王子の日常
教室に入った途端、ぺテルは背筋がぞわっとするのを感じた。空気が、どこか冷たい。…いや、これは“殺気”だ。
「…やばい」
ぺテルがつぶやいたその瞬間、教壇の前に立っていた一人の少女が、鋭くこちらをにらんだ。
「ペ・テ・ル!」
「うわ…」
学級委員長のエマ。成績トップの優等生であり、規律に厳しい正義感のかたまり。そして今日は明らかに怒っている。
「昨日の黒板消し係、ぺテルの担当だったよね?」
「えーっと…うん。でもちょっと王宮の急用があって…」
「“王宮の急用”で済むと思ってるの? あたし、昨日一人で全部やったんだから!」
「す、すまん…」
ジェラとエゼが小声で笑いながら耳打ちし合う。
「これは叱られるな、殿下」
「さすがエマ。王子でも容赦ねぇな」
「今度忘れたら、先生に言うからね!」
エマはそう言ってプイと前を向いたが、その頬は少しだけ赤くなっていた。怒ってはいるけれど、それだけじゃない。どこか気にかけているような、そんな眼差し。
ぺテルは苦笑しながら、内心で決意する。
(次はちゃんと黒板、消して帰ろう…)
朝のチャイムが鳴り、今日の1時間目――算数の授業が始まった。
「はい、それじゃあ教科書を開いて。それから、今日は角の大きさをはかるよー。分度器を出して。」
先生の声が教室に響くと、生徒たちはカバンから一斉に教科書と分度器を取り出す。
そのとき、ぺテルの隣から、小さな声が聞こえた。
「…しまった…」
「ん?」
ぺテルがそっと隣を見ると、隣の席の女子、サトが教科書の入っていないカバンを見つめて青ざめていた。
「どうしたの?」
「ぺテル…教科書、忘れちゃった。家に…」
「マジか。先生に言う?」
「ううん…怒られたくない…お願い、今日だけ見せて…!」
サトは小さな声でそう言って、ぺテルの袖をちょんちょんと引っ張る。
ぺテルは苦笑しながら教科書を少し右に寄せ、サトに見えるように開いた。
「しょうがねぇな。でも、これで今週2回目だぞ?」
「うぅ…今度お礼するから!」
そのやり取りを見ていた前の席のエマが、軽くため息をついて、でも微笑んだ。
(なんだかんだで、ぺテルって優しいよね)
一方、エゼは教科書を逆さまに開いていて、ジェラに「逆だ」と小声で突っ込まれていた。
2時間目が終わり、チャイムが鳴り響くと同時に、教室は一気に賑やかになった。
「ドッジボール、行こうぜー!!」
エゼが大声で叫ぶと、教室のあちこちから「行く行く!」と元気な声があがる。ぺテルも笑顔で立ち上がり、ジェラと目を合わせてうなずいた。
「お、殿下も出陣ですな?」
「いちいち“殿下”つけるなよ、ジェラ。ふつうにしろって」
男子たちはわいわい言いながら校庭へ向かう。
今日のドッジボールは、4年1組対4年2組のクラス対抗戦。ぺテルたちのクラスは気合十分だった。
試合が始まると、最初はわいわい楽しくボールを投げ合っていたが、徐々に本気モードに。
「そこだッ、ぺテル!!」
2組の生徒が渾身の力で投げたボールがぺテルに迫る。周囲の皆が「やばっ!」と声を上げるが――
ぺテルはボールが来る直前、ほんのわずかに目を細めると、その動きを完全に見切って軽やかにステップで回避した。
(…あぶね。実力を隠して避けるのって、逆に難しいな…)
内心でつぶやきながら、ぺテルは笑顔でボールを拾い上げた。
「次はこっちの番だよ」
そう言って投げたボールは、まるで緩やかなカーブを描いて相手の隙間をすり抜けていく――完璧な手加減の一球。
当たった相手もびっくりしたように笑いながら、「うわーやられたー!」と声を上げた。
その光景を、エマはベンチから見つめていた。
(あれだけ動けて、力もコントロールできるなんて…ぺテルって、やっぱりただ者じゃない)
だがエマは何も言わなかった。ただ、ぺテルの秘密を少しだけ感じ取った気がして、胸の奥にしまい込んだ。