森の中の王子様
あの日、リリーは継母に言われてジャムにする用の苺を集めに森へ入った。
沢山作りたいから、籠一杯に集めて来てねと送り出した継母と義姉たちは、それぞれ自分の仕事を片付ける為に朝から働いていた。
私も行くわと言って一緒に家を出たエラは、森に着く前にさっさとリリーから離れ、森の入り口の陽だまりで昼寝をし始めた事を思い出す。
いつもの事だと呆れ、リリーは籠の中に苺を沢山摘めてやろうと、森の奥へ奥へと進んで行った。
籠半分に苺を詰めた頃だっただろうか。ふいに遠くから聞こえた馬の蹄の音に顔を上げた。誰かが狩りでもしているのだろうかと周囲を見回しているうちに、目の前に現れた黒馬に乗った王子様。
生まれて初めて胸が高鳴った。
黒い馬に乗った、黒い髪の王子様は、驚いたように目を見開いて固まっていた。
「失礼…人がいるとは思わず」
「こんにちは。狩りの最中ですか?」
「ああ、そうだ。鹿を追っていたんだが…見失ったようだ」
鹿を見なかったかと続けた王子様は、馬から降りてリリーに歩み寄った。とても綺麗な人だと見惚れたリリーは、慌てて頭を下げて距離を取る。
継母に言われていたのだ。未婚の女性が男性にあまり近付いてはいけないと。
「怖がらせてしまったのならお詫びしよう。君はこの森に住んでいるのか?」
「いえ、森を抜けた先の家の娘です。苺を集めていて…」
見知らぬ人に住んでいる場所を教えて良かったかしらと思い付き、ごにょごにょと言葉を詰まらせたリリーに、王子様はにっこりと優しく微笑んでくれた。
「苺なら、この先の小川のほとりに沢山生っているのを見た。行ってみると良い」
「まあ、そうでしたの。ありがとうございます」
優しい人のようだと安心した時、数等の馬の蹄の音が響いた。どんどん近付いてくるその音に、王子様は眉間に皺を寄せて小さく溜息を吐いた。
「もう来たか…騒がせて申し訳なかった。小川の方には行かないようにするから、君も矢と猟犬に気を付けて」
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた時、丁度追って来たらしい従者たちが王子様の後ろに着いた。
見知らぬ娘と話している事に気付き、怪訝そうな表情を向けた。
「殿下、鹿を見つけた者があちらに」
「そうか。兄上に見つけられてしまう前に行くとしよう。レディ、私はこれで」
馬に乗った王子様は、にっこりと微笑んで馬の腹を蹴る。従者たちも紳士的に頭を下げて去っていった。それが、この国の王子様との出会いだった。
◆◆◆
王子様と出会ったあの日の記憶を夢に見て、リリーは朝からなんとも微妙な気分だった。
エラは相変わらず出掛けたまま戻ってこない。いつまで遊んでいるのだと怒りたかったが、昨晩トーマスと話した事を思い出す。
トーマスは王太子に、リリーは王太子妃に。
居場所を取り戻そうと誘ったトーマスは、どこまで本気で言っているのだろう。
考えてみれば、子供の頃から姉の事が嫌いだった。共に生まれて来たのだから、嫌いだなんて思ってはいけないと思ってきた。
いつまでエラにこき使われるのだろう。元はリリーが出会った筈の王子様を奪い取り、王太子妃の座に収まった大嫌いな姉。そんな姉の座を奪い取ったら、どんな顔をするのだろう。
悔しがる顔を見られるだろうか。怒り狂った姉は何をするだろう。自分こそが王太子妃、自分以外にその座に座る事は許さない。そんな事を喚くだろうか。
いつまでも妹に面倒事を押し付けて、好き勝手遊び回っているだけのくせに何をと笑ってやりたい。今だってそうだ。
朝から孤児院の視察の為に馬車に揺られるのはエラの筈だったのに、実際揺られているのはリリーだ。今頃姉は何をしているのだろう。一日遊び回ってくる事はよくある事だったが、一晩戻ってこないなんて事は初めてだった。
夫がいる身のくせに、何処で何をしていたのか、戻ってきたら問い詰めてやろう。
「どうかした?エラ」
「ふふ、何でもないわ」
向かいの席に座るルーカスは、カーテンの隙間から窓の外を覗くリリーを不思議そうに見つめて問いかける。
貴方の妻の事を考えていたのなんて言ったところで、ルーカスは自分の妻を見分ける事が出来ないのだ。
「城下は賑やかだと思って、覗いていたの」
「ああ…楽しい場所が沢山あるよ。僕らはなかなか遊びに行く事は出来ないけれど…」
「そうよね…いつか、遊びに出てみたいわ」
護衛を沢山付けなければねと笑ったルーカスの視線は忙しない。そわそわと落ち着かないように指先を動かしているが、きっと何か隠し事をしているのだろう。
昨晩ルーカスは、妻の元へ顔を出してくれと弟に頼み、自分は知らない女と闇夜に消えた。
朝顔を合わせた時には穏やかに微笑み、いつもしているのか妻の頬にキスをした。
大方、ルーカスもエラと同じように城下に遊びに出ているのだろう。
「…ねえルーカス。私に何か隠し事をしているんじゃない?」
「え…?隠し事なんて、君に?」
うろうろと視線を彷徨わせる顔を見るに、絶対に嘘を吐いている。というよりも、隠し事をしている事を知っていて聞いているのだ。
じっとルーカスを見つめるリリーの青い瞳は、温度を失ったように冷たい。普段エラがルーカスに向ける視線は、熱に浮かされたように熱いというのに。
初めて妻からそんな視線を向けられたルーカスは、何かを誤魔化す様にへらりと笑った。
「愛しい君に隠し事なんてしないよ」
「…そうよね。ごめんなさい、変な事を聞いたわ」
にこりと微笑み、リリーはルーカスから視線を外す。
森の中で出会った時はあんなに素敵な人だと思ったのに、今のルーカスは結婚したばかりだというのに妻以外の女にうつつを抜かし、弟に代役を頼むような男。
いつか王になる筈なのに、弟に面倒事を押し付けて遊ぶような人であると知ってしまった。
姉の結婚が決まったあの日、にこやかに挨拶をしに来てくれたあの日のルーカスの顔を見て、淡い恋心は一気に冷めて霧散した。
「あー…そう、森の中で出会った時、苺を摘んでいただろう?」
「ええ、ジャムにする為に」
「あの森に、また一緒に行かない?」
様子のおかしい妻の機嫌を取る為に出した話題なのだろうが、目の前に座っているのはリリーだ。
美しい思い出になる筈だった記憶は、虚しい思い出になってしまった。その話は、貴方からされたくないわと喚きたくても、今の自分はエラなのだ。
「大きな木の洞があってね、その周りに苺が生ってるんだよ」
「…小川のほとりは?」
あの日、王子様は小川のほとりだと言った。実際に行ってみたが、言葉の通り籠に入りきらない程の苺が生っていた。あの日リリーは、籠いっぱいに苺を詰め、少しつまみ食いをして森から出たのだ。
「あ…」
そこまで思い出して気が付いた。
あの日の王子様は言った。兄上に見つけられる前にと。この国に王子様は二人しかいない。
双子の兄、ルーカス。
双子の弟、トーマス。
王子様の言った「兄上」とやらが誰の事なのか気が付いた瞬間、リリーは目の前に座る男の顔を凝視した。
この人は、嘘を吐いて結婚したのだ。姉と同じように、あの森で出会ったのは自分であると。
「エラ?」
「ふふ、ふふ…!」
なんて可笑しな話だろう。
王子の結婚相手を探す為の舞踏会が開かれたあの日、リリーはエラによって屋根裏部屋に閉じ込められていた。エラは舞踏会の会場で二人の王子の前に進み出て、私が森の中で出会った娘であると言ったのだ。
ルーカスが何故森の中で出会った王子が自分であると嘘を言ったのか分からないが、夫婦揃って嘘を吐き合い、神の前で永久の愛を誓うなんて滑稽な話でしかない。
「いいえ、何でもないわ」
滑稽なのは自分も同じだ。
たった一度、ほんの少し会話をしただけで恋をした。恋をした相手を姉に奪い取られたと思っていたが、実際は奪い取られてなどいなかったのだ。
自分も見分けられていなかった。トーマスは気付いてくれていたというのに。帰って、リリーに戻ったら謝りに行かなければ。
ガラガラと車輪の音を聞きながら、リリーは薄らと笑みを零して目を閉じた。