秋/月光、贈るに堪えず
天子様は美を好む。東京開封府の民なら、知らぬ者はいない。
筆を取れば、書跡は繊細にして雄渾。花鳥を描けば、花弁の脈一筋、翼の羽毛一毫までもが命を帯びる。庭を造れば銘木奇石をふんだんに配し、深山幽谷の風趣を人の世に創り出す。
名高き「風流天子」を、私は今宵どうお迎えすればいい?
「三色の饅頭を手配しました、届いたら見目好く盛ってお出ししてくださいね」
牡丹が薄く焼き込まれた白磁の皿を並べつつ、妹は笑った。窓から差す昼下がりの陽が、通った鼻筋に薄い影を落とす。高く結った髪が鈍く艶めいて、黒がいまにも滴ってきそうだ。何人も皇子を産んだというのに、容色は少しも衰えない。
「月餅があるけど、それではだめ?」
「中秋節はもう三日も過ぎてます。無粋と思われたらおしまいですよ」
真珠の簪を揺らしつつ、妹は少し呆れ顔になった。
彼女が私を主上へ推薦してくれたと、知った時は舞い上がった。けれどだんだん怖れが出てきた。正しく振る舞えるか。妹と比べられはしないか。容貌も髪肌の艶も、私は彼女にまったく及ばないのに。
「物は私が用意できますけど、あとは姐姐次第……そうですね、詩のひとつも口遊めば、主上の感興を惹けそうです」
詩。
懸命に記憶を手繰る。九月の半ば、初めて寵を受ける夜に相応しい詩句。わからない。詩を知らないわけではない。相応しいことばがわからない。
妹は丸い目を細めて、窓の外を見た。煉瓦色の城壁の上、広がる空には雲一つない。
「今夜は晴れますね。望月懐遠などいかがでしょう」
「……どんな詩だったかしら」
妹が唱える五言律詩を、私は後追いで繰り返した。
ことばを胸中へ、懸命に刻み込んだ。
夜。
紅、黄、緑の饅頭は皿に盛った。燭の灯も机の左右に配した。
私は椅子に座り、膝に置いた手指を震わせつつ主上を待っていた。陽は落ちきり、右側が少し欠けた月が、宮城の瓦の少し上に浮かんでいる。中秋節は過ぎたとはいえ、円い光は明るく鮮やかだ。
私はただ月を見つつ、息を吐いては吸っていた。それでも、強張った背も肩も緩まない。渇いた喉を鳴らしても、わずかな唾も湧いてこない。
少し背凭れに身を預けようか――と思った瞬間、部屋の戸がかたりと鳴った。紅い袍服の男性が、部屋に入ってくる。
落ち着け。落ち着きなさい、私。
内心の焦りを気取られぬよう、あえてゆったりと頭を下げる。足音が、机の傍で止まった。
「面を上げよ。……そなたが喬美人の姉か」
「はい。お気に懸けていただき光栄至極にございます、主上」
答えつつ、顔を上げる。涼やかな目をした線の細い男性が、品定めをするように私を見ていた。
何か言わなければ。
焦る私を一瞥し、主上は饅頭の皿に手を伸ばした。黄のひとつを取り……なぜか皿に戻す。黄を、紅を、緑を、取っては戻し取っては戻し。いつお召し上がりになるのだろう、といぶかっていると、主上は最後に小さく頷いた。
「この器なら、これが好い」
並ぶ饅頭を見て、息が止まった。
三色それぞれ別に纏めていた皿が、すっかり様変わりしていた。中央に黄が固められ、紅が緩やかに取り巻き、最外周に緑。白磁の皿を牡丹に見立て、饅頭の華が咲いていた。
茫然とする。脳裏に妹の言葉が響く。
(無粋と思われたらおしまいですよ)
うろたえつつ思い出した。
そうだ、詩だ。
昼に夕に、何度も繰り返したあの詩を、今こそ。
「今宵は月が美しいですね。海上生明月、天涯共此時(海の上に月が出て、恋人たちは同じ時に共に見る)」
甘い声で唱えれば、主上が楽しげに目を細めた。
離れて暮らす恋人同士が、共に同じ月を眺める詩。主上を待っていた身にはぴったりだろうと、妹が選んでくれた。ああ、あなたは本当に、この御方のことをよくわかってる!
「滅燭憐光満、披衣覚露滋(蝋燭を消せば月光が満ちて、上着を羽織れば夜露が冷たい)」
囁きつつ燭を消せば、主上の身が寄ってきた。香を焚きしめておられるのか、涼やかな匂いがふわりと満ちる。
あとは最後の二句。私は両掌で椀を作り、窓から差す月光に掲げた。
「不堪盈手贈(月光を手に満たしても、大切な人に贈れはしない)」
主上の眼前、手をほどいて、光を宙に散らす。
「還寝夢佳期(佳き日を夢見て、眠りに戻る)」
精一杯、婉然と笑む。
主上の唇がほころんだ。安堵しかけた私へ、言葉が飛んでくる。
「それは『遠い故、贈ろうとしても贈れない』という詩だな。私は目の前にいるぞ?」
血の気が引いた。最後の最後で、私は――
返答に窮する私の手を、主上は優しく包み込んでくださった。
「……まあ、言わんとすることは分かるが」
手を引かれた先は、寝台だった。
◇
精も根も抜け果てた、けだるい身体を起こす。肌が、残暑にわずかに汗ばんでいる。
べたつきの上から、昨夜脱ぎ散らした皮衣を羽織る。わずかに風が立ち、隣で眠る男の臭いが立ちこめた。獣じみた体臭と、強い酒精の香が鼻をつく。名も知らぬ征服者の男たちは、火のような高粱酒と共に私を買っていく。
また、夢を見ていた。東京開封府の後宮で、寵を受けた夜のことを。
天子様は美を好んだ。民は当然知っていた。
書画しか語れぬ小人物を宰相に就けた。湯水のごとく銭を使い、国庫が干上がれば重税を課した。銘木奇石と見れば徴発し、運河を塞いで都へ運んだ。
民は蜂起し、世は乱れた。そして……北方からの侵略に開封府は陥ちた。皇帝、上皇、皇族、その妻妾たち、万を越す人々が囚われ連れ去られた。主上も、私も、妹も。
格子のはまった窓の外に、円い月が浮かんでいる。
高鼾の男を起こさぬよう、私はゆっくり立ち上がった。両掌を上向け、指を軽く曲げ、椀を作る。高く掲げれば、白い指を淡い光が満たした。
美しいものはなくなった。美しい菓子も、美しい燭台も、美しい服も、美しい書画も、美しい人々も、美しい街も、美しい国も。なにもかも。
けれど。
「不堪盈手贈(月光を手に満たしても、大切な人に贈れはしない)……」
誰にも聞こえぬように、小さく呟く。
南へ逃れた人々がいる。主上の皇子がただ一人逃げ延び、長江の向こうに、臨安――臨時に安んずる――と名付けた都を建てたという。
はるか南の地へ、両手に満たした光は届かない。けれど。
「……還寝夢佳期(佳き日を夢見て、眠りに戻る)」
両手を広げ、掌中の月光を宙へ散らす。
願わくは、いつかこの輝きが南へ届かんことを――そう囁けば少しばかり、この地獄に灯がともる。
北にあっても、変わらぬ月の光。月の光を掬いあげる、精妙なることば。
ただそれだけが、我が身に残された美しいもの。