第8話 福田邦明
福田邦明は東京都台東区の北東部東浅草で生まれた。
通称山谷と呼ばれるドヤ街だ。
福田が生まれた1941年頃には行政上の正式な地名として台東区浅草山谷が存在したが現在では東浅草二丁目と住居表示されている。
昔から山谷には安宿が多かったことから労働者が集まり、寄せ場や遊郭も多く存在した。
邦明は遊女の子供だった。
遊女の不手際により、望まずして生まれた子で幼少期は遊郭で育った。
母親は邦明が5歳の時に結核が元で他界した。
幼くして独り身になった邦明はすぐさま児童福祉施設に入所したが、その当時の福祉施設は生活環境劣悪で、今の福祉施設の豊かな環境とはほど遠い存在だった。
また、誰が漏らしたのかはわからないが、邦明が遊女の私生児だと言うことが施設内の従業員や入所者に知れ渡ることとなり、邦明はいつも入所者からのいじめに遭っていた。
「おい。ジョロウの子」
7歳の邦明を2~3歳年上の男の子達5~6人が取り囲んでいる。
邦明は震える目で年上の子達を見ている。
10歳くらいの男の子が年長の男の子を見て言った。
「ねぇねぇジロちゃん、ジョロウって何?」
ジロと呼ばれた男の子は得意げに答えた。
「な~んだ。そんなことも知らねぇのか。ジョロウってのはな、お金で体を売る女のことだ。バイシュンフって聞いたことあるだろ?要するに汚い女のことだ。邦明はその汚い女の子供だ。」
そこにいる邦明以外の子供達が納得した顔をした。
「汚い女じゃない!!僕の母さんは・・・」
と涙目で言い返したところ、邦明は腹部に強烈な痛みを感じた。
「口答えすんな!!」
男の子の容赦のない蹴りが邦明の腹部にめり込んでいた。
悶絶する邦明。
その騒ぎを聞きつけた福祉施設の管理者がかけつけた。
「なんだ!!騒がしい。寮内では静かにしろといってあるだろ!!」
中年太りで頭髪が後退した男が騒ぎの理由も聞かずに子供達を怒鳴りつけた。
子供達は邦明を残して静かに立ち去った。
管理者は邦明を引き起こしながら小声で言った。
「これだからジョロウの子は・・・」
施設内で邦明の素性をばらしたのは、その管理者のようだ。
それから数年の間、邦明は同居者の陰湿ないじめにあいつづけた。
時には言葉で、時には暴力で。
邦明も時には抵抗したが、多勢にぶぜい、複数の年長者に逆らうことは極めて困難だった。
今日も陰湿ないじめに遭い泣きながら布団に入り天井を見つめていた。
「母さん。どうして僕を産んだの?誰がいけないの?僕が悪いの?」
独り言をつぶやきながら天井の木目を見ていたところ、その木目が動いたように思えた。
邦明は目をこすった。
すると更に木目は動き集まり、一つの大きな影になった。
やがてその影は墨汁が垂れ落ちるように床にしたたり、再度集まって形をなした。
大きさは3歳児ほど、大きな耳、裂けた口、猫背だが二本足で立っている。
何よりも大きな特徴は尻尾だ。
クネクネと動く尻尾の先はヤジリのような形、鋭い三角形をしている。
誰が見ても恐ろしい姿だが、邦明は不思議とその影が怖くなかった。
昔から自分の側にいる誰かのように思えた。
「誰?」
声をかけてみた。
「俺様か?俺様はお前の影だ。名前はない。インプと呼ぶ人もいるがね。」
「それで何の用?インプさん。」
「大したことじゃない。お前の助けになろうと思って姿を現した。なにしろ俺様はお前の影だからね。グヒヒ。」
「助けって?」
「お前、今の生活に満足しているのか?こんな奴隷みたいな生活に。」
邦明は静かに首を横に振る。
「そうだろうな。だったら俺様がこの奴隷生活から出してやる。」
「どうやって?」
「簡単だ。次にいじめに遭ったら、いじめたそいつの指をかみ切れ。噛むだけじゃない。力一杯噛んで、指を食いちぎれ。それだけでお前は解放される。」
「そんなこと・・・」
「怖いのか?」
邦明は首を縦に振った。
「じゃぁ諦めろ。一生、奴隷のままでいろ。毎日殴られろ、毎日罵られるといいさ、ジョロウの子ってな。」
ジョロウという言葉を聞いて邦明の心が燃えた。
「いやだ。そんなの。」
「じゃぁ噛め、噛み切れ。それだけのことでお前の人生は変わる。」
そういうとインプは闇に溶けた。
数日後、寮内の談話室で、いつものいじめがはじまった。
れいによってジロという年長の子が先頭になって邦明をいじめ始めたのだ。
きっかけはたわいも無いことだった。
邦明が食堂で米粒をこぼした。
ただそれだけのことだった。
娯楽の少ないこの時代。
特に児童福祉施設での娯楽といえばテレビだけだった。
しかし子供達がテレビを見て良い時間帯はほんの1~2時間だ。
テレビ視聴の時間が過ぎると読書の時間になるのだが、読書なんてする気も無いジロ達が邦明に対するいじめ、ジロ達にとっての娯楽を始めたのだ。
「おい。邦明、お前、米粒こぼして拾わなかったよな。その米粒、俺が拾ってきたから食え。」
ジロの指先にはゴキブリがあった。
「それ、米粒と違う!!」
邦明は必死に抵抗する。
ジロは邦明に馬乗りになって邦明の口元にゴキブリを近づける。
他の子供達もジロを手伝い、邦明の手足と頭を押さえつけた。
「ほら、食えよ。あの米粒、このゴキブリの腹の中にあるから、結局同じ事だ。ほら食え。」
ジロはゴキブリを邦明の口にねじ込む。
潰れたゴキブリの体液が邦明の口の中に入る。
「ウガ!!」
邦明は更に抵抗するが手足をジロの仲間に抑えられていて抵抗できない。
その時、邦明の頭の中で
「噛め、噛み切れ。」
という言葉が響いた。
邦明は目を開けて馬乗りになっているジロの顔を見た。
ジロの顔は嬉々としている。
とても幸せそうな表情だ。
(ああ、人って、こんな幸せそうな顔ができるんだ・・・僕も幸せになりたい・・・)
邦明は自分の口に入っているジロの指を噛んだ。
思いっきり。
自分の出せる最大限の力でジロの指を噛んだ。
上下の前歯がうまくジロの指関節に入ったようだ。
「ゴリ!!」と音を立てた後、邦明の喉に大量の血液が流れ込んだ。
「ギャー!!」
雄叫びを上げるジロ。
引き抜いた右手の人差し指は第一関節から上が無かった。
悲鳴をあげるジロの顔を見た邦明は不思議と穏やかで幸せな気持ちになれた。
その事件以降、福祉施設内での邦明に対するいじめはなくなったが、邦明は半年も経たず他の施設へ転所させられた。
「どうだ?簡単だったろう?」
邦明の枕元にインプが立っている。
「うん。以外と簡単だった。」
「いじめられることも、無くなったよな。」
「うん。」
「じゃぁ、これからも俺様の指示に従え。そうすればお前は幸せになれる。」
邦明は喉元を流れるジロの血の匂いと、ジロの苦悶の表情、そしてあの時の幸福感を思い出していた。
「うん。言うこと聞くよ。」
その後邦明の転落は早かった。
いくつかの施設を転々とし、少年院にも入った。
成人する前には暴力団の事務所に出入りするようになり、今では準構成員とはいえども暴力団の組員になっている。
邦明が何か罪を犯す時には邦明の側に必ず黒い影が寄り添っていた。
そして邦明に助言する。
「やれ。」
「殴れ。」
「殺せ。」
邦明は黒い影、インプのいうとおりに行動した。
そうすれば不思議と悪巧みが成功した。
邦明には3つの前科があるが、これは薬物に溺れて自我を失いインプの助言を無視した結果だった。
警察にばれている邦明の犯罪は3つだが、実は邦明は他にも大きな罪を犯している。
そのいくつかは殺人だ。
殺人の目的は「金」邦明の犯した殺人のほとんどは保険金目的、過去に保険金をかけた殺人を複数回、犯している。
警察が殺人事件までたどり着けなかったのはインプの巧妙な策略による。
インプが計画した殺人は、ほぼ完全犯罪と言える。
つい最近では「八神純子」を溺死に見せかけて殺したように。
ある時、邦明はインプに尋ねた。
「なぁインプよぅ。」
「俺様を呼び捨てか?邦明。随分と出世したな。」
邦明は苦笑いする。
「まぁいいじゃねぇか。長い付き合いだ。堅苦しいこと言うなよ。ヘヘ。」
インプは無表情だ。
「ふん。それで何だ?」
「長いこと気にはなっていたんだが、俺が誰かを殺す度に、お前嬉しそうだよな。何が嬉しい?それになんで俺を手伝う?」
インプは少し笑った。
「突然だがイワナはどこに住む?魚のイワナだ。」
「ん?そりゃ清流だよな。」
「じゃ血を吸うヒルは?」
「沼?淀んだ水の中?」
「そうだ。それじゃ悪魔は何処に住む?」
「そりゃ、地獄みたいな空気の淀んだ場所だろうな。・・・」
「邦明、答えを知っているじゃ無いか。ゲヘヘ」
「つまりなにか?お前達インプが住みよい場所にするため、俺が悪事・・・環境整備をしているってことか?」
「俺様の仲間はどんどん、ふえているぜ、お前達のおかげでな。ゲヘヘ。」
「そうかい。だったらもっと良いおもいをさせてくれよ。お前達の望むとおり、この世に悪の花を沢山、咲かせてやるよ。ここらあたり一面、曼珠沙華の花畑にしてやるよ。ハハハ」
邦明のシルエットが部屋の壁に写し出された。
そのシルエットには尻尾があった。
絵美の自宅近くにもインプはいるが、なぜだか絵美の住居には近寄らない。
「じいちゃん。それでどうなったの?サタンが出てきたの?」
絵美の部屋で絵美と絵美の祖父源治の霊魂が向かい合っている。
「いや、サタンがいたかどうか、ワシは見ていない。その大木の手前で引き返したからね。」
「どうして引き返したの?」
「大木から出てきた霊魂が言ってくれたんだ。『この中にはサタンがいる。霊魂は輪廻の輪に戻れない。』ってね。」
源治は少し困った表情で話を続けた。
「霊魂になってからわかったことだけど、霊魂は嘘をつけない。心と心で話しているようなモノだから、嘘のつきようがないんじゃ。今の絵美ちゃんとワシのようにね。だからワシはその霊魂を信用した。このまま大木へ入っても輪廻には戻れない。つまり生まれ変わることはできない。とね。」
絵美は源治の肩を抱いた。
「その大木ね。『輪廻の大樹』って言うらしいの。入らなくて正解だと思うわ。」
「そうじゃろうな。危険を感じた魂は大樹に入らず、黄泉の国を彷徨ったり、ワシのように現世にもどってうろついている。」
「そうね。最近、彷徨う霊魂が増えてきたけど、そんな理由があったのね。」
「そうじゃな。ワシのように帰る場所がある者は良いが、帰る場所が無い者は呪縛例として街を彷徨うのじゃろう。」
絵美が頷いた。
その時、源治の後ろから女性の霊魂が現れた。
「こんばんは、絵美さん。」
その声に源治が振り返る。
美しく長い髪、整った顔立ち。
八神純子だ。