第1話 名もなき姫と空白 ——その昔話からはじまる日常
柔らかい月明かりが優しく降り注ぐ夜。
空白が空に音もなく現れた。
それは何も持たず、何も干渉しなかった。
本当に空白なのだ。
眼下には、生い茂る森がどこまでも続いていた。
その中に、ぽっかりと口をあけた大きな窪地がある。
窪地の底には黒い点々が広がり、その縁を形づくる崖の上には、それらを見下ろすように人がひとり、ぽつんと立っていた。
空白は、空気の揺らぎのように、静かに地上へと降りていった。
その気配に呼応して、星々がひそひそと瞬いた。
見えていた後ろ姿は、凛と背筋を伸ばす女性のものだった。
真っ黒なビロードのドレスに身を包み、黒くて薄いベールを被るその様子は、まるで夜の女神のようだ。
空白が影のようにふわりと降り立つと、その女性がゆっくりと振り向いた。
力強い眼差しとは裏腹に、その頬にはいく筋もの涙の跡が。
月に照らされ、キラキラと冷たく光っている。
そんな彼女と目が合った瞬間、空白は痺れるような眩暈を感じた。
今まで会った存在の中で、最も深い闇を抱え、最も黒い瞳だ。
その瞳に取り込まれるのではないかとゾクリとした時、彼女が澄んだ声を発した。
「妾を還しに来たのですね」
彼女は、嫌悪と諦めが滲む笑みを浮かべて続けた。
「もう少し待って下さらない?」
静かに、けれどどこか厳かにそう告げると、窪地へと目を向けた。
そこに蠢く黒いものを、深く静かに見つめながら、ポツリポツリと語り始める。
彼女は淡々と喋った。
自分は誇り高き姫だと。
誰よりも特別な存在で、そう易々と命を終えるべきではない高貴な存在だとーー
自身たっぷりに語った。
まるで何かに、誰かに、言い聞かせるように。
傲慢にも聞こえる姫の物語。
けれど空白には、なぜか美しく響いた。
あるはずのない心が震え、あるはずのない命の煌めきを感じた気さえした。
姫がもう一度、空白を真っ直ぐに見つめた。
「だから妾の——がなくなったその時に、——して下さるかしら?」
姫との秘密の約束。
一方的な契約。
けれど空白は、気が付けばこくりと頷いていた。
彼女の威厳を湛えた振る舞いがそうさせるのか……
はたまた珍しく好奇心が湧いたのか……
名もなき姫と空白は、確かな誓いを交わした。
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窓から柔らかな日の光が差し込む部屋の中。
私はいつもの作業机で、茶色のボタンの穴に針を通していた。
茶色の糸がスッと走り、生成りの布をひと掬いする。
何度か繰り返すと、取れていたボタンが元の居場所に戻ってきた。
「できたっ……!」
小バサミで糸を切って針をマチ山に返すと、思わずブラウスの両肩を持って掲げた。
光を浴びているせいか、どこか誇らしげに見える。
満足のいく出来栄えについ表情を緩めていると、ケトルの蓋がコトコトと踊った。
「は〜い」
お湯が沸けたケトルに駆け寄り、コンロからおろす。
そして茶葉を入れておいたティーポットにお湯を注いだ。
ふわりと舞い上がる蒸気と共に、紅茶の良い香りが広がった。
立ちのぼる香りを少し楽しんでから、木製の小さな砂時計をひっくり返してトレイに並べる。
それを持って、私はリビングのソファへと向かった。
「ヨムン〜! 紅茶が入ったよ〜」
途中で階段の方に向かって声をかけた。
するとカチャカチャと小さな爪の音が響き、白い毛並みがふわりと揺れて降りてくる。
「……お直し終わったの?」
白いキツネがそう言いながら、ソファにひらりと飛び乗った。
前足をそろえてちょこんと座り、ふわふわの尻尾を嬉しそうにパタパタ揺らした。
その様子はキツネではなく、犬のようにしか見えない。
ヨムンは、いつのまにか私の家に居着いていた、不思議な子だった。
どこから来たのか分からないけれど、今ではもう家族みたいな存在になっている。
ただひとつ気になるのは、彼が言うように本当にキツネなのだろうか?
確かにシュッとしているけれど……
犬じゃないのかなって、ずっと疑っている。
私はクスリと笑いながら、トレイをそっとローテーブルに置いた。
丈の長いスカートを少し持ち上げて、待ちわびているヨムンの隣に腰を掛ける。
年季の入った柔らかい革のソファが、ギシっと音を立てた。
「うん。だから紅茶を飲んで休憩しよう」
サラサラと流れていた砂時計の砂が、全て滑り落ちた。
私は手際良く紅茶を注ぐと、ヨムンのカップを彼の前に置いた。
ヨムンは鼻先をゆっくり近付け、スンスンと香りをかぐ。
それから舌先で紅茶に触れると、ペロッと上品に飲み込んだ。
キツネなのに人みたいなその仕草が可愛くて、私は笑みをこぼしながらカップを手に取る。
一口飲んでほっと息をついていると、ヨムンが私の膝の上に潜り込んできた。
「あははっ。ヨムンはそこが好きだね」
「……違うよ。ナナシィが『こっちの方があったかい』って言ったんだよ」
私の膝から、むくれたような声が聞こえた。
紅茶を飲んでまったりする時の、いつものヨムンの定位置だ。
ずっとこうしているから、どちらが先にそうし始めたのか、もう分からない。
私はヨムンのふわふわの毛並みを優しく撫でた。
もう片方の手で、ゆっくりとカップを傾けて紅茶を飲む。
「フフフッ。そうだね。あったかいから……こうしてもらうの好きだよ」
私の心からの言葉は、この家の優しい空気に自然と溶けていった。




