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「緑の中で」  作者: はせがわゆきのぶ
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一章   玉姫の森

さぁ、出かけようあの日へ。

     きっと、みんなが待っているよ。

「ほら見て、おにいちゃん。あそこにも誰かいるよ。さっきの人かなぁ? ほらね、こっちを見てるでしょう」

「・・・どこ? どこにいるの?」 

 石段を上りきったばかりの二人は、顔を寄せ合い小声で話している。

「あそこだよ。あの鳥居の左にある石灯籠の陰。ほら、顔が半分だけ見えてるでしょう?」  

 天龍玉姫神社。村外れの石段を長々と上ってくると、山の頂上に出る。そこには見上げるような縦長の自然石が、土から生えているかのような姿で、ニョキニョキと幾つも立っていた。岩山の頂上だ。そしてその周囲には(けやき)(なら)の大木が境内を囲むように立っていて、赤い鳥居の両側に、左右対称の様な姿で並んでいるとりわけ太い二本の欅には、これまた特別太い注連縄(しめなわ)が巻かれている。御神木だ。そしてその大木の枝同士が上空で大きく交錯していて、その木陰だけで頂上の半分近くが隠されていた。 

 鳥居を潜った両側には、透かし彫りの立派な石灯籠が立っているが、その足元に這い上がっている苔で下の方は緑色に染まっている。そしてその先には、大岩を直接くり貫いて造られた(ほこら)があり、そのすぐ後ろは、バッサリと(なた)で割ったような断崖になっていた。 

 参道の入り口から頂上までの道のりは、草木のトンネルを潜るように山を巡る石段が続き、結構長い。一心に上り詰めると息が切れる。またその石段の途中にも、小さな石碑が二つ三つと草むらの中に埋もれているのに気が付く。何かの記念碑だろうか。 

 遼一はここまで登って来る途中でも、自分達より先を行く人の姿を見たというのだ。でも光一は誰も見なかった。そして今も又、すぐそこに誰かがいて、こちらを見ていると言う。でも遼一が指差す方を見ても、光一には誰の姿も見えなかった。

「ほんとか? 本当に見えるんだな」 

 念を押しながら遼一の顔を見ると、本当に決まっているじゃないかというような顔で見返している。やはり、そこには誰かがいるのだろう。遼一には見えているのだ。 

 遼一の話にそれほど不信感を抱かず、すぐにそう思ったのには訳がある。それは昔光一が今の遼一と同じくらいの歳の頃に、やはり見えた事があったからだ。今その事を思い出した。でもその時には、後から考えてみるとだんだんと気のせいだったような気もしてきて、そのうちに忘れていた。でもやはり、あの時に自分が見たのは本当だったのかもしれない。遼一の真顔を見て、光一は今改めてそう思った。


 三六〇度、どんなに首を巡らせても緑しかない。小高い山が幾つも重なり合うようにしてあり、七月も末近くともなると、山々はもう手がつけられないほどに草木を茂らせている。そんな深い緑の中に、こじんまりとした集落があった。 

 そもそも集落などというものは、大概は狭い一ヶ所に軒を近づけた形で一つの村を形成している場合が普通だと思うのだが、ここはそんな風にはなっていなかった。希にすぐ近くに隣家がある場所も見えるが、殆どの家はそれぞれ二・三〇メートルから五・六〇メートルほども離れている。それも、上下に随分高低のある形で家々が点在していた。 

 この辺りの地形は、山というよりも小さめの丘のようなものが、ぽこぽこと幾つも重なり合うような形になっている。その中の比較的なだらかな場所を選んで工夫しながら切り開き、村を作ったのだろう。家が建っている場所以外は、緩やかに、或いは急に、上ったり下ったりしながら遠い隣家と繋がっている。それでも何とか車が一台通れる程の道がつづら折りのようにあり、所々にすれ違うための待避場が設けられている。そして今はその道路さえも、上空に覆い被さる大量の枝葉が隠してしまっていた。

 点在する家々のすぐ周りにも、楠や欅、そして柿、栗、杏子などが何本も植えられていて、それらの庭木も一様に見上げるような大木に育っている。そんなところからも、この集落の歴史の古さが感じとれる。 

 しかし、だからといって家々が全て茅葺(かやぶ)き等の古めかしい造りになっている訳ではない。そのような年代物の家も数軒あるにはあるが、殆どの家は近頃の新しい造りになっていた。あまりにも老築化してしまい、建て替えざるを得なかったのだろう。その点、山間(やまあい)の里村は何処も同じようなものだ。

 曲がりながら各戸を繋いでいる道路は、狭いながらもアスファルトの簡易舗装が為されていて、(およ)そ五十戸程に住む村人達が生活していくには、特に不便な事もないようだ。

 道路のすぐ片側には緩い傾斜で山肌が続き、(とち)(なら)、ほうの木などが多く生えている。そして、周りに天高く繁茂している広葉樹の森の奥は、どんなに目を凝らしても何も見えない、真っ暗な緑の闇だ。 

 道幅も不揃いなその道筋は、それでも奇麗に下草が刈られていて、それは山際に並ぶ沢山の立木の裾を巻くように、ずっと奥の方まで続いているように見える。近頃共同の草刈作業が為されたのだろう。今頃の季節は、刈っても刈っても一雨降るごとに雑草が伸びる。静かに、ぼうぼうと繁殖する緑の勢いは、人間等には止められない。 

 この村は母親の故郷であり、光一は子供の頃から、夏休みはこの村で過ごすことにしていた。ここにはどんなに熱い太陽の陽でも、やんわりと受け止めるたっぷりの緑があった。強烈な光の束は、分厚い緑の層を透過しながら細かい粒子に分裂して、キラキラと眩しく顔に降り注ぐ。深い緑が鬱蒼(うっそう)と地上を埋め尽くす、この村の夏の風景が大好きだった。

 高校二年生になった今も、夏になるとつい来たくなる。小学生の時までは両親のどちらかが一緒に来ていたのだが、中学生になった頃からは、一緒の時もあったが一人だけで来ることも多くなった。 

 これ程の奥山にも関わらず、東京浅草の駅から乗り換え無しで真っ直ぐに来られる。時間こそかかるが面倒なことは何も無かった。そして今回はいとこの遼一を連れて来た。遼一は父親の妹の子供だ。去年の夏休みに光一が家族で来たとき遼一も一緒について来て、この村が大層気に入ったらしい。 

 遼一は小学五年生になった。電車の中でも、村が近づくに連れ深い緑の谷に潜り込んでいくような車窓の風景に、目を輝かしていた。そんなところなど光一とよく似ていた。東京を発つ前から、夏休みの自由研究に昆虫採集をするのだと張り切っていた。東京にいたのでは到底できない事だろう。捕った虫を飾るための平べったい箱とか、虫ピンや注射器の入っている昆虫採集セットなども、ぬかりなく準備していたものだ。 

 そして村に到着したその日の晩に、早速獲物が向こうから飛び込んできた。蛍光灯の明かりに誘われたのだろう、夕食の時に立派な角を持ったオスのカブト虫が一匹、網戸にへばりついた。

「おぉー すげぇ、おにいちゃん凄いよぉ、カブト虫が向こうからやって来たよ。やっぱりこの村は思った通りだよ。来て良かった」 

 遼一は網戸にカブト虫の羽音を聞いたとたん、茶碗も箸も放り出して、言いながら走り寄っていた。 

 この家には光一の祖父母が二人だけで住んでいる。村に三軒だけ残っている茅葺き屋根の家のひとつだ。広い居間の真ん中には大きな囲炉裏が切ってあり、床は黒光りのする板張りになっている。柱も(はり)も、まるでお寺の造りのようにとても太く、それらもみんな黒く光っていた。小さな頃からこの家を見慣れている光一は、たっぷりの緑の中に建つこの博物館みたいな家に来るたびに、いかにも田舎に来たという気分になる。 

 部屋と部屋との境には、(ふすま)ではなく板戸がはめられていた。あちこちくすんではいるが、黒漆が塗られたとても重厚な感じのする板戸だった。子供の頃には重くてうまく開けられなかったものだ。太い梁の下に奉られている神棚も立派な造りで、たぶんこの家が建てられたときに一緒に造られたものなのだろう。見るからに精巧な造作が、そこに小さな神社があるように見える。 

 光一は子供の頃、この神棚が怖かった。昼間でも周りが明るければ明るいほど、部屋の隅は闇のような暗がりを作る。昼間でさえ気味が悪いのに、夜になって明かりの消されたこの部屋で寝るときには、あの小さな社の格子の向こうからお化けが覗いているような感じがしてなかなか目が瞑れなかった。夜中にトイレに立つときなどは特に怖くて、とても一人でなんて行かれない。その都度、一緒に寝ている父や母を起こして行ったものだ。

 しかし何もかもが昔のままに残っている訳ではなかった。例えば窓などは、窓枠ごとそっくりアルミサッシに変えられている。流石(さすが)に昔ながらの枝折戸(しおりど)では不便だったのだろう。

 光一はその網戸をそっと開けて、遼一のカブト虫を捕るのを手伝ってやった。身体を(つか)むと、キューッという音を出した。鳴き声なんだろうか。網に足の爪が引っかかってなかなか離れない。敵も必死だ。左手で身体を掴み、右手で足を一本一本丁寧に外す。親指と人差し指と中指に、ぐにゅぐにゅと、虫の胴が動く強い感触が伝わってくる。 

 ようやく捕れたカブト虫を遼一に渡す。取り敢えず虫籠に入れたカブト虫に顔を近づけ、遼一はとても嬉しそうだ。去年の夏にも経験しているとはいえ、日頃はデパートの売場でしか見ることのない大きな獲物を、自然の中から捕らえたことに興奮しているようだ。そんな二人の様子を座卓の向こうで祖父母が楽しそうに見ている。

「ふふふ、都会の子めらにはさぞ珍しがっぺ。この辺りでは今頃の季節になれば、毎晩そうやって、カブト虫やらコガネ虫やらが家さ集まって来んだ。ずっと昔は今みでえに網戸なんか無がったがらな、いっつも家ン中さまで入ってきてなぁ、電気さブンブンブンブンまどわりづいで喧しがったもんだ。光一も、遼一ぐれぇの頃には、よぐ虫捕りやってだっけなぁ」 

 ぐい飲みを片手に持ちながら、祖父が懐かしそうに言う。

「んだない。そういえば、光一は蝉捕り名人だったよない。光一、明日遼一に蝉捕ってやれ」 

 想い出話しに祖母が続く。二人はニコニコしながら光一と遼一を見やっている。

「そうなの? おにいちゃんって蝉捕り名人なの? 今までそんなこと言わなかったじゃない、どうして? それじゃ明日行こうね。僕に捕り方教えてね。あ、網が無いんだった。こっちに来てから買うつもりだったから。おばぁちゃん、この近くに網売ってる店ある?」

「こごの村にはそげな店はねえよ。でえいぢ、光一には網なんぞいらねぇんだ。んだがら名人なんだよ。なぁ、光一」

「えー 蝉を捕るのに網がいらないってどういう事? どうやって捕るのさ? ねぇ、おにいちゃん、どうやって捕るの?」

「へへ、さぁ、どうやって捕るかなぁ。それは明日のお楽しみだな。でもずいぶんやってないからなぁ、うまくいくかどうか分からないぞ」 

 村へ来てから二日目の朝。わざわざ遠くまで行かなくても、蝉など庭先で何匹でも捕れた。この村の朝は、喧しいほどの蝉の声で始まるようなものだった。 

 玄関の少し先に配置されている三つの大岩は、その周りを玉砂利で大きく縁取られ、これも下の方は苔むしている。それ以外の場所は広々と花壇になっていた。地を這うように群れて咲く花や、ひょろりと背の高い花。そして赤や黄色、桃色など、幾種類もの花模様が入り乱れて夏も盛りだ。そしてそれらを取り巻くように、太い庭木が何本も立ち並び、さらに緩やかに下りながら森の先へと続いている。何処までが庭で森なのか、区別はないように見える。 

 家を取り巻く背の高い木々は朝晩は木陰を作って涼しいが、日中は真上からの太陽が暑い。そしてこの村の家の敷地は、どこもそのような形になっているようだ。いかにも、大きな森の中に溶け込むように村がある。 

 蝉捕り名人の技はなかなか鮮やかなものだった。蝉が止まっている木の裏側からそっと近づき、ゆっくりと回り込む。蝉の姿が(かす)るように見えたところで狙いを定め、サッと、一瞬の早業で捕まえる。手づかみの技だった。

 そんなことができるのも、蝉が豊富にいることと、木の高いところばかりではなく、ほんの低い処にも沢山止まっているからだ。太い松の木や桜の木の下から上まで、行列を作って止まっていた。ミンミン蝉やアブラ蝉、ツクツクボウシにニイニイ蝉。たまに逃げられたとしても他の木にいくらでもいるし、暫くして戻ってくると、さっきと同じ木にまた何匹も止まっている。それに光一は百八十センチの長身だ。木の下から上まで、なかなか守備範囲が広い。

「凄いよ、おにいちゃん。流石は蝉捕り名人だね。そんなに手づかみで捕れるなんて神業だよ」 

 遼一も何度も挑戦していたが、手を出すスピードがちょっと遅いらしく、一匹も捕まえられないでいた。(すん)での所で逃げられてしまうのだ。何匹もの蝉の入った虫かごを抱きながら、尊敬の眼差しで光一を見ていた。


 いいな、玉姫神社には決して一人で行っちゃぁなんねぇぞ。

 光一は小学生の頃、この村に来ると必ず祖父にそう言われていた。その辺で一人で遊んでいると、祖父は光一の顔を見かけるたびに、口癖のように同じ事を繰り返していたものだ。 

 その昔、各地で国取り合戦があった。小競り合い大競り合いが続いていた足利幕府の頃というから、それは随分昔の話しだ。この地に篠田源之譲為次(しのだげんのじょうためつぐ)という武将があり、現在玉姫神社のある場所に山城を構えていた。 

 時代は下克上始まりの頃。世情は荒れ、近在の土豪達の間においても争そい事が絶えなかった。当時のこの里は今よりも更に山深くあり、到底ここまでは攻め来る者も無いと思われていたので、為次はもっぱら出戦に明け暮れていた。ところが油断大敵。ある時、城を空にしていた隙に敵軍に急襲された。敵軍と言っても決まった敵などはいない。自分がそうであるように、攻め来る者は全てが敵だ。そんな時代だった。 

 城に残してきた女子供の殆どは殺され、或いは奪われ、焼け落ちた城跡に戻ってきた男達は、そのあまりの無残と空しさに生きる気力を無くしてしまった。それは城主為次の場合も例外ではなく、室の楓と嫡男(ちゃくなん)亀丸、そして長女玉姫の(ことごと)くを失ってしまった。亀丸は斬り殺され、敵の手に落ちることを(いさぎよ)しとしなかった玉姫は、城の裏手にある崖から身を投じた。 

 家臣達の落胆ぶりと我が身の辛さを省みた時、いったい今まで何のために戦ってきたのか、その人生の意義を失ってしまった為次は、以来武士を捨てた。

 防御のみに徹した装備を残し、一族郎党農に生きる決心をした。元々が半農半武士のような山侍達だ、そのように心を決めてしまえば、その後はすこぶる平和な暮らしが続いた。とにかく山深く、目立った産物もなかった事も幸いしたのだろう。それ以後は、殊更干渉しようとする者も現れなかった。 

 嫡男は殺された。そして、落城の最後の時に姫が身を投げた崖の真下には小さな池ができた。以来その池は、深い緑色の水を湛えている。時に亀丸十五歳、玉姫十七歳の暑い夏だったという。 

 そして子供が一人でその崖に近づくと、玉姫の池に引き込まれるという言い伝えが残った。またその事は、村の年寄り達などは皆本気で信じている。祖父が覚えているだけでも、過去に三人の子供が引き込まれているというのだから、あながち迷信ではないのかもしれない。その事実があるために、光一の祖父はいつも真顔で注意するのだ。

「光一、いいな。絶対に一人では玉姫神社に行っちゃなんねぇぞ。分がったな」

「うん、分かった」 

 そのように、しつこいほどに言われれば言われるほど、行きたくなるのが人情だ。分かったと返事はしたものの、光一はその日、そろりそろりと玉姫神社の石段を上っていた。山の中腹辺りにあるこの村の中でも、光一の祖父の家は一番高い場所にあった。家の脇の道を五十メートルほど山の方へ進むと村道は行き止まりになり、その右側の草むらから神社への参道が始まっている。 

 草むらに入るとすぐに石畳の道になり、石の鳥居があった。毎年新年を迎える度に新しい注連縄が飾られ、ここから先は神社の結界となる。 

 山をぐるりと巡るように石段は続いていた。緩い傾斜の山肌には朦々と草が生えていて、その上には沢山の雑木が覆い被さり、完璧な緑のトンネルを作っている。しかし石段周りの下草だけはいつも奇麗に刈り込まれていて、村人達がこの神社を大切にしていることが分かる。歩いていてとても気分がいい。沢山の蝉の声と、遠くに聞こえる小鳥のさえずり。そして歩く毎に、真上から射す太陽の光が、重なり合う分厚い葉っぱの層をすり抜けてきて、ちらちらと顔に当たる感じが気持ちいい。

 自然石の長い石段は、脇の土手から浸みだしてくる水に所々が濡れていた。そして敷石を縁取るように、びっしりと緑色の苔が覆っている。ゆっくりと踏みしめながら昇っていくと、あちこちの石段の下にいくつもの小石が挟められているのに気がつく。長い間に傾いたりずり下がったりした石段を、修正した(あと)のようだ。この山里に暮らす村人達が、先祖代々こうして守ってきたのだと思うと、足を掛けるのにもちょっと慎重な気分になってくる。

 参道は右へ右へと緩やかにカーブしながら上っている。そしてその所々に、自然石に大穴を穿(うが)ったような石が置かれていた。石の大きさはまちまちなのだが、形から見ると灯籠のようだ。注意して眺めると、カーブの山陰に入って見えなくなる寸前に、必ず次ぎの石灯籠が見えてくる。そのように設置されているのだろう。夜になって灯が点ったところを歩いてみたいと思った。 

 頂上が近づいた辺りの岩肌に、小さな屋根が掛けられた場所があった。そしてその下には清水が湧いていた。脇に弁財と彫られた石碑が立っているところを見ると、水神様なのだろう。水舎になっていた。

 手を洗い、口をすすぐ。長々と上ってきて木のトンネルを抜け、最後の石段を踏みしめた時には、フーッと一息つきたくなるものだ。上りきると、幾つもの大石と、不揃いに立つ大木の隙間を透して、正面に玉姫神社の祠が見える。岩の祠の上には、小振りながらも立派な造りの屋根が掛かっていて、その岩戸の前には小銭が小さな山を作ってあった。 

 鳥居を潜り社の前まで進む。ポケットから小銭を取り出し、その銭山の上に乗せた。軒から下がっている鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝。お参りの仕方は家の神棚で何度も教えられている。何故そうやるのかは分からないのだが、教えられた通りに覚えている。 

 そして参拝を終えて振り返り、石畳を戻りはじめたとき、誰かが石段を上がってくる気配を感じた。鳥居を抜けた処で待っていると、最初に艶やかな黒髪が見えた。そのたっぷりの髪は額の真ん中から左右に振り分けられ、後ろで太く束ねられていた。そして美しい白い顔。切れ長の優しい目が、ゆっくりと現れながら光一の顔を見つめている。薄い桃色模様の単衣の着物。赤い鼻緒の草履を履いていた。 

 その奇麗な女の人は光一の目をじっと見つめたままで、すぐ脇を通るときに少しだけ微笑み、こんにちはと声を掛けてくれた。通り過ぎて後ろ姿になったとき、光一は(ようや)く我に還ったように、小さくこんにちはと挨拶を返した。 

 あの時、後ろ姿になるまでずっと目が離せなかった。魔法にでもかかったような感じだった。そして鳥居を潜っていくその人からほんの一瞬目をそらした時、神社の前には誰もいなかった。 

 光一が一人で玉姫神社に上った小学五年生の夏、そんな想い出がある。そして後から思うと、神社にお参りをしたあの時、特に願い事などはしなかったのだが、手を合わせながら胸の中で、こんにちはと唱えたことを思い出した。  

 遼一の蝉も何匹も捕れた事だし、この村に来たからには、先ずは村の守護神に挨拶をしておこうと思い、こうして二人で玉姫神社に上ってきた。今日の祖父は気を付けろと言っただけで、行っちゃいけないとは言わなかった。光一がもう大人になったとみているからだろうか。

「なぁ、遼一。どんな人だ? 男か? 女か? どんな服装をしている?」

「え? おにいちゃん・・・ もしかして見えないの? そんな、うそ? ほら、だってまだこっちを見ているでしょう? すぐそこだよ。判らないの? ピンク色の着物を着ているよ。和服っていうの? 奇麗な女の人だよ」  

 六年前にここで会った人だ。光一は間違いないと思った。

「行こう。お参りをするんだ」 

 光一は先に立って石の鳥居を潜った。並んで歩いている遼一は、灯籠の側を通るときもその方を見ていたから、きっとそこに立っているのだろう。光一には見えない。  

 山盛りのお賽銭の上に、ポケットから出した小銭を重ね、鈴を鳴らす。二拝二拍手一拝。遼一も脇に並んで同じようにしていた。 

 手を合わせたとき胸の中で、お久しぶりですと言った。そしてお参りが終わり振り向くと、その(ひと)はいた。はっきりと見えた。すぐ目の前の石灯籠の脇に立ち、穏やかな笑顔で言った。

「ほんとうに、お久しぶりですね。お元気そうでなによりです」 

 紛れもない。あの時に聞いたあの柔らかな声と涼やかな眼差しだ。すぐに思い出した。細面にくねるような身体つきには、和服が似合っていた。やはりあの日ここで会ったのだ。あれは夢や幻ではなかった。本当のことだったと、今改めて思いを正した。

「何だ、おにいちゃん知ってる人なの? 見えてるじゃない。何なのさ、さっきのは。変なこと言うと思ったんだ」 

 遼一は小さな声で、光一の腰の辺りをこずきながら言っていた。そしてこんにちはと、大きな声で挨拶をした。

「こんにちは。遼一君ね。この村をゆっくり楽しんでいって下さいね」

 とても嬉しそうな笑顔を見せて言っている。そして、こっくり頷くような仕草で、それじゃと言うと、石畳の道を石段の方へ向かって行った。二人は楚々と行くその後ろ姿に見とれながら見送っていた。 

 あれは玉姫だ。光一は確信した。小学生の時に会った玉姫と全く同じ姿に見えた。きっと、亡くなったときの十七歳のままなのだろうと思った。それは今の光一と同い年だった。

 子供の頃の想い出はそればかりではない。今のことが間違いがないと分かれば、その他のことも全て事実だったのに違いないのだ。この村で経験した色々なことを思い出していた。長い間ぼうっとして、霧の彼方にあったように感じていた昔の事は、あれはみんな本当の事だったのに違いない。

「ねぇ、おにいちゃん。誰なの? 凄い美人だねぇ。この村の人?ねぇねぇ、誰? それにどうして僕の名前を知っているのさ? 誰がいつ教えたの? どういうことなの? ねぇ」 

 遼一も二人きりだと結構ませた口を利く。

「あの人がこの村の守り神、玉姫様だよ。この村内の出来事は何でも知っているのさ。今僕達が挨拶をしに来たから、出てきてくれたんだよ。僕は今の遼一と同じ歳の時に、一度会ったことがあるんだ。それでお久しぶりって言ったのさ。玉姫も覚えていてくれたみたいだ」 

 唐突な話しで遼一はきょとんとした顔をしていたが、真顔で言う光一の口振りに、あっさり信じてしまった。このくらいの年頃の子供には、このような話しを純粋に信じる子と、まるで疑う子と二通りいる。今まで育てられてきた環境による差だろう。 

 もっとも、子供の頃にはどんなに純な気持の持ち主だったとしても、大人になるに従い心は次第に曇ってくるものだ。しかしそれは、悪くなっていくという意味ではない。この世の中で生きていくには、純な心だけでは対応できないのかもしれない。境内に入ったばかりの時、遼一には見えた玉姫が光一には見えなかった。もしかしたら自分の心は今、子供と大人の端境期にあるのかもしれないと思うのだった。 

 玉姫神社の後ろに回る。境内の周囲には山肌を下りながら大木が重なり合って生えていて、外界が見えるような隙間は全く無い。だがこの祠のすぐ後ろ側だけは唯一開けていた。そこだけは茂りが切れて、切り立った断崖になっているからだ。

 岩の祠にしっかりと(つか)まり、そこから広がる風景を眺める。その足元は固そうな岩盤でできているとはいえ、あまりの高さに足がすくむ。柵も何も無い。祖父の話だと下まで五十メートル以上もあるというのだが、本当にそんなにあるのかどうかは分からない。土地の人達というのは、こういう類の話はとかく大げさに言うものだ。とは言え、ちょっと割り引いて考えてみても、相当に高いことだけは間違いない。 

 いつだったか、腹這いになって下を覗いたことがあった。しかし高すぎて距離の見当などつかなかったし、目が回った。谷底に向かって逆円錐形に落ち込んでいる遠くの緑の風景と、吸い込まれそうに落ちていく直下の距離感に目の焦点が合わなかった。あまりの恐怖に背筋がぞわぁっとなり、慌ててずりずりと、亀の子がそのままバックするみたいにして元に戻ったものだ。そしてそのとき、断崖の一番底の森の中に、緑色をした池が小さく見えた。 


 左側が天狗山、右側にあるのが烏山だ。その二つの山が(はす)に重なり合おうとしているその裾野に町が見える。直線なら二キロ位だろう。この村から三つの山裾を順々に巡りながら渓谷沿いに行くと、車で二十分ほどの距離だ。途中信号機などはひとつもない。 

 またあの町には、この神社の分社がある。まだこの山が繁栄をしていた昔に、町の人達の願いもあり建立(こんりゅう)されたらしい。光一はまだ一度も行った事は無いのだが、それはとても立派な造りで、見た目にはそちらの方がはるかに本社のように見えると、いつか祖父が言っていた。 

 この祠の裏側は、この村から外界が見える唯一の場所だ。キラリと光る細長い水の反射で、町中に川が流れていることが分る。その川沿いに沢山の家並みが不揃いに固まっていて、山間にささやかな賑わいが見えるようだ。 

 鏡子ちゃんはどうしているだろう。町を見下ろしながらそう思ったとき、遼一が振り向いた。

「おにいちゃん、今鏡子さんのこと思わなかった? 僕も今そう思ったんだよ。鏡子さんはどうしてるかなって。そうでしょう? 去年来たときもそうだったんだけどね、この村にいると不思議なんだ。よくこういうことがあるんだよ。何となく分かっちゃうんだ。だから今年も来たかったんだよ。おにいちゃんもそうなんでしょう? さっきの玉姫様のことだって凄く不思議だし、何でかな?」 

 遼一はちょっと興奮気味に言っている。どうやら感づいてきたようだ。光一も以前からそのことには気づいていた。 

 鏡子というのは、祖父の家からなだらかに四十メートル程下った処にある家の娘だ。庭に出ると、鏡子の家の二階の窓が目の高さに見える。中学三年生なのだが、この村には学校が無いため、日頃は今遙か遠くに見えているあの町に住んでいる。そして夏休みや冬休みのような、長期の休みがあるときにだけ村に帰って来る。この村の子供達の殆どはそうしているみたいだ。普段は年寄りばかりが目立つこの村も、この季節には突然のように若い精気で華やぐ。 

 家が近かったせいで、鏡子とは小学生の時からのつき合いになる。もっとも夏休みだけのつき合いだが、それでも幼馴染みみたいなものだ。鏡子は人なつっこい性格で、いつも明るい。そのはきはきとした気持ちの良さが、光一は好きだった。遼一とは去年からのつき合いになる。


 篠田(しのだ)弥一郎(やいちろう)とその妻、久代(ひさよ)。光一の祖父母の名前だ。弥一郎は篠田源之譲為次から始まるその末裔(まつえい)だという。 

 村を取り囲む山々は昔から続く雑木の山なのだが、そのもうひとつ裏手に霞んで見える山々も、ぐるりと一帯がこの村の所有になっている。それはとても広大な広さだ。そしてそれらの山々にはぞっくりと、杉や檜が植林されていた。その昔には、村中が林業で生計を立てていた華やかな時代もあったのだが、近年は安価な輸入材の勢いに押され、以前のような隆盛はない。若者達はやむを得ず村を離れ、町に居を移した。それでも春夏秋冬事ある毎に、村にやって来ては間伐や枝打ち、また草刈り作業などに精を出している。過疎の村になってから久しい。 

 一家揃って町に出た者もいたが、親達の殆どは村に残った。ならば出たくないというのが本心だ。この村での暮らし自体はそう悪いものではない。村に残っている年寄り達にとっては、ちょっと寂しい思いさえ我慢すれば、誰にも邪魔をされない長閑(のどか)な暮らしができるというものだ。 

 午後。光一と遼一は連れだって川にいた。シジミ取りをしている。この村に来たときには必ずやる遊びのひとつだ。村の中を細い川が流れている。野行川(のゆきがわ)という。それを遡っていくと、間もなく広々とした草原の中に穏やかな流れの小川が現れる。それは幅三メートル程の浅い川なのだが、両岸に繁茂する水草で二メートルくらいの幅にしか見えない。 

 さらさらと流れる清流は、足を入れているだけでも気持ちがいい。川の両岸と水面とはさほどの高低差は無く、すぐ先に見える森の始まりの処まで群生する草々が、風にそよぎ辺りを覆っている。川は緑の草原の中にあった。 

 水の流れに立つ。ゆらゆら揺れる沢山の水セリと透き通る川面。川底の小石や砂粒までがはっきりと見える。この川沿いには立木も少なく、午後の太陽が水の流れに反射して眩しい。鏡で顔を照らされているみたいだ。空の青が滑らかに水を染め、麦わら帽子の二人の姿が、少し歪みながらもくっきりと水に映っている。  

 腕まくりをした両手で光一が大笊(おおざる)をしっかりと抱え、ガサゴソと川底の砂利や砂を丸ごとすくい上げる。水の流れで砂を洗い流すと、笊の中に小石とシジミがまぜこぜになって現れる。それを遼一がひとつひとつ、手に持った小笊に拾い上げている。

「凄いね、おにいちゃん。僕はシジミって海にいるもんだと思ってたよ。こんな小さな川でこんなに簡単に取れるなんて知らなかったよ。それに、取れたてのシジミが青いっていうことも知らなかったよ。みそ汁にして煮ると黒っぽくなるのかな?」 

 遼一は右手の指先で、ジャリジャリと笊の中をかき混ぜながら言っている。

「いや、シジミは海にはいないのさ。普通は海水と川の水とが混じり合うような処に棲んでいるんだ。それが黒い色をしているんだよ。こんな山奥の川にいるのは川シジミと言って、今ではとても貴重なんだよ。昔はどこの川にでもいたらしいけど、近頃はどこの川も汚れてしまって、もう随分前からシジミなど棲めなくなってしまった川が多いんだよ。この貝の青い色は川シジミの特徴なんだ。美味しくて身体にもいいらしいよ。みんなじいちゃんに聞いたんだけどな」

「ふーん、貴重なシジミなんだね。食べるの楽しみだね。それに、さっきからカワニナもいっぱい笊に入ってくるよね。これは蛍の餌になるんだ。知ってるでしょう? 僕図鑑でしか見たことなかったけど、こんなに沢山本物がいるなんて凄いよ。びっくりしちゃうよね。カワニナだって幻の貝なんだよ。やっぱりこの村は凄いよ。貴重品が普通にあるんだもの。驚いちゃうよ」 

 二人は夢中になって川底を浚っていた。光一が屈んで笊を水に沈めていると、その脇に並んで遼一も同じように屈みながら次の収穫を待っている。二人楽しそうに川底を見ていた。 

 その時、その二人の顔と顔の間に、突然別な顔が映った。ゆらりと揺れる長い髪。ぼんやりと、そして透明に透き通る女の顔だった。ドキッとして、二人同時に両脇に飛び退いた。突然すぎて声を出す間も無い。飛び退きながら、身体を(ひね)るようにして振り向いたものだから、水に足を取られ、もうちょっとで転びそうになった。鏡子だった。 

 例えば、後ろから背中を押すとか、わっと大声を出すとかするならば、却って大して驚かないものを、黙って水に映るからとても驚いた。 

 スカートの裾を両手でたくし上げて、二人の後ろに立っていた。驚いている二人を見ながらニッコリと笑っている。したり顔だ。背丈は光一の肩くらいで、背中の中程まである黒髪が綺麗だ。卵形の顔に大きな目が可愛い。立ち姿がちょっと華奢な感じがするが、まだ中学三年生だ。草色のスカートから出ている白い足と真っ白なTシャツが、陽を反射して眩しかった。

「へへー シジミ取りの少年二人、今日は。シジミは捕れたのかな?」 

 首を(かし)げ、にこにことおどけながら言っている。とてもいい笑顔だ。

「このー びっくりしたじゃないか。脅かしやがって。わざとやったな。根性の悪い娘だ」

「なんだぁ、鏡子さんかぁ。びっくりしたよぉ、幽霊かと思ったよ。あぁ驚いた。いつ村に来たの? 僕達は昨日来たんだよ」 

 噂をすれば影がさす。 

 人と人とは沢山の見えない糸で繋がっているのかもしれない。例えば普段何気ない時、ふとした拍子に少し前の時代の、スターの事などが思い浮かんだりすることがある。すると間もなく、その人が時ならぬ話題に登ったり、或いはその人の訃報が流れたりするようなことがたまにある。たまにとは言うものの、そのような事にしては、ただの偶然とは思えない程に結構頻繁にあるものだ。 

 今の事にしても、つい午前中に鏡子の噂をしていたばかりだ。もう夏休みになっているのだから、早晩鏡子が村へ来ることは分かっていたが、いつ来るのかは決まっていなかった。噂をしたのはついさっきの事で、あまりにもピントが合っている。まるで呼び出したみたいだ。

 普段は何の意味も持たない見えない糸でも、何かの折に強く呼び合う瞬間があるのかもしれない。そのときに始めて、糸と糸とが示し合い、意味を持つのだろう。昔からの言い伝えとか諺などには、少なからず意味があるのだと思う。言葉には先人達の魂が宿っているのかもしれない。

「なによー 二人共ご挨拶ねぇ。今さっき光一君の家に行ったら、二人して川に行ったっていうからわざわざ来てやったのよ。か弱い乙女がこんな山の中の、それも川の中にまでジャブジャブ入って会いに来てやったのに、感謝して欲しいもんだわ」

 ツンと顎を上げるようにして言う仕草が可愛い。

「ほー この村ではいつからお転婆を乙女って言うようになったんだい? 全く不思議な村だよな。なぁ、遼一」 

 遼一はシジミがたっぷり入った笊を抱えて笑っている。一年ぶりに鏡子に会えて、突然のように去年の夏と想い出が繋がったようだ。

 去年も暑い夏だった。都会の暮らしから離れたこの緑深い山里での束の間の暮らしは、とても新鮮な想い出になっていた。そしてそれは、光一も同じだった。鏡子も光一も、悪態の応酬を交わしながらも懐かしそうだ。毎年束の間の逢瀬だからこそ、思い出の色も濃くなるのだろう。

 家に戻ると涼しい縁側に座り、互いに一年間の報告話しに花が咲く。午後の太陽はまだ随分高い処にあるが、西側に立つ大きな欅がその陽射しを遮ってくれている。庭を真っ黒に染めている木陰は本当に黒いものだ。その葉っぱの隙間から洩れている白い光りの反射が眩しかった。そして煩いほどの蝉時雨も、朝からずっと聞いていると、あまり気にならなくなってくるから不思議なものだ。


 昔、ずっと昔。テレビもラジオも、勿論電話も車も、文明の利器と言われるものは何も無かった頃の時代。人々は寄り添い、お互いを拠り所として生きていた。そして犬や猫や鳥や、その他の生き物達。それと草花、空、川、山、海、森や林など、そのような身近にあるものだけを頼りとして生きていた。他に方法は無かった。頼る相手が儚ければ儚いほど、それ故に強く求め、その相手が人以外のものであれば尚更のこと、気持ちを通じさせようと努力する。そして、心を研ぎ澄まし念じる。すると自ずと気持ちは通ずるものだ。相手もそうだから。 

 常に気を充実させて森羅万象の中に身を置く。いつもそのようにして生きていると、それは当たり前の事となり、特別な事ではなくなる。そしてついに、山や川とも心が通い、浮かぶ雲や吹く風とでさえ話ができるようになった。正しく気が通じた。そして誰でもが普通に、そのようにして生きていた。 

 以心伝心。目は口ほどにものを言い、想いは通じる。花も、木も、森も、林も、山も川も、勿論人も、それは同じだ。そのような時代が確かにあった。 

 気を入れて仕事をする、気を抜く、気構え、気の持ちよう、気張るなど、今でも言葉だけは残っている。気とは何の事だろう。具体的に説明はできない。しかしその意味などは考える必要もなく、誰でもが普通に実践していた、そういう時代があった。 

 夕食には祖母の久代が蕎麦を打ってくれた。山の畑でとれた蕎麦粉を大きな練り鉢で練る。何度も何度も錬り返し、広い台の上で円く薄く延ばす。それを畳んで、とんとんとんとん細く切る。その切り方がとてもリズミカルで、見ていて面白い。大きな包丁が小刻みに動く後から、次々と細い蕎麦が出来上がる。光一と遼一はすぐ傍で、感心しながら見ていた。光一はもう何度も見ているが、遼一は蕎麦打ちなどテレビ番組でしか見たことがないのだろう、凄い凄いと驚いている。久代も楽しそうだ。 

 夏に囲炉裏を使うことは殆どないので、その脇に大きな飯台が出されている。濃い茶色の木目が艶々と光っていて、あちこちに傷があるが、分厚い一枚板の年代物だ。 

 夕方の六時半。平たい笊に山盛りに盛られた出来立ての蕎麦をみんなで食べる。猪肉と鰹節で作ったツユが美味しい。これは久代の自慢だ。そしてシジミ汁が、これまた堪らなく良い味だ。清流で育った川シジミは砂抜きなどしなくてもすぐに食べられる。

 夏の太陽はついさっき烏山の右裾に隠れたばかりで、今はまだ明るく陽が残っているが、それでも村中を鬱蒼と覆っている樹木が程なく闇を作り始める筈だ。村の夕暮れは早い。

「俺が子供のころにはな、まだこの村には電気が通ってながったんだぞ。おめえ達には信じらんねぇような話だろうがな、ほんとなんだよ。下の町までは電線が引いであったんだが、この山まではまだ来てねがったんだ。夜になっとな、いっつもランプで明がりをとってだんだよ。石油を燃やすランプでな、随分煤が出だもんだ。そんでも、この飯台の上にランプを置いで火をつけっと、ボーッと明るぐなってなぁ、真っ暗なこの部屋にあのランプの灯が燈った時のあの気分は、何とも言えずホッとしたもんだで。勿論こんな蛍光灯の明がりのような訳にはいがねがったがな、ありぁ、有難でぇ明がりだった。んだがら夜になっと、家族みんながランプの周りに、ぞろっと集まってきたもんだ。この飯台の周りに揃ったみんなの顔の辺りだげが、ぼやぁっと見えでな、あの頃はよぐみんなで、いろんな話をしたもんだったっけがなぁ。なぁに、他愛もねぇ話ばっかしなんだがな、たぁだ顔突き合わせででもしょうがねぇがら、自然と話しに花が咲いたんだべな。こうして今がら思えば、あの頃の、あの薄暗れぇランプの明がりが懐がしなぁ」 

 祖父の弥一郎が蕎麦を肴に晩酌を始めた。すると決まって、昔話しが始まる。これはいつもの事なのだが、光一は弥一郎のこういう話しが大好きだった。

「ふーん。でも電気が無いなんて不便だったでしょう? じゃぁ、夜はあんまり遅くまでは起きていなかったの?」 

 遼一も面白そうにして聞いている。

「ああ、今みでぇにテレビもラジオも、何にも無がったがらな、やだらに遅ぐまで起ぎでいだってしょうがねがったよなぁ。やるごどもねぇしな。それにランプを消したら真っ暗闇だし、そのランプも一軒の家には大概ひとっつしかながったしな。もし、もっとあったどしても、油がもったいねぇがらな、何事がない限りは、そうそっちこっちでつけるもんではねぇ。普通は八時頃が、遅くとも九時前には灯を消して床についだもんだよ。昔は朝起ぎるのも、今よりずっと早がったがらな」 

 弥一郎はぐい飲みの酒をちびりと舐めては、懐かしそうな目をして口を開く。今年で七十五歳になるが、まだ矍鑠(かくしゃく)として山仕事もこなす現役だ。

「ふーん、テレビも見られなかったなんて、ちょっと寂しいような気がするなぁ。じゃぁ、夜になったらもう寝るだけだったの? つまんなくなかった?」 

 遼一は蕎麦をすすりながら、その合間合間に訊いている。

「いぃや、そげなごどはねぇぞ。面白いごどもいっぱいあったんだぞ。ふふふ・・・」 

 弥一郎は遼一を見ながら髭面をニヤリとさせ、不気味に笑った。日焼けした顔に浮いた沢山の笑い皺がとても優しそうだ。

「えー どんなこと? ねぇ、おじいちゃん、面白いことってどんなことなの? 真っ暗な夜中に何があるの? ねぇ」 

 蕎麦を持つ箸が途中で止まっている。遼一は髭面の不気味な笑いに引き込まれたようだ。弥一郎の言い方が、いかにも何かありそうな口振りだったからだろう。盛んに先を聞きたがる。光一は小さい頃から何度も聞かされているから分かっているのだが、弥一郎の話は何度聞いても面白いのだ。

「まぁ待で、そう()ぐな。夜は今やっと始まったばっかしだ。ゆっくりど話してやるべ」 

 弥一郎は久代に一日二合と決められた酒を飲み終えると、ズルズルと旨そうに蕎麦をすすった。 

 家の床も壁もよく磨き込まれ、蛍光灯の反射で黒光りしている。向こうの中央に見える網戸も、今や墨を塗ったように真っ黒に染まり、そこはまるで夜への入り口のようだ。 

 遠くに蝉の声が聞こえる。こんなに暗くなっているのにまだ鳴いているのだろうか。いや、もしかしたら耳鳴りか、或いは気のせいなのかもしれない。

「俺が子供の頃にはな、夜は真っ暗だった。何も明がりが無いどいう事は、ほんとに暗いもんだで。真っ暗だど言ったら、ほんとに真っ暗だ。ひとたび夜になれば、身体は丸ごど闇に包まれるんだ。それは足も腕も、首の周りがら顔も、身体中が全部闇の中に入っちまうんだ。んだがらな、飯台のランプの回りにみんなで集まっていでも、父ちゃんも母ちゃんも、その隣にいる二人の妹達や勿論俺も、身体中が全部、煤みでぇに真っ暗な闇に包まれでんだよ。少しでも闇がら外れでいる処と言えば、ランプの薄ぼんやりとした明がりに、ボーッと照らされているほんのちょっとの部分だげだな。そんな中にいるどな、あのちっぽけなランプの明がりがやげに明るぐ見えできてな、すると不思議なもんで、闇が益々濃い色になっていぐんだよ。そんな中で、みんなで飯台囲んで話しをしてるんだ。例えば、俺は昼間川で魚捕りをした話しをする。妹達は近ぐの友達ど遊んだ話なんかをするんだ。そして、話しをしながらチラチラと、父ちゃんの方を見だり、母ちゃんの方を見だりする訳だ。するどな・・・」

 すると、そこにいるのは父母ではなく、見たことも無い人の顔が闇に浮かんでいるのだという。顔だけがぼんやりと浮いている。濃い(もや)がかかったような暗い光の中では、そんなにはっきりと判別できる訳ではないのだが、何となく違うと気づく。ランプの明かりは元々が薄ぼんやりとした淡い炎だし、鼻や頬の凹凸が顔に不自然な影を作る。そこに更に深い闇が流れてきて、その(おぼろ)な輪郭さえも消し去ってしまう。 

 そこにいるのは父親であり母親だと、思い込んでいるだけなのかもしれない。もしかしたら、始めから違うのかもしれない。いつからだろう。宵闇と共に別な何かが入り込んでいたのだろうか。それとも、家が丸ごと闇の中に埋もれているせいだろうか。別人が闇の中で、ニコニコ笑って子供たちの話しを聞いている。父と母はどこに行ったのだろう。淡いセピア色の明かりが、闇に飲み込まれまいとして必死に揺らめいている。 

 でもそれは一瞬のことで、おやっと思いながら、じっと見つめ直すと、やはりそこには、薄い影のように(かす)れた父母の顔が、ぼんやりとして笑っている。少し安心して相変わらず賑やかに話す妹たちの方に目をやると、今度は並んで話している妹達のその間に何かいる。妹達は気づいていないようだ。飯台に行儀よく前足を乗せて、話しの仲間に入っているみたいに見える。犬か・・・ いや、ぼぉっと闇に霞む白い煙のような姿は、キツネのようだ。そして自分の隣にも何か気配を感じるので見てみると、真っ暗な足元に黒いタヌキが(うずくま)っていて、申し訳なさそうな顔でこっちを見ていた。そして、ピカリとその二つの目が光ったかと思うと、今までのおかしな気配はみんな消えた。ランプの周りでは、家族五人が和やかに話しをしているだけだった。 

 闇の中には色々なものが棲んでいる。漂っている。沢山の不思議、数多(あまた)の想い出、悲しみ、喜び、無念や残念が溶け込んでいる。そして村人達は、それらを(まと)めて魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)と呼ぶ。人が闇に近づけば近づく程、魑魅が近づき魍魎が迫る。しかし電灯が灯り村が明るくなってからというもの、それらは遠くへ去って行った。

「ひゃぁ・・・ おじいちゃん、怖いよぉ。おじいちゃんのお父さんやお母さんの顔が別な人の顔に変わっていたなんて、それは幽霊の仕業って事なの? キツネやタヌキって、家の中にまで入ってくるの? 今の話しは、今僕達がいるこの家のこの場所で起こった事なんでしょう? 飯台って、この飯台のことなの? それとも別な飯台があったの? ねぇ、おじいちゃん、それってほんとの話しなの?」 

 遼一は身を乗り出して矢継ぎ早に訊いている。好奇心でいっぱいの目の色だ。箸を持つ手は完全に止まっていた。

「ああ、勿論ほんとの話しだ。正しくこの家のこの場所、この飯台の周りで起ぎだ事だ。そして今お前のいるその辺りが、いづもこの俺が座っていた場所だったんだ。俺が子供の頃にはな、そんな事はしょっちゅうあった事だ。いや、俺家(おらげ)だげではねえぞ。他の家でもそんな事はちょくちょくあったって言ってだぞ。だがらな、夜はちっとも退屈なんてしながったんだ。毎日毎晩が面白がったんだよ」 

 弥一郎はそう言うと、また不気味にニヤリと笑った。遼一は今座っている場所が、弥一郎が子供の頃に座っていた場所だったと聞くと、驚いたように身を引きそわそわし始めたので、みんなで笑ってしまった。光一も側で聞きながら、自分も遼一くらいの頃に、このように弥一郎に脅かされた事を思い出していた。 

 弥一郎の話しは続く。

「なぁに、そんな恐ろしげなもんじゃねえんだよ。家族合い和し。楽しそうに暮らしているどな、魑魅魍魎共がその和みにつられでやって来んだよ。決して悪さなんてしねえし、怖いごとなんか何にもねぇ。みんな友達みでえなもんだ。きっと(うらや)ましいんだべな。この里村はな、五百年もの昔がら、俺らの一族が守ってきたんだ。山も里もみんな変わらずに続いできた。変わったものどいえば、人だな。人は変わった。だがその事は言うまい。仕方の無いごとだ。変わらなげれば生ぎでいげながったんだ。しかし山も川も、そして里も、変わらずに悠々と続いできたがら、今でもまだこの村には、魑魅魍魎が棲んでるんだよ。特に山はしっかりと守ってきたがらな。あいつ等、昔は日本国中どこさでもいだものなんだげどもな、やっぱし棲みにぐぐなったんだべなぁ、今ではこごの山でさえ、滅多に見がげなぐなったがらなぁ。そんでもまだ、いるごどはいる。遼一、こごはとでも楽しい村なんだぞ」 

 そう言うと弥一郎は、顔中を皺だらけにして、また二カッと笑った。   


 霧が流れている。山肌を白く覆って、沢山の立ち木に(まと)わりつきながら、ゆっくりと流れている。寝床に入ったままの閉じた瞼の上からでも、その白い流れが見える。そんな気がして起き出した。 

 滑りの悪くなっている雨戸を静かに開けてみると、やはりそうだった。毎年夏休みにこの村に来ては、いつも十日前後滞在するのだが、その間に二・三度こんな日があるから、もうその気配が分っていた。光一は側で寝ている遼一を起こさないように、そっと着替えて外に出た。 

 ジーンズに黒いTシャツ。そして朝のうちだけは薄手のジャンパーを羽織る。山里の朝は冷えるのが分っているので、いつも持ってきている。昼夜の気温差は凄いものがある。 

 玉姫神社の森から、真っ白な霧が流れ落ちていた。山肌の全面を覆って、乳液のように真っ白な霧だ。地上から一メートル程の厚さだろうか、透明な朝の空気と白い霧の境目は、はっきりと分離して流れていた。その白い物が(うごめ)きながら下ってくる様子は、何か巨大な生き物が地を這って来るようで、そのような目で見ると、背筋がぞくりとする。霧の表面は立ち並ぶ木の幹を巻き込み、ぐるぐると渦巻いている。山の地肌を真っ白に隠し、沢山の木に絡み付きながら下ってくる。そして、山から這い出た白い化け物は、家までも飲み込もうとするかのような勢いで、幅広く迫っていた。次々と下ってきては、家に当たると壁伝いにふわりと立ち上がるのだが、昇れない。ゆっくりと落下する。家を丸ごと飲み込みたいのだろうが、立ち上がる高さが足りなくて(あきら)める。仕方なしに左右に別れ、家の前に現れた。そして庭先で大きな白い渦を作っている。 

 外に出た光一の腰から下は、霧に埋もれてもう薄っすらとしか見えなくなっている。目を凝らしよく見ると、霧の粒子が見える。とても小さな粒々が、濃くなったり薄くなったりしながら流れていくのが見える。この一粒一粒が白い化け物の正体なのか。もしも陽の無い真夜中にこのようなものに飲み込まれてしまったら、もしや命を落とす様なこともあるのかもしれない。これも魑魅だ。 

 庭先にぽこりと盛り上がっている白い(こぶ)は庭石だろう。すっかり飲み込まれてしまい、石の頭すれすれのところが小さく渦巻いている。あれは一番大きな庭石だ。その上にだけ霧の流れがあり、時折薄く見え隠れしていた。そして霧はなだらかに前の林を這い流れ、その先にある鏡子の家の方までも、一帯を覆い尽くしていた。 

 坂道を下る。霧はなお、左側の斜面からも次々と降りていた。それは歩くごとに深くなり、光一の身体を早く飲み込みたがっているようだ。霧は腰に当たり、肩に当たり、渦巻いて首に当たり、そして光一は飲み込まれた。更に歩いていくと右側の森からも、後ろからも、霧は次々と流れてきて白い洪水のようだ。行くごとに濃くなる。真っ白な森の中を歩いていた。ほんの足元と、すぐ身の回りの雑草の緑だけが、しっとりとして薄く見える。 

 もう少し行くと右側に小道があった。T字路になっていて、その角には石仏が立っている。この石仏は光一がまだ小さかった頃に、始めてこの村に来たときからずっと変わる事なくこの辻に立っている。表面を荒く削られた平石が、土手の下に半ば埋もれていて、その上に目を瞑った顔で立っていた。微笑んでいる。右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、左の手の平には宝珠が乗っている。赤い前垂れを掛けた石のお地蔵さんだ。 

 子供の頃には鏡子と二人で、よくこのお地蔵さん相手に遊んだものだ。鏡子は葉っぱの皿を作り、光一はその皿に泥団子を供えた。その団子を無理やりお地蔵さんの口に入れようとして、村の者に怒られた想い出がある。今から思えばお地蔵さんに遊んでもらっていたようなものだ。いつもならそのちょっと先に鏡子の家が見えるのだが、今は白い霧があるばかりだ。 

 石仏に手を合わせ挨拶をする。おはようございますと、しっかりとした声で言った。普段は恥ずかしいような気持ちが先に立ち、口の中でもぐもぐ言うだけなのだが、このような深い霧の中では誰にも聞かれていないような気がして、大声で言っていた。見えないということが、見られていないと思い込ませているのだろう。もっとも霧など出ていなくても、こんな所に人がいる事など滅多に無いのだが。それに他人に聞かれたとしても、何も悪い事はないのは分っている。それでも恥ずかしいような気持ちになってしまう事が、結局は子供の頃の純な気持ちを失いつつある証拠なのかもしれないと思った。 

 暗い闇は人を慎重にさせるが、白い霧は心を開放させるのだろうか。殆ど先が見えないという点ではどちらも同じなのに、霧の中では、見えない為の恐怖心は湧いてこない。また一人きりだと少しは不安が心を(よぎ)るが、それよりも、わくわくするような楽しさも大きいものだ。白い闇は心を自由にする。 

 そして石仏の前を去り、更に道を下ろうとしたその時だった。突然何かがおんぶした。後ろからどさりと背中に重しがかかり、首に手が絡みついた。ドキリとした。本当に驚いた。あまりに突然だったので思わず両膝ががくんと折れ、危うく(ひざまず)きそうになったが、何とか(こら)えた瞬間に鏡子だと判った。こんな事をするヤツは他にはいない。

「おんぶお化けだぞー」 

 くくっと笑いながら言う耳元に、鏡子の髪の匂いがした。

「おおーい、頼むよ。鏡子は会う度にお転婆になってくるみたいだ。普通女の子がこんな事するか? もう、心臓が裏返しになるかと思ったよ」

「ふふ、おはよう光一君。一人で何処行くの? ずるいよ。朝のお散歩なら、私も誘ってくれなくっちゃ駄目だよ」 

 ジーンズに白いスニーカーを履き、黄色のヤッケを羽織っている。鏡子は身軽に、トンと背中から降りると、光一の前に回りこんで話している。

「今さぁ、どこに隠れてたの? お地蔵さんの周りには隠れるところなんて無かった筈だぞ。すばしっこいヤツだな」 

 今は霧で見えないが、石仏の周りはいつも綺麗に草が刈り込まれていて、からりとした芝生のようになっている筈だ。そしてその後ろは緩い駆け上がりの土手になっていて、身を隠すような太い木は更にその上にまで行かなければ無い筈だった。石仏の前を離れてからまだほんの五・六歩しか歩いていない。いくら小回りの利くお転婆娘でも、そんなに素早くは動けないと思った。 

 鏡子はちょっと身を屈めるような格好をして、数歩離れた霧の中から悪戯っぽい目で見ている。細い身体が(かす)れて見える。

「へへー 何処にいたと思う? 実はね、私はあのお地蔵さんなのよ。知らなかったでしょう? ほら、見てみて。お地蔵さん、いないでしょう?」

 振り向くと確かに、さっきまでそこに立っていた石仏は消えていた。

「え? そうなの? そうだったのかぁ。鏡子があの石のお地蔵さんだったなんて、それは知らなかった。道理で重かった筈だ。何てったって石だもんなぁ、重いよなぁ。さっきはもう少しで、足が地べたにめり込むかと思ったよ。いやー 重かったよなぁ。重かった。重かった」

 光一は顔だけは真面目な顔で言っている。本当に重かったような言い方だ。

「嘘だよー そんなに重い筈ないよぉ。普通だよ、ふつうー」

 鏡子は光一の目の前まで迫りながら、目を剥いて言っていた。この子はこんな時の仕草が可愛い。石のお地蔵さんはすぐそこにある筈なのだが、霧が深くて見えないだけだ。きっと先に光一の姿を見つけた鏡子は、霧に紛れて背後に回り込み、足音を消して飛び付く隙を(うかが)っていたのだろう。しっとりと濡れる霧の中では、足音などは簡単に消えるものだ。

「あのお地蔵さんは少し小振りだけど、何と言っても石の身体だからなぁ、どう少なく見積もっても、七・八十キロはあるよなぁ。さっき重かったもんなぁ。あぁ、重い重い。まだ背中が痺れてるよ」

 光一は背中に手を回しさすりながら、わざと大げさな身振りで言っている。

「ちがうよ。そんなに重い筈ないってば。私は普通よりちょっと軽いくらいなんだからね。八十キロ? 冗談じゃないわ。なにゆってんのよ。そんなにある訳ないでしょう。なによ、失礼ねぇ」

 鏡子は益々大きく目を見開いて言っている。女の子は体重の事ってそんなに気になるものなのだろうか。そんな冗談を言い合いながら、並んで霧の道を歩いているのだが、鏡子は話しながらも、光一の右になったり左に来たり、突然ひょいと後ろに回ったり、とても忙しい。

 家からは緩い右カーブで百メートルほど下り、その後は左カーブでゆったりとした上り坂になる。すると村のメインストリートに出るのだ。メインストリートとは言っても、他の村でよく見られるような家並みが整然と続いている訳ではない。道路になるべき処に山裾がはみ出していれば、その間の家並みは大きく離れるし、途中に崖があれば削ればいいのだろうが、その崖が丸ごと大岩で出来ていて削りようが無ければ、ぐにゃりと道を曲げるしかなかったのだろう。

 また変な処にとんでもなく太い欅の大木が立っていたりもするものだから、その川沿いの道は大蛇がぐにゃりと曲がって寝ているような、行儀の悪いメインストリートなのだ。

 そして川はV字形の谷底にあるので、ポツポツとまばらにある家々は、みんな背中に山を背負っていた。家から山道を抜けてくると、その川の一番下流の、村外れの辺りに出る。

 川といっても大したものではない。両岸には随分昔に造られたような感じのする一メートル程の高さの石積みが続き、その底をさらさらと水が流れている。真夏の陽照り続きの時でも大雨が降った後でも、水量にはさほどの変化はない。森が豊かなせいだろう。

 この村には色々な始まりがある。そしてここには、川の始まりである源流があった。この周りの山には同じような流れが何本もあって、それらが寄り集まりながら数キロ流れて行き、下の町を流れる大川となる。

 対岸にもこちらと似たような風景があった。そして欄干も何も無い簡単な丸木橋が、村の上、中、下に三本架かり、その両岸を結んでいる。川幅は、ほんの六・七メートル程だろう。そこに表面を平らに削っただけの丸太を四・五本並べ、針金で縛っただけの橋が架かっていた。とは言っても、今は何も見えない。山肌を下ってきた霧はみんなこの谷に集まり、村をすっぽりと埋めていた。深い霧の谷だった。

 向日向と書いて、ムカイヒナタと読む。この谷の地名だが、集落の名前にもなっている。冬には谷中が日溜りとなって暖かいところから、そんな名前がついたらしい。

「光一君、凄い霧だねぇ。向日向は霧の谷って、昔から言われているんだけど、こんなに濃い霧も珍しいと思うわ。何にも見えやしない」

 一メートルも離れると、鏡子の身体が薄く掠れ始める。鏡子を左側にしてゆっくりと歩く。右側が川だ。ガードレールも何も無い。見えるのはほんの足元だけだ。そして何も無い霧の中に、さらさらと水の流れる音だけが聞こえる。周りは真っ白な世界だ。

 そうだ、思い出した。子供の頃にもこんなシーンがあった。あの時は一人だった。そしてやはりこんな霧の中にいた。場所は・・・ やはりここだ。ここだと思う。中の橋を過ぎて、上の橋へ少し行った辺りだった。そんな気がする。足元だけを凝視しながら歩いている。すぐ左側を歩く鏡子のスニーカーが薄く視野に入っていた。霧を蹴って歩いている。川に落ちないように、ひたすら足元を見て歩く。細かい霧の粒子が見える。濃くなったり薄まったりしながら目の前を流れていく。細かい粒々だ。

 じっと、足元だけを見て歩く。すると、何だろう。目がおかしい。自分の足が同じ処を歩いていて、ちっとも前に進んでいないような気がする。錯覚だろうか。鏡子もすぐ左側を歩いている。それは薄く視野に入っている。でもやはり、自分と一緒に同じ処で足踏みをしているだけのように見えてしまう。いやそれどころか、そのうちにどんどんバックしているようにさえ思えてきた。下がっている。自分も鏡子も間違いなく前に向かって歩いているのに、二人歩調を合わせて、それは確かな足取りなのに、身体はバックしている。何だろう。変だ。

 霧が流れている。目の前を沢山の霧の粒子が飛んでいく。怪しい。まずいと思った。鏡子の左腕を掴んで立ち止まる。

「どうしたの?」

 そう言いながら光一を見る鏡子の目は、トロンとして半眼になっている。そう言えば、さっきからお喋りが止まっていた。その時、右側に誰かいると思った。右側は川だ。霧の川向こうに誰かがいるのだろうか。鏡子の腕を掴んだまま向こう岸を見た。すぐそこなのに見当もつかない。目の前を覆う霧が邪魔をして、焦点が合わないのだ。目に力を入れて見つめると、相変わらず細かい霧の粒々が横に流れている。見えるのは霧の粒子ばかりだ。それでも見ていると、その真っ白なスクリーンに何か映った。

 それは、霧が晴れて向こう側が見えた訳ではなかった。丁度向こう岸にあたるらしい場所に、映ったのだ。相変わらず霧は深い。子供がいる。小学生だろうか。身体の周りは薄く霞んでいるが、よく見える。何だろう。何をあんなに驚いているのだろう。子供は目を大きく見開いてこちらを見ている。どこの子供だろう。たぶんこの近所の子に違いない。

「光一君。こういちくん」

 鏡子が突然叫んだ。もうしっかりとした表情に戻っていた。我に還ったようだ。さっきはどうしたのだろう。光一自身も変だった。きっと催眠術にでも掛けられれば、あんな感じになるのかもしれない。

「鏡子、大丈夫か? 随分眠たそうだったぞ」

 そう言いながら鏡子を見ると、身を乗り出すようにして、自分ではなく、川向こうを見ている。今叫んだのは向こう側にいる子供に向かって叫んだようだ。そしてそのまま、子供の方へ駆け寄ってでも行くかのような勢いなのだ。すぐ目の前は川だ。危ないので鏡子の腕を強く引いた。まだよく目が醒めていないのかもしれない。

 咄嗟(とっさ)にはどういうことか分からなかったが、もう一度子供を見てハッとした。それはなんと、自分だった。子供の頃の自分が、川向こうからこちらを見ているのだ。

「おい・・・」

 光一は驚いて、取りあえず声を掛けてみたが、その後に何と言ったらいいものか迷った。

 自分に向かって「おい君」と言うのも変な気がしたし、あれこれ迷っている内に、ただそれだけになってしまった。そしてまた細かい霧の粒子が目の前を流れ始め、またしても真っ白な世界に戻った。

 自分では自分の姿がよく分からないものだ。でもいつも見ている他人にはすぐに分かるのだろう。それでも改めて言われれば、流石に気がつく。自分なのだから。そんなものだろう。

「光一君、どういうこと? いまのは光一君だよね? 小さいときの光一君だよね? そうだよね? どういうことなの? なんでそこに子供の頃の光一君がいるわけ? ねぇ、どういうことなのよぉ」

 不思議でいっぱいの鏡子の目が、光一に(すが)り付いている。これはあの時の出来事だ。すぐにそう思った。ごちゃ混ぜの記憶の中から、今スッと一枚の想い出が抜き出された。子供の頃の出来事は、沢山の空想と途切れ途切れの想い出が入り交じっていて、最早どれが実際にあったことで、どこからが夢物語だったのか区別が付かなくなっている。この記憶もそのひとつだった。

 ずっと以前の夏休みの時の事だ。今までは、やはりこの事も夢の中でのただの空想だと思っていた。今と同じような霧の朝に、光一は川の向こう側にいた。それは今少年がいたあの場所に違いない。母親に連れられて村に来たときのある朝、霧の村が面白くて一人で散歩に出た。そして今と同じように、この向日向の川沿いの道を歩いていた時のことだ。深い霧の向こう岸から、突然声が掛かった。その時も周りには誰もいないと思って歩いていたから、とても驚いた。やはり霧で何も見えなかったから、誰もいないものだと思い込んでいたのかもしれない。はっとして声のする方を見ると、白い霧の中からひょろりと背の高い少年がこちらを見ていた。とても何か言いたそうな顔だったが、少年は「おい」と声を掛けただけで、後はただこちらを見ているだけだった。それはおいという、短い呼びかけだけだったせいだろうか、はっきりと覚えている。その少年は高校生くらいで、不思議な雰囲気を感じた記憶がある。そう感じたのは、深い霧の中での出来事だったせいだろうと後で思ったのだが、それは今思えば、未来の自分の姿だったからなのだ。

 そのような場面場面は何でもしっかりと記憶しているのに、ただそれが現実の出来事だったのか、或いは沢山ある空想の世界の一場面だったのか判らなくなっていた。そして結局それらの事柄は、全てが夢の中での出来事として、記憶の中に押し込められている。

 しかしあの時の事は夢では無かった事になる。自分が小学生の時、霧の中から声を掛けてきたあの時の少年は、事もあろうに、今日の自分だった事になる。そうなのか。本当にそういうことなのだろうか。今し方、あの時の記憶とぴったりと辻褄が合ったのだから、やはりそうなのだろう。でもそんな事があるのか。本当は、やはり夢か空想ではなかったのか。辻褄が合っていても混乱してしまう。

 しかし折に触れ、何度も思い出す事のある幾つかの想い出の中には、確かに今の出来事も入っていたことは間違い無い。それに、少なくとも今起こった事だけは、それこそ明瞭なる事実だ。証人さえいるのだから。

 まだある。夢の中での出来事はそれこそ夢のようで、いつも支離滅裂なものが多い。あまりにも無茶苦茶で、だからこそ想い出しようもないのだろうが、でもひとつだけ、決まってよく見る夢がある。それは暗い森の中にいる夢だ。でも怖くは無い。むしろその夢を見る度に、とても懐かしいような気持ちになる。しかもその森の風景は、いつか行ったことがあるような風景なのだ。いつもその夢を見る度に、胸に郷愁のような思いが迫る。行った記憶がある場所が夢の中に出てくるとやはり気になるものだが、でもやはり、それは気のせいなのかもしれない。同じ夢を毎回繰り返し見ている内に、以前に行ったような気分になっているだけなのかもしれない。ただその同じ夢が、繰り返し何度も夢に出てくるのが気になっていた。だがその夢の最後には決まって空を飛ぶのだから、所詮夢は夢なのだろうと思った。

 霧が薄れ始めた。天狗山の左の肩から朝日が射し始めたのだ。冬には右の肩から陽が昇る。この山は雑木の山だ。山の稜線を向こう側から射る光の束が、居並ぶ木々を真っ白に透かし、こんなに遠いのに、立ち木の一本一本がはっきりと見えるようだ。完全に山を覆っている筈の大量の木の葉でさえも、あの強烈な光にまともに照らされたら消し飛んでしまう。

 しかしそんな光景を眺めていられるのもほんの数十秒の内だけで、見る間に全容を現してくる太陽の姿は、あっと言う間に、いつもの眩しい火の玉に変わる。大地は確かに動いている。陽が射せば霧はすぐに姿を消す。これほどの大量の霧なのに、雲散霧消の文字通りだ。そして爽やかな朝になった。

 自分の家にいるときにはいつまでもぐずぐずして起きない遼一も、このような処に来ると何故か早起きになるらしい。床を並べて寝ていた筈の光一の姿が無いのに気づくと、自分も着替えて外に出た。まだ朝食には早い。丁度同じ頃台所に立った久代に挨拶をして、光一を探すことにした。

 久代に言われて白いジャンパーに野球帽を被った。あと一時間もすれば、まるで突然のように暑い一日が始まるのだろうが、今はまだ肌寒いくらいだ。庭先には消えそびれた霧がまだ薄く地を這っていたが、空気がとても清々しい。ぐいっと首を上げて天をみると、高い樹木の葉っぱの間から青空が見える。濃い青色だ。今日も暑くなるのだろう。 


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