助けてくれる人
固い床で眠ると体が痛む。それを思い出したリリーは、暖炉の前で眠るのはやめておいた方が良かったかなと少しの後悔をしながらぐいと体を伸ばした。
眠る時には薪が爆ぜていた筈だが、すっかり燃え尽きてしまっている。寝起きでぼんやりとした頭をぐしぐしとかき回しながら周囲を見回すと、見慣れたキッチンがそのままの姿でリリーを迎えてくれているような気がした。
以前は此処で家族の食事を作っていた。芋の皮を剥いたり、シチューを作るのは大変だったが楽しかった。冷たい水で洗い物をするのは手が痛かったが、冷えてしまった手を義姉たちは優しく温めてくれた。嬉しかったなと懐かしい思い出に浸るリリーは自分の手を見つめる。
灰で汚れて黒くなってしまった手。そこに輝く指輪は、何だかしっくりこない。まるで下働きの小娘が女主人の指輪を盗んで嵌めているみたいだなんて思いながら、リリーは立ち上がって裏庭へと出た。
以前と同じ、何も変わらない裏庭。いつも水を汲んでいた井戸まで歩み寄ると、慣れた手つきで水を汲み、手と顔を洗った。
突き刺す様に冷たい水のおかげですっきりと目が覚めた。小さく息を吐き、もう一度ぐるりと裏庭を見渡した。
誰も住まなくなったこの家は、手入れもろくにされていないせいで少々荒れている。このままリリー一人で住み続け、適度に手入れをしてやれば問題無いだろうが、何分金が無い。稼ぐ術も無い。さてどうしようと考えたが、ふいに腹の虫が鳴った。
夕食も摂らずにせっせと歩いて帰って来たのだ。辿り着いた時には疲れていて忘れていたが、空腹である事を思い出してしまうとどうしてだか何か食べたいという事しか考えられない。
キッチンには恐らく何も無い。あったとしてももう食べられる状態では無いだろう。家を出る時に食糧は幼馴染の家に全て渡してしまったのだから。
森に行けば何か食べるものがあるかもしれない。昔義母に教わった罠を仕掛けておけば、小動物を捕らえる事が出来るだろうか。そんな生活はいつまで続けられるだろう。冬になってしまえば食糧を手に入れる事は今以上に困難になる。春まで生き残る事が出来るだろうか。生きる為には食べなければならない。食べる為には金がいる。今食べるパンすら無いこの状況をどうすれば良いのか考えてみても、空腹であるという事しか考えられない頭では、大した案は考えられなかった。
「リリー…?」
背後から聞こえた声に、リリーはびくりと肩を震わせる。誰も住んでいないとはいえ、ここはまだエラとリリーの実家で、所謂私有地だ。庭ならまだ分かるが、裏庭は家の奥にあるのだから、勝手に人が入ってくる事は予想していなかった。
「リリー?リリーだよな?」
「フィリップ!」
声を掛けて来たのが誰なのか理解した瞬間、リリーは緊張を解いて満面の笑みを浮かべた。
食糧を渡した家の息子、幼馴染のフィリップだった。別れの挨拶をした時から何も変わらず、そばかすが散った顔。驚いたように目を見開いているが、久しぶりねと嬉しそうに微笑むリリーと同じように笑みを浮かべ、大きく腕を広げてくれた。
「何だ、戻って来たのか?元気にしてたか?」
「元気よ!フィリップは?おじ様とおば様もお元気かしら」
「皆元気だよ。エラはどうしたんだ?」
双子揃って城に行ったんじゃないのかと首を傾げるフィリップは、家の中?と呟きながらそわそわとしている。
エラに恋をしていた事を知っているリリーは、眉尻を下げて小さく笑った。
「姉さんがここに戻ると思う?」
「あー…そうだよな、王太子妃様だもんな」
「貧乏生活なんてもう嫌なんですって。戻ってくる筈無いじゃない」
「それもそうだ。いつか大金持と結婚するって言ってたもんな」
戻ってくる筈がないと二人で笑い、フィリップはどうしてリリー一人で此処にいるのかと至極当然の疑問を口にした。
「追い出されたの」
「はあ?何かやらかしたのか?」
「姉さんを怒らせちゃったの。実家に帰りなさいって、王太子妃様からのご命令よ」
肩を竦めてそう言うと、フィリップは眉間に皺を寄せて小さく唸る。
エラに恋をしていた青年は、エラがそんな酷い事を言うとは思えないらしい。昔からエラは男性の前では優しい姉を演じていた。結婚相手としては眼中にない男の前でもそれは同じ。フィリップはエラが優しい女性であると信じていた。
「フィリップはどうしてうちに?」
「ああ…おばさんから頼まれたんだ。もしかしたらエラとリリーがこの家に戻るかもしれないから、手入れをしてくれって」
フィリップの言う「おばさん」とは義母の事だ。その話は初耳だが、優しい義母の事だ。慣れない城での生活に疲れた時、帰る場所を残しておこうと考えたのだろう。
確かエラはそのうち処分すると言っていたが、恐らく忘れていたか、もしくはいずれリリーを追い出す時に使おうと残していたのだろう。
「おばさん…残念だったな」
「そうね」
フィリップの言葉に、リリーは小さく頷く。
優しかった義母と義姉たちは、エラとリリーが城に行くと同時に実家のある隣国へと帰って行った。もうこの国に残る理由が無くなったのだ。
義母は元々隣国の裕福な男爵家の令嬢だったそうだ。最初の夫が病死し、実家に戻ろうと考えているところに双子たちの父親と出会った。苦労はさせないからと約束をしてくれたからこの国に来たのに、嘘つきだわと笑っていた義母。お爺様のお屋敷の方が贅沢出来たとけらけら笑っていた義姉たち。
彼女らは、エラによって命を奪われた事になっている。
エラは三人が抱えている秘密が漏れる事を恐れたのだ。運命の恋の相手はエラではない。その秘密が誰かに漏れてしまう事を恐れ、知っている者を消してしまえば良いと考えた。元々大嫌いな人間だからと、躊躇する事は無かったらしい。
別れが悲しいと義母たちを引き留め、皆でぐっすり眠っている隙に義母たちが乗る馬車の車輪に傷を付けた。巻き割り用の鉈を何度か叩きつけ、傷を付けるところをリリーは見ていた。
いくら嫌いだからと言って、そこまでするかと信じられなかった。危ないから乗ってはいけないと義母に訴えたが、義母は少し考えていつものように笑ってくれた。
—死んだと思わせておいた方が、私たちは安全だと思うわ。あの子は考えが甘いから。
そう言って笑った義母は優しく頭を撫でてくれた。大丈夫だからと抱きしめてくれた義姉たちも笑っていた。
もしもこの家に戻ってくる事があったら、フィリップを頼りなさいと言っていた事をふと思い出す。
悲しそうな顔をしているフィリップは、義母たちがもうこの世にいないと思っているのだろう。頼れと言われても、どう頼れと言うのだろう。
「…ねえ、フィリップ」
「なんだ?」
「お腹空いてるの。この家食べ物が無いのよ。少し恵んでくれない?」
「ああ、勿論。うちに来いよ、母さんが何か作ってくれるだろうから」
にっこりと微笑んだフィリップは、シチューが良いなと嬉しそうに言う。自分は食べたのではないかと笑って返せば、今まで城にいた事が夢だったのではないかなんて思ってしまった。
左手に輝く指輪が、夢ではないと教えてくれているような気がした。
◆◆◆
久しぶりに顔を合わせた初老の夫婦は、おかえりなさいと大歓迎をしてくれた。
お腹が空いていると聞くや否や、フィリップの母、マージは大急ぎで食事の支度をしてくれた。自分たちが食べるだけでも大変だろうに、リリーの為だからとありったけの食糧をテーブルに広げてくれる。
「おば様、こんなに食べられないわ」
「細っこいんだから食べないと!お城の豪華な食事と比べられるようなもんは無いけどね」
「我が家にあるのは黒くて固いパン!城のパンはどうだ?白くて柔らかいんだろう?」
フィリップの父、ハリーは大きく口を開いて笑いながら、椅子に座っているリリーに朝食の残り物らしいスープを出してくれた。具材の殆ど入っていない、味も薄いスープ。城では絶対に出てこない代物だが、リリーには何だか懐かしく思えて、行儀が悪いなんて事を気にする事も無く、器に口を付けて飲んだ。
「美味しい」
城で食べる食事は毎日腹が満足するまで満たしてくれた。どれもこれも食べなれないものばかりだったが、美味しいと目を見張る日が多く、コックは天才だと思っている。
だが、食べなれていた薄味のスープが恋しいと思う事もあった。
「お城でもっと美味しいもの食べてるだろうに」
嬉しそうに微笑んだマージは、茹でただけの野菜をリリーの前に差し出すと、おかえりと頭を撫でてくれた。色鮮やかな人参を口に含むと、優しい甘さが広がって思わず頬が緩む。
カサカサとしたマージの手が大好きだった。母が亡くなったばかりの頃、マージは幼い双子を心配してよく顔を出してくれたのだ。それにくっ付いてくるフィリップは、良き遊び相手だった。
母が居なくて寂しいと思う事は多かったが、心配してくれる優しいマージと、少し多く獲れたからと肉を分けてくれるハリーが大好きだった。勿論遊んでくれるフィリップも大好きだったし、いつまでも家族ぐるみで仲良くいられたら良いと思っていた。
「そうそう、前に苺のジャムをくれただろう?あれ美味しかったよ。無くなるのが惜しくて少しずつ食べたんだ」
トーマスと森の中で出会ったあの日に集めた苺は、帰ってすぐにジャムにした。
砂糖はとても高価なものだったが、義母が昔の馴染みに貰ったと言ってリリーにジャムを作ってほしいと頼んできたのだ。きっと貰ったというのは嘘だ。義母がいつも大事にしていたペンダントが無くなっている事に気付いた時、あの砂糖はペンダントを売って手に入れたものだと気付いてしまった。
苺のジャムを作ったのは、マージに贈る為だった。冬の寒さが堪えたのか、マージは体調を崩して寝込んでいたのだ。少しでも元気になるようにと、義母は普段良くしてくれる隣家の奥様に贈り物をと考えたらしい。
「奥様が砂糖を用意してくれたんだろう?本当に、お優しいお方だよ」
「血の繋がらない娘を育ててくださるようなお方よ。とても優しくて、大好きだったわ」
悲しそうに眉を下げているマージと、隣で同じような顔をしているハリーは、フィリップと同じように義母たちが馬車の事故で亡くなっていると信じているのだろう。ハリーに至っては、胸の前で十字を切っていた。
「ジャムの作り方を教えてくれたのはお義母様なの。思い出は消えないわ」
「そう…そうだね」
うっすらと目に涙を溜めたマージは、うんうんと何度か頷いてからリリーの肩を抱く。
久しぶりに抱きしめられたが、マージは以前よりも痩せたように思えた。
「それにしても…一人で戻って来たのかい?」
「聞いてくれよ、エラに追い出されたって言うんだ」
今まで黙っていたフィリップが、信じられるか?と肩を竦めながら言った。息子の言葉を信じられないのか、マージとハリーは揃って眉をひそめている。
嘘は言っていないのだが、確かエラは二人の前でも良い子を演じていた筈だ。もしかしたらエラはそんな事はしないと言うだろうか。
「やっぱりね、そうなると思ってたんだ」
「え…?」
リリーを抱きしめていたマージは、フンと鼻を鳴らすと部屋の隅に置いてあった箱から何かを取り出して差し出した。
手紙である事はすぐに分かったが、誰からの手紙なのかは分からない。封筒に何も書かれていないのだ。
「読んでごらん」
マージに促され、リリーは封筒から便箋を取り出して開く。懐かしい筆跡、義母の文字であると理解した瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。
—困っている?それならいつもの相談場所に行きなさい。きっと良い事がある筈よ。
短い文章だが、確かに義母の文字だった。
読み終えて顔を上げると、ハリーは身支度を始めているようで、マージに外套を用意しろと言いつけている。
「あの…」
「エラなら分からない。そうだろう?」
にんまりと笑ったマージは、家の奥から持って来た外套をリリーに着せながら言った。
「生憎私らはエラがリリーのふりをしているのなら分からない。何度か騙されているからね。その手紙は双子のどっちが帰ってきても渡す様に言われてるんだ」
「俺たちは文字が読めん。何が書いてあった?連れて行ってやってくれと頼まれてはいるんだ。どこに行けば良い?」
外套を纏ったハリーがそう言うと、家族三人はじっとリリーを見つめて黙り込んだ。
三人が何を考えているのかは何となく分かる。今この場にいる女は、エラなのかリリーなのか分からない。分からないから、待っているのだろう。
「貴方たちは…どちらの味方?」
「働き者の方」
「貧乏人を愛してくれる方」
「着飾るだけの無能は要らない」
三人が順番に言った。エラに恋をしていた筈のフィリップまでもがそう言った。もしや、この三人は義母との秘密を知っているのではないだろうか。
「何処まで知っているの?」
「君が知っているところまで」
そう言って、フィリップは腰に下げていた汚れた布をリリーの頭に巻き付ける。金色の髪が隠れるように巻いてくれた手は、とても温かかった。
「私からもお願いがあるの」
「何だい?」
「もしかしたら私の家に黒髪の男の人が来るかもしれないわ。もし来たら、約束の場所で待っていてと伝えてくださる?」
「好い人かい?」
「ええ、この国の未来を担う素晴らしい人よ」
にっこりと微笑み、リリーは大好きよと言ってマージに抱き付いた。細くて折れてしまいそうな体。しっかりと抱き返してくれたマージは、震えた声でいつでも帰っておいでと言ってくれた。
「疑って悪かったね。本当はリリーだって分かってたのに」
「どうして分かったの?」
「エラは人参が嫌い」
トントンと空になった皿を突くと、マージはにんまりと笑った。確かにエラは幼い頃から人参が嫌いだった。食べなさいと義母は厳しく言っていたが、こっそりとリリーの皿に乗せる事もあったし、食べても本気で嫌そうに顔を顰めながら食べていた。
「リリー、行くなら早く行こう。目的地が遠かったら大変だ」
「大丈夫、そんなに遠くないわ」
目的地が分かっているのなら早くと急かし、ハリーは家を出てリリーに手招きをする。遠くまで行くのならロバと荷車を借りてくると言うが、その必要は無いと首を振った。
「歩いて行けるわ。村の中だから」
相談場所というのは、義母と何度も行った事のある場所の事だろう。エラは絶対に来なかった場所。目的地はここから歩いて行ってもそう時間はかからない。
良い事とは何だろう。義母が良い事と言うのなら、その言葉に嘘は無いだろう。そわそわと落ち着かない足で、リリーは幼馴染の家を一歩出た。
「美味しい食事をどうもありがとう。必ずお礼をするわ」
そう言って、リリーはしっかりと外套のフードを被って歩き出す。エラと同じ顔では誰かに見られて騒ぎになっても面倒くさい。
村人はエラが王太子妃として城に行った事を知っている。顔も覚えられている。
何があるかまだ分からない今、顔を見られるのは避けた方が良いと思った。