譲らない
「リリー!」
朝から妹の部屋に乗り込んできたエラは、何があったのか顔を真っ赤にしながらぶるぶると震えている。
まだ起きてから身支度を済ませただけのリリーは、何事かと目をぱちくり瞬かせ、「
おはよう、姉さん」とだけ返す。
ノックもせず乗り込んできたエラは、辛うじて扉を閉める事だけは出来たようで、フーフーと荒い鼻息を立てながらリリーを睨みつける。
「アンタ…何するつもり」
「何って…何が?」
本当に姉が何を言いたいのか分からず、リリーは眉尻を下げて首を傾げる。そんな妹の仕草と表情に更に苛立ったのか、エラはツカツカとリリーに歩み寄り、肩を思い切り掴んで睨みつけた。
「トーマス殿下よ!恋人って何?」
ギリギリと力を籠められる肩には、エラの爪が食い込む。痛みに顔をしかめ、離してくれと身じろぎをしても、エラは力を弱めてはくれなかった。
「ただ、お互いに惹かれ合って…」
離せと姉の手首を掴んだリリーの手には、夜中にトーマスから貰ったばかりの指輪が輝いている。それを見つけたエラは激高し、怒りに身を任せてリリーの頬を叩いた。
先日叩いてから、妹の頬を張り倒す事に躊躇が無くなったのだろう。
「何するの!」
「何でアンタがトーマス殿下と婚約するのよ!平民出身のお姫様は私だけで良いの!アンタはその辺の適当な老いぼれ貴族相手だって勿体ないのに!」
よくもまあ共に生まれて来た妹にそんな事が言えたものだ。あまりの言い様に言葉を失い、リリーはじっと姉の顔を見つめて呆けた。
何故ここまで言われなければならないのだろう。
思わずぽろぽろと流れてしまった涙を止める事が出来ないまま、リリーはエラを睨みつけた。
「妹の幸せを願ってくれても良いじゃない」
「幸せになってほしいと思ってるわよ。相手がトーマス殿下じゃなければね!」
「誰が相手だって良いじゃない!誰なら納得して喜んでくれるの?」
「その辺の平民相手で良いじゃない。幼馴染だったフィリップとか?貧乏農家の子倅くらいが丁度良いわ」
ハンと鼻を鳴らし、エラはリリーの左手を掴む。嵌っている指輪をまじまじと観察し、さも当然のようにその指輪を摘まんだ。
「駄目!」
これだけは譲れない。トーマスが折角贈ってくれたのだ。貰ったばかりの指輪を姉に奪われましたなんて言えないし言いたくない。譲れないし譲りたくない。
拳を握りしめ、絶対に引き抜かせてなるものかとエラに背中を向けて蹲るが、エラは気に入らないとばかりにエラの背中を踏みつける。
「アンタより私の方が似合うわ。そんな上等なサファイア、平民が身に着けるには分不相応だもの」
私は王太子妃なんだから。ふふんと鼻を鳴らし、ぐりぐりと妹の背中を踏みつけるエラの表情は見えないが、きっと誰が見ても意地の悪い顔をしているのだろう。
張り倒された頬も、踏みつけられている背中も痛い。きっと頬は赤くなっているだろう。
「やめて…姉さん、妹にこんな事しないで!」
「妹なら姉の言う事を聞きなさいよ。それとも、王太子妃に逆らうなって言った方が良い?」
出来るだけ声を張り上げた。出来れば外を通った誰かに気付いてもらえるように。
エラは騒いだところで誰も来ないと思っているのか、それともそこまで考えていないのか、ただ目の前で蹲って震えるだけの妹の背中を踏みつける事を楽しんでいるようだ。
「殿下にもらったのなら、またもらえば良いじゃない。私が気に入ったらまた貰うけれどね」
「最初からルーカス殿下にお願いしたら良いのよ!私から奪おうとしないでよ!」
いつだって欲しいと思われた物は奪われてきた。もう大人しく黙っているなんて事はしない。
蹲りながら、リリーははらはらと涙を流し、更に声を張り上げた。
「これだけは嫌!」
絶対に嫌だと声を張り上げたリリーに、エラは頭に血が上り切ったのか踏みつけていた足を持ち上げ、そのまま背中に向かって叩きつける。
蹴られたと認識した瞬間、リリーの呼吸が一瞬止まる。痛みでじわりと汗が浮かぶが、エラは気が済まないのかもう一度足を持ち上げた。
「随分と激しい姉妹喧嘩だな」
ふいに聞こえた男性の声に、エラはハッとした表情で振り返る。リリーの声に気付いたトーマスが扉を開いてエラの暴挙を見ていたのだ。
「殿下…」
まずいと口元を引き攣らせたエラは、どう言い訳をしようかと視線をうろつかせる。その足元で震えているリリーに向かって真直ぐ歩いて来たトーマスは、エラの体を軽く突き飛ばしてリリーを抱きしめた。
「俺の恋人であると知っていてやっているんだろうな」
「何をでしょう?私は何もしておりませんわ」
「言い訳すら出来ないのか、無能な女め」
今にも射殺しそうな視線をエラに向け、トーマスは腕の中で震えるリリーの顔を覗き込む。
張り倒された頬にそっと触れ、腫れていると分かると眉間に皺を寄せた。
「この件は兄上にも報告させてもらおう。自分の妻の躾くらい出来てもらわねば」
「そんな!ルーカスには何も言わないで!」
「手当をしに行こう。歩けるか?」
こくこくと頷き、トーマスに支えられながら立ち上がったリリーは、未だ睨みつけてくるエラを見る。トーマスはエラから庇うように体で壁を作ってくれているおかげで、今のリリーの表情は見えないようだ。
何とかしろ、上手く言い訳をしろとリリーに向かって表情だけで訴えるエラに向かって、リリーはにたりと笑ってみせた。
「この…!」
「まだやる気か!」
大騒ぎになっていると気付いた者たちが、開かれている扉からリリーの部屋の中を覗き込んでいる。それに気付いたリリーは、姉から顔を背けるふりをして、部屋の扉から見えるようにはらはらと涙を流してみせた。
「殿下…あまり姉を責めないでください」
しおらしくそんな事を言って、リリーはそっとトーマスの腕に左手で触れる。
姉が欲しがった指輪はまだ自分の指にしっかり嵌っている。そう確認するように。
「…覚えておけ、リリー嬢は俺の妻となる。いくら姉であろうが、王太子妃だろうが、俺の妻に手を出す事は許さない」
部屋の中を窺う者がいると気付いているトーマスも、ついでだからとリリーを妻にすると宣言するように声を張り上げた。
ざわざわと廊下が騒がしくなるが、それを気に留めていないかのように、トーマスは早く行こうとリリーの肩を抱いて歩き出した。
「お顔が真っ赤に…」
「髪もあんなに乱れて…」
ひそひそと女性たちが囁き合っている声が聞こえた。たまたまエラが部屋に乗り込んできて騒ぎになっただけだが、上手い事利用出来たようで良かったと、リリーは俯きながらひっそりと口元を緩ませた。
◆◆◆
医務室で手当てをされたリリーの頬には、軟膏がついたガーゼが貼り付けられている。女性の頬を張り倒すなんてと医師は憤り、何があったのかと聞かれたが、姉にやられたとは言わず黙って俯き、ぽろぽろと涙を流した。
「頬だけか?」
「肩を掴まれたので、恐らく爪の痕が。それから、背中を踏まれて…」
「なんと酷い」
話を聞いていた医師は、有り得ないと首を振り顔を顰める。トーマスも同じように顔を顰め、女性の看護師を呼びつけた。
「俺たちが見る訳にもいかん。見てやってくれ」
指示された看護師は、リリーを衝立の向こうに連れて行くと、優しくドレスを脱がせてくれた。
リリーが思っていたよりも、肩の傷は大した事は無い。少し蚯蚓腫れになっているが、これくらいならばすぐに治るだろう。
「酷い…」
看護師が声を震わせる。背中はどうやら酷いようで、看護師曰く痣だらけになり真っ青を通り越して黒くなっているそうだ。
あれだけやられればそうだろうなと何となく納得しながら、リリーはどうしましょうとばかりに眉尻を下げた。
「リリー、大丈夫そうか?」
「殿下、酷い打撲です。お背中の殆どが…その、痣だらけで」
衝立ががたんと揺れる。恐らくトーマスが揺らしたのだろう。
流石に恋人であると宣言したとはいえ、結婚もしていないのに裸同然の姿を見せるわけにはいかない。
看護師が慌てて傍に置いてあったシーツを掛けてくれたが、リリーはぼんやりと「大騒ぎになるなあ」と考えるだけだ。
「骨が折れていなければ大丈夫です。すみません、ドレスを着るのを手伝っていただけますか?」
「ええ、勿論…」
「打撲が治るまで、コルセットはやめておくか、せめて緩くしてくださいね」
衝立の向こうから医師の声が聞こえる。言われた通り、看護師は殆ど意味が無い程緩くコルセットを締め、それでも心配なのか眉尻を下げながら「痛みませんか」とリリーの顔を覗き込んだ。
「ええ、大丈夫です。ありがとう」
せっせとドレスを着せてくれた看護師は、あちこち傷だらけです!と憤りながら衝立から出て行く。リリーもその後を追うと、トーマスの姿が無い事に気が付いた。
「殿下は…?」
「先程出て行かれました。リリー様には、手当が終わったら部屋に戻るよう伝えるように言われております」
何処に行ったのだろうと考えるリリーは、ふと先程のトーマスの言葉を思い出した。兄上に報告すると言っていた事を思い出し、もしかしたら既にルーカスの元へ向かったのかもしれない。
「お世話になりました!」
医師が止める声も聞かず、リリーは慌てて医務室を飛び出す。廊下を歩いていた女性にトーマスを見なかったか聞くと、すれ違ったばかりだそうで、「あちらに」と指差して教えてくれた。
キャンベル夫人に見つかったらきっと盛大に怒られるだろうが、今は見逃してほしい。ドレスを持ち上げ、出来るだけ早く足を動かした。何処に行ったのだとあちこち見ながら走っているうちに、黒髪の後ろ姿を廊下の先に見つける。
大股で歩いている男を追いかけるのは大変だったが、何としてでもルーカスの元へ辿り着く前に止めなければならない。
「殿下!」
走り続けている体では、思っていたよりも声が出ない。何度も殿下と呼び続けたが、トーマスには聞こえていないようで振り向きもしなかった。
「トーマス!」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、リリーは思い切り叫ぶ。その声がやっと届いたのか、トーマスは振り返って足を止めた。
歩いている他の人々は何事か、噂の二人だと此方を見ているが、そんな事を気にしている場合ではない。
「リリー、どうした。手当は終わったのか?」
「殿下お願いです、姉を叱らないでください」
「は…?」
まだ姉を庇うのかと困惑しているトーマスに縋りつきながら、リリーは周囲に聞こえないようにこそっと囁く。
「私も行きます」
「ん?あ、ああ…分かった」
リリーが何を考えているのか分からないトーマスは困惑しているが、ただ姉が叱られて悔しそうな顔をしているところが見たいだけだ。
夫に叱られてどんな顔をするのだろう。両親や継母に叱られた時は不貞腐れた顔をしていたが、夫の前ならばしおらしくするのだろうか。それとも、リリーを睨みつけるのだろうか。
「先程の騒ぎはすぐに知れ渡ると思います。恋人を守るお優しいトーマス殿下と知らしめておいて損は無いかと思いますので…このまま寄り添って歩いても良いかと」
こそこそと小声で言うリリーの顔をまじまじと見ながら、トーマスはにんまりと笑う。
周囲で様子を窺っている人々に見えるよう、ゆっくりとリリーの腰に腕を回し、怪我をした体を気遣うような顔をした。普段からルーカスのふりをしているせいか、表情を作る事に慣れているらしい。
「随分人が変わったようだ」
「私はいつもと変わりません」
「何をする気だ?」
「姉次第です。今の所何もする気はありません」
コソコソと話しながらルーカスがいるらしい執務室を目指して二人は歩く。
体のあちこちは痛むが、これから姉が叱られるところが見られると思うと楽しみだった。