「それって、保険金殺人の話ですか?」と彼女は言った
自己責任でお読み下さい。
つまらなかった場合の感想は不要です。
出来たばかりの社員食堂は混んでいる。
今日は、会社のお偉いさんが、取引先の人を連れてきているので、尚更だ。
出遅れてしまった宮前早苗は、いつも昼を共にする経理部の同僚ではなく、営業部の主任Y野がチームメンバーのN島と座っている所に相席せざるを得なかった。昭和からタイムスリップして来た男と揶揄される事もあるY野は、少し苦手な相手だ。
6人掛けのテーブルの反対端に座り、食べ始める。
しばらくすると、研究部のK崎がやって来た。
サイコパスという噂もある彼女だが、見た目は掛け値なしの美人だ。
Y野達に対し1人で居るのが気まずかったので、ちょっとホッとする。
「そうだ、聞いてくれよ。うちの嫁さん、最低なんだ。生まれたのが双子だからって、全然家事をしなくなったんだよ。部屋の隅に埃溜まってるし、食事は総菜。今着てるこのシャツなんかもさ、俺がクリーニング出したんだぜ。やってらんないよ」
食べ終わったY野が、N島相手に切り出す。
Y野の妻は、早苗の先輩社員だ。
面倒見が良く、どんなに忙しい時に頼っても嫌な顔をしない素晴らしい人である。
祝い事だったとしても、産休も、生まれたのが双子で復帰が遅くなるという話も、早苗はとても残念に思っていた。
それだけに、Y野の言葉は早苗の耳に酷く不愉快に響いた。
「……主任も家の事、やったらいいんじゃないですかね」
N島がおどおどと返す。彼自身は、社食が出来る前は自作の弁当を持って来ていた。気の弱いところのあるN島にしては、強めの反論だ。それで良く営業が務まるなと思うが、意外と成績は良いらしい。
「何言ってんだ。休み取ってんだぞ。嫁がやるべきに決まってんだろ。大体、子育ても家事も、女の仕事だろ? なんで男が手伝うんだよ」
「……」
Y野の反応に、N島は目を逸らし黙り込む。
「何だよ、黙っちゃって。なぁ、お前らもそう思うだろ? 会社休んでんだから、家事も育児も一人で十分出来るよな?」
N島から同意が得られなくて不満だったらしいY野が、早苗とK崎の方を向く。
(えぇ、どうしよう。こっちに話、来た)
Y野には昇進の噂もあり、積極的に敵に回したくはない。
しかし、問いかけは口が裂けても肯定したくない内容だ。
先日、ラインで連絡を取り無理に家を訪ねた時に、聞いた先輩の話が甦る。
「双子って、ほんっとうに大変だよ。片方がやっと寝てくれたなと思うと、もう片方がぐずりだすの。やっとあやしつけたら、今度は寝てた方の子が起きちゃって……。どっちかが泣き出すと、どっちも大泣きしちゃって収拾つかなくなっちゃうし。この子達が生まれてから、まともに眠れた事なんて無いんじゃないかな。子供達は可愛いよ。でも、体力の限界。正直、いつまで持つか……」
これまで見た事が無い程、疲れ切った様子の先輩。赤ちゃん達の周りしか片付いてない、乱雑な部屋。先輩の両親もY野の両親も、遠方に住んでいて、頼れないそうだ。部屋の片付けを申し出て、申し訳ないと言われつつ驚くほど感謝された。因みに日曜だったが、Y野は出かけていた。
「今では、結婚したのを後悔してるの。仕事では助けてもらった事もあったから、家族になってもやっていけると思ってた。でも、なんっにもしてくれないの。私が纏めておいたゴミを朝持って行って、それだけで家事を十分手伝ってるって思ってるんだよね。それでいて、料理や掃除が出来てないって、こっちを責めるばっかり。もう離婚したい。でも、双子が赤ちゃんな今は、ムリ」
先輩のやつれた顔を思い出し、Y野の問いにどう応じたらいいか考えあぐねて、黙ってしまう。
「それって、保険金殺人の話ですか?」
それまで黙って食事をしていたK崎の朗らかな声が、沈黙をぶった切る。
「「「は?」」」
K崎以外の3人の声がハモる。
「だって、そうでしょう。奥さんを合法的に殺したいんですよね?」
K崎の声と表情は明朗そのものだが、言っている内容は、明るさからも、朗らかさからも程遠い。
「な、何言ってんだ! なんで俺が、嫁さん殺さなきゃなんないんだよ!」
激昂しやすいY野が、立ち上がり声を荒げる。
「だから、保険金目当てかなって。だって、奥さんに死んでほしくなかったら、双子の子育てか家事、するでしょ?」
食堂の注目を集めてしまっているが、K崎は気にならない様だ。
「なんで、子育てか家事を手伝わないと、嫁さんが死ぬんだよ」
Y野は周囲の視線に気付いた様で、座り直して、声量を落とした。ただ、周囲が静まり切った後なので「焼け石に水」感がある。
「生まれたの双子なんでしょう。乳飲み子1人でも大変なのに、2人も居て、家事もやってって、寝る暇もないんじゃないですか? なのに、自分の分の家事までやらせて、奥さんの元の職場で陰口言って本人へ伝わる様にしてる。過労死か、うつ病を発症させての自殺を狙ってるのかなって」
「そんな訳ないだろ!」
「だって、現状、奥さんだけじゃ家事まで手が回ってないんですよね? 子供の世話だけで手一杯になってる。それを認識したうえで、自分の分の家事までやってもらって文句言うだけ。助け合うのが家族なんだとすると、家族だと思ってないとしか考えられない。なら、別れてしまえばいいのに、別れない。じゃあ、死なせて保険金せしめようとしてるのかなって。助けなくても死なないって繰り返してるのは、アリバイみたいな感じですかね? 殺意の否定、みたいな」
平然と食事を続けながら畳み掛けるK崎の行動が、早苗には理解できない。もうここに居たくない。とんでもないことに巻き込まれてしまった。それでいて、不思議と清々しかった。乾ききった砂漠で、強風に吹かれている様な気分だ。N島と目が合う。何かが通じ合った気がした。
「家族だと思ってる! 家の事も子供の事も、す、少しは手伝ってる! ゴミ出しは俺がやってるし、Yシャツをクリーニング出したって言っただろ!」
Y野は、再びヒートアップして来た。
「思ってないでしょう? 家族だと思ってるなら、なんで『手伝う』なんですか? 自分が着るシャツをクリーニングに出すのは、もともと自分のためだから『手伝い』じゃないですよね? ゴミ出しって言ったけど、ちゃんと分別とか纏めとかからやってます? 自分の子供を育てるのも、『手伝い』じゃないでしょう? 親族の子供とか他人の子育てならともかく。あ! そっか、奥さんが生んだのが他人の子供だと思ったから、殺そうと思ったんですね。なるほど」
「ふざけんな!!」
怒りに任せてテーブルを叩くY野に、変わらず涼しい顔のK崎。
「ふざけてなんかないですよ。百歩譲って、殺人狙いじゃないとしても、奥さんや子供に対して、思いやりのある行為だって言えると思ってます?」
「……っ」
打って変わって真剣な顔をしたK崎に、何も言えなくなるY野。
「Y野君、ちょっといいかね?」
取引先の人と食堂に居たはずの取締役が、Y野に声をかけてきた。
「ごちそうさまでした。午後に予定がありますので、自分はお先に失礼致します」
「私も失礼します」
「あ、わ、私も失礼します」
食べ終わっていたN島がいち早く離脱し、元凶の片方のK崎が続いたので、早苗も慌てて席を立った。半分も食べていないが、これ以上、ここに居る気にはなれなかった。
散々な昼休憩から1ヶ月。早苗は、今日貼り出された辞令を見ていた。
「宮前さん、良かったわね。慕っていたY野さんが早めに戻ってこれることになって」
経理部の年上の同僚に声をかけられる。彼女の言うY野さんは、産休で休んでいた先輩の事だ。
「はい、良かったです。でも、営業のY野主任が育休を取るなんて、ちょっとびっくりです。しかも1年間も」
双子が生まれた事で、復帰はもしかしたら無理かもとも言っていた先輩だったが、当初の予定よりも少し早く戻る事になった。営業のY野が、入れ替わりで育休を取る事が、今回、一緒の辞令になって発表されている。しかし、前に先輩と会った時は、出世を目指すために夫は育休を取らないという話だったはずだ。
「それね。会社方針らしいわよ。1ヶ月位前に社長が、大手のお偉いさんを出来たばかりの食堂に連れてきたの、知ってる? 福利厚生に力を入れてる取引先相手に、アピール目的だったのよね。うちも福利厚生を頑張ってますよってね。最近『くるみん認定』の取得をめざしてるのも、その一環らしいわよ。なのに、Y野主任がやらかしちゃってねえ」
「くるみん認定」とは、厚生労働大臣による「子育てサポート企業」の証である。認定のためには、残業時間の規制や子育てのための時短勤務措置、女性のみならず男性の育休取得が一定以上などの条件がある。
「『うちは働く女性のサポートに力を入れてます』とか言ってるところに、『家事と子育ては女の仕事だ!』なんて叫び声が聞こえちゃあねぇ」
同僚は楽しそうに、尾びれや背びれの付いた噂話をしているが、その場に同席していた早苗は、当時を思い出してちょっと複雑だった。
世の中がまだまだ偏っているせいか、「くるみん認定」で求められる育休取得は、女性が75%以上なのに男性は10%以上だったりする。営業のY野の育休取得は、認定にかなり寄与するだろう。
余談だが、あの後一時期、K崎の株が上がった。研究部の場所が西側にある事もあって、「西の善きサイコパス」などと呼んでいる人を見かけた。間もなく「やっぱ、サイコパスだな」という話が出回って、今では落ち着いている。ただ、「王様の耳はロバの耳」的な事を誰かに言わせたい時に、奢ると役をやってくれるという評判が、ひっそりと流れている。
先輩が会社に復帰してきた。仕事帰り、先輩に誘われ、お茶をしに行く。
「離婚は保留にしたわ」
まだ少しやつれているが、前と異なりちゃんとスキンケアをしているのが分かる顔に微笑みをのせて、先輩が言った。
「保留、ですか?」
「そう。次に我慢の限界が来たら、その時は別れる。離婚なんて何時でも出来るんだから、協力してくれる間は、別れないでいてあげる。そう、思ってる」
「別れないでいてあげる、ですか」
どう反応したらいいのか、戸惑う。
「うん。何でも我慢なんてし過ぎちゃダメだね。こんなに変わってくれるなら、もっと早くに荒療治すれば良かった。色々お願いはしてたけど、結局何とかなってるって思われると、変わらないんだね」
お茶を一口飲む先輩の姿を、黙って見つめる。
「突然『会社から育休取得の打診を受けたけど、子育てなんかやらないからな』って言ってきたんだ。頭にきて『じゃあせめて家事は自分でやれ』って言って、子供と身の回りの物だけ抱いて飛び出して実家帰っちゃった。でも、母だけじゃなく父も協力してくれて、やっとまともに眠る事が出来た。それで思ったんだ。『私、今までなんで我慢してたんだろう』って」
確かに、ご両親に協力してもらって、シングルマザーとして働いていた方が、先輩にとっては良さそうだ。
「1週間位したら、夫が謝りに来たんだ。でももう、気持ちが冷めちゃってて、『私、あなたと一緒に居て良かったなと思う事、何一つ無いんだけど?』って言っちゃった」
てへっという感じで笑う先輩に、思わず、くすっとなる。あの男に、この先輩はもったいないと、前から思っていた。
「でも、別れない事にしたんですね?」
「フフフ。だから、保留。謝りに来た時、一緒に家に戻って、ちゃんと片付いてたから。『これから、私が会社に復帰して、仕事を休むあなたが家事と育児の中心。そうでなかったら、別れる』そう言ったら、『それでいい』って言ったから、出来てる間は、保留なの」
Y野主任は、これまであまり家事を行っていなかったため、出来ない事や知らない事も多く、先輩に教わっているところもまだ多いそうだ。会社からの圧力に加えて妻から離婚の仄めかしで、最初は渋々だったのだが、意外と向いていた様で、最近は楽しんでいる部分もあるらしい。
出世の話は、Y野が個人的に思っていただけだという噂を、年上の同僚から聞いた。逆に、先輩の方が出世しそうだとも。
「だから、うちは、しばらく役割交代。N島君は、もともと家事が出来るみたいだから、早苗ちゃんは良かったね」
先輩の突然の指摘に、顔が赤くなる。
N島と将来は出来れば結婚したいという話を、先輩にはさせられていた。付き合い始めていたのを感付かれていたのだ。
あの、昼をほぼ食べ損ねた日、N島が後から差し入れをしてくれた。「ただのコンビニお握りとチョコバーだけど」と言うN島の耳が赤くて、こっちまで照れてしまった。
営業部のY野の穴を埋めるために、N島が主任になった。デリカシーには欠けるがエネルギッシュだったY野とは真逆なN島の評判は、すでに結構高い。
「でも、最初の我慢はし過ぎない方がいいよ。十分余裕のあるうちに、気になる事はちゃんと話し合っておいた方がいい。相手が分かってくれるまでね。二人の関係性を持続させようと思ったら、『ここまでしないと伝わらないの?』とか『察して欲しい』とかはダメ。出来なかった私が言う事じゃないけどね」
苦笑する先輩は、何故かとても綺麗だった。
「はい、心します」
きっとこのアドバイスは、これからの人生に本当に大切なのだと思う。
読んで下さってありがとうございます。
今回もテンプレじゃなくてすみません。
くるみん認定の説明はざっくりです。(現実に存在する制度です)
育休の取得や復帰は、一般的に辞令ではないと思いますが、この会社はそうなのかな位の緩やかな気持ちでお読み下さい。もっと分かりやすい表現があったら、変えると思います。
ポイント無しの感想よりも、ポイントだけの方が、悩まなくて済む分嬉しいです。