第2話 ナナシィ
いつもと変わらない昼下がり。
私はモップを手に、部屋を行ったり来たりしていた。
今日は珍しく、ほうきで床の埃を払ったあとに、白いモップで丁寧に床を拭いていた。
木目にそって上下に動かしていると、まるで大きな焦茶色の動物にブラッシングしているみたいだ。
そうして焦茶色の毛並みを撫でるように進むうちに、向かう先にも、もうひとつ白い塊が落ちていた。
よく見るとそれは、床で丸まっているヨムンの尻尾だった。
彼は暖炉の前で呑気にうたた寝をしている。
その穏やかな寝姿に思わず手を止めてしまい、私も一息つくことにした。
「こうやって隣に置くと……なんだかヨムンが増えたみたい」
そう口元を緩めながら呟くと、ヨムンの隣になるようにわざとモップを立てかける。
ふわふわなヨムンに対して、モジャモジャなヨムンの出来上がりだ。
でも働き者のほうが、少し薄汚れている。
私はクスクス笑ってその場を去り、反対側の窓を両手で押し開けた。
「ちょっとだけ空気の入れ替えをさせてね」
振り返ってヨムンに断ると、彼は少しだけ尻尾を持ち上げた。
相変わらず、起きているのか眠っているのか分からない。
私は苦笑しながら窓の向こうに視線を預け、ゆっくり深呼吸した。
外の冷んやりした空気が肺を満たしていく。
こぢんまりしたこの家は、背の高い木々に囲まれた森深い場所にひっそりとあった。
あたりはたいてい霧に包まれており、鈍くて柔らかい光がつねに降り注いでいる。
いつもの光景を何気なく眺めていると、微かに誰かの泣き声が聞こえた。
小さい女の子のような高いその声は、森の奥から聞こえてくる。
私は大急ぎで窓を閉めると、裾の長いケープを手に取り玄関へ急いだ。
いつのまにか起きていたヨムンが、トコトコと駆けつける。
「ナナシィ、行くの?」
「うん。迷子のようだから」
「……しょうがないなぁ、僕もついてってあげるよ」
めんどくさがりのキツネが、ふてぶてしくそう言った。
けれどその声は、どこか優しさをはらんでいる。
「フフッ、ありがとう」
私はヨムンを見つめ返したまま扉を開けると、今も続く泣き声を頼りに、森の中へと入って行った。
立ち込めた霧の中を、私はかき分けるように進んだ。
焦る足取りに合わせて、枯葉がパキパキと不揃いな伴奏をつける。
それでも耳を澄ませ声を辿っていくと、木々のあいまにうずくまって泣いている女の子を見つけた。
「大丈夫?」
声をかけながら近づくと、少女は驚いて顔を上げた。
「…………」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、私をじぃっと穴が空くほど見つめる。
けれど次の瞬間、安心したように表情を緩めると、そのまま顔を歪め、堰を切ったように泣き出した。
「わわっ、そんなに泣かないで。どうしたの?」
慌ててしゃがみ込み、女の子の背中を撫でる。
ヨムンも私の隣に座り込んで、ジッとしていた。
「ヒックヒック……リボンが……ちぎれちゃったの……」
女の子がどうにか顔を上げて、握りしめた右手を差し出す。
そっと手を開くと、小さな手のひらの上には、解かれた紐状の赤いリボンがあった。
片方の端はギザギザで、彼女の言う通りちぎれている。
「そっか。失くして悲しかったんだね」
「……うん。探したけど見つからなくて……」
女の子が頷くと、その反動で目に溜まった涙がポロリと落ちた。
「…………」
可哀想だけれど、ここで失くしたものは、もう戻ってこない。
私は口元を引き結んだまま、森の奥を見渡した。
それから、泣き続ける女の子へと視線を戻す。
「元通りには出来ないけど……〝お直し〟は出来るよ?」
「……おなおし?」
きょとんとする女の子に向けて、ずいっと身を乗り出したヨムンが答える。
「ナナシィは糸仕事が得意なんだ」
「きゃあっ!!」
初めてヨムンがいることに気付いたのか、女の子は立ち上がり、後ずさるように身を引いた。
「ヨムンは悪さしないよ。安心して」
私も立ち上がり、ヨムンの頭を撫でると、彼は目を細めて尻尾をパタパタと振った。
「…………」
少女は怯えを隠せないまま、私とヨムンを交互に見つめていた。
けれど不意に「くしゅんっ」と、くしゃみをする。
「寒いでしょ? 私の家においで」
「…………うん」
差し出した手を、少女が遠慮がちに握り返す。
私はニコリとほほ笑むと、元来た道を戻っていった。
ーーーーーー
「はい、どうぞ。甘めの紅茶だよ」
「わぁ、ありがとう!」
サリーと名乗った女の子は、嬉しそうにカップを両手で抱えた。
こわばっていた表情が、ようやく和らいだ様子を優しく眺めながら、向かいの席に腰をおろす。
隣にはすでにヨムンが座っており、私を待ってから紅茶に口をつけた。
私もカップを手に取り、静かに口へ運ぶ。
こくんと喉を通った温もりが、冷えた体にじんわりと広がっていった。
その余韻に身を委ねていると、サリーの何か言いたげな視線を感じて顔をあげる。
「この紅茶、おいしいね」
「よかった。気に入ってもらえて」
「うんっ。けど……こんな甘い飲み物が好きだったはずなのに、うまく思い出せないの……」
サリーが悲しそうに、手にしたカップへ目を落とした。
そして、テーブルに置かれたリボンに視線を移す。
「……このリボンも、大切なものなのに、それが何でか分からなくて……」
落ち着いたことで、サリーはようやく、失くしたのはリボンだけではないと気付いたようだった。
私はカップをソーサーに戻すと、その手でリボンにそっと触れた。
「……リボンが直ったら、思い出すかもね」
「えっ……?」
サリーがきょとんとする。
私は小さくほほ笑み、静かに息を吸った。
背筋を伸ばし、
真っ直ぐに前を見据える。
持ち上げられた両手が、
ゆるやかな弧を描き、
ひとつの皿を形作るころ。
吐息と共に、音がこぼれ……
それはやがて、祈りの言葉へと変わっていった。
ーー遠い昔から伝わる、私たち一族の祝詩だ。




