奪い取る
孤児院への訪問を終え、リリーは城に戻るとすぐさま自室へと走る。
もう空は夕焼けに染まり、城の中は少し薄暗い。自室に飛び込むと、ベッドの中で大あくびをしているエラと目が合った。
「おかえりなさい」
「戻ったわ。ドレスのまま寝るもんじゃないわね。体が痛いし眠り難かったわ」
昨日出て行った姿のまま、エラは呑気に伸びをして、ベッドから抜け出す。何処へ行っていたの、何をしていたの。聞きたい事は沢山あるのに、頭の中がごちゃごちゃとして言葉にならない。
「なあに、怒ってるの?」
「心配、していたのよ」
眉間に皺を寄せリリーを睨むエラは、自分が悪いなんて欠片も思っていないらしい。悪いと思うような心を持ち合せているのなら、最初から妹にあれこれ押し付けたりしない。
「ああ…ちょっとね、楽しくて」
「何処にいたの?」
「何処でも良いでしょう?そこまで貴方に報告しなくちゃいけない?」
不愉快そうに睨みつけると、エラは乱れた髪を手で撫でつける。崩れてしまった化粧をどうにかしようとリリーのドレッサーに歩み寄るが、自分の使うような化粧品が無い事に気が付くと、小さく舌打ちをしてくるりと振り返った。
「何、そのドレス?随分地味なものを着たのね」
「ああ…孤児院へ視察に行っていたから…」
「やめてよね、私はそんなドレス着ないわ」
そんな事分かっている。分かっていても、王太子妃として公務に行ったのだから、その場に合うドレスを選んだだけの事。きっとエラならばどんな場所に行くとしても自分好みの派手で豪奢なドレスを着るのだろうが、それではいけないのだ。
「ルーカスも一緒だったの?」
「ええ、二人で馬車に乗って…」
「指一本触れていないでしょうね」
ずいと距離を詰めて来たエラの表情は冷たい。思わず息を飲んだが、気にするのなら最初からきちんと戻ってきて、自分が夫と共に行けば良かったのだ。
少々不満に思い、それが表情に出てしまったのだろう。エラは額に青筋を浮かべ、苛立ちを抑える事もせず思い切りリリーの頬を張り倒す。
殴られると予想していなかったリリーは、耐えられずに床に倒れ込む。驚きと痛みで言葉が出ず、張り倒された頬を抑える事しか出来ない。
今まで抓られる事はあっても、頬を叩かれるなんて事は一度も無かった。
「ね、姉さん…?」
「私が何処で何をしていようと私の勝手よ。でも、ルーカスは私の夫なの。妹が自分の夫と良からぬ関係にならないか気にしちゃいけない?」
「私、殿下とそんな関係になろうなんて考えていないわ!」
「当たり前よ!」
床に倒れ込んだままのリリーの手を、エラは躊躇なく踏みつける。痛いと声を上げても、ぐりぐりと靴底を押し付けられるだけだった。
痛みで自然と溢れた涙が頬を伝う。顔を歪ませる妹を見下ろすエラの表情は恐ろしく冷たく、絶対に従わせるという明確な意思を感じた。
「忘れないで。私は私の好きに生きる。私は王太子妃、いずれこの国で一番身分の高い女になるの」
ただの商人の娘だった筈なのに、突然王太子妃となった事で随分と横柄になったらしい。元から我儘だったが、城に来てから更に酷くなった。
「貴方は今まで通り、私の代わりに働けば良いの。何をしているか探らず、ただ黙って、私の代わりをすれば良いのよ」
思い切り体重を掛けると、エラはそれで満足したのかリリーのドレスを踏みつけて部屋の扉を開く。
思っていたよりも早く解放された事に安堵したが、痛めつけられた手を摩り、リリーは姉の背中を睨みつけた。
「そのドレス、もういらないわ。どうせ着ないもの」
にっこりと微笑んだエラは、そのまま扉を閉じた。悔しい。どうして殴られなければならなかったのだ。何も言い返せなかった事が情けない。
ボロボロと涙を流し、外に聞こえぬよう声を殺して泣くリリーは、腫れあがった手をしっかりと握りしめた。
—コンコン
控えめなノックが響く。返事をする程の余裕はない。誰かにこんな場面を見られたら困るが、しゃくり上げてしまっては何も答える事は出来ない。
「いないのか」
無遠慮に開かれた扉から顔を覗かせたのはトーマスだった。部屋の真ん中で泣いているリリーを見つけると、目を見開きすぐさま部屋に入り、そのまま後ろ手に扉を閉じた。
「どうした、怪我を…」
「あ、姉に…」
「殴られたのか?その手は?」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られるのは恥ずかしかったが、トーマスは胸元からハンカチを取り出し、そっとリリーの頬を拭ってくれた。
「何があった」
「お、怒らせて…踏まれて…」
「踏まれた?手を?」
普段よりも深々と眉間に皺を刻み、トーマスはすぐさまリリーの手を取る。
折れてはいないようだが、真っ赤に腫れあがり、所々皮がむけている。可哀想にと指先で触れると、小さく舌打ちをして立ち上がった。
「今出て行ったばかりだな」
「まって…!」
腫れていない方の手で、しっかりとトーマスの手首を掴んだ。止めるとは思っていなかったのか、トーマスは驚いたような顔でリリーを見下ろした。
「姉は、きっと認めません。それどころか、トーマス殿下に酷い事を言われたとルーカス殿下に泣きつくでしょう」
エラならば絶対にそうするだろう。
まだしゃくり上げるのは落ち着かないが、涙は止まった。しっかりと握った腕を引き寄せ、トーマスの顔を真直ぐに見据えた。
「この痛みは、いつか私が自分で返します。必ず、この手で」
一晩何処で何をしていたのか知らないが、身代わりをしてくれた妹の頬を張り倒し、手を踏みつけるような女がいずれ王妃となる。
そんな未来は見たくない。許されるなんて思えない。
「随分と顔つきが変わったな」
「殿下が仰ったのでしょう?私を妃に迎えても良いと」
王太子妃になるのなら、邪魔になる女は蹴落とさなければならない。その為には何だってしよう。姉だって、自分がやりたいように生きる為に何だってする人なのだ。
同じ顔をした女が、同じような事をする。ただそれだけの事。
「昨晩はまだ迷いがありましたが、この痛みで目が覚めました。あの女は、この城にいてはいけません」
膝を付いたトーマスの手を取り、リリーは叩かれた頬にもっていく。触れた瞬間は痛んだが、その痛みを頭に刻み込みたかった。いつかまた迷った時に思い出せるように。
「私が、王太子妃の椅子に座ります」
しっかりと言い切ったリリーに、トーマスはにたりと笑う。握られた手をそっと離すと、そのままリリーの手を取り、腫れあがった手の甲に唇を落とした。
「指輪を贈ろう。君に似合う最高の物を」
二人きりの部屋の中、兄と姉に反旗を翻そうとする身代わり達は手を取り合う。もう影にはならない。日向に出る。
座る場所に邪魔者がいるのなら、二人で一緒に蹴落とせば良い。
薄暗かった部屋は日が沈み、すっかり暗くなってしまったが、取り合った手の体温が、確かに相手がここにいると証明してくれていた。