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冬/千の山、飛ぶ鳥も絶え

 紙と筆が欲しい、と乞う掠れ声に、往時の威厳はない。書画骨董に銘木奇石、巷間のあらゆる美を東京開封府(あのまち)に集め楽しんだ「風流天子」の面影は、肉の落ちた頬にも骨の浮いた手指にも、見出すことができない。

 陛下がこの城に幽閉されて、既に五年。従者として惨禍を生きながらえ、今もお仕えできているのは幸いなのだろうか。衰えていく陛下を、ただ見守るしかできないのは不幸せなのだろうか。


「墨と硯はいかがしますか」

「……頼む」


 獣皮の毛布にくるまり、(カン)の上で震えながら、かつての太上皇陛下は小さく頷いた。

 ここの炕は、人ひとりが寝られるほどの大きさの台に、下から火を通している。床を伝った熱が部屋全体までも暖め、決して寒くはない。が、陛下は身体を丸め、震える両腕で自らの身を抱いておられる。

 お風邪だろうか。もっと質の悪い病だろうか。

 いずれであれ、この北の辺境で、薬も医師も今は得られない。春や夏なら使いを出せただろうが、いま平原は雪に閉ざされ、川は凍って舟も出せない。

 陛下は既に五十四歳。お身体は既に、五度目の冬を越せないほど衰えておられるのかもしれない。


「質の良い物は無理でしょうが、できるかぎりは」

「致し方ない……すまぬな」


 力ない言葉と共に、陛下は私を見た。瞳は焦点が定まらず、頬はわずかに紅潮している。

 そのお顔は、何かを悟っておられるように見えた。




 ◇




 東京開封府(とうけいかいほうふ)が陥落してから、もう九年が経つ。

 百万の民が暮らした栄華の都を、北方の軍は蹂躙した。太上皇陛下と皇帝陛下、皇族や妻妾……多くの人々が囚われ連れ去られた。私も捕らえられ、行を共にした。

 幼い皇子様や皇女様が、道中で幾人も命を落とした。

 皇后様や貴妃様が妓楼に入れられ、客の相手をする身へ落とされた。

 太上皇陛下と皇帝陛下は庶人とされ、征服者の(びょう)を拝まされた。今は、この北方の辺境で長く幽閉の身となっている。

 なぜ、そのようなことになったのか。

 陛下の悪政のゆえだ――と多くの者は言うだろう。書画骨董に耽溺し、贅の限りを尽くして国庫を空にし、民を苦しめ重税を課し、それゆえ北方の侵攻に耐えられなかったのだ、と。

 ああ、すべて本当のことだ。私は陛下を敬愛している、だが私でさえ、かつての陛下の行状を擁護する言葉は持っていない。亡国の責の一端は、間違いなく陛下にあった。




 ◇




 見張の兵や監督官に頼み込み、使い古した筆、墨、硯をどうにか借り受けた。紙は書き損じの反古しか手に入らなかった。裏を使っていただくしかなさそうだ。文房四宝の粋を求める文人たちには、眉を顰められるか笑われるかだろう。

 私は手に入れた文具を手に、太上皇陛下のところへ戻った。

 底冷えの廊下から部屋に入ると、炕の熱が心地よく身を包む。陛下は相変わらず身体を丸め、獣皮の毛布を頭から被っておられた。


「お持ちしました」


 白髪交じりの頭が毛布から出てきた。少しばかり光が戻った瞳が、手持ちの諸々を捉えて露骨に落胆する。


「申し訳ございません、外との往来も途絶えておりますので」


 震えながら、陛下は身を起こされた。綿無地の寝間着が汗で濡れている。


「墨を……磨ってはくれんか」

「喜んで」


 水差しから少しばかり水を取り、硯に注ぐ。使い古された墨は、磨るたびにわずかな引っかかりがあった。陛下は炕の端に腰掛け、私の手をじっと見つめている。


「できました」


 私が言うと同時に、陛下は立ち上がり……閉ざしてあった小窓を開け放った。

 窓の外は一面の白。強烈な寒風が、部屋になだれこんでくる。


「おやめください、お身体に障ります!」


 叫ぶと、陛下はすぐに窓を閉めた。

 ささくれた筆を手に取り、反古の裏側を机に広げる。

 そして、筆の先に墨を付け――紙の上を、勢いよく走らせ始めた。

 筆先には一瞬の迷いもない。さきほどまで毛布で震えていたのと、同じ御方とは思えぬほどに。

 書き損じの文が透けて見える紙に、幾筋もの線が書き込まれていく。それが稜線であると気付くまでに、さして時間はかからなかった。

 たちまち、紙の上に一幅の情景が描き出された。白い平原、白い山々――窓から見えたそのままの景色が写し取られている。

 陛下は筆を止めた。掠れた声が、聞こえてくる。


「我が一族がどうなったかは、知っている」


 咳で、言葉が途切れる。


「我が妻妾たちがどうなったかも、知っている」


 手が、ふたたび震えはじめた。背をさすって差し上げると、咳は少し落ち着いた。


「我が都がどうなったかも知っている。我が国がどうなったかも……知っている」


 声に、なぜか乾いた笑いが混じる。


「だのになぜ、絵筆が恋しいのだろうな。書画に現を抜かし、国を滅ぼし……それでもなお、描きたくてたまらぬのだろうな」


 言いつつ陛下は、絵の左上――大きく広がる空白、否、冬空の中に、一羽の鳥を描き加えた。

 ごく小さな影だった。しかし翼の輪郭は力強く、見る者が見れば種類さえ判りそうだ。

 静謐な山々に鳥の動きが加わり、一幅の絵が完成した。墨の線だけで描かれた、簡素ながらも繊細な筆致だった。


「ああ、やはりいかんな。筆先が思うように走らん。開封府の画筆さえあれば……」


 不意に、陛下の身体が大きく震えた。


「筆さえ……あれば」


 使い古しの筆を置き、陛下は顔を覆って床に崩れ落ちた。

 開封府。今は遠い、私たちの都。

 なぜ失われたのか。誰のせいで失われたのか。それを最もよく知るのは……誰なのか。

 私はふたたび、紙の上に目を落とした。吹き抜ける寒風さえ感じさせるような、鳥の羽ばたきすら見えてきそうな、墨一色の絵。

 反古の上でなければ、使い古しの筆でなければ、どれほどのものが出来上がったのだろう。


(天よ)


 私は、心の中だけで叫んだ。


(なぜ、この御方を天子の家になど生んだのですか。なぜ、皇帝の座になど就けたのですか――)


 陛下は床にうずくまり、短い嗚咽を漏らしている。私はその背を、たださすって差し上げることしかできなかった。




 ◇




 三日後、陛下は息を引き取られた。

 御遺体は北方の流儀に従い、火葬されることとなった。運び出される陛下に付き添い、私は城を出た。

 陛下が描いたままの山々が、見渡すかぎりの眼前に広がっている。しかし垂れ込める雲の下、飛ぶ鳥の姿は、一羽として見えなかった。

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