第1話 おじいちゃん
霊魂は実際に存在する。
ほら貴方のそばにも。
霊魂の語り掛けに耳を傾けてみましょう。
「とうとうここまで来たね。絵美」
「うん。ようやくだわ。たどり着いたね。小太郎」
一匹の猫と一人の少女が巨木を前に見つめ合っている。
猫の意識は体を離れ、はるか上空から自分と少女を見下ろしている。
吸い込まれそうなほど青く透き通った水をたたえる湖の畔、湖に手を伸ばすような形状で突き出た半島の先端に、その木は立っている。
いや、そびえ立つといった方が正しい表現かも知れない。
木の幹は大人5人が手を繋ぎあっても抱えられないだろう。
根は半島を握りしめるように大きく張り出し、その巨体をしっかりと支えている。
バオバブの木のように多くの枝を突き出し、青々とした葉をたたえている。
葉の一枚一枚が淡く輝き樹木全体が神々しいオーラを放っている。
「間違いないよ絵美。この木は『輪廻の大樹』だ。」
猫が少女に語りかける。
白色と灰色、黒色が縞模様になっている美しい毛並み、凜々しく尖った三角形の両耳。
頭頂部から鼻筋にかけて縦に三本の筋がとおり額には、高等な魔方陣を想わせる模様がきざまれている。
猫の目は瞳が金色、長久の年月を感じさせる威厳のある目の奥には大きな慈愛が潜んでいるようだ。
「うん。君のおかげよ、小太郎。」
少女が猫に抱きつく。
少女の髪の毛は金色、染めた金色では無く、少女の内面の輝きが髪の毛にも届いたような自然な金髪。
そよ風になびく髪の毛が少女の美しさを強調する。
瞳は青色、鼻筋が通っていて唇は薄紅色。
つややかな唇だ。
少女は微笑んでいるが、目の奥には緊張が見て取れる。
猫が少女の頬を舐める。
「絵美、行こう。あまり時間が無いよ。」
「そうね。小太郎。行きましょう。」
一匹の猫と少女が『輪廻の大樹』と呼ばれる大木の根元に跪いた。
大木の枝がワサワサと動き根元の一匹と一人を包み込んだ。
岡村絵美は1967年に生まれた。
裕福な家庭で両親に愛され何不自由の無い幼児期を過ごした。
しかし絵美が3歳になったころ、幸せな家庭に、ほんの少し違和感が生じた。
その違和感はやがて大きな黒い渦へと成長してしまう。
3歳の絵美には、その違和感が何なのかすらわからない。
「お母さん。お母さん。」
よちよち歩きの絵美が台所仕事をしている母親の足下にしがみつく。
この頃の絵美はまだ黒髪だ。
「何?絵美ちゃん。」
母親が料理の手を止め、絵美を抱き上げほおずりをする。
「おじいちゃんがね。お腹すいたって。ごはんまだかって・・・」
「おじいちゃん?源治じいちゃんのこと?」
「うん。ゲンじいちゃん。」
「そうなの?絵美は優しいわね。でもね、おじいちゃんは、もうご飯食べられないのよ。」
「どうして?」
「だっておじいちゃん。こっちにいないもの。絵美にはまだわからないわよね。うふふ。」
母親は絵美を下ろしコップに水を汲んで居間にある仏壇に供えた。
「はい。おじいちゃん。」
そして線香に火を点し香炉に刺した後、『おりん』を一回ならした。
「はい、絵美ちゃん。おじいちゃんのご飯終わったわよ。」
「ええ?お水だけ?ご飯は?」
「おじいちゃんは、お水と線香だけでいいのよ。」
「どうして?」
「おじいちゃんは仏様になったから、ご飯は食べられないの。」
「そうなの?だっておじいちゃんお腹すいたって言っているよ?」
絵美の肘関節部分から腕が上に向けられている。
まるで誰かに手を繋がれているように。
母親にはそう見えている。
実際に絵美は誰かと手を繋いでいた。
絵美の手を握っているのは年老いた男性。
その顔は仏壇の奥に据えられた遺影と同じ顔をしている。
絵美は生まれた時から他人とは違う感覚、能力を身につけていた。
いわゆる「霊視」だ。
この世に霊魂が存在することは誰もが薄々ながらも感じているし信じている人も多い。
「この近代科学が発展した世の中に霊魂なんて。」という人もいるが、そんな人ですらお墓参りをするし、仏壇に向かって手を合わせる。
お寺や神社を神聖視し、盆には田舎に帰る。
これらのことは先祖供養として日本の一般社会に浸透している。
つまり皆、心の奥底で霊魂の存在を信じているのだ。
ただ常人にはその霊魂を実在するものとして見ること、可視化することが出来ないのだ。
しかし絵美は違った。
霊魂そのものを物理的に見ることができるし、それが近しい霊魂ならば意思疎通を図ることができるのだ。
絵美は生まれながらにその能力が備わっており、それが超常現象だとは理解できなかった。
霊を見て会話することは物を見たり、自分の足で歩いたり両親と会話をすることと同意義、ごく自然なことだった。
しかしそれが能力を持たない者からすれば異常な現象だということにやがて気がついた。
絵美が小学校入学前に近所の友達と自宅近くの公園で遊んでいた時のことだ。
「ユウちゃん。その人誰?」
砂遊びをしている絵美とユウキ。
絵美の目には友達のユウキの襟首を掴もうとしている黒い影が見えている。
「誰って?何のこと?」
ユウキは周囲を見渡すが、ユウキの目には何も映らない。
少し離れたベンチにユウキの母親と絵美の母親が座って談笑している。
黒い影はユウキの襟首を掴んだ。
砂場で砂遊びをしていたユウキが不自然に立ち上がる。
「ユウちゃん?」
ユウキの目は虚ろだ。
ユウキは砂場を離れて交通量の多い道路へと向かう。
常人が見ればユウキが一人歩き出したように見えるが、絵美には本質が見えている。
黒い影がユウキの手を引き、道路へと誘っているのだ。
絵美はユウキの後を追う。
母親達はおしゃべりに夢中で二人が公園を出たことに気がつかない。
「ユウちゃん。ユウちゃん。」
絵美が道路に出ようとするユウキの手を取り、必死に引っ張る。
目の前の道路はスピードを上げたダンプが多く行き交う。
ユウキの片方の手は黒い影に引かれて真横に伸びている。
「止めて!!ユウちゃんを連れていかないで!!」
黒い影が絵美を睨んだ。
「オマエ・・・ミエルノカ・・ジャマ・・スルナ・・」
黒い影がそう言った。
黒い影は尚もユウキの手を引く。
歩道と道路の境目で黒い影と絵美の攻防が続く。
ユウキを道路へ引き出そうとする黒い影と、そうはさせまいとユウキに抱きつく絵美。
しかし常人から見れば危険な道路の際で子供二人が争っているようにも見える。
ゴー!!
大きなダンプカーが二人の側をすり抜ける。
パパパーン
クラクションが鳴る。
「やめてー!!」
絵美が大声で叫んだとき絵美の体が少し輝いた。
そして髪の毛が一瞬だが金色になった。
「ウグ・・」
その途端黒い影はユウキから手を離した。
黒い影が手を離した途端、絵美とユウキは歩道に倒れ込んだ。
ユウキは勢い余って顔面を石畳にぶつけた。
「うぎゃーん!!あああああぁぁん。」
ユウキが大声を上げて泣き出す。
絵美も腰をしたたかに打ち付けたが泣かない。
母親達が駆け寄ってきた。
「ユウキ!!ユウキ!!」
「絵美!!」
ユウキの額は割れ、血が噴き出している。
「どうしたのユウキ、どうなったの?」
ユウキの母親がハンカチを取りだしユウキの額に宛てる。
ハンカチは見る間に血に染まった。
ユウキは母親に抱かれながら絵美を指刺した。
「絵美ちゃんが・・・絵美ちゃんが・・うぇーん。」
騒ぎを聞きつけた通行人がわらわらと集まってくる。
「こりゃ大変だ。大怪我だ。誰か救急車を呼べ。」
中年の野次馬が声を出し、他の野次馬の誰かが119番通報した。
野次馬の中から中年の女性が人垣を割って母親達に近づいた。
「差し出がましいようですけど。ワタクシ、証人になれますわよ。オホホ。」
二人の母親が中年女性に視線を集める。
ユウキの母親が問い返す。
「証人って?何の?」
中年の女性が誇らしげな表情で語る。
「ワタクシ、見ましたの。一部始終をオホホ。」
「一部始終って?」
中年女性は絵美を見た。
「そこなお嬢ちゃんが、坊ちゃんに乱暴するところを見ましたの。オホホ。お坊ちゃん可愛そうに大怪我をなさって。さぞかし治療費もかかるでしょう。ですから争いになったときには、ワタクシが証言して差し上げますわ。そのお嬢ちゃんの乱暴を。オホホ。善良な市民の勤めですからね。」
二人の母親が絵美を見る。
「絵美ちゃん?そうなの?絵美ちゃんがやったの?」
悲しそうな目で絵美の母親が絵美を問いただす。
絵美は何も言えなかった。
この複雑な状況を説明するだけの語彙力、説明能力が未だ幼い絵美には備わっていなかったのだ。
ただ。
「黒い人がユウちゃんの手を引っ張ったの・・・」
とだけしか言えなかった。
「嘘おっしゃい!!貴方と坊ちゃんしかいなかったでしょ。嫌がる坊ちゃんの手を引いて道路に突き飛ばしたのはお嬢ちゃんでしょ!!他に誰もいなかったですわ。ワタクシみていましたもの。ねっレイコさん。」
中年女性は自分の隣で様子を見守っていた連れの女性に顔を向けた。
「え、え、ええ。そうですね。坊ちゃんと、お嬢ちゃんしか、この場には居ませんでした・・」
その言葉を聞いて二人の母親が再度絵美を見つめる。
「違うの、違うの、本当に黒い人が・・・」
絵美はそういいながら母親に抱かれようと手を伸ばす。
しかし母親は絵美を抱き上げず、絵美の両手を握ってこういった。
「駄目よ絵美ちゃん。何かの拍子にこうなったのでしょうけど、嘘は駄目。お母さんいつも言っているでしょ。悪いことをしたら素直に謝りなさいって。ネッ絵美ちゃんごめんなさいしなさい。」
絵美は目に涙をためた。
「でも私、でもね。お母さん。本当にね。黒い人が・・・」
絵美の言葉が終わらぬうちに母親は絵美の腕を強く握った。
「絵美ちゃん!!」
絵美の腕を強く振った後、ユウキの母親に目を合わせた。
「ごめんなさい。山田さん、ユウキ君。本当にごめんなさい。後で強く、強く叱りますから。ごめんなさい。本当に・・・」
絵美の母親はユウキとその母親に腰を折って深く詫びた。
母親が頭を下げたときに母親の目から光る物がいく粒か路面に落ちてシミを広げた。
そのシミを見た絵美は心に大きな痛みを感じた。
胃の腑が何か鉄製の器具で締め付けられるような、痛く苦しい感覚が絵美を支配した。
絵美は母親にならって頭を下げた。
「ご・・めんな・さい。うぐっ」
遠くから救急車のサイレンが近づく。