襲撃
今日も晴れた空は何処までも続く。毎日見ていた空はいつもと変わらず、煙突から昇る煙がゆらゆらと消えていった。
実家に戻ってからもう五日。特に変わった事も無く、リリーは穏やかに一日を過ごしていた。
食糧は村長が分けてくれた物があるし、フィリップたちが心配して顔を出してくれる。屋根が一部痛んでいたようで雨漏りの跡があったが、それはハリーが手早く直してくれた。
「いい天気」
城に持って行かなかった服を着て、リリーは腰を叩きながら空を見上げる。洗濯物を干すには絶好の天気だ。以前と同じように庭にシーツを干し、そろそろ食事の支度をしようと家の中に入ろうとした瞬間だった。
家の影から誰かが飛び出してきた。視界の端に捕らえてはいたのだが、特別な訓練を受けているなんて事はないリリーはあっさりと飛び出してきた男に羽交い絞めにされ、そのまま家の中に押し込められた。
床に叩きつけられ、そのまま背中に乗られては動けない。苦しいと暴れてみたが、男は静かにしろとリリーの後頭部を殴りつける。
「誰…?」
「誰でも良い。悪く思うなよ、金の為なんだ」
興奮しているのか、男の声は聞き取りにくい。荒い呼吸が耳障りで、暴れる事をやめたリリーはそっと自分の後頭部を両手で抑えた。
「うっ」
「悪く思うな、お前が悪い」
鈍い音と男の呻き声で、リリーは助かったと息を吐く。予想していたとはいえ、真昼間から襲われるとは思っていなかった。
「怪我はないか?」
「大丈夫です」
心配そうに声を掛けながら、火掻き棒を手にしたトーマスは襲ってきた男を蹴り飛ばす。床に転がった男は気を失っているようだが、胸が上下に動いている為命はあるようだ。
「女を殴るとは…おい、起きろ」
「そんなに強く殴られていませんよ。あまり蹴ったら本当に死んでしまうかも…」
白目を剥いている男をつま先で突いているトーマスは、スカートを叩いているリリーに目を向ける。
「わざわざ襲わせて良かったのか?母上と共に王都に行けば良かったのに」
「姉の事ですから、襲う前に私が家に戻っているか報告させると思いまして」
「だから生活している姿を見せていたのか」
村人たちもリリーが戻っていると聞いて何人か訪ねて来てくれた。困っている事があれば助けると言ってくれる人は多かったし、元気そうで安心したと涙ぐむ人もいた。
襲われる事を予想していても逃げなかったのは、生きている姿を村人たちに見せる為。どうして戻って来たのかと問われる度に、姉に追い出されたと言ってやる為だ。
エラがどういう人間なのかを知っている村人たちは、あの子ならやりかねないと皆リリーに同情してくれた。
中にはエラの代わりにと良からぬ事を企む男もいたが、それはフィリップやハリーが守ってくれていた。トーマスが出て行くと、エラに報告が行ってしまう為家の中に隠れてもらっていたのだ。
トーマスが乗って来た馬は森の中に隠してある。世話はマージとダニエルがしてくれた。
「縛っておきましょう。暴れられても面倒ですので」
「ああ。俺がやろう」
女の力よりも男の力で縛った方が良い。慣れた手付きで男を縛り上げるトーマスには、何処で覚えたのだと聞いてみたかったが、聞かない方が良い事もあるだろう。
「変な目で見るな。狩りで罠を仕掛ける事もあるから覚えただけだ」
「そうですか」
顔に出ていたかと自分の頬をぐいぐいと揉んで、リリーは縛り上げられた男に近付いた。
まじまじ見ても男に憶えは無い。村人では無いだろうし、身なりはそれなりに整っている。
貴族ではないにしろ、それなりに裕福な家の男に見えた。
「二十前後か?持ち物からは誰なのか分からないな」
「本人に聞けば宜しいかと。支度をします」
そう言って、リリーは部屋に置いていた鞄を持つ。残っている食糧も袋に詰め直し、扉を開いて外に置いた。
「本当に良いのか?」
「構いません。思い出は私の中に」
「そうか」
小さく呟くと、トーマスは事前に話し合っていた通りに動く。食糧庫として使っていた小部屋に入り、保管していた油を家のあちこちに撒いた。
リリーも同じように油を撒くと、男の顔を思い切り叩いてから水を掛けた。
「ぶっあ…!あ?!」
「ごきげんよう、不審者さん。お目覚めですか?」
「もう起きたのか?」
家の奥へ行っていたトーマスが急ぎ足で戻ってくる。その手には、火の灯った蝋燭が握られていた。
家の中に広がる焦げ臭いにおい。立ち込める黒煙。何が起きているのか分からないらしい男は、トーマスが歩いて来た方を凝視して固まった。
「何…何をしてるんだ!」
「何って…貴方の代わりにお仕事を」
しれっと言ったリリーは、最後にと残していた玄関ホールに蝋燭を放り投げたトーマスと共に外に出た。
燃え盛る炎を前に、縛り上げられた男は叫びながら逃げようと藻掻いている。
「申し訳ございませんが、私は死ぬわけにいきませんので…代わりにお願い致します」
「や、嫌だ!俺は頼まれただけで!」
「お金で雇われたのでしょう?誰に雇われたのです?」
金で雇われただけなのならば、命を掛けてまで依頼主を守ろうとはしないだろう。男は予想通り、雇い主はリリーと同じ顔の女だと言った。
「何故、私を狙うかは聞いていますか?」
「知らない!良いから助けてくれ!解いてくれ!」
「依頼主とはどのようなご関係で?どこで知り合ったのですか?」
静かに問いかけるリリーに、男は人殺しと叫ぶ。お前が言うなとトーマスが小さく呟いたが、勢いを増している炎に怯えた男はどうにか立ち上がろうと藻掻いていた。
「お答えいただけないのですね。分かりました」
悲しそうな顔を作り、リリーはそっと扉を閉める。男が助けを求めて叫んでいるが、構う事は無い。出て来られないように角材を扉のノブに挟み込む。
ドンドンと体当たりでもしているような音と衝撃が扉を叩くが、角材のせいで開かないようだ。
「街!街だ!何度か寝た!アラベラって名前の!」
「アラベラ…知らないお名前です」
「アンタと同じ顔だった!腰に三つ並んだ黒子がある女だ!」
男が叫んだ女の特徴は、確かにエラの特徴だった。幼い頃から何度も見た、三つ綺麗に横に並んだ黒子。フォークで刺されたみたいだねと笑った、姉の印。
「頼む…げほ、げほっ…!たすけ…!」
「リリー」
家の中から何かが崩れる音がした。家具か何かが崩れ始めているのだろう。これ以上は本当に死んでしまう。それは流石にやりすぎだと、リリーは角材を引き抜いて扉を開いた。
「お前、私に協力しなさい」
飛び出してきた男を見下ろしながら、リリーはにっこりと微笑む。送り込んだ男がいつまでも戻らないのでは、失敗したか逃げたと思われるだろう。現に失敗してはいるのだが、驚くエラの顔が見たい。
「炎は、熱いでしょう?」
激しい咳を繰り返す男は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で何度もこくこくと頷いた。
自分を見下ろす男女に完全に怯えた男は、腕を縛られたまま引き摺られる事になった。
◆◆◆
リリーが城を出てからというもの、エラは城での居心地が悪いと苛立っている。ルーカスは心配してくれているが、貴族たちは冷ややかな視線を送ってくる。
それが酷く腹立たしいのに、守ってくれる人は夫だけ。その夫も仕事で忙しく常に一緒にいられるわけではない。夜になれば傍にいてくれるのだが、昼間はたった一人で耐えるしかない。
どうしてこうなってしまったの?
私は王太子妃。いずれこの国で一番身分の高い女になる筈なのに。
私に気に入られようと笑顔ですり寄ってくるものではないの?
何度同じ事を考えただろう。穏やかに「ごきげんよう」と微笑んでも、誰もお喋りすらしてくれない。恭しく頭を下げてくれるだけで、そそくさと何処かに逃げられてしまう。
侍女たちもそうだ。必要最低限の世話はしてもらえるが、楽しくお喋りなんてしてもらえない。
城に来たばかりの頃も平民のくせにと陰口を言われていたが、あの時は気にならなかった。
漸く貧乏生活から抜け出せた。これでやっと、食べる物にも困らない、ボロボロのドレスなんて着なくて良い。毎日美味しい物を食べて、美しく着飾り、誰もが羨む麗しの王太子妃になれたと思った。
だが、城に来てすぐに思っていた生活とは違うのだと知った。城で生活していれば、毎日楽しい事だけをして生きられると思っていた。それなのに、今のままでは王妃になった時に困るからと淑女教育をされる事になった。
幼い頃、まだ実の両親が健在だった時散々叩き込まれた事をもう一度教わるのが嫌だった。
心配せずとも、求められた事は一通り出来ると思っていた。実際やってみると、長い間家事に追われる生活をしているうちに随分と色々な事を忘れていたようで、何度もキャンベル夫人に溜息を吐かれ、それでは駄目だと眉間に皺を寄せられる。
上手くいかない。こんな生活をするなんて思っていなかった。どうして上手くいかないの。
もう嫌だ。逃げたい。遊んでいたい、少しの間だけで良いから。
そう考えているうちに、同じ顔をしている妹を思い出した。昔から入れ替わっては親を騙して遊んでいた。時々本当は私はエラではなくてリリーだったのでは?なんて思ってしまう事もあったが、今となってはどうでも良い。
今の私は王太子妃エラ。誰よりも良いドレスを着て、大粒の宝石を身に着けて優雅に微笑むの。それが当然で、許される人間になった。
妹を利用して何が悪い?妹の素敵な出会いを奪い取って何が悪い?
皆そうではないか、人の幸せよりも自分の幸せを望むのが人間という生きものの筈。それが妹であろうが関係無い。舞踏会で出会った王子と結婚出来たのは、神がそうあるべきだと思ったから。
私の邪魔をしなければ、リリーにだって良い縁を結んでやっても良いと思っていたのに。最近のリリーは反抗的だった。邪魔をするつもりなのか、エラの評判を落とすから追い出すしか無かった。私は悪くない、間違っていない。
追い出すだけでは不安だ。運命の恋だったと国に流された話。あれはエラではなくリリーの物語。それを知っているのは家族だけ。ルーカスですら知らない。その秘密をいつバラされるかと不安を抱き続ける生活に疲れた。
ルーカスさえ、ルーカスさえいれば良い。肉親がいなくても、彼の妻でいる限り私の身分は王太子妃。子供を産む事が出来れば、次期王の母としてゆるぎない地位を手に入れる事が出来る。
「私、間違っていないわよね」
自身の腹を撫でながらエラは呟く。膨らみもしていない腹だが、月の物が暫く来ていないのだ。きっと大丈夫、無事に産む事が出来れば安心して生きていける。
どうか男の子でありますようにと願いながら、エラはそっと口元を緩ませた。夜になったらルーカスが部屋に来る。そうしたら、子供が出来たかもしれないと教えてやろう。
きっと喜んでくれる。お祝いだと言って褒めてくれる筈。男の子が生まれてくれるのが一番良いが、女の子だったとしても身籠る事が出来ると証明になる。
もう惨めな生活などしない。煌びやかな城で穏やかに生きるのだ。その為には何でもやろう。秘密を知っている妹を消す事に躊躇いなど無い。
さようなら、私の半身。
鏡に映る自分の顔は、どこか疲れたような顔をしていた。