アラベラ
「王太子妃様万歳!」
「王太子妃様ご懐妊!」
王都のあちこちで騒ぎになるのも無理は無い。エラの妊娠が発表され、教会は鐘を鳴らし、王都の住民たちは赤子の性別がどっちだとか、名前は何だとか、何かと賭け事に利用しようとした。
愛する王太子妃様のめでたい話題をそんな事に使って良いのかと止める者はいない。
少し前に王太子妃の妹であるリリーが亡くなったという知らせが国に広められたのだ。
悲しい知らせがあったばかりだが、嬉しい知らせがきた。浮かれて何が悪いのだと、酒場の客たちは酒を呷る。
そう言って呆れているダニエルは、昨晩も酒場へ出かけていた。
「リリー様への献杯と、王太子妃殿下万歳と乾杯をする輩がまぜこぜでした」
「生きてるのにね」
うふふと笑うリリーは、少し顔色の悪いダニエルに水を差し出す。
家を襲撃され、自分の手で燃やしたリリーはすぐにトーマスと共に王都に来ていた。元々義母が隠れていた屋敷に匿ってもらっているのだが、今の所エラはリリーが生きているとまだ知らないらしい。
襲撃してきた男はきちんと仕事をしてくれたようだ。仕事をしてくれたからリリーが死んだと騒ぎになったのだ。あれから男がどうしているかは知らないが、恐らく城に戻っているトーマスが上手くやってくれているだろう。
リリーを探しに飛び出したトーマスがいつまでも戻らないのは不自然だ。リリーが死んだと知り、絶望しながら城に戻って来たという事にして、トーマスは一度村に戻ってから馬の手綱を引き、歩いて城に戻った。
その姿を見た人々は、可哀想な王子様とトーマスに同情している。
「弟は恋人を喪ったのに、兄は浮かれていると言う者もおりました。本日昼から、城のバルコニーで王太子殿下が顔をお見せになるそうですよ」
「全く、本当に無神経な男なのね!エラの夫に相応しいわ!」
ダニエルが昨日拾ってきたビラを手に、義母は有り得ないと怒っている。もう少し配慮するべきだとか、トーマスが可哀想だと言っているが、目の前にリリーがいる事を忘れているのだろうか。
「見に行きたいわ」
「駄目よ。もし生きていると知られたらどうするつもり?」
「大丈夫よ、顔は隠して行くもの」
「駄目」
「トーマス殿下のお顔が見たいの!」
恋人に会いたいと駄々を捏ねる娘に、義母は何とも言い難いような顔をする。その気持ちは分からなくもないと思ってくれているのだろうが、誰に顔を見られるのか分からないのだから駄目だと首を横に振られてしまった。
今までのリリーならば大人しく諦めていたが、今のリリーは違う。舞踏会の日にはトーマスが迎えに来る。それまでに、エラの弱みを握っておきたい。
「離れた所からにするから!」
「もう…どうして突然反抗期になってしまったの?」
「奥様、お嬢様は閉じこもったままですから、少しくらいならば…私がお供いたしますので」
「ダニエルまで…分かったわ、髪と顔を隠してお行きなさい。ダニエル、お前は絶対にリリーから離れない事、良いわね」
眉間に皺を寄せ、二人に厳しく言いつけた義母は、コクコクと嬉しそうな顔をして頷くリリーに向かって溜息を吐いた。
前はもっと素直だったのにと小さく呟いているのだが、今の娘は素直で大人しいだけの女ではないと覚えてほしい。
義母にはまだ言っていない。
エラを引き摺り落とし、リリーが王太子妃になる事を。
◆◆◆
おめでとうと祝福する人々の声が響く。王都の住民が全て集まっているのではと思う程、城の前は人で溢れている。
この光景を、以前リリーはバルコニーの上から見ていた。
あの時の光景を思い出し、リリーはあまり近付きすぎず、遠すぎない位置を目指して人を掻き分けた。
帽子を目深に被り顔を隠しながら歩いているせいか、歩き難くて苛立つが、あまり遠くてはトーマスが見えない。
「アラベラ、あまり一人で先に行くな」
「あらごめんなさい」
少し遅れて追いかけてくるダニエルは、リリーをアラベラと呼んだ。先程二人で決めたのだ。リリーと呼んでもし万が一亡くなった王太子妃の妹だと知られたら困る。エラが使っていた偽名をそのまま使えば、アラベラを知っている誰かが近付いてくるかもしれないと考えたのだ。
そう上手くいかないと義母は言った。リリーもそう思うが、可能性が少しでもあるのならやっておいて損は無い。
あの日襲撃してきた男が、もう一度仕事をしてくれるとは限らない。確証が無いのなら、自分で集められるだけの駒を集める方が良い。
奪われたのなら奪い返す。
妹を殺してまで自分の地位を守りたいのなら、自分が同じ目に遭わされる事くらい覚悟している筈だ。流石に腹に子供がいるのなら、エラがやったような事をするつもりはないけれど。
「王太子殿下だ!」
「エラ様はどうした…?」
「きっと具合が悪いんだよ。つわりがあるのかも…」
耳をつんざく歓声。待ちかねていた民の前に、バルコニーの上からだがルーカスが顔を出した。真っ青な服に金糸の刺繍。表情は流石に見えないが、服の色くらいは分かる。
浮かれている。義妹が死んだばかりだろうと関係ない。我が子が無事生まれてくると信じている男は、ひらひらと手を振って微笑んでいるように見えた。
「トーマス殿下…」
手を振っていたルーカスが振り返り、手招きをしている姿が見えた。ゆっくりとした動きで、もう一人男が姿を現す。
全身黒の服に身を包んだトーマスだ。表情は見えないが、着ている服が喪服であると集まっている人々も気付いたのだろう。
幸福な兄。
不幸な弟。
並んだ双子のあまりに違う様子に、人々は徐々に言葉を失っていった。
「トーマス殿下、可哀想」
「兄なら弟を慰めるべきでは?」
「でも妊娠はめでたい事だし…」
「めでたい席に喪服なんて」
ああ、皆言いたいように言えば良い。聞いている限りトーマスが可哀想という声の方が多いようだが、城の中はどうだろう。
エラの評判は良くなかった。妹を苛める姉、喧嘩の末妹を城から追い出した。そうして妹は一人で死んだ。燃え盛る炎の中、逃げる事も出来ずに。
「なあ、エラ様がリリー様を殺したって噂聞いたか?」
「まさか…仲の良い姉妹だと思ったけど」
すぐ隣に立っている二人組が囁き合っている声が聞こえた。結婚式の日にも見に来ていたのだろう。仲睦まじい姉妹として見えていたのだろうが、抱き付いてきたエラはリリーの腕に爪を立てていたし、他に聞こえないように勘違いをするなと囁いた。
「アラベラ、人が多すぎる。戻ろう」
「分かったわ」
あまりダニエルを困らせてはいけないと義母に釘を刺されている。トーマスの姿を少し見られただけで満足しておこうと、リリーは大人しくダニエルに従ってその場を離れようと歩き出す。
「えっ」
「ようアラベラ、来てたのか」
ふいに腕を掴まれ、見知らぬ男が顔を近付けてくる。男に見覚えは無いが、男は確かにリリーをアラベラと呼んだ。随分整った顔の男だと思ったが、リリーはこの男とは初対面だ。
こんなに簡単にいくとは思わなかったが、狙った通りアラベラを知る人間が寄って来た事に、リリーはうっすらと口元を緩ませる。
「最近見なかったが…新しい男か?」
男はちらりとダニエルに視線を向け、ニタニタと嫌な笑みを浮かべる。ダニエルはそれが気に入らないのか何とも言えない表情をしているが、リリーは男の腕をそっと振り払い、にっこりと微笑んだ。
「ごきげんよう。どちら様かしら」
「何だよ、冗談のつもりか?」
男は不服そうな顔をするが、初対面なのだから名前を知らずとも仕方がないだろう。
どう会話を続けようかと考えているうちに、男は再び嫌な笑みを浮かべてひらひらと手を差し出して言った。
「ちょっと困ってんだ。助けてくれよ」
「助ける…?」
「ここじゃ人が多い。移動しようぜ」
断る余地を与えないつもりなのか、男はリリーの手を取ってぐいぐいと人込みを掻き分け歩き出す。咄嗟にダニエルの手を掴んだが、リリーは男の手を振り払う事なく後を付いて歩いた。
この男はアラベラの顔見知り。姉が町で何をしているのか知る事が出来るかもしれない。
「お嬢様…」
男に聞こえないように小声で窘めるダニエルの声を聞かないふりをしているが、リリーは怯まない。
少しでもエラの弱みを握る事が出来る可能性があるのなら賭けてみたい。待っているだけでは王太子妃の椅子は手に入れられないのだから。
◆◆◆
男はリリーの腕を引っ張り、そのうち人込みから離れた路地裏に連れ込んだ。ダニエルも一緒に付いて来た事に気付くと嫌そうな顔をしたが、何か困っているらしい男はもう一度リリーに向かって手を出す。
「明日のパンも買えねぇんだ。助けてくれよ」
「お勤め先の主に給金の前借をお願いしてみては?私は助けてさしあげる事は出来ません」
「何だよ、お高く留まりやがって…」
舌打ちをし、苛々とした顔の男はダニエルに視線を移す。念の為町のどこにでもいる若い男を装っているが、ダニエルは護衛が出来る程度には鍛えられていると義母から聞いている。既に警戒態勢に入っているのか、ダニエルの手はしっかりと拳を握り込んでいた。
「なあ兄ちゃん、こいつの恋人か?」
「は…?」
「やめといた方が良いぜ、この女、どこで病気を貰ってるか分かんねぇからな」
「それはどういう意味かしら」
スッと細めた目を男に向けると、男はケタケタと笑いながら言葉を続けた。
曰く、アラベラという女は好き物で、見た目の良い男に誘われればすぐに何処かに消えていくような女らしい。
「貴方、お名前は?お勤め先はどちらかしら」
「何なんだよ、何度もベッドで俺の名前を呼んでたくせに。ヘンリーだよ」
何かがおかしいと気付いたのか、ヘンリーと名乗った男はリリーから距離を取る。
にっこりと微笑んだリリーは、くるりと振り返ってダニエルに言った。
「捕まえて」
「はい」
言われる事が分かっていたのだろう。ダニエルはすぐさまリリーの脇を通り、身を屈めてヘンリーの肩を掴むと、そのまま地面に叩きつけた。
「おい!何なんだよ放せ!」
じたばたと暴れるヘンリーは逃げられないのか、背中に乗っているダニエルに罵詈雑言を浴びせた。
それを見下ろすリリーは、背中を伸ばして堂々と胸を張る。
「ヘンリー、と言ったかしら?私はアラベラではありません。その妹です」
「はあ?!アラベラだろ!その顔何度も見てるぜ!」
整った顔を歪ませ、放せと喚くヘンリーは意味が分からないと困惑している。同じ顔をした女がいると想像する事が出来ないのだろう。
「双子ですから、同じ顔をしているというだけですわ。姉の話が聞きたいの。お時間をいただけますか?」
小首を傾げてヘンリーを見下ろすが、組み敷かれているせいか素直に了承はしてもらえないらしい。
ダニエルの手首を引っ掻き、どうにか離れようと暴れ続ける姿に呆れながら、リリーは腰に下げていた財布から銀貨を一枚取り出し、ヘンリーの眼前に突き出した。
「お礼はするわ」
「…誰だ、お前」
「アラベラの妹です。名前は聞かないで」
放してやれと手をひらつかせると、ダニエルはすぐにヘンリーを解放して立たせた。逃げられないように警戒はしているようだが、ヘンリーも金が欲しいのか、逃げる素振りは見せていない。
「私の質問にお答えくださるのなら、パンが買えるくらいのお礼はいたします」
「…何を答えれば良いんだ?」
「貴方は何者?」
「画家の卵。アラベラは俺のモデルで、パトロンみたいな事もしてくれた」
パトロンという事は、恐らくエラはこの男に金を渡していたのだろう。金を渡す代わりにベッドの共をさせていた。ヘンリーの顔は整っているし、恐らく好みだったのだろう。
「どこで出会ったの?」
「町を歩いてたら向こうがぶつかって来たんだ。質素な身なりしてるつもりだったんだろうが、こっそり出かけてる金持ちの令嬢にしか見えなかった」
「ああ…」
エラが外出する時は、本人曰く粗末な恰好をしていたようだが、リリーが見るに充分派手な恰好で出かけていた。ヘンリーだけでなく、アラベラを知っている人間はどこかの金持ちの娘だと思っているのだろう。
「絵のモデルになってほしいって頼んだらすぐ付いて来た。何度か会ってるうちに誘われて…そのまま」
「成程。貴方以外にそういった関係の殿方がいるか、ご存知ありませんか?」
「さあな。アラベラって名前と、腰に三つ並んだ黒子があるって事しか知らないんだ」
以前実家を襲撃してきた男も同じ事を言っていた。姉が服を脱がなければ絶対に知られないような特徴。それを知っているという事は、ヘンリーは確かにエラと肉体関係を持っているのだろう。
「ヘンリー、私に協力してくれるかしら」
「は?」
「アラベラに会わせてあげる。おねだりがしたいのなら、直接本人に話してちょうだい」
「どういう…お前、本当に何者だ?」
「何者でも良いでしょう?はい、お話してくださったお礼です。パンくらいは買えるでしょう」
にっこりと微笑みヘンリーの手を取ると、リリーはもう一枚銀貨を取り出して握らせた。
これで金がもらえるのかと目を瞬かせるヘンリーは大事そうにそれを握りしめ、訝し気な目をリリーに向けた。
「今度お城で舞踏会があるのをご存知かしら?」
「ああ…王妃様が開くって話は聞いたけど」
「そこに来て。アラベラはお城にいるから」
「成程な、部屋持ち貴族の娘だったか」
そりゃあ金持ちだと納得したようだが、アラベラの正体は貴族令嬢ではなく、王太子妃エラであると知ったら、ヘンリーはどんな顔をするのだろう。
「もし、アラベラのお友達がお知り合いにいらっしゃるのならお連れになって。私の従者が一緒にご案内いたします。待ち合わせは…そうね、そこの時計塔はどうかしら?」
路地裏からでも見える程大きな時計台。その下でダニエルが待っていると言えば、ヘンリーはこくりと頷いた。
「協力って…何をすれば良いんだ?」
「貴方が知っているアラベラについてのお話をしてほしいだけ。簡単でしょう?」
「それだけで良いのか?」
「ええ、それだけ。それでは、また当日ね」
行きましょうとダニエルに微笑むと、二人は連れ立って路地裏から出た。
ルーカスの挨拶は終わったのか、集まっていた人々は解散し、ゆっくりと各々の家へと帰るところのようだ。
「お嬢様、あまり危険な真似は…」
「貴方が守ってくれるもの」
「私は奥様の従者であって、お嬢様の従者ではございません」
「説明が面倒だったの。協力してね」
「…手当に期待します」
「お義母様に言って」
舞踏会まであと数日。出来るだけの事はしているつもりだが、充分なのかまでは分からない。トーマスは大人しく待っていろと言っていたが、大人しくとはどの程度の事を言うのだろう。
今してきた事は「大人しく」の範疇に入っているのだろうか。知られたら怒られるだろうか。それとも褒められるだろうか。
「疲れたわ。帰りましょう」
「はい、お嬢様」
人込みを歩く事には慣れていない。
早く帰って温まりたい。ダニエルが淹れてくれたお茶が恋しくなって、帰ったら淹れてと頼んでからは、リリーは黙って歩き続ける事しか出来なかった。