまだ昂ぶっている。さてどうしよう。恐怖はひとまず去ったものの、引き返してはこないだろうか。この後、参道を上ったらいいのか下った方がいいのか、どうしようかと思った。とても心細い。遼一はもう一度耳を澄ませ、蹄の音が完全に聞こえなくなったのを確認して、そして更に、暫く間時の過ぎるのを待っていた。
光一は何処にいるのだろう。もう神社まで上がっているのだろうか。もしそうだとしたら、どんなに大声で呼んでもここからでは聞こえないだろう。それでも、まださっきの馬のことが心配だったが、決心した。
「おにいちゃーん」
ありったけの声で呼んでみた。
「おおーい。おにいちゃーん」
少し上のほうを向いて、玉姫神社に向かって叫んでいる。
「おーい、こっちだ」
そう聞こえた。はっきりしない声だったが、微かにそう聞こえたような気がした。でもその声は山の上からではなく、後ろから聞こえたような気がして振り向くと、馬頭観音の石碑の後ろに細い道が見えた。それはとても狭い道で、人一人が何とか通れる程の藪の中の道だった。もう一度叫んだ。
「おーい・・・」
暫く待ってみたが返事は返ってこなかった。少し躊躇ったが、その獣道のような細道に入ってみた。道は細いくぼ地のようになって続いている。歩いていくと、土手に生えている雑草が両側から顔にかかる。両手で藪をかき分けながら、恐る恐る進んでいく。すると数メートル入ったところで急に道が開け、からりとした森があった。程よい間隔で太いブナが立ち並び、見通しの良い山道に変わった。それは狭いトンネルを抜け出たような感じだった。
「おにいちゃーん・・・」
「おーい。こっちだ」
確かに聞こえた。光一の声だ。どこにいるのかは分らなかったが、確かにこの奥の方から呼んでいた。道筋に従い歩いて行く。山肌は緩やかな傾斜になっていて、年季の入った大木ばかりが立ち並んでいた。先へ進むと、森の所々に緑の苔に覆われた倒木が見える。その枯れ具合からして、自然に倒れたものだろう。そしてその周りからは、ひょろりとした細い木の芽が何本も出ていた。このようにして自然は朽ち果て、また生まれる。巡っているのだ。
高く聳えている大木の木肌にも一様に緑の苔が生えていて、あちこちの何本かには沢山の蔓が絡まっている。古い巨木の森だった。あまり陽が射さないせいか、背の高い下草は少なくて歩き易い。
緩やかに上ったり下ったりを繰り返しながら歩いていく。道筋は木立を縫うように、右へ左へ曲がりながら続いているが、ここまで来ると、前後左右どちらを見ても同じような景色に見えた。迷ったら大変だと思ったが、ずっと一本道なので大丈夫だと思った。
森の中には優に二十メートルは越えていると思えるような、背の高い大木があるばかりだ。もっと高いかもしれない。上空で厚く積み重なっている木の葉の切れ間から、所々に木漏れ日が落ちている。その光の線は、まるで後光の輝きのように、白く霞む一筋となってあちこちに落ちている。その煙るような光がとても荘厳な感じがする。こういうのを清々しいというのだろうか。空気が美味しいと思った。
「おーい」
口を両手で囲い、ありったけの声を出して呼んでみた。
「こっちだぁー」
さっきよりも声が近くなった。やはりこの先にいるらしい。軽く走るように急いだ。森全体が緩い下り勾配になり始め、走る毎に太い幹が行き交う。遠く近く、森の緑と木の幹が交差する。すると突然、足元に石畳が現れた。それは玉姫神社の前に敷かれているのと同じような敷石だった。幅も凡そ二メートル程で、立ち木の間を真っ直ぐに下りながら続いている。少し歩を緩め、ゆっくりと進んでいった。
前方が開けていく。両側にはまだ深い森が続いているが、行く毎に広く開け、明るくなってきた。ミズナラが立ち並ぶ間をゆるゆると石畳が下り、もうすぐ森を抜けるかという所で池が見えた。直径三十メートル位だろうか、ほぼ円形に近い。緑色の水が朝日に光っている。すぐに玉姫の池だと思った。昨日光一に聞いたばかりだ。池の際は崖になっていて、見上げると、ねずみ色の岩肌が垂直に天まで伸びていた。青空が眩しい。あの上に玉姫神社があるのだろう。
水面はとても静かだ。周りの立ち木や、十重二十重と重なり合う葉の茂り、またその木に絡み付く蔦、そしてそれらの遥か上空にまで聳え立つ垂直の絶壁を、池はくっきりと映している。その水に映る有様があまりにもはっきりとして写実的で、ちょっと奇妙な感じがするほどだ。それは周りにある実体よりも更に実体らしく、生き生きとして映っているように見える。池に映るその景色の方が、余程本物らしく見えるのが不思議だった。
石畳は森を抜けてすぐの処で終わっていた。池の周りにはびっしりと龍のヒゲが密生している。そして池の端から遠のくに従い、エノコログサやネズミムギなどの、ありふれた雑草の群生に変わっていく。
光一はどこにいるのだろう。周りは充分に見通しが利くのだが、どこにも見当たらない。
「おにいちゃーん。どこにいるのぉ?」
返事は無かった。朝日に光る池の水が、まるで緑色の鏡ようだ。水は最初に、淵に立つ木の根元を映し、幹を映し、そして沢山の葉っぱを映している。それは少しずつ池の底へと遠のき、更に遠のいて、垂直の岩肌がぐんと深く小さく、地底へ落ち込むように映っている。そして更に、その先には青空がある。それはまるで、池の中にもうひとつの世界があるように見えた。
「こっちへ来るか?」
ドキッとした。その声は周りの森からこだまのように反響して聞こえた。そして光一の声では無かった。身構えて辺りをきょろきょろ見渡したが姿は見えない。どこか藪の中にでも隠れているのだろうか。
「隠れてなどいない。私はここにいる」
心を読まれている。そんな気がした。池だ。池に何かある。更に身構えながらそう思った。落ちついて下腹に力を入れる。そして水面に気持ちを集中する。すると、池の中に人が見えた。水に映っている大木の枝に座っている。映った木に座っているから、足の裏がこっちに向いて見えている。草履を履いた足がぶらぶら揺れていた。
真下から見ている事になる。
遼一は驚いてその水際に生えている木を見上げたが、そこには誰もいない。周りには似たような木が何本もあるが、どれにも人など登ってはいなかった。
「何をきょろきょろしている。私はここだ」
今度はこだまではなく、しっかりと池の中から声が聞こえた。ドキドキしてはいるが、怖いとは思わなかった。池の中の人物は自分と同じ位の少年のように見えるし、声もそんな感じだ。改めてよく見ると、ニコリと笑ってはいるのだが、真下から見る人の顔というのもちょっと見ずらいと思った。それにしても不思議な少年だ。あやかしだろうか。
辺りを照らす陽射しも先程から大分強さを増してきて、気温も急に上がってきた。青天白日の下で見る幽霊など、ちっとも怖くなかった。でも不思議だ。何だろう。遼一はできるだけ大きな声で、叫ぶように言った。
「誰なの? 君は誰? ほんとに池の中にいるの? 嘘でしょう? さっき、光一にいちゃんのふりをして騙したのも君だね? どうしてそんなことしたの?」
遼一は池のほとりに立ち、下を向いて水の中の少年に向かって話していたが、何となく馬鹿らしくなって、またその上の木を見上げてみた。しかし少年が腰掛けている筈の、横に張り出した太い枝はあるのだが、やはりそこには誰もいなかった。そしてまた池の中に目を戻すと、そこにも誰もいなかった。
「人聞きの悪い事は言わないでもらいたい。私は他人を騙したりはしないぞ。お主が勝手に勘違いしただけの事だ」
心臓がドキンとなるのが分かったほど驚いた。今度はすぐ背後から声が聞こえたので、随分驚いた。びっくりして振り向くと、遼一はただ目を丸くして、息を呑んだ。
薄い水色の羽織に紺色の袴で、すっくと立つ少年がいた。少年は怖い顔で睨んでいるつもりらしいのだが、そう怖そうには見えない。騙したと言ったのが気に入らなかったのだろう。
「ごめんなさい。でも・・・ だって、さっき僕がおにいちゃんのことを呼んだ時、返事をしたのは君でしょう? おにいちゃんじゃないのにさ」
少年はちょっと困ったような顔になったが、また怖そうな風を装うと、
「私はお主よりはずっと年上だ。だからこの村内では兄のようなものだ」
そう言って、そっぽを向いた。前髪を垂らし、後ろで髷を束ねてある。端正な横顔だった。腰には刀まで差している。
他人の考えている事が予め判ってしまったり、鎮守の森の主に会えたり、この村には不思議な事が沢山ある。そしてそのような事が続いて起きると、今目の前に立っている少年の事も、今更そんなに驚く事ではないような気になってくる。何とも不思議な心境だ。
さっきから、この少年は夕べおじいちゃんが話してくれた亀丸に違いないと思っていた。
「ねぇ、君はもしかしたら亀丸さん? そうなんでしょう? 昨日この上にある神社で玉姫様に会ったんだけど、あの人の弟なんでしょう?」
目の前の少年はちっとも怖そうでは無かったし、幽霊のようにも見えなかった。悪い人間でも無さそうだし、遼一は普通に、友達とでも話しているような感覚で話していた。でも少年の、時代劇の様なその出で立ちと話し方は、ちょっとおかしいと思った。
「ん? お主、私の姉に会ったのか? そうか、それならいいだろう。いかにも、私は亀丸だ。しかしこの名前はあまり好きではないのだ。篠田唯之丞忠相。間もなくそうなる筈だった。すぐにも元服して、一人前の武士になる筈だったのだ。それなのに、まことに口惜しいことだった」
亡くなったとき、亀丸は十五歳だったと聞いていた。元服直前だったのだろう。大人として見られたいのかもしれないと思った。それにしても、玉姫に会ったから、それならいいだろうとは何がいいのだろう。よく分らなかったが、その事はすぐに忘れた。
「それじゃ、唯之丞さんと呼ぼうか? それとも忠相さんがいいかな?」
遼一がそう言うと、とたんに少年は嬉しそうな顔になった。きっと、そう呼んで欲しかったのだろう。
「そうしてくれるか。なに、どちらでも構わない」
本当に嬉しそうだ。余程元服が待ち遠しかったに違いない。元服直前に殺されたのだ。
「それじゃ、唯之丞さんがいいね。でもちょっと長いかな? 呼びづらいよね? よし、唯さんにしよう。唯さん、いいね。呼び易いしね」
「え? 唯さんか。ちょっと短かすぎやしないか? んー・・・ まぁ、いいだろう。今の世に合った呼び名かもしれない。うん、亀丸よりはずっといい。亀さんなんて呼ばれたら、がっかりしてしまう」
つい今し方まで池の中にいた少年と、友達のような口を利いていた。
「遼一殿。いや、殿という呼び方も今の世では妙だな。君で宜しいか? 宜しいな? 遼一君。姉に会っているのなら、もう自由だ。玉姫神社に行ってみないか。あそこは景色がいい」
何が自由なのかまたしても意味が分らなかったが、玉姫神社と言われて池の水際から聳える遥かな絶壁を見上げた。高い。
「入り口はあそこだ。歩くよりずっと早い」
入り口と言われてそちらを見ると、唯之丞が指差す先は池の中だった。一体何を言っているのだろうと思いながらも池を見ると、深い緑色の水面はとても静かで、漣ひとつ立っていない。周りには太い立ち木が数本、沢山の葉を茂らせた姿を逆さまに映している。本当に鏡のようだ。そして真ん中には玉姫神社に続く絶壁が、地の底に沈み行くような有様で映っている。水底は空だ。もしかして本当の玉姫神社は、悠々と深いこの池の底にあるのかもしれないと思った程だ。深い森に囲まれ、樹木が鬱蒼と生い茂る中に、しんと静まる池の穴は、正しく幽玄の世界への入り口のようにも見える。
そう思ったとき、行くぞと言う唯之丞の鋭い声に振り向いた。その瞬間だった。ふわりと身体が宙に浮いたかと思ったら、唯の丞と二人並んで、頭から池の中に入っていた。それはあっという間だった。水に入る瞬間、遼一は思わず、うわぁっと驚きの声をあげていたが、水飛沫ひとつ立たず、濡れるような事も無かった。そして驚いている間もなく、そのままぐいぐいと池の底に引き込まれて行く。しかし、身体が池に落ちてそのままどんどん深みに沈み込んでいる筈なのに、不思議な事に、池に入った瞬間から天に向かって昇っていた。 凄い勢いでグイグイ沈んでいるのに、グングン昇っている。変だ。何なんだこれは。ドキドキしながらも周りを見ると、身体はもう森の上空に出ていた。
すぐ隣に並んで唯之丞がいる。涼しい顔で、空を見上げて飛んでいる。下には濃い緑色の森が広大に広がっていた。そして思い切って、グィッと首を上げて見ると、真っ青な空があった。身体がゆっくりと回転しながら、確かに大空に向かって上昇している。東からの太陽が眩しい。
すぐ目の前には絶壁が聳えている。空を飛んでいるのだ。真上に向かって。いや、本当は地に潜っているのだろうか。真下に、まっしぐらに落ちているのだろうか。訳が分らない。天と地がひっくり返っていた。背筋がざわざわするような感覚に、遼一はまた悲鳴を上げた。
「うわぁー 唯さん、どうなってるのぉ? 怖いよぉ」
怖くて目が瞑れない。遼一は大きく目を開いたまま、手足の始末にうろたえていた。しかしそれも束の間だった。すぐに玉姫神社裏の崖の上に立っていた。高い絶壁の上からは、遥か遠くに町が見えた。昇ったばかりの朝日が斜めから射して、町の甍が光っている。とても眩しく、鏡の反射のようだ。そしてそれは、昨日光一と見たのと同じ、玉姫神社の裏側の風景に間違いなかった。
随分な速さで池の底深く落ちて行った筈なのに、実際には村で一番高い場所に立っている。何と言う事だ。これは現実なんだろうか。もしかしたら夢かもしれないと思った。それに、水底に沈んだにしては身体は少しも濡れていないし、息苦しくも無かった。光一の後を追って家を出てから、まだ二十分位しか経っていないだろう。なのにこの有様は、いったいどうなっているのだろうと思った。
「光一にいちゃん、さっきは何処に行っていたの? 僕探しに行ったんだよ。そしたら凄い事になっちゃったんだ。森の道で馬に会ってね、そして唯さんにも会ったんだ。それでね、その後が凄いんだよ。あ、唯さんて言うのはね、亀丸さんのことだよ。おにいちゃんは会った事あるのかな? 昨日神社で会った玉姫様の弟だよ」
遼一は朝食の膳につきながら、とても興奮して話していた。光一や祖父母の顔を代わる代わる見ながら言っている。箸と茶碗は手に持っているが、まだ一口も口には入っていない。出来事はついさっきの事だ。無理もない。あの後唯之丞と二人で暫く玉姫神社にいたのだが、間もなく遼一が帰りたいと言うと、唯之丞は分ったと言った。そして唯之丞がそう言った瞬間に、ただ一人、馬頭観音の石碑の前に立っていたのだ。本当に訳の判らない朝だった。それは興奮する訳だ。
「ほぅ、遼一は亀丸さんに会ったのが? そうが、玉姫さんにも会ったのが。光一もが? それはいい。そうが、会ったのが・・・」
祖父の弥一郎は、細い皺くちゃの目を精一杯に広げ、にんまりとした顔で、そうかそうかと頷いていた。光一はその様子が、どうもおかしいと思った。
シジミの味噌汁が美味しい。昨日取ってきたシジミだ。鏡子に半分分けてやったのだが、まだあと一回分はある。無くなったらまた採りにいこうと思った。珍しく早起きをして、大冒険をして、遼一は随分お腹が空いていたのだろう。取り敢えずの話しを終えると、大きな口を開けてご飯をほおばっていた。そして今度は、食べながら続きを始めた。それはとても不思議な出来事だったのだから、食べるのも忙しいが、話すのも忙しい。ニラの卵とじ。ほうれん草のお浸し。ナスの漬物。どれもみんな美味しい。特に美味しいのはご飯だ。なんでこんなに美味しいのだろう。
「おばあちゃん、ご飯がとっても美味しいよ。なんでこんなに美味しいの? 家で食べてるのとは全然違う。なんでなの? なにかしたの? 種類が違うのかな? この村は何もかもがとても不思議だよ。もしかして、おばあちゃんも魔法を使うの?」
遼一は真顔で訊いている。昨日の事といい、さっきの出来事といい、もう何が起きても、無条件で信じてしまいそうだった。久代は嬉しそうに笑っている。
「何ゆってんだいこの子は。そんな訳ねえべ。なんにもしてねえよ。ただいづもどおんなじに、炊いだだげだよ」
この家には竈があって、山の間伐材から作られる薪も余るほどある。昔ながらの竈炊飯は、電気釜で炊いた米とはまるで味が違う。火の味が違うのだろう。都会の家庭では到底できない炊飯方法を使う久代は、そういう意味では魔法使いかもしれない。
「ねぇ、じいちゃん。じいちゃんは玉姫様や亀丸さんの事を知っているんだよね? そうだよね。いつも不思議な話しをしてくれるし、夕べだってそうだったし、当然知っているんだよね。実はね、僕もさっき、とっても不思議な経験をしたんだよ」
そう言うと、光一もさっきの川での出来事を話した。話しを聞きながら遼一は、口にたっぷりご飯を入れたまま、噛む事も忘れて聞いている。弥一郎と久代は、ただうんうんと頷きながら、益々嬉しそうだ。この二人はやはり怪しい。何か隠していると思った。
スーッと、陽が翳った。今の今まで白く射していた太陽が突然暗雲に隠れ、そして間もなく、ポツポツと黒い点々が庭を染め始めた。真っ白だった庭が、黒い穴だらけになっていく。灰色だった庭石も、見る見るうちに黒く染まる。すると間もなく、ザーッと音を立てて降り出した。
「あぁ、いいお湿りだない。こごんどこ毎日暑がったがら、丁度いがったわい。もう畑がカラカラだったんだぞい。こんで助かるわい」
家の裏手には久代が丹精している畑があった。山肌で少し傾斜している畑だが、広々としていて、ナス、ピーマン、トウモロコシ、ニラにほうれん草など、量は少しずつだが沢山の種類が育てられていた。
「ねぇ、じいちゃんどうなのさ? 教えてよ。ねぇ」
光一がせっつく。弥一郎は相変わらずの笑みで二人を見ていたが、ゆっくり話し始めた。
「うん。遼一の逢った馬はな、たぶんずっと昔の農耕馬の御霊だ。昔はな、田んぼや畑を耕したり、切り出した材木を運んだりすんのに馬を使っていだんだよ。後ろに鋤を取り付げで、土を起ごしたりもしたんだ。それど荷車を引ぐのにも馬を使っていだな。今で言えば、トラックの代わりだべな。それごそ正真正銘の一馬力だ。あの頃は馬には随分世話になったもんだ。んだがら馬のごどは、みんな大事にしてだもんだよ。家族みだいにな。だがら、その散々世話になった馬が死んだ時には、懇ろに葬ったんだ。そんでそれぞれの村には、辻々に馬頭観音様を建でで奉ってあるんだよ。まぁ、馬の仏様だな。例えばトラックなら、ぶっ壊れだら新しいのどとっ代えればいいだげで、特別心の痛みもねぇだろうが、馬は生ぎ物だ。一つ屋根の下で暮らし、毎日毎日苦楽を共にしてきた家族だがらな、死ねば悲しい。だがら丁寧に扱ったんだよ。その馬の観音様を、遼一が心を込めで拝んでくれだがら、嬉しくて挨拶に出できたんだべな。きっとそうだで。いい事をしたな、遼一。おめぇは観音様にも亀丸様にも気に入られだんだよ。そうに違げぇねぇ。良がったな」
弥一郎は真剣な顔で聞いている遼一に、グイと顔を近づけ話している。ニカッと笑った髭面が嬉しそうだ。
「えー でも僕、とっても怖かったんだよぉ。シーンとした森の奥から蹄の音だけが聞こえてきて、その足音が段々早くなって近づいて来るんだもの。凄く怖くて、あの石の後ろにじっと隠れていたんだ。あのパッカパッカって響く音は、ほんとにほんとに怖かったんだよ」
本当に怖そうに言う遼一を、弥一郎の優しい皺顔が見ている。
「そうが。それは仕方のねぇごどだ。まぁ、その内段々に慣れでくっぺ。玉姫さんにしても亀丸さんにしても、どうもおめぇ達が山に入る事は気に入っているようだな。それはとでもいい事だ。あのお二人がいいど言うなら、何にも心配すっこどはねえよ。おめらの好きなようにしてればいい」
そう言って愉快そうに笑っているが、光一はまだ納得がいかなかった。弥一郎は何か隠している。そう確信した。
夏の雨は簡単に降るが、止むのもあっさり止む。一頻り激しく降っていたが、二十分程降ったらぴたりと止んだ。止めばすぐに太陽が照らす。じりじりと強い陽射しが森を焦がす。こういう事は、みんなあっと言う間に移り変わる。
朝食が済んで、光一と遼一は連れ立って庭に出た。とても蒸れる。雨に濡れて、さっきまで黒々と見えていた庭石はもうすっかり乾き、眩しいようなねずみ色に変わっている。触ると熱かった。
花壇を越えて森に入る。どれも一抱えほどもあるようなコナラやミズナラ、そして桐の大木などが、十メートル程の間隔をもって並んでいる。家のすぐ周りの森は、それぞれの家が手の届く範囲で手入れをしている。下草も、いつもさっぱりと刈られていて歩き易い。そしてその様子は、森の木立の中に緑の芝生があるようで、とても綺麗だ。
外から見るとただ鬱蒼として見えるだけの自然の森だが、一歩中へ入ると、お伽噺の森のようなのが楽しい。上空には木の葉が分厚く重なり合い茂っている。夏休みの間、この葉っぱの屋根の下に皆で椅子を並べて過ごすのが気持ちいい。気分が伸びやかになる。そこには前後左右に大木の幹があり、森の外から来ると少し薄暗く感じる。外が明るすぎるのだ。緑の上空からは、あちこちに木漏れ日が落ちている。そして、森の中から遠い木々の切れ間に目をやれば、そこには真っ白に近いような、眩しい光だけの景色があった。
空からどんなに強烈な陽射しが降ろうとも、森を抜ける風は涼しい。チラチラと顔に当たる光の煌めきが心地よく、木陰とはなんて気持ちのいいものだろう。都会にはこのような場所は無い。森の広場には、村に来たその日の内にテーブルと椅子を並べておいた。雑巾で夜露を拭き取れば、いつでも使えるようになっている。ここは鏡子の家との丁度中間辺りだ。居並ぶ木立を透して、縦に細く鏡子の部屋の窓が見える。そう思って木の幹を避けながら見ると、丁度窓から鏡子が覗いた。
「おぉーい、夏休みの友二人。今行くからねぇー」
あの窓から森の中は暗くてよく見えない筈なのだが、さっき二人が歩いて行くのを、窓から見ていたのかもしれない。鏡子は大きな声で手を振りながら、相変わらずの冗談を飛ばすと窓枠からサッと姿を消した。
三人ともそれぞれに夏休みの宿題がある。毎日朝の涼しい内に、少しずつここで片付けてしまうのがいつもの習慣になっていた。光一と鏡子は小学生の頃から、ずっとそのようにして今日まで付き合ってきた。去年からは遼一もその仲間に入った。
しかし今日は、三人とも宿題どころでは無かった。今朝方の体験はそれぞれがまだ興奮冷めやらぬところだし、遼一の体験談は鏡子はまだ聞いていなかった。遼一がその話しを始めた途端、鏡子は開いたばかりの教科書をパタンと閉じて、身を乗り出してきた。大きな目が輝いている。
「へぇー 凄いねぇ。いいなぁ。ねぇ遼一君、その唯さんってどんな感じの人? 確か十五歳だよね? 今の私と同い年の筈よ。でも昔の人って数え年だから、一つ年下なのかな? ねぇ、光一君・・・よし、行ってみようよ、その玉姫様の池に。ね? 夏友なんてやってる場合じゃないわよ。それどころじゃない。ほらほら、二人ともぐずぐずしない。さぁ、行くよ」
色々質問しておきながら、答えはどうでもいいようだ。とにかく池に行こうと言いながら、もう立ち上がっている。会えば判る、見れば判る、ということらしい。
木々の間を斜めに抜けて行く。三人とも本やノートはテーブルの上にほったらかしたままだ。短く刈られた草を踏む感触が気持ちいい。切り草の上にスニーカーが落ちる瞬間、短い束になった草が倒れて、足がスッと横にずれる。バランスが崩れそうになりちょっと歩きにくい気もするが、慣れると面白い。光一が先頭になって行く。歩くのがちょっと早い。すぐ後ろには遼一が早足でついてくる。そして鏡子は、その二人の間を右へ左へ、くるくると回りながら忙しい。走りながら光一の背中を小突いたり、遼一の髪の毛を手でばさばさにしてからかったり、この子はいつもこんな調子だ。楽しいのだろう。
入り口の鳥居を潜る。夏の太陽はもう真上近くにまで上がっている。暑い。でも藪の道から参道に入った途端、一段と涼しくなった。石畳の道を暫く歩くと、左の土手の上に石碑が見えてきた。馬頭観世音の平たくて大きな石碑だ。
「ここだな。さぁ遼一、案内してくれ」
遼一はうん、と返事をして、ひょいと土手に上がった。そしてしきりに周りを見回していたが、
「あれ? 変だな。おにいちゃん、変だよ。道が無い。おかしいなぁ? この石碑の裏のここん処に、細い道があったんだよ。おかしいなぁ? 僕そこをずっと向こうへ歩いて行ったんだから。大きな声を出しておにいちゃんを呼んだら返事が聞こえてきて、ほんとはそれは唯さんだったんだけどね、僕はてっきりおにいちゃんだと勘違いして、それで、ここにあった道を、声のする向こうへ歩いて行ったんだよ」
遼一は森の奥の方を指差しながら、困ったような顔で言っている。光一も鏡子も土手の上に上がってみたが、石碑の裏側は一段高い土手になっているだけだった。その奥の方はざわざわと藪が茂っているばかりで、どう見ても、どこかへ通じていそうな道などは見あたらない。
「魑魅魍魎か。じいちゃんの言う通り、この山には不思議なものが棲んでいるんだな」
行きたいと思った時には道が消えている。会いたいと思っても会えはしない。でも何かの拍子に、互いの想いと想いとが触れ合うことがあるのだろう。そんな時を待つしかないのかもしれない。そう思った。
変だ、不思議だ、自分も会いたい。是非玉姫様の池に行きたいと騒ぐ鏡子をなだめて、折角だから玉姫神社まで上る事にした。
三人並んで、二拝二拍手一拝。いつもよりちょっと神妙に、どうぞ宜しくお願い致しますと、声を揃えて大きな声で言っていた。池を見せて欲しいというお願いだ。玉姫様は聞き届けてくれるだろうか。
祠の裏側に周ると、遥か遠くまで見通せる。緑に埋もれたこの村の中で、ここだけはもくもくと続く森を見下ろせる唯一の場所だ。雨上がりの山々は緑の色がとても澄んでいて、重なり合う遠く近くの山の端が、立体的によく見える。三人とも見とれてしまった。左にあるのが天狗山。右にあるのが烏山だ。そしてその手前にも、小さな丘がもこもこと濃い緑色で重なってあるし、その奥の方にも、更にもっと奥にも、名も知らぬ山々が幾重にも緑を重ねている。そして遠くに行くに従い、少しずつ少しずつその色を薄い藍色に変えながら、一番遠くに見える山の端は、遥か向こうの空の青に溶けて消えていた。
そしてこの水蒸気はどうだろう。一雨降って山に染み込んだ雨水を、山肌に溜まっていた地熱が一気に茹でているのだろう。もくもくと茂る木々の間から、もうもうと湯煙が立ち上がっている。それは周りの山全部が、まるで山火事でも起こして燃えてでもいるかのような、凄い量の水蒸気だった。
天から雨が降れば、山はすぐさまそれを天に還す。還し切れなかったものは山が飲み込む。そして、立ち昇る大量の水蒸気は何れまた雲を作り、地に降る時を待つ。また沢伝いに流れ落ちた水はいつか大河を作り、海に出る。そしてそれもまた、いつか天に昇り、そして地上に落ちてくる。
巡っている。この世は全て巡っている。今のこの姿は明日の姿であり、十年後の姿でもある。そして百年後の姿と今日の姿も、さほど変わらないものなのだろう。そしてそれらの理は、絶対に壊してはいけないものなのだ。三人並んで岩の祠に掴まりながら、その雄大な山の風景に見とれていた。
その夜はとても蒸し暑かった。外は全くの無風のようで、開け放ってある雨戸の向こうからも、木々のそよぎひとつ聞こえてこなかった。
蚊帳が吊ってある。光一と遼一は、枕を並べて寝ていた。蚊帳って不思議だ。薄っぺらな網の布一枚なのに、頭の上から丸ごと囲まれていると、守られているような気持ちになる。とても安心する。
それにしても暑い。薄いタオルケット一枚でさえうっとうしいような夜だ。二人で布団に寝そべったまま、今日一日の出来事を遅くまで話していたのだが、遼一は何かの瞬間に、フッと眠りに落ちたようだ。光一はなかなか寝つけずにぐずぐずしていたが、それでも頭は大分朦朧とし始めていた。昼間の山登りで疲れたのだろう。
暑苦しくて身体をよじる。首の周りに汗が浮かんでいた。すると、何となく庭先が明るく思えた。首を縁側の方に捻ってみた。久代が育てている赤い花が、蚊帳の網目に掠れてぼんやりと見えた。月夜なのだろう。とても明るい。そう思ったとき、眠っていた。たぶんそうだと思う。眠る前の記憶は薄々とあるものだが、いつ眠ったのか、その瞬間の記憶は消えている。たぶんその時に眠ったのだと思う。
シャンシャン、シャンシャン。何か金属が触れ合うような音が聞こえた。普段なら、一度眠りにつけば朝までぐっすりと眠っていて、少々の音などでは目が醒めたりはしないのだが、その時はスッと目が醒めた。自分の家とは違って眠りが浅いのだろうか。薄く目を開けて、音が聞こえた外の方に顔を向けた。雨戸は一間ほど開け放ったままだ。
ドキッとした。心臓がドキンと動くのが分るくらいに驚いた。体中がザワザワとなって、朦朧としていた頭が一瞬にして醒めた。雨戸の脇に誰かが立っている。こちらを見ていた。坊主頭だ。月光の下ではよく分らないが、ねずみ色のような黒色のような着物を着ていて、左手に提灯を下げている。右手には棒のようなものを持っていた。
提灯は雨戸の処から廊下の中頃まで突き出されていて、蚊帳の網目にぼんやりとした紗がかかって見える。そのベージュ色の提灯の灯かりが、男の顔をはっきりと現していた。丸顔で眉が太い。意思の強そうな顔つきに思えた。身体つきはがっちりとしていて厳つい感じがするが、目と口元は笑っている。その風貌と微笑みが、ちぐはぐな感じがした。
光一はあまり突然の事で声も出なかった。布団の上に四つん這いになって、それだけ観察するのがやっとだった。するとすぐ脇で、ごそごそと衣擦れの音がした。遼一も起き出したらしい。光一の背中の処まで這い寄ってきた。
「どうした。驚いたような顔をして。わしじゃ・・・ わしの顔を忘れたのか? まぁ、そんな事はいい。じきに思い出すじゃろ。それより早く支度をしろ。皆がまっておるぞ」
よく響くはっきりとした声音だったが、顔を忘れたのかと言われて戸惑った。と言う事は、自分の知っている人なのだろうか。いつ何処で会った人だろう。全く心当たりが無い。そもそも、今時こんな古そうな和服を着て、提灯を使っている年寄りに知り合いなどいる筈がないと思った。でも相手は自分を知っているようだ。それに、顔とその声から年寄りだと感じたが、年齢の見当はつかなかった。それより、皆が待っているとは何のことだろう。皆とは誰の事だろうと思った。もしかして、この人はとんでもない勘違いをしているのではないだろうか。
「あの・・・ おじさん。皆って誰の事ですか? 待っているって、どこで? 誰が?」
訳が分らなかった。
「何を寝ぼけておるのじゃ。皆とは皆に決まっておる。くれば分るて。早くしなさい。おぉ、そっちの小っさいのも一緒においで」
その坊主頭の年寄りは提灯で遼一を指し、そう言いながらにこにこと笑った。
明かりがゆらりと揺れる。すると部屋中に色々な影が走り、部屋が丸ごと揺れているような気分になった。ゆっくりとした話し方とその笑顔が、とても優しそうで嬉しそうで、悪い人には思えなかった。
遼一と二人、急いで着替えて庭に出た。見上げると、大欅の先端を掠めて月の光が差している。満月の夜だった。
不思議な年寄りが先に立って行く。庭を抜け、森の中を歩いて行く。その年寄りがゆっくりと歩を進める度に、薄い煙のようなものが足元に絡まるように漂った。何だか年寄りは、雲の上を歩いているように見えた。そして間もなく、鏡子の家に通じる辻に出た。
「光一くーん。遼一くんも一緒ね。今晩は」
辻に鏡子が待っていた。明るい声だ。側に小学生くらいの女の子がいる。十歳くらいだろうか。赤色のような浴衣を着て黄色い帯を締めていた。丸顔で、切りそろえた前髪が可愛い。愛嬌のある目鼻立ちをしていた。だんだん目が闇に慣れてきたせいか、木々の隙間から射し込む少しばかりの月明かりでも二人の姿はよく見えてきた。真夜中の月明かりは結構明るいものだ。
「鏡子、どうしたの? こんな時間に出てきて大丈夫なのか? その子は?」
鏡子はジーンズに薄手のジャンパーをはおり、手に懐中電灯を持っていた。その電灯の光で光一達の顔を照らすものだから眩しかった。
「へへぇ、こっそり抜け出してきちゃった。だって楽しそうなんだもの・・・ 今晩は」
鏡子は一緒にいる不思議な風体の坊主頭に気づいて、ぺこりと頭を下げた。鏡子のにこやかさが急に消えた。あまりに変な感じなので驚いたのだろう。でもすぐに元に戻っていた。
「光一君達も来るって言うからね、来てみたの。ちょっと不思議なんだけど、この子がお迎に来てくれたのよ。芳子ちゃん。私は初めてなんだけど、光一君は知っているんでしょう? 芳子ちゃんの事。芳子ちゃんは光一君のこと、よく知ってるって言ってたわよ。ねぇ、芳子ちゃん。いつ知り合ったの?」
赤い浴衣の女の子は、芳子と言うらしい。変といえば、この子の方がもっと変だと思った。小さな子供がこの真夜中に、一人で鏡子を迎えに行ったのだろうか。たぶんこちらの年寄りと一緒なんだろうが、年寄りはそういう説明は全くしてくれない。それにその女の子も、浴衣とはいえ和服姿だった。盆や正月ならいざ知らず、普段に着物を着ている小学生などこの村にいたのだろうか。でも変だとは思っても、不思議と怪しい感じはしなかった。それどころか、二人とも何となく楽しげな雰囲気がある。だから鏡子も出てくる気になったのだろう。光一もそうだった。
女の子は行儀よく両手を前で重ね、ぺこりとお辞儀をした。上目遣いに光一を見ながら、はにかむような顔で言った。
「はい。よく知ってます。今晩は、おにいちゃん」
まただ。こちらの年寄りといい、この少女といい、光一には全く覚えが無かった。でも二人の方は光一の事を知っているらしい。何だかキツネにでも化かされているような気持ちだった。それもこんな真夜中だから、尚更にそう思うのだが、この際化かされてみるのも面白そうだと思っていた。相手は年寄りと子供だ。少なくとも危険な感じはしなかった。
家を出る時に柱の時計を見たら、もうすぐ一時になるところだった。今ではとっくに一時は過ぎている筈だ。
「さて、わしはここで別れることにする。後はこの子が案内をしてくれるだろう。芳子、後は任せたぞ」
坊主頭はそう言うと芳子に提灯を渡し、皆の後ろに回って見送る形になった。
「はい、行ってきます」
嬉しそうな声でそう言う芳子の顔を、受け取った提灯の灯かりがぼんやりと照らした。芳子は光一達の方を見渡しながらこくりと頷き、先頭に立って歩き出した。ついて来いと言うのだろう。
まだどういう事なのか理解できない。この年寄りは、こんな小さな女の子に夜の道案内をさせて、自分はどうするつもりなのだろう。よく分らないが、歩き出しながらも年寄りの方を二・三度振り返り、取り敢えず従ってみる事にした。芳子が先頭で、次に光一が続く。鏡子は光一に腕を絡ませ、そして遼一と手を繋いで歩き始めた。
辺りは真っ暗闇だ。鏡子の懐中電灯で森の中を照らしてみても、明かりはみんな闇に吸い込まれてしまう。何も見えない。照らして見えるのは、直接光が当たった木の白い幹の部分だけだ。一部分だけを明るくする電灯の光は中途半端で、あまり役に立たなかった。先頭を行く芳子の提灯だけが頼りだ。ぼんやりと照らす淡い灯かりが、範囲は小さくとも周り全体を現してくれる。
歩き始めてすぐの時、森の奥の方から、ざわざわと騒ぐような音が聞こえた。何の音だろう。草がざわめくような音だった。何かいるのだろうか。ざわざわ、ざわざわ、連続して聞こえる。獣でも歩いているような感じの音だ。ちょっと不安な気持ちでそんな事を考えていたその時。ドキリとした。暗くて周りの風景がよく見えないせいもあったが、今歩いているのは、お地蔵さんの立っている真向かいの方向だった。芳子が淡々として行くのと暗いのとで、気づかなかった。つまり鏡子の家の方から来て、そのまま真っ直ぐに歩いているという事だ。そんな筈はない。そこはT字路になっているのだ。道など無い筈だ。
「芳子ちゃん、ちょっと待ってくれないか」
光一はすぐ前にいる芳子を止めると、まさかと思いながらも慌てて鏡子の懐中電灯を取り、後ろを照らした。まだ歩き始めたばかりだ。数本の木立を抜けて行く電灯の光の先に、いつものお地蔵さんの顔が照らし出された。光一は電灯で先を照らしたまま、ずんずんと戻って行く。歩く毎に小刻みに揺れる光が、お地蔵さんの全身を照らした。光一の様子を見て、鏡子も遼一もようやく気づいたのだろう。ひゃぁっという声を上げながら、ドタバタと光一に続いた。
それはそっくりだった。坊主頭に太い眉。にこやかな笑顔で、ねずみ色の粗末な着物を着ている。そして手に持っていた棒は、錫杖だったらしい。さっきまだ家にいるとき、表で聞こえた金属音は、錫杖に付いている輪が鳴る音だったのだ。
確かに知っていた。ずっと以前からの知り合いに違いなかった。鏡子と二人子供の頃に、散々遊んでもらった人だった。今辻の事が頭をよぎったとき、お地蔵さんの顔を思い出した。鏡子も思い出したのだろう。光一と顔を見合すと、にっこり笑って頷いていた。そして、遼一と三人で手を合わせた。
「さっき会った時は、誰かと思ったわ。光一君も全然紹介してくれないし、変なおじいさんだと思っちゃった。さっきは思い出せなくてごめんなさい、お地蔵様。どうぞ宜しくお願いします。でも不思議。光一君、今夜はなんて楽しい夜なんだろうねぇ。何だか、ちっちゃな頃に戻ったみたいな気分だよ」
夜も更けて周りがさっきよりも明るくなってきたような気がする。満月の位置が天頂に移動したのだろう。懐中電灯の明かりを消して芳子のいる方を見ると、ぼぉっと滲むような提灯の灯が、闇に浮かんでいた。 あの子は誰だろう。あの子も光一をよく知っていると言っていた。このお地蔵さんと同じように、光一も知っている子に違いないのだ。まだ思い出せないが何れ分るのだろう。そう思いながら提灯の方へ戻っていった。芳子について進む。するとまた先の方で、ざわざわと草ずれのような音がした。すぐ目の前で鳴っているような気がしたので、芳子の頭の上から目を凝らし、ほのかに照らす提灯の先を見た。すると、
「遼一、鏡子、見ろ。凄い。草が避けている。いや、道ができていく」
やはりここには道など無かったのだ。以前からT字路だった。今芳子が進みながら、道を作っているところだった。ここはただの山の中だ。周りには沢山の太い木が生えているが、その下は低い藪になっている。さっきからざわついていたのは、群生して腰の辺りまである熊笹が、左右に倒れてゆく葉ずれの音だった。
赤い鼻緒の草履を履いて、ゆっくりと先頭を歩く芳子の先で、笹が慌てて倒れていく。あまりの不思議に、三人とも嬉しくなってしまった。そして少し行くと、後ろでもざわざわと音がするのに気づく。振り向いて見ると、四人が通りすぎた後から、次々に笹が立ち上がって元に戻っていた。今度は後ろから笹に追いかけられているように思えて、遼一と鏡子は思わず顔を見合わせた。帰りはちゃんと帰れるのだろうか。そして鏡子は光一に、遼一は鏡子に、ぐっと身体をくっつけて歩いていた。
どのくらい歩いたものかよく分らなかったが、時間にすれば、たぶんほんの五分くらいのものだろう。先頭を行く芳子が立ち止まって振り向いた。
「あそこだよ。もう皆待ってるよ、おにいちゃん。ほらね」
芳子はとても親しげに、にっこり笑って光一に言っていた。いかにも分っただろうというような口振りで指差しているのだが、そう言われて先を見ても何も見えない。そこには真っ暗な闇があるだけだった。でも芳子がそう言うのだから何かあるのだろう。そう思い直して闇の奥に目を凝らした。すると突然のように、暗かった森の先が明るく見えてきた。周りには一様に大木ばかりが立ち並んでいるのだが、芳子の指差した辺りだけ、木立がまばらになっている。大きな闇に穴が空いているみたいに、そこだけぽっかりと開けていた。
金色の光が天空から降り注いでいる。満月の夜だ。なるほどよく見える。何かが蠢いていた。動いている何かが見える訳ではない。何も見えないのだが、きっと何かがいるのだろう。蠢いている。そう感じた。
「綺麗だねぇ、光一君。草も木も光っているよ。何だかどれもこれも、細かい光の粒々がついているみたい」
目が余程慣れてきたのだろうか。まるで昼間のような明るさだ。
「あ、おにいちゃん、あそこ。あの木の上に何かあるよ」
暫く目を見張るようにして見とれていた遼一が、何かを見つけた。大きく開けた広場の真中に、とても大きな木が一本、ぽつんと立っている。それはとても太い木で、比較的低い所からも何本もの枝を伸ばしている。空高く形の整った大木だった。その上の方にはうっそりと葉が茂っている。巨大なおわんを伏せたような形の木の葉の山が、月光にキラキラと光っていた。そして、その大木の下から四・五メートル上の枝の処に、何かが引っかかっているように見えた。
「おにいちゃーん。こっちだよぉー」
その木の又の処で、仄かな灯りが揺れている。提灯の灯だ。今しがたまで側にいた筈の芳子が、いつの間に木の上で呼んでいる。三人が早足で近づくと、そこには何枚もの板や丸太が組んであり、あちこちをロープで縛り付けてあった。見上げたその上で、芳子の提灯が揺れている。ゆらゆらと右へ左へ、ぼんやりとした色の提灯だけが揺れている。芳子はどこにいるのだろう。
その揺れる灯かりを見たとき、一瞬頭が真っ白になり、光一は気を失うような気分になった。でも大丈夫と、何とか気を取り直した時、またしても子供の頃の記憶が蘇った。
そうだった。この場所だ。いつも夢に出てくるあの場所だ。思い出した。秘密基地だ。これは中学一年生の頃に、自分が作った秘密基地だ。この大木は楠だ。この楠に梯子を掛けて、何度も何度も登ったり降りたりしながら、せっせとこれを作ったのだ。どんどん思い出す。でも何故忘れてしまったのだろう。あれからまだ何年も経ってはいないのに。
いや、まるっきり忘れた訳ではない。夢にはちょくちょく出てきていた。でも夢か現実かと言われれば、現実の出来事だったとは思わなかった。それでもよく夢に登場する度に、どこなんだろうと、いつも思っていた。
「鏡子さん。鏡子さん。しっかり。おにいちゃん大変だよ。鏡子さんが。鏡子さんが」
光一のすぐ後ろで、ぐったりとしている鏡子を遼一が懸命に支えていた。そうだった。これはこの鏡子と二人で作ったのものだ。家から材料を持ち出してきては、鏡子を子分のようにして使って、この木の上まで運び上げたのだ。倒れた鏡子を抱きかかえながら思い出していた。
「おい、鏡子。大丈夫か。しっかりしろ。鏡子、お前も思い出したのか。そうなんだな。鏡子。おい」
草の上で鏡子の上半身を抱きかかえながら、少し揺するようにして言っている。するとぼんやりと開いた鏡子の目が見る見るうちに輝いて、そして笑っていた。
「あぁ、光一君。思い出したわ。ここには前に来た事がある。光一君と一緒によ。でも何? 思い出したかって。光一君も私と同じだったのね? それはそうだよね。分っていたら、とっくに話していた筈だものね。でもなんで? これはどういう事なの? なんで今まで忘れていたんだろう。変だわ。凄く変よ」
大木には梯子が掛かっていた。さっき何か引っかかっているように見えたのは、この梯子だったらしい。地上から一番近い枝のすぐ下に掛けてある。あの時のままだ。そこまで登れば、後は別な木の枝を次々と伝って、上の秘密基地まで登れるようになっていた。
木の枝に何かいる。黒くてふわっとしたようなものだ。そう思って全体を見渡すと、基地の台の上から頭だけ出してこちらを覗いているものや、周りの木の枝にも幾つもの何かが蠢いていた。
おーい。こっちだ。早く来いよ。へへへ・・・
おそいぞぉー 早く、早くぅー フフフ・・・
枝のあちこちから声がかかる。笑い声のようなものや小さく叫ぶような声が、光一達を囃し立てている。それはどの声もとても嬉しそうで、久しぶりに聞く森の声だった。
光一が中学一年生の時なら、鏡子は小学五年生の頃だ。あの辻地蔵の前辺りでいつも何か相談していた二人が、何かの思いつきでここに秘密基地を作り始めた。中学生とはいっても、一年生の夏休みの頃なら、気分的にはまだ小学生とさほど変わりは無い。そして男の子は、そのような事にすぐ熱中するものだ。
たぶんこれは光一が言いだしっぺに違いない。家の裏にあった板切れを少しずつ運び込み、梯子も持ってきた。光一が木の上に登り、鏡子が板を下から持ち上げる役目だった筈だ。ナイフでロープを短く切り、丈夫そうな枝に丸太を何本も縛った。
みんな祖父母達には内緒で勝手に運び込んだのだが、梯子が無くなったことについては何も言われていないような気がする。他にももっと良い梯子があったので、気がつかなかったのかもしれない。
その一部始終を、森の仲間たちは見ていた。もしかしたら、一緒に梯子を上り下りしながら手伝ってくれたのかもしれない。その時の梯子が、あれからずっとここに掛かっている。今四年ぶりに秘密基地の主が二人揃って帰ってきた。仲間達はずっと待っていてくれたのだ。
道はどうだったのだろう。辻地蔵の前からここまでの道は、勿論あの頃も無かった筈だ。念のため鏡子に訊いて見たが、やはり道など無かったという。それならどこをどうやって通ってきたのだろう。鏡子も覚えていないという。その辺の事はまだ思い出せなかった。
三人で梯子を登り、基地の上に立った。ちょっとしなって危なっかしいが、長い板や丸太があちこちの枝に縛り付けてあり、思いの外丈夫そうだ。縛り付けてある木の幹と、そこから伸びている枝振りが丁度良いのだろう。幹を背にして座っていれば、特に不安も感じない。改めて縄目の跡とか枝振りなどを見ていると、作った時の記憶が少しずつ思い出されてくる。すぐ頭の上には分厚い木の葉の山が黒々と覆い被さっている。時折その中からガサゴソと音がするのは、眠りを妨害された鳥達が居住まいを正す音だろう。
さっきここから光一達を呼んでいた森の声はどこにいったのだろう。辺りにはもうそれらの気配は無かった。その代わり地上を見下ろすと、月明かりが照らす草叢のあちこちに、来た時と同じように何かが蠢いていた。あれが弥一郎が子供の頃に見たという魑魅魍魎なのだろうか。それともキツネかタヌキか、或いはこの山の精霊達なのだろうか。よく分らないが、確かに何かがいる。
芳子は・・・ 芳子はそこにいた。空中基地の板張りからはちょっと外れた横枝の上に、ちょこんと乗って、相変わらず淡い色の提灯を揺らしていた。赤い色の着物が可愛い。その手にある提灯の灯も、とても似合っていた。芳子の嬉しそうな顔が、ぼんやりと提灯に浮かんでいる。
この子は何物なのだろう。不思議に思ったが、そんな事は知らなくてもよい事なのかもしれない。まだ思い出せないが、あの楽しそうな笑顔は友達に違いないと思った。
「芳子ちゃん、みんな下に行っちゃったみたいだけど、これから何か始まるのかな?」
月の光に照らされた草原の中から、何かがぴょんぴょんと出たり引っ込んだりしている。何が飛び跳ねているんだろう。草の上に飛び出た時に、その身体がキラリと光る。満月の夜だ。夜の草原は暗く輝いている。飛び上がっては光り、草叢に消えると、後はもこもこと草を波のように震わせて進んでいく。そしてまた飛び上がる。そんなのがあちこちにいる。やはりキツネかタヌキか。いや、もっと別なもののように思えるのだが、よくは分らなかった。あちこちで草波が立っている。仲間は沢山いるようだ。見ていると、広場の真中にあるこの木の周りを、大きく巡るように周っているみたいだ。
「うん。もうすぐみんなが持ち上げてくれるよ。今準備をしてるとこだから、すぐだよ。とってもいい眺めになるよ」
芳子がにこにこしながらそう言った時、地上がちょっと遠くなったような気がした。草原の景色が遠のいている。
「ひゃぁ、おにいちゃん、高くなっていくよ。上に持ちあがってるぅ」
遼一がびっくりした声で、意味不明のことを言った。でもそれを聞くと、鏡子は慌ててしゃがみ込んでいた。自分でもそう思ったのだろう。本当に高くなっていた。さっき下から見上げたときには、大した高さではないと思っていたのだが、こうして基地の上まで登ってみると随分高い。四・五メートルの高さとは、なかなか高いものだと思った。それが更に、ぐんと高くなっていた。そして、まだどんどん伸び上がっている。
「芳子ちゃん。これは何? 大丈夫なの? ちょっと怖い気がするけど、どこまで高くなるの? 芳子ちゃんもそんな処にいたら危ないよ。こっちにおいで。落ちたら大変だよ」
鏡子がへっぴり腰で芳子を手招きしながら言っている。でも芳子は堂々として木の枝に乗っていた。まるでいつもそうしているみたいな感じで、下界を見下ろしている。
もう完全に森の上まで飛び出ていた。あっと言う間だった。しかし秘密基地の様子には変わりが無いし、大木の様子にも特別な変化は無いように見えた。
「お兄ちゃん、凄いよ。大変だよ。木が伸びてるんだ。木がぐんぐん伸びてるんだよ」
遼一が腹ばいになり、首だけ下に出して叫んでいる。光一と鏡子が慌てて遼一の足首を片方ずつ掴んだ。 遠くまで森が見える。もくもくと茂る木の葉の海が、真っ暗な夜に広がっていた。その木の葉の一枚一枚を月明かりが照らし、森がキラキラ遠くまで光って見える。木の葉が風に揺れて漣のようだ。そして夜空には、星がこぼれるほどに煌いていた。
少し先の山陰に、チラチラと見え隠れしている小さな光は、たぶん向日向の外灯の明かりだろう。右手の遠くにも、ぽつぽつと点のような明かりが集まって見える。あれは町の灯だ。もう玉姫神社の山と同じ位の高さにまで上がっていた。
「おにいちゃんも、おねえちゃんも、そして遼一くんも、また遊んでね」
芳子は唐突に、にっこり笑ってそう言うと、スッと消えた。そしてその後には提灯だけが、ぼんやりとした灯を灯して浮かんでいる。三人が驚いてその明かりを見ていると、今度は楠の大木が消えた。そして唯一の拠り所の秘密基地まで、スッと消えてしまった。それでも、提灯だけはまだ宙に浮かんでいる。
三人は暗い空中で、それぞれの手をきつく握り合いながら、円陣を組むような格好で浮かんでいた。真下には遥かに暗い森が広がっている。空に浮いているのだ。
「うわぁー おにいちゃーん。どうなるのぉー」
遼一が叫ぶ。その時。三人の真ん中で細々と灯っていた提灯の灯が、フッと消えた。そして次の瞬間、それが合図だったかのように落下を始めた。少しの間だったが、三人して確かに空に浮かんでいた。それが、遼一が叫び声を上げたとたんに落ち始めた。
「ひゃぁー 落ちるよぉー 光一くーん、助けてぇー 手を離しちゃ嫌だよぉー 遼一くんも離さないでぇー」
鏡子は絶叫していた。そんな事言われたって、光一だって怖いのだ。例え離せと言われたって、誰が離すものか。他に掴まるものが無いのだ。藁をも掴む思いという意味が今心から分る。三人声を揃えて、わぁーっと叫びながら、暗い森の上に落ちて行く。ぐるぐると回りながら落ちていった。そしてこんもりと茂った木の上に、バサッと音を立てて落ちたと思った瞬間に、バサッとタオルケットを跳ね除けて、布団の上に起き上がっていた。その時すぐ隣で寝ていた遼一も、バサッと起きあがっていた。
二人とも身体中が汗でびっしょりだ。布団に起きあがったまま、顔を見合わせている。暫く言葉も出ない。夢だったのだろうか。そんな筈は無いと思った。お地蔵さんがここに迎えに来たところから、まだはっきりと覚えている。それに二人揃って全く同じ夢を見るなんてことがあるだろうか。光一と遼一は今までの出来事を思い出しながら話し合い、そう思った。
それに夢じゃない証拠がひとつある。二人ともジーンズにTシャツを着ていた。夕べ布団に入る時には、確かにパジャマに着替えたのだ。それをお地蔵さんが迎えに来た時に、また着替えたのだから間違い無い。その事ははっきりしている。
それと鏡子だ。これは明日にならなければ確かめようがないが、明日鏡子の証言さえとれれば、もう間違いはない。
それにしても、遼一が昼間経験した事といい今夜の出来事といい、これは間違いなく魑魅魍魎の仕業に違いないと思った。でも楽しかった。ちょっとだけはらはらしたけれど、じいちゃんが言っていた通り魑魅魍魎は悪さなどしない。皆楽しい仲間なんだと分った。
この村に来てからというもの毎朝早起きだったのに、今朝だけは流石に寝坊をした。あんまりいつまでも起きなくて、久代が心配して起こしにきたほどだ。
「光一。遼一も、もう起ぎねが。ほら、鏡子ちゃんが来てるぞ。ほら、起ぎろ。ちっと眠り過ぎだぞ。どうがしたのが。ほれ、おい」
久代が二人が寝ている布団の間に座り、顔を覗きこむようにして揺すっている。もう九時になるところだった。夕べあれから寝たのは何時だっただろう。それは覚えていなかった。兎に角ぐっすりと寝た。
二人は急いで服を着替え、顔を洗った。表にある井戸水はとても冷たくて気持ちがいい。一発で目が醒める。そういえばあの後、二人でガバッと布団から起きあがった後の事だが、またパジャマに着替えたのだろうか。そうだ、確かに着替えた。着替えた筈だ。二人は井戸のポンプを交代で漕ぎながら、間違い無いよなと、確認し合いながら顔を洗っている。
記憶はどんどん薄れて行く。ほんの夕べの出来事なのに、たった数時間前のことなのに、もう夢の中の事だったみたいな感じになっている。しかしそれも無理も無いような気もする。あんな突拍子のない出来事が現実に起こったなんて、自分でも信じられないような事だから。
しかし今回はそうはいかない。なにしろ三人で経験しているのだ。今そこで待っている鏡子とも話せば、それは本当に本当だったことが分る筈だ。光一はつくづく、三人一緒で良かったと思った。
急いで居間に行った。外を見ると、白く乾いた庭の砂に陽が反射してとても眩しい。太陽はもう随分高い処まで上がっていた。鏡子は大きな飯台の前に座り、斜め脇にいる弥一郎と身を乗り出して話していた。小さな頃から行き来しているから、二人はとても親しい。白い半ズボンに首周りが大きく開いた白いTシャツを着ている。話をしながら目が輝いている。
「お、やっと起ぎだが。よぐ寝でだもんだ。いゃぁ、おめぇ達、随分面白い経験をしたもんだな。今鏡子ちゃんがら聞いだぞ。それで疲れで今まで寝でだのが。そうが。ま、こっちゃ来て座れ。先ずは飯食っちまえ。鏡子ちゃんは食ってきたって言うがら、おめらだげで早ぐ食っちまえ。腹減ったべ」
先に口を開いたのは弥一郎だった。鏡子はおはようと挨拶をしただけで、後はにこにこ笑っていた。きっと弥一郎相手に夕べの話しを言うだけ言って、取り敢えずお喋りの虫は満足したのだろう。光一はその顔を見ただけで夕べの出来事の真実性を確認していた。
台所の方から久代が暖めた味噌汁を運んできてくれて、ご飯を山盛りによそってくれた。そしてまたそそくさと勝手の方へ戻って行く。ゴゴーッとモーターの音が聞こえるから、洗濯の途中なのだろう。
二人は並んで食べ始めた。鏡子はその目の前に陣を移し、両手で頬杖をついている。その上に小さな顔を乗せ、食べる二人を観察しているみたいだ。光一と遼一とが箸を運ぶ度に、顔は動かさずその大きな黒い瞳だけが、右へ左へ動いている。光一はいつかどこかで見たフクロウの掛け時計みたいだと思った。
「何にも無いのよ」
頬杖をついたまま鏡子が言った。
「え? なんだい?」
「だから、何にも無いの。さっきね、ここに来る途中、お地蔵さんの前の辺りをよく調べてきたの。通り道だしね。そしたら、お地蔵様はいつもの通りニンマリとした顔で立っているだけだし、夕べ入って行ったあの道は、それこそ道どころか、歩いた跡さえ無いのよ。ただの藪だけよ。ずっと奥まで沢山の木が立っていて、下には熊笹がいっぱい生えているだけなの。これもいつもの通り。なんにも変わった事は無いの。どういう事なんだろうね? まさか、夢だったなんて言わないでよ。二人とも分っているんでしょうね?」
鏡子は相変わらず頬杖をついたままで話している。大きな目がぱっちりと二人を見つめていた。勿論分っている。こっちこそ、今更夢だったなんて言わせないという気持ちだった。
「夢じゃないよ。絶対に夢なんかじゃない。だってあんなにはっきりとした夢なんてないよ。今だってちゃんと覚えているし、第一、寝るときにはパジャマに着替えていた筈なのに、帰ってきた時にはズボンにTシャツを着ていたんだよ。着替えた記憶もあるしね。それと、お地蔵さんのシャンシャン鳴る杖の音だって、はっきりと聴いた覚えがあるし、間違い無いよ。ただ、なんで空から落っこちた後、突然布団に寝ていたのかが不思議なんだけどさ。
光一兄ちゃんともそう話していたんだ。ねぇ」
遼一は最後の一口を口に入れ、もぐもぐ噛みながら言っている。
「ねぇ、じいちゃんはどう思う? あれがじいちゃんが話してくれた魑魅魍魎なのかな? 僕はそんな気がしたんだけど、どうなんだろう? それにしても、あそこのお地蔵さんが歩いて迎えに来たんだよ。そんな事ってあるの? ・・・あったんだよなぁ」
光一は味噌汁を飲み終え、茶碗とお椀を重ねながら訊いていた。
「古い森にはな、昔っから色んな精霊が棲んでるんだ。木も草も獣も鳥も、そして岩や流れる空気にまでも、精霊は宿ってんだ。山川草木の全てに精霊が棲んでいる。おめぇ達の心がげが、それらの精霊達を動がすごどもあるのがもしんねぇ。うん、石のお地蔵さんだってたまには動ぐ事があるがもしんねぇなぁ。しかし、夜の森には気をつけろ。家ン中さまで寄ってくるような物の怪は、どれも気のいいヤヅばっかりだが、森の中だげにいで、決して人里には近寄らねぇ物の怪の中には、恐ろしいものが多いんだ。んだがらな、昔っから、陽が落ぢだら決して外には出ながったもんだ。神隠しに逢うがらな。二度ど戻ってこらんにゃぐなるぞ。ゆんべはたぶん、お地蔵さんの手引きだったがら何事も無がったに違ぇねぇ。いいが、おめぇ達だげでは決して夜の森になんぞ入っちゃなんねぇぞ。取り返しのつかねぇ事になる。こごはそういう森なんだ。いいな、忘れんじゃねえぞ」
神隠しなんて言われると、ほんとかなと思ってしまうが、今までの事もあるし、また弥一郎が言うと本当のように聞こえる。でも目尻に深い皺を寄せて話す弥一郎の言い方はとても優しく、大した事ではなさそうにも聞こえてしまう。
さっき起きた時から、外には大変な蝉時雨が降っていた。沢山の蝉の声が入り混じって鳴くその賑やかさは、声というより、何か別なものの唸りのようだ。家中が波のような唸りに取り囲まれていた。そしてその唸りが、この暑さに拍車をかけているような気がする。太陽はもう天頂に近い。今日もいい天気だ。
早速三人で地蔵尊の近辺を探検に行ったが、それは鏡子が言った通りで、いつもと変わらない簡易舗装のT字路の風景があるだけだった。少し藪の中にも入ってみたが、道路際にもそのずっと奥の方にも、背の高い胡桃や橡の木が空を覆っているだけだった。そこには見慣れたいつもの風景があるだけで、夕べの名残のようなものは何も見つけられなかった。
三人並んでまた宜しくお願いしますと地蔵尊に挨拶をすると、取り敢えず木陰のテーブルで夏休みの宿題を片付けた。午後からは魚釣りに行くつもりだ。じっとしていても汗が滲むような暑い日には、水遊びが一番いい。
家を出掛けに大きな声で鏡子を呼ぶ。鏡子は窓から顔を出してちょっと手を振るような仕草をすると、スッと姿を消した。地蔵尊の前で合流して向日向の集落へ向かう。集落の中を川沿いに上って行けば、すぐに渓流に出る。ゆっくり歩いても十五分くらいだ。先日シジミ取りをしたのは集落を抜けてすぐの処だったが、そこを通り越して暫く行くと、渓流は木立の中に入る。
そして森が近づいた辺りまで来ると、オタカラコウやツリフネソウの花が沢山咲いていた。オタカラコウはフキのような大きな葉っぱで背が高く、一面の緑の中に咲く黄色い花はよく目立つ。ツリフネソウは濃い紅色の花が綺麗だ。野草は時に雑草などと言われるが、水辺に群れて咲くこれらの花は、街では決して見る事ができない幻の花だ。これから秋の終わりまで、様々な野草が季節を咲き継いでゆく。
こういうことはみんな、光一が子供の頃から弥一郎が教えてくれた事だ。歩く毎に耳に入る、サラサラという水の音が涼しい。
家を出る時に、また遼一が驚きの声をあげた。光一は弥一郎から糸と針を貰っただけで、あとはサックに入った鉈を一丁、腰に下げただけだったからだ。竿は持たなかった。
「ねぇ、おにいちゃん。竿は? 竿はいらないの? イワナって、魚のイワナでしょう? 竿が無くても釣れるの? ふふ・・・ 可笑しいね。蝉を捕るのに網はいらないし、魚を釣るのにも竿がいらないなんて、すごく可笑しいよ。でも、ちゃんと釣れるんだね。ふふ・・・」
きっと何か方法があるのだろうとは思うが、今はまだ分らない。今度はどんな手を使うのか想像しながら、遼一は不思議そうに笑っていた。
木立の入り口まで来て川の奥を見ると、ずっと遠くまで細くせせらぎが見えた。手頃な岩がごろごろとあり、両岸には低く草が生え藪を作っている。川が森に入る辺りからは両岸の水草が減るせいか、川幅が広く見える。そして水深が少しずつ深くなっていく。とは言っても、大した深さではない。
ここから先は背の高い木々が川の上を覆っていて、ずっと遠くまで薄暗いトンネルを作っている。でも所々の木立の隙間からは光がこぼれていて、川奥のあちこちが明るく輝いて見える。手前に竹薮があった。光一は一人でその中に入っていくと腰から鉈を引き抜き、手頃な竹を一本切った。細い脇枝を全部払い落とし、丁寧に削っている。その間に鏡子は、川岸にある小さな石を両手で裏に返している。
「あ、いるいる。遼一君、早く早く。空き缶を貸して」
鏡子は遼一に持たせてきた空き缶を受け取ると、石に付いている虫を次々に缶に入れていた。細くて、ちょっと見ると螻蛄に似ているような、気持ちの悪い姿の虫だった。鏡子はそれを素手で掴んでいた。
「はぁー 何? 鏡子さん、それ何ていう虫なの? もしかしてそれが餌になるの? 素手で掴んで大丈夫? 噛まれない?」
釣りが始めての遼一には、見るもの全てが驚きなのだろう。質問が多い。
「これはチョロ虫って言うのよ。チョロチョロとよく動くからかな? ヤゴって知ってる? トンボの幼虫の事よ。これがそう。これが岩魚の大好物なの。よく釣れるよ」
ヤゴと聞いて遼一は、石のすぐ側まで目をそばだててきた。そう言われればそのようだ。図鑑で見たことがある。でも実物を見るのは始めてだし、動いている本物と写真とは随分違って見えるものだと思った。ましてや、それが岩魚の餌になるとは驚きだった。図鑑にはそんな事までは書いてなかった。
光一が切ってきたのは布袋竹という種類の竹だった。細くてよくしなり、元々が釣り竿の材料になる竹だ。ここの竹薮は釣り竿が何千本も生えているようなものだ。ほんの三メートルほどの竿の先に一メートルばかりの短い糸を結び、針をつけた。針の少し上に丸い鉛を挟んで歯で噛み潰す。そして糸の途中に笹の葉を一枚通して仕掛けは完成した。手馴れていた。あれよあれよという間に、臨戦体制は整っていた。
「いいか、遼一。実はもう勝負は始まっているんだ」
出来あがった竿をかざし、光一の講釈が始まる。
「ここから先は、できるだけ音を立てずに静かに歩く事。なるべく身体を低く構えて、自分の影が水に映らないようにする事。声も大声は駄目だぞ。水中では、音は空気中の何倍もの速さで伝わる。岩魚は音にとても敏感なんだ」
鏡子は分っている。毎年夏になると、いつもこうして光一と釣りにきている。餌の調達は鏡子の役目になっていた。ひんやりとする木陰の下をへっぴり腰で歩いて行くと、三十メートルくらい進んだ辺りから、手頃なごろた石がボコボコと川面に顔を出し始める。そしてその始まりに、ひときわ大きな岩があった。そこがこの川に来た時にいつも最初の一投を打ち込むポイントになっていた。そして必ず最初の一匹があがる処だった。
光一は川岸から一メートルくらい離れた木の陰に中腰で屈み、二人を更に後ろに控えさせた。大岩は斜め前方の草叢の向こうに見えている。鏡子が無言で缶を差し出す。光一は身体を捻ってその缶からチョロ虫を一匹摘み出し、針に掛けた。虫の尻尾の先だけをちょっと掛ける。チョン掛けだ。そして遼一を自分の脇に呼び、釣りの技を伝授する。
「いいかい。まずこのままの姿勢でゆっくり前に出る。そしたら、あの岩のすぐ真横に糸を落とすんだ。しかし、決してぽちゃんと水音を立てて落としてはいけない。ゆっくりと、沈めるように落とすんだ。すると水の流れで糸はすぐに下流に流れて行く。そしたら、その流れのままに竿先を下に移動させるんだ。この時も、決して不自然に引っ張ったりしてはいけない。流れるままに任せるんだ。沈める深さは約五十センチ。この笹の葉で見当をつけるんだ。笹を見ていれば糸がどこにあるのかが分る。よし、やってみろ」
遼一は突然やれと言われて驚いていた。大声は出すなと言われているので口をぱくぱくさせ、囁くように躊躇っている。だが、大丈夫という光一の後押しで竿を持ち、そっと前に出た。後ろから、頑張れという鏡子の囁きがきこえる。
遼一は竿を持つ手を精一杯に伸ばし、教わった通りにゆっくりと竿を下ろして行く。針が水に入った。
糸はすぐに水に流される。と同時に、笹を追いかけるように竿先を移動させる。渓流のきらめく水の上では、テグスはその姿を消し、見えなくなってしまう。人に見えない糸は魚にも見えない。今は一枚の笹の葉だけがその在処を示している。
水は上流から流れてくると岩にその流れを阻まれ、両側に別れる。そして勢いよくくるりと岩を巡り、岩の下流で内側に巻き込むような渦を作っている。遼一の放った糸はその渦の中程で止まっていた。
「よし、うまいぞ。そのままだ。そのまま待てばいい。落ち着け。すぐに来るぞ。来たら手首で軽く引くんだ。いいな、軽くだぞ」
遼一の背中越しに光一が見ている。遼一は川岸に跪き、夢中で渦に漂う笹の葉を見ていた。すぐに来るぞなんて言われると、ドキドキしてしまう。
その時、笹の目印がほんの少し下に動いた。
「来た。まだだぞ。まだ待つんだ。手首で軽く引くんだぞ。ひとつ、ふたつ、みっつ」
光一が数え終わると同時に、笹がグンと水中に沈んだ。
「今だ、引け」
遼一は目を見開き、固くなっている。随分緊張しているようだ。両手で竿を握っている。そしてその竿が、やんわりと弓なりにしなっていた。
やったやったと、わーわー騒ぐ遼一の気持ちはよく分かる。光一も弥一郎に連れられて始めての岩魚を釣り上げたときには、今の遼一と同じだった。釣りは、心ときめくものだ。
鏡子がスケールで計ると、三十二センチの尺岩魚だった。この川の標準サイズだ。熊笹を元から千切り取って、魚の鰓に通す。岩魚はこうして持ち運ぶのが便利だ。
ここから一時間ほどかけて遡上すると、両岸を断崖に囲まれた渓谷の川に変わる。その辺りまで行けば四十センチ級の岩魚が標準サイズになるらしいが、そこまで行くには、登山をする時のような重装備と技術がなければ行けないらしい。
その夜の食事には岩魚の塩焼きが一品追加された。弥一郎は骨酒で晩酌を始めている。彼は光一がまだ小さかった頃からこの村での暮らし方を教えてきた。それがこのようにして遼一にも伝わっていく。焼き上がった岩魚の香りが漂う中で、きっとそんな事を思っているのだろう。
「凄いんだよ、じいちゃん。光一にいちゃんたら、あっと言う間に、ポンポンって二匹も釣っちゃうんだからね。それに鏡子さんにも驚いたよ。あの人もうまいんだね。あんなに上手だなんて知らなかったよ。何でもなさそうにして、大きいの釣っちやうんだもの。女でも釣りの上手な人っているんだね。おにいちゃんが教えたんでしょう? それにしても、あんな浅い川にこんなに大きな魚が棲んでいるなんて、この村はやっぱり不思議がいっぱいだよ」
遼一は自分で釣り上げた岩魚をつつきながら嬉しそうだ。台所で久代が焼いている時から、これは自分が釣ったんだと言って騒いでいた。よほど嬉しかったのだろう。あの後鏡子が一尾、光一が二尾釣り上げ、鏡子に二尾持たせてやった。今頃鏡子の家でも岩魚をつついている事だろう。
そして次の日。
遼一がいなくなった。