第一話
はじめまして、おおまななせと申します。
お立ち寄りくださりありがとうございます!
ふだんはムーンライトノベルズ様で活動しており、なろう様初投稿となります。
設定ふんわり、異世界恋愛スポ根?ストーリーとなっておりますが
お楽しみいただけたら嬉しいです!
十歳の子爵令嬢シンディは、今日も蝶々を追いかけながら、屋敷の中庭を走り回っていた。
薔薇が植わっているわけでも、石膏像が並んでいるわけでも、噴水があるわけでもない、ただ下草が整えられているだけの地味な子爵家の庭だが、シンディにとって格好の遊び場だった。
「シンディ、お前は本当に身体を動かすのが好きなんだなあ」
そう声をかけてきたのは五つ年上の兄だ。すこぶる身体能力が高い兄の血を引いたのか、シンディも幼い頃から木登りやら駆けっこやらとにかく運動が好きで、あまり重みのないドレスならばふわっと側宙をすることだってできる。
何なら装束を脱ぎ捨てて、下着姿で駆け回ってみたい。きっとくるくる宙返りできそうな気がするし、逆立ちしたまま中庭を一周だってできそうだし、大きなオークの樹のてっぺんまで登って、飛び降りることもできる気がする。
そんなことをわくわくと語るシンディに向かって、兄は呆れたように首を横に振った。
「──やめておきなさい。怪我をするに決まっている」
身体能力の高い人間は、総じて無茶をしがちだ。これってできるのでは?と思うと、後先考えずにやってしまうのだ。
調度品の大きな壺を転がして上に乗ってみたり、バルコニーから厩舎の屋根に飛び移ってみたり、階段の手摺に立って滑り降りてみたり。
幼いころからその全てをやってみたあげく、ことごとく怪我をした兄の言うことには説得力がある。
息子の破天荒ぶりに手を焼いた両親は、親族の薦めで彼を騎士団に放り込んだ。そこで兄はめきめきと頭角を現し、十六歳にしてすでに前代未聞、異例の出世頭となっているらしい。
「とはいえ、お前を騎士団に入れるわけにもいかないし──」
この国の騎士団には女性の入団は受け入れられていない。市井で剣を習った女性が、その剣技でもって良家の令嬢の護衛になるような例は稀にあるのだが。
「シンディに剣を習わせるなど、とんでもないこと」
母は駆けまわっている娘の腕をむんずと掴み、ぎゅうと抱きしめた。きゃはは、と笑って母にじゃれつく少女の天真爛漫さに、母も兄も眉尻を下げる。
「この子はこんなに愛らしいのに。そのような危険な目には遭わせられないわ」
「そりゃあ俺だって、シンディには物騒な世界に身を置いてもらいたくありませんけれど」
「ええ、無茶をするに決まっていますからね」
母は兄の顔を見ながら、申し訳なさそうにふぅ、と溜息をついた。
ここピアソン子爵家は、お世辞にも裕福とは言えない。父は懸命に領地経営をしているのだが、昨今の天候不良による農作物の不作で、税収も落ち込むいっぽうだ。
やんちゃだった息子は今、騎士としてがむしゃらに働いてくれている。僅か十六歳にして困窮する子爵家を支えてくれているのだ。
無茶をしがちな嫡子を普段からハラハラと見守っている母は、娘のシンディまで騎士になるなどとんでもない、と思っているようだ。
「この子ももう十歳になるのですから。そろそろ家庭教師をつけて、淑女教育を始めなければ」
兄は母のところに歩み寄り、妹をよいしょと抱き上げた。
「淑女教育、ねぇ」
妹は容姿もよくすらりと美しい。十歳にして、将来はどれほど美しく育つのかと末恐ろしいくらいなのだから、淑女教育をきちんと受ければ良家との縁談も望めるし、幸せになれるのでは、と両親が期待する気持ちはわかるのだが──それは、本当にシンディの幸せに繋がるのだろうか。
「シンディはこのままが可愛いのに」
兄はシンディを抱っこしたまま、くるくると回った。シンディはきゃっきゃと喜び「お兄様、もっと!」とねだる。
母は「あなたが妹を可愛がってくれるのは嬉しいけれど。あやし方が激しすぎるのよ、昔から」と肩を竦めた。
──それから五年。
貧乏子爵家の夫人は、自宅のクロゼットで何やらうーんと悩まし気に眉を寄せていた。
娘のシンディが社交界に出るにあたり、自分や祖母が昔大切に着ていたドレスを、何とか仕立て直して使えないかと思案しているのだ。
デビュタントは通常十六歳なのだが、シンディは今年の参加を見送り、十七歳で舞踏会に出ることになっている。
貴族令嬢の成人式ともいえるデビューには、多くの貴族が一年も二年も前から支度を調えはじめる。舞踏会で纏う白いドレスの他、その後夜会や茶会に列席するための装束やら小物やら──娘の社交界デビューに、それぞれ家の威信をかけて臨むものだ。
だが子爵家は貧しく、娘にドレスを新調してやれる余裕はない。お古の仕立て直しでさえ、一年半計画で支度を調えないと、という窮状なのだ。
「大丈夫ですよ奥様。昔に比べて今はシンプルなドレスが流行っておりますから。装飾を外してお嬢様の身体に合うように直せば、まだまだお召しいただけるはず」
「お姉さまのゴルデア侯爵夫人からも、ドレスや小物を貸して下さるとお申し出があったのですから。デビューまでに何とか数着は間に合うはずです」
「……そうねぇ」
婚約者が決まっている令嬢なら、お相手の家からドレスを贈られるものなのだが。あいにくシンディにはそのようなお相手はいない。
シンディの美しさは社交界に出ずとも少々噂になっている。さらに、ニ十一歳になる兄が若くして騎士団の副団長を務めているものだから、将来有望な騎士の妹と縁づきたい、との申し出もちらほらある。
しかし両親は、デビュー前にシンディの結婚相手を定めることには慎重だった。
シンディは確かに美しく、黙っていれば白いアイリスの花かと思う程なのだが、口を開くと天真爛漫で明るく、身体を動かすことが大好きな、まぁ早い話がお転婆。
容姿の評判だけで寄ってきた殿方との縁談は、シンディの負担になるかもしれない。きちんと社交界に出てシンディの人となりを知ってもらった上で縁づかせたい、と思っているのだ。
そのためにも、デビュタントの支度はそこそこきちんと揃えてやりたい。しかしメイドたちがクロゼットから引っ張り出したドレスはどれも古びていて、お直しには相当手間がかかりそうなものばかり。
子爵夫人はその費用を見積もりつつ、はぁと溜息をついた。
* * *
そんなピアソン子爵家に、ある日壮年の男性ダンス教師がやってきた。シンディの運動神経がすこぶる良いことを知っている伯母が「そろそろ木登りはやめて、ダンスで発散したら?」と派遣してくれたらしい。
伯母の予想どおり、シンディはダンスにのめりこんだ。教師相手にフロアを縦横無尽に駆け、くるくると回って息切れひとつしないシンディに、ダンス教師トマス・ルカスは肩を竦めてこう言った。
「まったく。君はダンスをするために生まれてきたみたいだ」
「そうですか? まだまだ足がもつれることもありますし、練習しなければ!」
「上達する過程を楽しめることは、とてもいいことだよ。シンディ。これから君はもっともっと上手くなる」
優しく微笑む壮年の教師に、シンディは誇らしげに背筋を伸ばした。
思いっきり身体を動かして、しかも褒めてもらえるなど。初めてのことだ。
「速いテンポのワルツはとっても楽しいわ。先生がこの踊りを考案なさったのですか?」
「いいや、違うよ」
ルカスはふるふると首を横に振った。
ルカスによると、以前から一部の貴族の間で、ボールルームダンスという早いテンポの踊りが愛好されてきたという。男女が手を取り合い、男性が女性の背中を支えて、くるくる回りながらステップを踏む。
「デビュタントや夜会で踊るのはゆっくりとしたコート・ダンスのメヌエットだからね。そもそも、貴族の君がこんなに激しく踊る練習をする必要はないんだ」
「いいのです。私はこうやって先生と踊っているのが楽しいので」
デビュタントになど興味も関心もない、というふうにシンディがにっこりと笑った。
コートダンスよりも密着度が高く、動きの激しいこのダンスは踊れる人が限られているうえ、少々目の毒だとされ公式な夜会で踊ることは認められていないらしい。
「ふぅん、目の毒だと思われているのね。ステップを踏むことに集中しているから、男の人と密着していることなんて気にならないですけれど」
「まあ本来ダンスの目的は社交だからね。ステップに集中しすぎて目の前の男性を意識しない、というのは本末転倒なんだ」
シンディはふふ、と笑った。
「社交目的のダンスになんて興味はないわ。私にとってダンスは運動だもの」
「そんなお転婆だと、結婚相手が決まらないよ?」
ルカスはまた肩を竦めた。
「君がどんどんステップを覚えるものだから、調子に乗って難しいことを教えてしまった。あげくダンスをただの運動だ、などと。責任を感じるなあ」
「まあ、先生。お気になさらないで」
シンディはスカートを摘まんで、その場で軽くステップを踏んだ。
「私は楽しくて踊っているの。先生に無理強いされたわけじゃないし、ダンスがなければきっと乗馬に熱中して、今頃は曲乗りを──」
「曲乗り?」
「ええ、以前街の広場で見かけたの! 馬の背中に逆立ちをして、こんなふうに──」
「やめなさい、シンディ」
今にも逆立ちをしかねないシンディに、ルカスはふるふると首を横に振った。
「曲乗りは駄目。ダンスにしておきなさい」
シンディは、はぁい、といたずらっぽく笑った。教師はやれやれと息を吐く。
「──シンディ。一度、ボールルームダンスの集まりに行ってみるか?」
「えっ?」
「私はね、君が大人になるころには、王宮でも速いワルツが踊られるようになるのではないかと思っているんだ」
「王宮で?」
「そう。いまボールルームダンスを愛好している者たちが、その先駆者になればいいと思っている」
激しいダンスを夜会のフロアで踊るためには、踊る相手との信頼関係や、周囲に気を配るマナーが大切だ。着飾った男女が怪我をせず安全に楽しめるよう、まず上手なリーダーを育成することが必要なのでは、とルカスは考えているらしい。
「君のような若くて美しい令嬢が、将来ボールルームダンスの普及に貢献してくれたら嬉しいのだが」
「美しいかどうかはわからないけど。若さと体力に自信はある」
小さく拳を握りしめるシンディに、教師はハハ、と声を上げて笑った。
自分の美しさがわかっていない十五歳の令嬢。その若さも、ダンスの素質も、見目も、集まりに連れてゆけば注目の的になることだろう。
ルカスは久しぶりのふわっとした感情に口の端を上げた。このような高揚感は久しぶりだ。
「じゃあさっそく、来週にでも私と一緒に顔を出してみよう。子爵夫人には許可をとっておく」
「楽しみ!」
* * *
翌週。ルカスに伴われ、シンディはとある侯爵家で催されていたボールルームダンスの集まりとやらに参加した。その名も『踊り明かそう会』。
まだデビュー前のシンディは、普通の夜会や茶会にすら列席したことがない。
お下がりの薄水色のドレスに身を包み、ルカスにエスコートされたシンディは、会場のフロアに咲く色とりどりのドレスの花に「うわあ」と歓声を上げた。
楽隊が軽快な音楽を奏で、それに合わせてドレスがくるくる、くるくると裾を広げ、皆が縦横無尽にフロアを踊っている。
こんな光景は見たことがない。目をきらきらと輝かせたまま、ルカスに手を取られて会場に入ると、あちこちからご婦人方が寄ってきた。
「ルカス卿、今日は可愛らしいパートナーをお連れなのね?」
「ダンスカードには既に貴方の名前を書いてあるから、後で」
どうやら、この壮年のダンス教師は貴婦人たちから大人気のようだ。
「先生は有名人なのですね」
「ダンスを生業にしているのだから、ダンスの集まりで相手にされなければどうしようもない」
さあ踊ろう、と手を差し出され、シンディはフロアに躍り出た。
が、なかなかうまく動けない。人が多すぎて身体が竦んでしまうのだ。もしぶつかって誰かに失礼をはたらいてしまっては? と。
ルカスは上手くリードしてくれるのだが、緊張していることもあって今一つ音楽に乗れない。シンディはがっくりと項垂れ、一曲だけでフロアから退散した。
「初めてにしてはよく踊れているよ?」
ルカスは労わるようにシンディの顔を覗き込んだ。
「いつも踊っている拍と少しだけ音の取り方が違うからね。楽隊の曲に合わせるのも初めてだし、重いドレスやシューズにも慣れていないだろう?」
「はい。いろいろと原因はあると思うけれど、怖がっているのが一番の理由だと思います。人が多すぎて、身体が竦んじゃうの」
「仕方ないね。君はまだほんの子どもだから。経験を積めばこれからどんどん上手くなる」
可愛らしい、と目を細めるルカスに、シンディはふん、と口を尖らせた。
「先生は御婦人方とお約束があるのでしょう? 私はここで待っていますから」
「一人で待てる?」
「ええ、もちろん。その間にフロアをじいっと観察して、次はもっとうまく踊れるように頭の中で自主練しておきますわ」
「自主練」
ルカスはぷっと噴き出した。
「その調子。また後で迎えにくるから、大人しくね」
ルカスはスマートに上着を翻し、先ほど声をかけてきた御婦人方のほうへ颯爽と歩き去った。
着飾った淑女をエスコートし、滑るようにフロアへ踊りだす。シンディと踊っていたときとは別人のような滑らかな動きに思わず見とれてしまう。
「凄い……」
ふんわりと膨らんだスカートを蹴るようにして捌き、お相手をくるくると回している。女性のほうも重いドレスをものともせず、軽やかにフロアを滑ってゆく。
「綺麗だなぁ」
ふぅ、と溜息をつきながら皆のダンスを観察する。フロアが混んでいなければ、このドレスと靴でなければ、もっと軽やかに踊れるのに。
「──失礼」
背後から声をかけられたが、ダンス鑑賞に熱中しているシンディは気づかない。
「ご令嬢?」
そもそも、このような賑やかな会場ですっかり傍観者と化しているシンディは、誰かが自分に声をかけてくるなど思ってもいない。その低い声が耳に入ったとしても自分に向けられたものだとは気づかないのだ。
「君」
とん、と肩を叩かれて、はっと横を見る。視界が濃紺のジャーキンでいっぱいになる。顔を上げると、怪訝そうに眉を顰めた紳士が立っていた。
「はっ」
「見かけない顔だが。どこのご令嬢かな?」
「っ。は、はい。わたくしは──」
初対面の紳士にはどういう挨拶をするんだったかな。淑女教育は一通り受けていても実践不足のシンディは一瞬固まったあと、紳士に向かって膝を折った。
「しっ、シンディ・ピアソンと申します」
「ピアソン……子爵家の?」
「はい」
ぴっちりと撫でつけたプラチナブロンドの短髪。薄いグリーンの瞳。しんと冷えた容貌のその男性は、シンディに向かって掌を差し出した。
「へ?」
「へ、ではない。一曲お相手を」
「え、わたくし、ダンスは──」
「踊らないのか? 何しに来たんだ」
「このような場が初めてなもので、上手く踊れないのです」
「上手下手など気にしなくていい。さっき見ていた」
「え?」
やや強引に手を取られ、混みあうフロアに導かれる。
「音が取りにくいのだろう。三分の一の速さで動くんだ」
「三分の一……遅くする、ということですか」
「そう」
軽快な三拍子を、ゆっくりと動き出す。よく見ると、くるくる回っている皆の中に交ざって、少々お年を召した紳士とご婦人がそのようにスローなテンポで踊っている。
ああなるほど、と思ったシンディは男性に導かれるまま、ぐっと膝に力を入れた。
「……背中に当たっている私の手を、意識して」
「はい」
動きはスローなのだが、あっという間に人ごみをすり抜けて、フロアの端からまた反対側へ、そしてまた向こうへ、と移動してゆく。すぅっと動くときに頬に吹き付ける微かな風が心地よい。
ふと気づくと、このワルツの独特なリズムに乗れている。ちょっとつっかえるようなもどかしい拍に合わせて、男性はシンディをリードしてくるくると回りだした。
くるくる、くるくる、と回って人波に交ざるのだが、周囲よりスピードが速いのか皆を追い越していくような感覚。シンディは気持ちいい、とふわりと微笑んだ。
曲が途切れ、ぱちぱちとまばらな拍手が沸いた。さっきよりは空いているように感じるフロアを、男性に手を取られて元の壁際へと移動した。
「──楽しかった。では」
男性は胸に手を当てて僅かに膝を折ると、また人混みの中に消えていった。
それと入れ替わるように、ルカスがシンディのところに戻ってきた。
「シンディ」
「あ、先生」
「ユリウスと踊っていたね。驚いた」
「ユリウス?」
おそらく先ほどの短髪の男性のことだと思うが、そういえば名乗られなかったな。
「大人しく待っていろと言われたのに、勝手に他の方と踊ったりしてごめんなさい」
「いや、それはいいんだが。彼は──」
そこに、楽隊が賑やかなファンファーレを吹き鳴らした。何事かと思ったら、踊っていた招待客たちが皆フロアから引き上げてゆく。入れ替わるように、五組ほどのカップルがしずしずと出てきた。わあっと割れるような拍手が起こる。
「何が始まるのですか?」
「ああ。コンテストだよ」
「コンテスト?」
「踊りを審査して、順位をつけるんだ。まあ、余興みたいなものだね」
五組のダンサーたちが、ふわりと踊りだす。壁際に立っていたシンディは、ルカスに促され観客の中に交ざった。
「あら?」
見ると、シンディと踊った短髪の男性が、薄紫のドレスを纏った美しい女性と踊っている。ふわり、くるり、と五組のダンサーたちは縦横無尽にフロアを動いているのだが、彼らだけが圧倒的に動きが速い。追い越して、また逆に回って追い越して、滑るように駆けてゆく。
「凄い……人間じゃないみたい」
思わず零れた呟きに、ルカスがふふっと笑った。
「人間じゃなかったら、何だい?」
「そうね……風、みたいです」
コンテストは、短髪の男性のカップルが一位を獲った。なるほど、つまりシンディは先ほど、この場で一番上手い男性と踊ったということか。
夜も更けてきたが、夜会はまだたけなわのようだ。『踊り明かそう会』というだけあって、夜通し踊るのだろう。
年若いシンディはそれほど長居はできない。ルカスにエスコートされて会場から帰ろうとしたが、何だか見られているような気がする。招待客たちが振り返ってこちらを見ては、何やらひそひそと話しているのだ。
「……?」
「シンディ」
気にするな、とルカスがシンディの腰を抱いた。
ルカスが有名人だからだろうか。それとも、このお下がりの古いドレスが場にそぐわないのだろうか。招待客たちの視線にどぎまぎしながら、シンディは馬車に乗り込んだ。
* * *
数日後。週に一度のルカスのダンス授業の日。
広間とは名ばかりの狭い子爵家のホールでいつものようにレッスンを受けていると、メイドがやってきて来客を告げた。
「ユリウス・リヴァルグ閣下がお見えです」
「リヴァルグ?」
全く心当たりのない名前にシンディが首を捻る横で、教師ルカスは「ええっ」と声を上げた。
「先生、お知り合いですか?」
「知り合い、というか──」
メイドに案内されて広間にやってきた男性の顔に、シンディはうん?とまた首を捻った。
会ったことがあるような気もするし、無いような気もする。まだデビュー前なのだから、親族以外の男性と知り合う機会などほとんどない。おそらく初対面だろう、と思ったシンディは、ワンピースの裾をちょっと摘まんでカーテシーをした。
「シンディ・ピアソンと申します」
男性はむっと眉を寄せる。ルカスが慌てて背後から耳打ちした。
「シンディ。初対面じゃないよ。この男性は、先日のダンスの会で君と踊った方だ」
「えっ」
プラチナの短髪。薄いグリーンの瞳。そういえば見覚えが……とシンディは慌てて膝を折った。名乗られなかったので、はっきりと覚えていなかったのだ。
「申し訳ありません、たいへん失礼を──」
「ユリウス。お許しを。この子はまだデビューしていないのです」
「らしいですね」
ユリウスと呼ばれた男性は、また自分では名乗りもせずシンディの前に歩み寄った。
「君はいくつだ?」
「十五歳、です」
ユリウスがきゅっと片眉を上げた。
「……デビューは今年?」
「いいえ、来年デビュタントの予定で準備を進めています」
「来年。十七でデビュタントとなるのか?」
「はい」
「なぜ今年デビューしない」
「それは……準備の都合で」
シンディは軽く肩を竦めた。絵画も調度品も置かれていない狭苦しいホールをちらり、と見遣る。
「見てのとおり、我が子爵家は裕福ではございませんので」
「ふむ。では準備が調いさえすれば、今年のデビュタント舞踏会に出られるということか?」
「ユリウス。いったい何を──」
「今年のデビュタント舞踏会で、この娘と組んで踊りたいのだ」
「え?」
「は?」
シンディとルカスが同時に首を傾げた。
「君は、パートナーはいるのか?婚約者は?」
「いいえ、まだ──」
「それは好都合」
ユリウスによると。
彼は、ルカスと同じくボールルームダンスの普及を夢見ているらしい。
しかし王宮においては、コート・ダンスの伝統を重んじる者たちの反発が大きい。再三働きかけた結果、今年の舞踏会で一曲だけボールルームダンスをゲストとして踊ることを許されたのだという。
「これまでボールルームダンスなど見たこともない、という奴らをあっと驚かせたいのだ」
「それは素晴らしいことだと思いますが。何故、私のような素人に──」
戸惑うシンディの横で、ルカスが片眉を上げた。
「貴方のパートナーのアナスタシアと踊ればいいではありませんか」
ユリウスは軽く首を振った。
「いいや。大人の女性ではなく、デビュタントの年若い令嬢が踊ることに意味がある」
「ふむ。アナスタシアと貴方が、パートナーを解消するという噂が流れていたが。どうやら本当のようですね」
「……」
「それでシンディに目をつけたと? 若く美しく素質に溢れたこの子を、囲い込もうとしているのか?」
「誤解があるようだが。そもそもアナスタシアは平民で、王宮の夜会に立ち入ることはできない。彼女とパートナーを解消しようがしまいが、デビュタントの舞踏会で彼女とは踊れないのだ」
ルカスは腕組みをし、ユリウスをぎゅうと睨みつけた。
「アナスタシアと違い、この子が貴族令嬢だということはわかっていらっしゃるようですね。しかもまだ婚約者も居ない少女です。貴方がおもちゃにしていい相手ではない」
「おもちゃ……?」
シンディが首を傾げる横で、ルカスは語気を強めた。
「先日、貴方と一曲踊っただけでこの子がどれだけ目立っていたか。フロアから人は去り、皆がシンディに不躾な視線を送っていた。自分の影響力を軽く考えない方がよろしいかと」
ユリウスはルカスの剣幕に動じる様子もなく、ふん、と口の端を上げる。
「影響力? 望むところだ」
「……リヴァルグ卿」
「貴殿にも理想があるだろう。あの王宮の荘厳な舞踏会で、フルメンバーの楽隊がワルツを奏で、着飾った紳士淑女がボールルームダンスを踊る。ようやくその第一歩、ゲストで一曲だけとはいえ王宮で踊ることを許されたのだ。最善のパートナーを得たいと思うのは当然のこと」
「最善? シンディが貴方にとって最善のパートナーだと言うのですか?」
「もしルカス殿がこの役目を仰せつかったなら、この子をパートナーにするのだろう?」
「……っ」
「年端もゆかぬこの子をダンスの会に伴って見せびらかし、自分が見つけたのだと自慢気にひけらかしていたくせに。貴殿とて、界隈では有名な指導者。私に影響力云々などと言える立場か?」
「ちょ、ちょっと、お待ちください」
男性二人の険悪な雰囲気に、シンディが割って入った。
「何だかよくわかりませんが。私のことで言い争ってらっしゃいます?」
「……」
シンディはユリウスの顔をじっと見上げた。
「あの。リヴァルグ卿、っとおっしゃいましたか?」
「ああ」
「今年のデビュタントの舞踏会まであと半年しかありませんが。貴方様と私が舞踏会のゲストとしてあの速いワルツを踊る、ということですか?」
「ああ。とびきり速く、たくさん回るワルツを、だ」
「ですが。半年では到底準備が間に合わないと思うのですが」
「私が責任をもってレッスンをする。纏う装束についてももちろん私が用意しよう。デビュタントに相応しい純白のドレスも、靴も、何もかも」
「──本当に?」
「必ず間に合わせる」
「ダンスのレッスン代も? 無料ですか?」
「もちろん」
「シンディ、止めなさい」
ルカスがシンディの腕をぐい、と引いた。
「君はこの男のダンスへの執着を甘く見ている。半年やそこらで彼の満足のいく踊りをしようと思ったら、それこそ血の滲むような努力をしなければ──」
「先生。我が家は今、ほんっとうに苦しいのです。本当ならダンスを習うことなどとても無理なのに、伯母のゴルテア家が費用を出してくださっている──それはよくご存じでしょう?」
「……」
シンディはルカスに腕を掴まれたまま、またユリウスに向き直った。
「私がダンスのパートナーを務めるのと引きかえに支度を整えてもらえるのなら、それは自分で稼いだお金、ということになりますよね?」
「ああ。まあそうとも言えるが」
「昨年の厳冬も、今夏の水不足も深刻で。父はせめて領民を飢えさせぬようにと日々奔走しています。兄は騎士団の給金を全て領地の再興に費やしていますが、まだまだ足りません」
シンディはまた一歩、ユリウスに詰め寄った。ルカスに掴まれていた腕がするり、と解放される。
「私のデビューに余計なお金を費やしている場合ではないのですが、社交界に出て良縁を得るためには仕方ありません。リヴァルグ卿? 舞踏会で貴方と踊れば、私は目立つことができるのですよね?」
「ああ。それはもちろん、とびきり目立つだろう。王宮の大広間でこの私と二人きりで踊るのだから」
「うまくやれば良縁に繋がると?」
「繋げてあげられるよう、尽力しよう」
「ならば、私はどんな厳しい訓練でもやります!」
シンディが食い気味に答えた。
「私がダンスが好きなのです。ダンスを踊ることでデビュタントの費用が浮いたうえ、我が家を援助してくださる家と縁づくことができるなんて、願ってもないことです!」
「……なるほど」
ユリウスがふん、と口の端を上げ、シンディに向かってゆっくりと手を差し出した。
「こちらとしても悪くない条件だ。これまでもアナスタシアが踊るための装束は全て私が用意してきたのだから、君のデビュタントの支度を整えることなど造作もない」
差し出された大きな手を、シンディがぎゅっと両手で握った。
ルカスはもう何も言わなかった。
こんな感じで最後までふわっとお話が続きます。
三話完結となりますので、よろしければ続きもお読みいただけたら嬉しいです!