迎え
夜には行きますとダニエルは言った。まだ夜まで少し時間があるが、森へ行くには少し遅い時間だ。
リリーは迎えが来ているのではないかと心配しながら、窓の外に見える森を見つめた。
城を出る時部屋に書置きを残しておいた。約束とだけ書いた小さなメモだが、トーマスならばそれが何を意味しているのか分かってくれると思った。
殆ど賭けのようなものだったが、何処にいるのか書置きを残し、それがエラに見つかれば握りつぶされるような気がしたのだ。
エラは妹が実家にいると思っている。流石に真夜中に到着してしまっては皆眠っているだろうからと実家に帰ったが、エラの事だからすぐに刺客を送ってくると予想したリリーは、幼馴染の家に匿ってもらっていた。
義母はお家で良い子で待っているよう手紙に書いていたが、何処でとは指定していなかった。恐らく家で待っているのが正解なのだろうが、義母が指定しなかったという事は、エラの動きを警戒しているのだろう。
秘密を知っているからと義母と義姉の命を奪おうとするような女だ。共に生まれて来た実の妹であろうとも、命の保証はないと義母も分かっている。リリー自身も、家にいるのは危険だと考えた。
「リリー、お客様だ」
かまどの前で座り込んでいたリリーにハリーが言う。振り返れば、綺麗なドレスを着た女性がダニエルと共に入ってくるのが見えた。
「お義母様!」
「ああ、良かった…無事ね!」
少し煤で汚れている事も気にせず、ドレスの女性はしっかりとリリーを抱きしめた。良かったと何度も繰り返す女性は、紛れもなく血の繋がらない母だった。
「お怪我はされませんでしたか?お義姉様たちは?」
「あの子たちは大丈夫。国の屋敷で元気にしているわ。私も怪我なんてしていないから安心なさい」
無事の再会を喜びながら、リリーは力の限り義母の体を抱きしめた。ふわりと香る香水の匂い。キラキラと輝く宝石。初めて会った時の、美しい夫人が戻って来てくれた。
「一人でよく頑張ったわね、偉いわリリー」
良い子ねと頭を撫でる義母の手は、以前と変わらない。エラは初めて義母と会った時にきっと苛められると言っていたが、義母は一度もそんな事はしなかった。
愛する夫の娘なのだから、私の娘。実の母の墓に手を合わせ、任せてくださいと言ったのだ。
「もう大丈夫、一緒に私の国へ行きましょう。夫も連れておいでと言っているの。アンナもイザベラも、貴方が来るのを楽しみに…」
「夫?お義母様、再婚したの?」
三度目の結婚を知らないリリーは、きょとんとした顔を義母に向けた。歳を重ねても美しいのだから、妻にと望む男性がいても不自然ではないのだろうが、国に帰ってから一年も経たずに結婚している事に驚いてしまった。
「運が良かったの。前の奥様を病気で亡くされた伯爵でね。もう後継者もいるし、子供は望まないからって」
「そう…幸せ?」
「ええ、幸せよ」
にっこりと微笑んだ義母は、借金に苦しんでいた時とは異なり綺麗に化粧をしている。
何処から見ても良家の妻にしか見えないその姿。結婚相手は伯爵だと言った。それならば、義姉たちも豊かな生活を送れている事だろう。
「どうして、お義母様はこの国に?戻ったのではなかったの?」
「夫の仕事に付いて来たの。もしかしたら、リリーが困るかもしれないと思って」
義母が言うに、新しい夫は外交官の役目を担っているらしい。王妃主催の舞踏会に招待されているから、義母も一緒に付いて来た。
初めはダニエルだけを送り込み、もしリリーが助けを必要としているのなら、連れて戻ってくるように命令していたようだ。
「もしも二人仲良く出来ているのなら、それで良かったの。舞踏会で少し顔を見て、それで帰るつもりだったのだけれど…」
「予想通り、私が困った」
「外れてほしい予想だったわ」
苦い顔をして溜息を吐いた義母は、そっとリリーの頬に触れる。少しふっくらしたわねと微笑むと、見守ってくれていた家族に深々と頭を下げた。
「無理なお願いを聞いて下さり、感謝致します」
「いえ…私らは何も」
「娘は連れて帰ります。もうあの娘に任せておけないわ」
ぎゅっと拳を握りしめた義母は本気で怒っているのだろう。双子の片割れならば大事にするだろうと任せたのに、城から追い出してしまうなんてと小さく唸った。
「待って、私国を出る気は無いわ」
「ええ…?一人でどうやって生きていくつもり?女が一人で生きるのは難しいわ」
「やる事があるの。それに、きっと今頃私を探しているわ」
窓の外に広がる森の中、きっとトーマスはリリーを探してさ迷っている筈。早く約束の場所に行かなければならないのに、義母が迎えに来るなんて想像もしていなかった。
「駄目。あの人から娘を頼むと言われていたんだもの。再婚したってその約束は有効よ。貴方は私の娘、連れて帰って結婚相手を見つけてあげる」
「いらないわ!結婚相手はもういるもの!」
ぶんぶんと首を振り、リリーは左手を義母に見せ付ける。トーマスから贈られた指輪をまじまじと見た義母は、やれやれと頭を抱えて溜息を吐いた。
「リリー…夢物語は夢なの、現実じゃあないのよ。王子様と再会出来て舞い上がるのは分かるけれど…」
「これはトーマス殿下がくださったの。私を妃にすると言ったわ!」
義母に食ってかかるなんて初めての経験だ。いつも大人しく、義母の言いつけをきちんと聞くリリーが首を横に振った事は無い。初めて逆らったリリーに驚き、義母はぱちくりと目を瞬かせた。
遠くから馬の蹄の音がする。気のせいかと思ったが、徐々に近づいてくる音はリリー以外も気が付いたようで、義母はリリーの体を抱きしめてその場に伏せた。窓から覗かれても見えないように隠しているのだろう。
「黒馬だ」
窓を覗き込んだフィリップが呟いた。
その言葉に反応したリリーは、義母の腕を振り払って扉に向かって走り出す。
迎えが来た。探しに来てくれた。勢い良く扉を開けば、まだ少し遠いが黒馬に乗った誰かが此方に向かって走ってくる。
「トーマス!」
「リリー!」
リリーを引き留めようとしたフィリップの手が届くより先に、リリーは家を飛び出して男の名を叫んだ。
馬に乗っていた男もリリーの姿に気付き、家の前で馬を止めた。
「見つけた…!」
汗と埃に塗れたトーマスが、ほっとした顔で馬から降りてリリーの体を抱きしめる。どれだけの間探してくれていたのだろう。荒い呼吸を繰り返しながら何度もリリーの名を繰り返し、痛い程力強く抱きしめる腕は、確かにトーマスだった。
「約束の場所にいるんじゃなかったのか」
「色々あって…」
「森を抜けた先の家だけでは分からんぞ。何軒あると思ってるんだ」
熱い抱擁を交わす男女を見つめる四人は、ぽかんと口を開いて固まっている。それに気付いたトーマスは、気まずそうな顔をしてそっとリリーから離れた。
「幼馴染家族と、義母です」
「義母?育ての母か?死んだと聞いているが…」
「それも色々ありまして…」
何から説明しよう。困った顔を義母に向けると、同じように困り顔の義母は早くお入りなさいと二人を促した。
狭い家は七人も入れば窮屈で仕方無いが、家の主であるハリーはトーマスが乗って来た馬をどうするかという方が頭を悩ませるらしい。
「目立ちすぎるなあ…」
走り回っていた黒馬は疲れているのか、ぶるると鼻を鳴らして動く様子は無い。家の外に生えている草を食む様子を眺めながら、トーマスは小さく笑った。
「すまない、隠しておいてくれ」
「じゃあ…隣の裏庭に」
困り顔のハリーはフィリップと共に黒馬の手綱を引っ張る。なかなか動いてくれない馬に苦戦している姿に知らぬふりをして、残りの五人は家の中へと入って行った。
◆◆◆
沢山話をした。義母には城での生活がどのようなものだったか話して聞かせ、トーマスには城に行くまでの生活を話した。
聞かされた二人は、エラの横暴に眉を顰め、リリーを憐れんだ。
「やっぱり一緒に帰りましょう?いくら王子様でも、王太子であるお兄様とその妻であるエラから守り切れるとは思えないもの」
じとりとトーマスを睨んだ義母は、娘を守るようにしっかりとリリーの体を抱きしめる。取り返そうとするトーマスの手を叩き落とし、威嚇する様に鼻を鳴らすのだが、相手は王子様だという事を忘れているのだろうか。
「ご安心を、ルメジャン伯爵夫人。あの女は必ずや追い出しますので」
「追い出す?あの子を?追い出せるのですか?この国の王太子妃ですのに!」
「リリーの代わりにあの女を連れ帰れば良い。貴方の娘なのでしょう?」
にたりと笑ったトーマスは、偉そうにふんぞり返りながら義母を睨む。さてどうしようと困っているリリーは、口を挟めないマージと目が合ったが「助けて」と視線で訴えてもふるふると首を横に振られて終わってしまった。
「妹に王太子妃の仕事を押し付けるような女が未来の王妃?笑わせる。そう育ててしまったのは貴方では?」
「それは…」
「親だと言うのなら、貴方が責任を取るべきではないだろうか。血の繋がらない娘であっても、そのように大事に抱え込む人なのだから出来るだろう」
冷たく義母を睨むと、トーマスはそっとリリーの手を取る。体は抱きしめられていて引き剥がせないが、手は自由だった。
「トーマス様、お義母様に意地悪を言わないでください。私の恩人ですよ」
「ん、分かった」
「お義母様、苦しいわ」
「あ…ごめんなさい」
漸く離れてくれたと息を吐き、リリーはトーマスと義母の顔を交互に見る。二人共一緒に帰ろうと言ってくれるのは嬉しいのだが、義母と共に国を出るつもりは無いし、トーマスに守られながら城で生活するのは嫌だ。いつまでも続くものではないし、エラを追い出してやらなければ安心して暮らせない。
「ちょっと考えがあるの」
「何をするんだ?」
「色々です。協力してくださいな」
にっこりと微笑んだリリーを前に、その場の誰もが首を傾げた。