第三話
このエピソードで完結となります。
よろしくお願いいたします!
デビュタントの舞踏会まで、あとひと月足らずに迫ったある日のこと。
いつものように公爵家の別邸で軽快に踊っていると、いきなりユリウスがシンディの腰に手を回した。そのままふわり、と身体が浮き上がり、シンディはユリウスに抱えられたままくるくる、くるくると回った。
すとん、と下ろされ、また流れるように続きのステップを踏む。楽しい! とシンディは満面の笑みを浮かべた。
「今のは何ですか。とっても楽しかったのですが」
「リフトという。女性を抱き上げて踊るのだが、怖くはないか? アナスタシアはリフトを怖がったので、これまであまり誰にもやったことがない」
「怖くなんてありませんよ! とても楽しいです」
「そうか。ならもう少し高くして、回転を速くしても?」
「もっと高くても、速くても大丈夫です!」
そうですねー、とシンディは一歩身を引き、軽く片脚を上げた。
「こんなふうに、一、二で踏み切って飛び上がり、リヴァルグ卿の腰のあたりに乗ればよいかと」
「え?」
「降りるときはどうしましょう。前に飛ぶか、そっと下ろしていただくか。脚を広げておいて、前に飛んだ方が次のステップに繋げやすいと思うのですが!」
「──あ、ああ。そうだな。じゃあ、まずは駆け上がるように踏み切ってくれるか」
「はい!」
シンディはふわりと飛び上がり、両脚を前後に大きく広げたままユリウスに抱かれてくるくる、くるくると回った。
「いいね。これなら片手で抱えられる」
「とっても気持ちがいいです」
床に下ろされたシンディはにっこりと笑った。
「小さい頃から、兄がこうして抱き上げて私をあやしてくれていたのです。もっと速くして! といつも兄に強請って」
懐かしい、とくすくす笑う。
「助走をつけすぎて、勢い余って兄も私も中庭の向こうまですっ飛んでいったこともあります。母が真っ青になっていました」
「すっと……? とんでもない兄妹だな」
「はい。いつも痣だらけでした」
「君の兄上は、騎士団に勤めていると聞くが」
「はい。第四騎士団の副団長を務めております」
「副団長? それはすごい」
ユリウスは軽く肩を竦めた。
「騎士の給金についてはよく知らないが。それほどまでに地位が高ければ、子爵家の助けになっているのでは?」
「はい、もちろん兄は給金を全て父に渡しています。が、到底足りないのです」
シンディは人差し指を立て、ぶんぶん、と振った。
「いいですか。兄エドワードの給金はひと月におよそ千七百ギル。一年で二万ギルほどになるのですが、我が家の負債の返済額は年額一万五千ギル。それも年々膨らんでいます」
「年額一万五千ギル、か」
借金の返済に加えて屋敷の維持費、使用人の給金、家族の生活費など、兄の給金で穴埋めできる額ではない。
「さらには飢饉にあえぐ領民たちのために、公共事業をやらねばならないのです。彼らを雇って、森林伐採や道路整備をし、対価を払ってやる」
「ふむ」
「領地を立て直すには、おおよそ年額四万ギルほどが必要になってきます。莫大なお金です」
四万ギル。ピアソン子爵家にとってはとてつもない金だろう。ユリウスはうーんと腕組みをした。
「良縁を、と望んでも。このような我が家の状況をあけっぴろげに話してしまっては、尻込みされるかもしれない。それほどの窮状なのです」
「……家の状況に詳しいのだな」
「そりゃそうです。兄は騎士で危険な職務に就いていますから、もしものことがあったら、私が婿を取って家を継がねばなりませんので。執務について一通りは教わっています」
好き好んで借金まみれの家に婿入りする貴族など居ない。よほど爵位が欲しいどこぞの金持ち商家の息子なら寄って来ることだろうが。
「実際、我が家への縁談は、兄にも私にもそのような商家からの打診が多いのです。ですが、商家と縁づくことは周辺の領主や縁戚たちに反対されていて」
「……」
ピアソン子爵家は南部に大きな領地を持つ。商家筋がその領地経営に影響力を持てば、当然街道整備や流通に口を出されることになるだろう。
「確かに四万ギルは大きな金だ。だが、だからといって君のような年若い令嬢が、容姿や身体目当ての貴族に食い物にされるのはどうかと思うが」
「え?私の身体目当て?」
なんとありがたいこと。とばかりに両手をぱちん、と合わせるシンディに。ユリウスはぎゅっと眉を寄せた。
「シンディ……」
「身体目当てだろうが若さ目当てだろうが、貴族で、太っ腹で、私でいいと言ってくださるのなら、誰でもいい。大歓迎です。ずっと年上だろうと、後妻だろうと、少々怖い方だろうと、とてもありがたいことです」
「──シンディ。言っただろう? 私のパートナーを務めてくれるのなら、出来る限りの良縁に繋いでやる、と」
ユリウスは渋い顔で首を横に振った。
「身体目当てなど──そんな男には嫁がせない。私の目の黒いうちは」
「まあ、ありがとうございます。では頑張ります」
シンディはふふ、と微笑むとスカートの裾を摘まみ、小さく膝を折った。
「さあ、もう少しリフトの練習をいたしましょう。スムーズにステップに取り入れることができるように」
「リフトが気に入ったようだな。楽しそうで何よりだ」
「はい、リヴァルグ卿のおかげで楽しいですよ」
シンディはまたふふっと笑ったが、その笑顔はどこか寂しそうに見える。
「本当にありがたいことだと思っています。こうして楽しく踊っていられるのも、あとしばらくの間ですもの」
「──そういえば。君は明日、十六歳になるのでは?」
シンディはえっ、とユリウスの顔を見つめた。
「何を驚いている」
「まさか、私の誕生日を覚えていてくださっているとは」
「パートナーの誕生日くらい覚えている」
「私はリヴァルグ卿のお誕生日も、ご年齢さえ存知上げていませんが」
「……私の誕生日などどうでもいい」
「はあ」
──翌日。
シンディの誕生日の朝、ピアソン子爵家にはユリウスからの大きな花束が届いた。一緒に届いたこれまた巨大な木箱の中には、真っ白なデビュタントドレスと共布のシューズががふんわりと詰められていた。
いかにも上質なシルク地に、無数に輝く小さな石がひとつひとつレース編みに絡めて縫いつけられており、スカートは上腿のあたりまできゅっとシンディの身体の線に沿い、そこから床に向かって流れるように広がってゆく。
その美しさにシンディも、母も、メイドたちも、ただただ言葉もなく溜息を漏らすばかりだ。
午後からダンスレッスンに赴いたシンディは、深々とカーテシーをし、ユリウスに礼を言った。
「リヴァルグ卿。お花とドレスを贈っていただきまして、本当にありがとうございました」
「ちゃんと届いたか。よかった」
「はい、ドレスは夢のように美しくて。あのような立派な花束も、生まれて初めて見ました」
「どんなドレスが仕立て上がったのか、私は知らないのだがな。当日まで、パートナーにはドレスアップの姿を見せないのが決まりだから」
「もう、ちょっと、胸がいっぱいになるほど……美しいドレスで。私のような者にあんな……公爵夫人にも、何と御礼を申し上げたらいいか……わからなくて…」
社交界に出ていないシンディは、まだ贈り物が届くことに慣れていないようだ。真っ赤に頬を染め、うまく言葉が紡げずどぎまぎと礼を言う。そんなシンディをユリウスは愉快そうに見つめた。
これがアナスタシアなら、届くのが遅いだの、次は色違いが欲しいだの、言いたい放題我儘を言うだろうに。
「君が社交界に出れば、きっとピアソン子爵家はあっという間に花束やら贈り物やらで埋め尽くされることになると思うぞ? いちいちそのようにはにかんでいたら、きりがないほどに」
「えっ」
「もっと堂々としていなさい。自分にはこれだけのものを贈られる価値があるのだ、と」
「そんな。無理……」
滅相も無い、とぶるぶるっと身体を震わせるシンディに、ユリウスはハハ、と笑った。
「そうだな。君はドレスや花束より、こっちの誕生祝いのほうがいいのだろう」
「え?」
ユリウスはシンディの腰に腕を回して引き寄せ、ふわっと抱き上げてくるくると回りだした。
くるくる、くるくるとリフトしたままステップを踏むリズムに合わせて、楽師たちがワルツを奏で始める。
広いホールじゅうをたっぷり一曲分、リフトされたままで踊ったシンディは、フロアに下ろされながら満面の笑みでぎゅうとユリウスにしがみついた。
「こんなに楽しいお誕生日プレゼントは初めてです! ありがとうございます!」
「喜んでもらえてよかった──さすがに疲れたが」
兄にもここまで回されたことはないなー、などと呟くシンディの背中を抱きしめ返しながら、ユリウスはふっと微笑んだ。
* * *
そして。
デビュタントの舞踏会までいよいよあと十日ほどに迫った、ある日のこと。シンディは伯母のゴルテア侯爵夫人に呼び出された。
「デビュタントの舞踏会で、貴女がボールルームダンスを踊ることは許しません」
伯母から強い調子で言われたシンディは、ショックのあまり言葉が出なかった。
これまで何かとシンディを気遣い、援助してくれていたゴルテア侯爵家。いつも優しい伯母が厳しい顔で告げた言葉に従わない、という選択肢はなかった。
その足でリヴァルグの別邸を訪れ、ユリウスの前に深々と膝を折ったシンディに、ユリウスはぎゅうと眉を寄せ、押し黙った。
「……」
「本当に、申し訳ございません。両親が許してくれているからと、まさか伯母に反対されるなど思いもせず」
「では来週の舞踏会には出ない、と?」
「はい。また来年改めて、伯母がデビュタントの準備を調えてくれるそうです。公爵家に揃えていただいた装束の御代金は、必ずお返しします」
項垂れるシンディの頬から、きらり、と一粒雫が流れ落ちた。泣いていることを悟られたくないのか、俯いたまま、ユリウスの顔を見ようとしない。
「……」
一呼吸置いて、ユリウスはシンディの腕をぐいと取った。そのままエントランスを抜けて馬車に乗り込み、ゴルテア侯爵家に連れて行かれる。
先ほど帰ったばかりのシンディが、またすぐユリウスを伴ってやってきたことに、ゴルテア侯爵夫人は眉を顰めた。二人をサロンに招き入れると、格上のリヴァルグ公爵家に対しているにもかかわらず、強い態度でこう言った。
「リヴァルグ卿。貴方と姪が公の場でダンスをすることは、断じて許しません」
「理由を、聞かせていただきたい」
「ボールルームダンスを踊る、ということで世間からどのような目で見られるかは御存知でしょう? しかも貴方は数多の女性と浮名を流している」
「浮名など。世間が勝手に噂しているだけですよ」
「そうかもしれませんね。つまり、そういうことなのです。そんな貴方と踊るシンディは、閣下と関係を持っていると好き勝手に噂されることになるのです」
「……っ」
「どうしてこのようなことになっているのか、事情は調べました」
伯母はふぅ、と溜息をつく。
「第三王女殿下からの要請を拒むのは難しいことでしょう。私とて、新しい文化の振興にとやかく言うつもりはありません。ですが年端もゆかぬシンディを巻き込むのはおやめください。この子は一族の宝。誰かほかのお相手をお探しになればよろしい」
「……」
一族の宝、とまで言われてシンディは驚いた。伯母は自分のことを心から案じてくれているのだ。
シンディは伯母に同意するようにひとつ頷き、俯く。いくらユリウスの家が大公爵家でも、一族の筆頭であるゴルテア侯爵家の反対を覆すことなどできない。
「──ああもう、わかりましたよ!」
隣に立つユリウスが珍しくいらついたような声を上げるものだから、シンディはびっくりしてがばっと顔を上げた。
「私だって、デビュタントの舞踏会になど出たくないんだ!」
「……え?」
シンディは首を傾げ、ユリウスを凝視する。「舞踏会に出たくない」……と聞こえたような?
「リヴァルグ卿? いま、なんと?」
「シンディ。もういい」
ユリウスはシンディの腰にぐっと手を回した。
「シンディ。愛している」
「へ?」
ぎゅうっと抱きしめられたかと思うとすぐに力が緩み、えっといったい何が、と思った瞬間勢いよく唇を塞がれた。
「……っ」
「ん……。これからすぐに、婚約の手続きを」
「は? な、なに?」
「私の気持ちに気づいていなかったとは言わせない」
気持ち? はて? と呆然とするシンディに、ユリウスはまたぐいっと口づけた。
「んん」
「好きでもない女性をカフェに誘ったり、誕生日に花やドレスを贈ったり、リフトであんなに回ったりするわけない」
「ええぇ、そんな──」
「好きすぎて襲いかかりそうだった。ずっと我慢していた。君が若すぎるから、もう少し待とうと思ったのだ。だが本心は着飾ってデビュタントになど行かせたくない」
「まさか──」
「侯爵夫人の言うとおり、衆目の中でダンスなど踊らず屋敷に連れ帰って閉じこめておきたい」
ユリウスはぎゅうぎゅうとシンディと抱きしめた。
「他の男に、見せたくない──着飾らずともこんなに可愛い君を、男どもの目にさらしたくなどない」
「……だっ」
シンディはユリウスの腕の中でじたばたと暴れた。
「だだだ駄目ですよ!!」
「嫌だ。行かない」
「ちょっと、しっかりしてくださいリヴァルグ卿! ボールルームダンスの普及のために頑張ってきたんでしょ? これまでの努力は!? 皆さんの期待を背負って──」
「そんなこと、どうでもいい。ゴルテア侯爵夫人から反対されたと言えば皆納得してくれるだろう」
「何言ってるんですか、ルカス先生に笑われますよ!? それみたことか、周囲に反対されて、と」
「ルカスが何だ。他の男の名を呼ぶな」
「うぐ」
抵抗むなしく、ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息が詰まった。
「シンディ。私なら、ありのままの君を愛してあげられる。宙返りも、木登りも、もちろんダンスも。好きなだけやるといい。言葉遣いも、そばかすだって隠さなくていい。子爵家への援助ももちろん、四万ギルなどお安い御用だ。後ろめたく思う必要はない」
「り、リヴァル──」
「何もかも私がやってあげる。君の幸せのためなら、何だってやるから」
いっそう強くぎゅうぅ、と抱きしめられて、シンディは仰け反った。
「ぐえっ」
「私と、結婚して。シンディ?」
呆気にとられたように様子を見ていたゴルテア侯爵夫人が、はっと我に返り、割って入ってきた。
「リ、リヴァルグ卿? それは本気で言ってらっしゃるの?」
「本気ですよ。決まっているでしょう」
「この子を。シンディを公爵家に迎え入れると?」
「ええ。きっと家族は大喜びですよ。シンディのことを皆可愛い可愛いと大騒ぎしていますからね」
「……」
「名実ともに、心身全て、私のパートナーはシンディしかありえない」
「……そ、そう。それならば……貴方が他の女性と踊るのも……おかしな話、ですわね」
「ええ。ですがもう私はデビュタントの舞踏会には出なくていいと──」
シンディがぷはっとユリウスの胸元から顔を上げた。
「何言ってるんですか駄目ですってば──!」
* * *
「──うまくいっただろう?」
「えっ」
帰り際。ゴルテア侯爵家の車寄せで、馬車に乗り込むやいなやいたずらっぽく笑うユリウスに、シンディは目をまん丸にした。
「ちょ、ちょっと。リヴァルグ卿。やっぱり──」
「シンディと私が婚約者同士ならば、誰もペアを組むことに反対などしない」
「……びっくりしたぁ」
シンディははぁぁと深い溜息をついた。
ユリウスはアナスタシア嬢にフラれたばかりのはず。自暴自棄になっているのではないかと本気で心配したのだが、どうやらその場しのぎの虚言だったらしい。
「そりゃそうですよね。リヴァルグ卿が私のこと好きだとか、私と結婚とか。ありえないありえない」
ふう。と安心したように座席に身を預ける。
「安心したようだな」
「ほんともう。心臓に悪いですよ」
本来ならシンディに無断で婚約を騙るなど、もっと怒ってしかるべきなのだろうが、反対する伯母に対抗するにはたしかにあの方法しかなかったかもしれない。
しかし──キスまでしたのは、ちょっとやりすぎではないのだろうか。
異性に口づけられることなど初めてだったが、あまりの展開にびっくりしすぎて、恥じらう暇もなかった。いつもこのようにキスしていると伯母から思われていたらどうしよう……シンディは今さら頬に血が上ってくるのを感じた。
ばたばたと掌で自分の顔を扇ぎながら、キャビンのはす向かいに座るユリウスのほうをちらり、と垣間見る。しかしユリウスは涼しい顔で頬杖をつき窓の外を見ている。
まあでも上手くいったのだし、口づけくらい、よしとしよう。美しいドレスや宝飾品も、日々の文字通り血の滲むようなレッスンも、水の泡になるところだったのだから。シンディはふぅと幾度目かの安堵の溜息を漏らし、目を閉じた。
馬車はがらがらと石畳を進んでいった。程なく到着したのは、見たこともない大きなお屋敷だった。
「で。ここはどこ? 王宮ですか?」
「リヴァルグの本邸だ」
「えぇと……どうして御実家に来たのでしょう?」
子爵邸へ送り届けられるとばかり思っていたのに、何故かリヴァルグ公爵家に連れてこられたようだ。もうそろそろ夕刻、伯母の家に行くと言ったきり帰宅しないとか、母に心配されてしまう。
がちゃり、とキャビンの扉が開いて、使用人が顔を覗かせる。
「お帰りなさいませ」
戸惑うシンディの身体を、ユリウスがふわっと抱き上げた。
「え?」
キャビンや玄関のドアを開けるのにどうして五人も六人も必要なのかわからないが、ずらっと並んだ使用人に迎えられて、ユリウスはシンディを抱いたまますたすたとエントランスホールへ入ってゆく。
「母上! 母上!」
頭上のユリウスが発した大きな声にびくっとする。いつも冷えた声でしか話さない物静かなユリウスが、ゴルテアの伯母の前で声を荒げたり、公爵夫人を大声で呼びつけたり。今日はいったいどうなっているのだ。
一呼吸置いて書斎から飛び出してきたユリウスの母──リヴァルグ公爵夫人が、ユリウスの腕に抱かれているシンディを見て瞠目した。シンディはユリウスに横抱きにされたままぺこりと頭を下げた。
「ご、ごきげんよう。公爵夫人」
「まあ、シンディちゃん。いったい何があったというの」
それからユリウスの顔を見て、困ったように美しい眉を顰めた。
「そんなに大きな声を出して──びっくりするじゃないの」
やはり。母たる公爵夫人ですら、ユリウスの大声に驚いている。騒いじゃだめですよ、っていうか下ろしてください、とユリウスを軽く睨みつけるシンディに、ユリウスはくいっと口の端を上げた。
「母上。私はシンディと結婚します」
「え?」
「いますぐ、ピアソン子爵家に婚姻の申し込みを送ってください」
「……」
一呼吸置いて、公爵夫人はカッと刮目した。
「ユリウス!! ついに!!!」
「はい、結婚します!」
「ええぇっ、ちょっと──」
「よく決断したわ、ユリウスっ」
「はい、もう待てません!」
「ええ、急ぎましょう。シンディちゃんを誰かに盗られないようにとにかく急ぎましょう。いますぐ子爵家に書簡をっ」
「はい。ついでに今夜シンディはリヴァルグに泊まると伝言を」
「わかったわ! シンディちゃん、ゆっくりしていってちょうだいね!」
あぁ、大変大変、と呟いて公爵夫人はくるりと踵を返し、書斎らしき部屋へ戻っていった。そのあとを家令らしき人物が追いかけてゆく。
ユリウスに抱かれて石のように固まっていたシンディが、ぎりり、とユリウスのほうへ顔を向けた。
「り、……?」
「ん?」
「リヴァルグ卿。お、御母上まで騙す必要があるのですか?」
「騙す?」
「しかもうちの両親にも書簡って。そんな大事にしたら後が大変じゃないですか!」
「何が大変?」
シンディがユリウスの胸元をぎゅっと掴んだ。
「アナスタシア様にフラれたからって自暴自棄になっちゃだめですよ!? 我が家にとってお金が大事なように、リヴァルグ卿にとっても将来を決める大事なことです」
「はあ?」
ユリウスはぐい、とシンディの顔をのぞきこむ。
「誰がアナスタシアにフラれたって?」
「え、だって──彼女はダグラス男爵と結婚なさる、って」
「アナスタシアのことなど、これっぽっちも、露ほどもそういう目で見たことはないが」
「……あれ?」
おかしいな、と首を傾げるシンディに、ユリウスはこつん、と額同士を軽くぶつけた。
「痛……」
「誤解は解けたな? ではこれで一件落着、あとは来週舞踏会で踊るだけ、だ」
「???」
「もちろんデビュタントは、私がエスコートするからね? 最初から、最後までずうっと」
ユリウスがシンディを抱いたまま、階段に足をかけた。
「言っておくが。ゴルテア侯爵夫人にも嘘など言っていないぞ? 一言たりとも」
「え? え? えと……、そういえば、今日はここに泊まるって。いったいどういう……?」
シンディは階段が行きつく先をじっと見つめた。階上に連れて行かれるらしいが、いったいそこに何が?
「もしや、直前の夜通しダンスレッスンですか?」
「今日はレッスンなどしない。別邸は君を泊めるには侍女が足りないから、ここの客室に」
「いやそうじゃなくて。別邸だろうが本邸だろうが、リヴァルグのお屋敷に私が泊まるとはどういうことで……?」
「私と一緒に眠るということだ。当然だろう」
この状況だからな、とユリウスは階段に片脚をかけ、くい、と口の端を上げた。
「はい?」
「いや違うな。朝まで眠らせないと思う」
まぁ、ある意味夜通しレッスンになるかもな。などと呟くユリウスに、シンディは首を傾げたまま目をしばしばさせた。
「その……朝まで、眠らせない……とは?」
「君は体力があるからね、助かる」
「体力って? 何の? なぜ?」
「だって。貴族で、金持ちで、太っ腹で、君のことをいいと言う男なら誰でもいいのだろう? じゃあ私でいいはずだ」
「へ?」
「愛してる。大切にするよ」
ユリウスはちゅっとシンディの頬にキスをして、すごい早さで二階の客間へと駆け上がった。