春/何れの日か、是れ帰年ならん
明朝、臨安の街を歩かないか……と、父様からの言伝を受けた時は驚きました。
父様はいつも、空が暗いうちに画院へ向かい、陽が沈んだ後に戻られます。朝夕の食事も家では摂らず、家にいる日も書斎にこもりきり。母様が気血の凝りを心配するほどに、日々画業に没頭しておられるようでした。父様の背中を最後に見たのはいつだったでしょうか。少なくとも、この一月の間ではないように思います。
けれど、僕ももう七つ。今年――紹興十年の年明けからは、先生について科挙の勉強も始めました。孝子としてなすべきは、学問を修め身を立てること。赤子のように父母を恋しがる歳では、もうないのです。
そう思って、日々励んでいましたが……やはり少し、寂しかったんだと思います。襴衫姿で玄関に立つ父様を見つけた時は、胸の奥が湧き立つように熱くなりました。
駆け寄ると、父様は目を細めて笑いました。蓄えたお髭に、少し白いものが混じっています。御歳四十八歳のお顔には、少し皺もより始めています。
「いくぞ、浩宇」
「はい!」
僕は、父様よりも一回り小さな沓をはいて、差し出された大きな手を握りました。
◇
日が出たばかりの城市には、もう人が集まっていました。大城壁に近い広場で、むしろを敷いて売物を並べている人たちがいます。ゆっくり歩きながら品物を見渡す人たちもいます。立ち止まって値段を訊いている人たちもいます。遠くから喧嘩の声も聞こえてきます。
筍、蕗、菜花……家ではなかなか見せてもらえない、鮮やかな野菜の山を見ていると、禿頭の売主さんがくしゃくしゃ顔で笑いかけてきました。
「小朋友、まとめてなら安くしとくよ」
横から、父様の声が降ってきました。
「蕗を一束もらえないかな」
「へい、三銭です」
父様は紐で繋いだ銅銭を取り出すと、うちの三枚を抜いて……僕の手に握らせました。
どういうことなんだろう。売主さんが痛いくらいに睨んできます。
僕はしばらく二人を交互に見回した後、巌のような売主さんの手に、銅銭三枚を乗せました。
「まいど!」
返礼に、青臭い蕗が一束、手中に入りました。
拱手して見送る売主さんを尻目に、父様はゆっくりと辺りを歩き回ります。色々な物が並んでいました。香り高い果物や花、木や竹の堅牢な細工物、ちょっとした器や玉飾り……四月七日の清明節が近いからか、墓掃除のための箒や柄杓も並んでいます。そのひとつひとつを父様は見つめていました。家では見たことのない、鷹のような眼光を光らせながら。
時折売主さんが声をかけてきますが、父様が軽く手を上げて微笑めば、皆、何かを察したように頷いて黙り込むのでした。
市場を抜け、店が立ち並ぶ区画に出ました。まだ朝早いというのに、いくつかの店は開いているようでした。真新しい茅葺の庇の下で、簡素な麻を着た人々が揚物を頬張っています。魚と……何の肉だろう?
「ここの揚物は美味いぞ。川魚に雉肉、鴨肉に兎肉。どれがいい」
父様、毎日ここで食べてるんだろうか。家でつくるお粥じゃ、だめなんだろうか。
釈然としないものを感じつつ、川魚を注文します。父様は鴨肉。どちらもすぐに出てきました。このまま食べてしまっていいのか、少し迷っていると、父様は笑いながら鴨肉にかぶりつきました。
「士大夫も平民も、ここでは同じ流儀だ。遠慮はいらんよ」
少しためらいつつ、尻尾からかじりました。油がじんわりにじみ出て、ちょっと熱いです……けれど塩気も旨味もたっぷりで、一日のはじめにふさわしい滋味には間違いありませんでした。
◇
さらに歩くと宮殿に出ました。父様がお仕事をされている画院も、ここにあります。当然、七歳の子供は入れません……と思っていると、父様はおかまいなく、どんどん僕の手を引いて中へ入っていきます。
背の高い門番さん二人が、ぎろりと僕を睨みました。ああ、叱られる、と思った瞬間、門番さんは革手袋に包まれた掌を拱手して、僕たちを見送ってくれました。
大きな廊下を抜け、画院の看板がある部屋に来ました。
入口の引戸を開けると、中は真っ暗でした。父様が窓を開けると、差し込んだ光が部屋に満ちます。
そこで僕は、息が止まるほど驚きました。
信じられないほど大きな絵が、やわらかな光に照らし出されていました。
画面の一番左には、驢馬に乗った農民たちがいます。傍らを流れる川を追っていけば、次第に人は増えていき、城門の辺りでは異国の商人までが混じってきます。こぶのある動物は、噂に聞く遠い国の駱駝でしょうか。
城門の中は人で満ちています。旅の僧、子供、老人、壮年、人足、乞食、豊かそうな士大夫……誰一人同じ者はなく、皆が勝手に動き出しそうです。やがて川は、人で一杯の橋の下を通ってゆきます。橋の両端には楼閣が建ち、やはり人々がぎっしりと集い、酒や料理をめいめい口にしています。
黄味がかった画絹の中に、街がありました。人が生きていました。
そして、街は……僕が歩いてきた臨安の街よりも、ずっとりっぱでした。
「東京開封府……もとは、かの地で天子様のために描いた絵だ」
その名は、僕も知っています。
開封の街。百万の人が住んでいた、この国の「本当の」都。
けれど攻め落とされ、皇帝陛下や上皇陛下、他にも多くの人が北へ連れ去られた……十四年前、僕がまだ生まれていない頃。
「天子様は敵の手に落ちた。だが故国を……中原を忘れぬために、私は、これを描き続けている」
きっとそうなんだろうなと、思います。
絵の中の人々は、臨安の街を歩きながら見た人々と似ていました。きっと父様は、これらの人々を描くために……絵の細部を確かめるために、街を歩いていたのでしょう。朝夕の食事を外で摂ったのも、きっと、食堂の人々の様子をつぶさに見るため。
「浩宇よ、おまえも学を志すなら……天下国家を治める道を目指すなら、目に焼き付けておけ。この地を……かつて、百万の民が暮らした地を」
父様の目に、涙が光っていました。
見てきた人々。見たことのない街。けれど父の願いは、生き続けるのでしょう。
僕は父の手を取り、静かに握りしめました。
受け継ぎましょう。この画絹が残る限り、いつまでも、いつまでも。