意地悪
トーマスと外出の約束をしてから、リリーは浮かれていた。朝目が覚める度に、いつ行くのだろうと心が浮立つ。
初めての観劇に浮かれているというよりも、トーマスが自分の為に時間を作ってくれるという事が嬉しかった。
とても忙しい人の筈なのに、無理をしてでも時間を作ろうとしてくれている。例え後継者を生む為の妃にする為だとしても、大切にしようという素振りを見せてくれるだけで嬉しいと思ってしまった。
外出の約束をした日、トーマスは恋人だと言ってくれた。綺麗だとも。
胸に抱いてしまった恋心に蓋をすべきなのか、それとも愛されていると期待して良いのか分からない。分からないが、トーマスの顔を見る度にトクトクと胸が小さく高鳴った。
今日もそうだ。特にやる事もなく、城の中をふらふら歩いているリリーは、どこかにトーマスの姿が無いかなと無意識に探していた。
特に用事があるわけでもないし、トーマスは多忙だ。もしかしたら今頃兄であるルーカスの代わりに働いているかもしれない。
「リリー」
ふいに女性の声が自分の名前を呼んだ。
びくりと揺れた肩。ドキドキと煩い心臓。振り向いた先にいた自分と同じ顔の姉は酷く不機嫌そうで、返事をするより先に詰め寄って来た。
「ちょっと来て」
しっかりと腕を捕まれ、そのままずるずると空き部屋に連れ込まれる。
今日もエラは豪奢なドレスに身を包み、しっかりと化粧をして美しさを誇っている。
穏やかに微笑んでいれば美しいお姫様にしか見えないのに、妹に詰め寄るその顔は眉間に皺を寄せ、目を吊り上げた恐ろしい顔をしていた。
「な、何かしら」
「アンタ、いつになったら詫びに来るの?」
低く唸るような声で、エラは妹に凄む。
詫びと言われても、詫びなければならないような事をした覚えはない。ぎゅっと唇を引き結び、姉が何を怒っているのか考えてみたのだが、もしかして先日指輪を奪い取ろうとしてきたあの日の事を言っているのだろうか。
あれはエラが悪かったのであって、リリーが謝らなければならない事では無い。ムッとして、リリーはつい眉間に皺を寄せてしまった。
「何よ、生意気に私を睨むんじゃないわ」
パンと軽い音をさせ、エラはリリーの頬を叩く。本当にどこまでも妹を下に見ているらしい。
恐らくエラの事だから、入れ替わる事が出来ず遊びにも行けない日々が続き、不満が溜まっているのだろう。機嫌が悪いからと、何も悪くない妹に八つ当たりをしているのだ。
「痛いわ…」
「私と同じ顔でそんな顔しないでよ。見ていて苛々するわ」
そんな事を言われても、別に望んで同じ顔に生まれたわけではない。いちいち反論しても無駄な事であると知っているリリーは、小さな声でごめんなさいと詫びるだけに留めた。
「まあ良いわ。ちょっと頼みたい事があるのよ」
妹を叩いて少し気が紛れたのか、エラはフンと鼻を鳴らして両手を腰に当てて胸を張った。
目の前で睨まれているリリーは、姉と対照的に頬を手で押さえ、背中を丸めておどおどと姉の顔を見る。
内心は今すぐに叩き返してやりたいのだが、誰も見ている人がいないのにやり返してしまえば、もっと酷くやられるような気がした。
「出かけたいの。代わって」
「いつ…?今から?」
「そうね、今から」
妹が素直に言う事を聞くと思っているのだろう。エラはふふんと楽しそうに口元を緩ませ、早く頷けと視線を向けてくる。
リリーは少し考える。
エラのふりをしてやったとして、リリーに何か得する事があるだろうか。今城の中は妹を苛めるエラの噂で持ちきりだ。可哀想な妹としてちやほやされている方がやりやすい。
姉は悪くないのですと困ったように微笑み、指輪を撫でながら小さく溜息を吐いておけば、暇な貴族たちはあれこれ勝手に妄想をして、噂として話を広めてくれる。何とも楽な事だ。
「聞いているの、やるの、やらないの?」
苛々とした声色で、エラはリリーの肩を押す。人に何か頼みたいのなら、もう少し態度というものがあるだろう。
断られたらお自分が外出出来なくなるという事を全く考えていないようだ。
さあどうしようと考えるリリーは、ふと思い付く。折角姉が妹に「頼み事」をしてくれているのだ。そして姉は城からいなくなる。
「分かったわ、すぐ支度をしましょう」
にっこりと微笑み、リリーは連れ込まれた部屋の扉をそっと開く。薄暗かった部屋に廊下の窓から差し込む光が飛び込んできた。
眩しそうに目を細めるエラは気付いていない。にっこりと微笑んでいるリリーの目が、全く笑っていない事に。
◆◆◆
何だか姉のふりをするのは久しぶりな気がする。あの日エラに蹴られた背中はすっかり良くなり、普通のドレスを着ても問題ない。恐らくエラは、リリーの怪我が治るのを待っていたのだろう。
エラが好んで着るドレスは、肩甲骨の辺りが露出する。流石に痣があれば、リリーであると勘付かれてしまうだろう。
「殿下、ごきげんよう」
「ごきげんよう。さあどうぞ、お掛けになって」
ニコニコと楽しそうな顔を作りながら、リリーはエラとして客人たちに椅子を勧める。
自分で客を招いたくせに、放り出して出かけてしまうとは何事だと内心姉を責めたが、予定も聞かずに了承してしまったのだから仕方が無い。
招待客のリストは貰ったし、目を通した限り若い未婚令嬢ばかりだった。どうせエラの事だから、美しいと褒めてくれる若い令嬢を集め、ちやほやされたかっただけだろう。
「さあ、皆様お集まりね。どうぞゆっくりなさってね」
にっこりと微笑み、客人たちが座るテーブルをぐるりと見まわす。
顔ぶれの中には、廊下で話し掛けてくれたアリスとジュリアもいた。二人の母親の事は嫌っている筈だというのに、何故その娘たちを呼んだのか分からない。
じっと見られている事に気付いたのか、アリスは小さく頭を下げる。見すぎた事に気付き、リリーはにっこりと微笑むと用意されているお茶や菓子について簡単に案内をした。
説明をされている間、令嬢たちは驚いたようにぽかんと呆けている。きっとエラは普段自分が招待しているにも関わらず、どこの茶葉を用意したのかも分かっていなかったのだろう。ただ人を集めて、楽しく過ごせばそれで良い。そう思っているのだ。
「堅苦しいお話はこれくらいで…」
ふふ、と笑いながら、リリーはそっと左手を口元にもっていく。その手を凝視しているアリスとジュリアは、二人揃ってコソコソと何やら話しているようだ。
思った通り、二人はリリーが嵌めていたトーマスからの贈り物を見て覚えていた。
二人が小声で囁き合っている事に気付いたのか、隣に座っていた令嬢が耳をそばだてている事にも気が付いた。
これで良い。ただ楽しく過ごしているだけで、この後エラは「妹の宝物を奪い取った」と噂されるようになるだろう。既に良くない噂は広がっている。そんな状況でエラが持っている筈のない物が指に嵌っている。
どうなるかは、考えるだけで楽しい。
「殿下、素敵な指輪ですわね」
「ふふ、そうでしょう?」
リリーの隣に座っていた令嬢が、キラキラとした目で指輪を見ている。いつものように指輪を撫で、にっこりと微笑む。
そんな姿を少し離れた席から見ているアリスとジュリアは、じっと静かに此方を睨みつけていた。
「ルーカス殿下からの贈り物ですか?」
「秘密よ」
自分のカップを持ち、リリーは静かにそれを傾ける。まだ少し熱いお茶が喉元を通り、腹をじんわりと温める。
きゃあきゃあと楽しそうに騒ぐ令嬢は、少し静かにするよう他の令嬢に窘められているが、窘めた令嬢もまた、リリーの指輪に目を奪われていた。
◆◆◆
夜には戻ると言っていたエラは、未だに戻らない。それは最初から予想していた事ではあるのだが、どうやってルーカスを躱すか考えているうちに、リリーはエラの寝室に押し込められていた。
エラの事だ。きっと、何か夢中になる程楽しい事が外にはあって、時間を忘れて楽しんでいるのだろう。
今更だが、エラは外で何をしているのだろう。
買い物を楽しむのなら、わざわざ外に出なくても城に呼びつければ良いだけの事。何か食べに出ているのだろうかと考えてみたが、夜になっても戻らない理由にはならない。
いくら王都でも、夜に女が一人で出歩いていればすぐさま路地裏行きだ。
あれこれ考えているうちに、リリーは無意識に部屋の中をうろうろと歩き回っていた。重たいドレスから解放され寝間着姿だが、裸足で歩き回っていると少し足が冷える。少し座って手で包んでやれば少しはマシになるだろうかと考え、リリーは窓辺に置いてあった椅子に腰を下ろした。
ひやりと冷たいつま先を手で包む。じんわりと温かい手が、ゆっくりと冷えた。
なんとなしに視線を窓の外へ向けた。城の庭は真っ暗だが、所々設置されている灯りのおかげでぼんやりと照らされている場所もある。
そういえばいつだったかルーカスらしき人影が誰かと闇に消えていくところを見たなと思い出す。
あれは本当にルーカスだったのだろうか。誰と何処に消えたのだろう。まさか結婚したばかりでエラではない別の誰かとただならぬ関係であるとは考えたくないが、女性であろうと思われる人影と闇に消えてしまったのなら、そう考えてしまうのも無理は無いだろう。
「…まさか」
そこまで考えて、ふと思い付く。
エラは外に恋人がいるのではないか。
ぶんぶんと首を振り、リリーは姉の不義を疑うなんてと思い直す。いくら自由奔放なエラであっても、夫を裏切る様な事はしないだろう。
そう信じたかった。
だが、いくら否定しようとしても、一晩帰らず無事に帰れるのなら、誰かの家に世話になっているのではと考えてしまうのは自然な事だろう。
もしもその疑念が本当の事だったとしたら、エラを城から追い出す理由になる。証拠が無いただの都合の良い想像だが、そうであってくれたらどんなに良いだろうと、リリーは静かに目を閉じた。
コンコンと扉が鳴る。折角温まってきた足がまた冷える気がした。忘れていたが、エラの元には夫であるルーカスが眠る前の挨拶に来るのだ。挨拶だけで済めば良いが、夫婦なのだからそのまま夜を共にする事だってある。
本当の夫婦ならば何も問題は無いが、今エラは外出しておりリリーがエラのふりをしている。
さあどうしようと固まっているうちに、もう一度扉がノックされた。ばくばくと煩い心臓を押さえつけながら、リリーは「どうぞ」と返事をする。
そっと開かれた扉から顔を覗かせたのは、思った通りルーカスだ。
「やあ、エラ。良い夜だね」
「こんばんはルーカス。良い夜ね」
ぎこちない笑顔を浮かべ、リリーはそっと立ち上がる。嬉しそうな顔をして妻の元へ歩み寄るルーカスは、いつもより蕩けた顔をしているように思えた。
そっと頬に触れてくる指先。もしかしたらトーマスかもと期待していたのだが、トーマスならばエラにこんな顔はしないだろうし、優しく触れるなんて事もしない筈。
ルーカスだ。本物のルーカスが来てしまった。
サッと血の気が引いたのが分かる。どうにかしてこの場を切り抜けなければと考えてはいるのだが、上手く切り抜ける方法が思い付かない。いつもならにっこりと微笑みキスを求める筈の妻が固まっている事に疑問を抱いたのか、ルーカスは小首を傾げて「どうかした?」と微笑んだ。
「あー…その、少し体調が悪くて」
「それは大変だ。医者を呼ぼう」
「いいえ!大丈夫よ、少し眠ればきっと良くなるから…」
「そう?でも大事な君の体だから…」
妻を心配するのは夫として正しい姿なのだが、今のリリーは何でも良いから早く部屋から出て行ってほしいとしか思えない。
「体は大事にしないとね。僕らはこの国の後継者を生み育てなければならないんだから」
「…そうね。まだ早いと思うけれど」
「まだ結婚したばかりだからね。もう少し二人でいたいな」
ニコニコと嬉しそうに笑ったルーカスは、体調が悪いのならばと妻の頭を撫でてから部屋を出て行く。
「早く元気になってね。そうしたら、城下にこっそり遊びに行こう」
警備兵は付けられるだろうが、二人で城下に遊びに出るとなればエラは大喜びするだろう。
「楽しみにしているわ!約束よ」
ひらひらと手を振れば、ルーカスも嬉しそうに微笑みながら手を振ってくれた。パタンと静かに閉じられた扉を見つめながら、リリーは笑顔を消し去り大きな溜息を吐く。
いつまでエラのふりをしていれば良いのだろう。夜には戻ると言ったのだから、言葉の通り戻ってきてほしいものだ。
「ただいま」
「っ…!ね、姉さん!」
「なぁに。幽霊でも見たような顔して…」
ベッド脇の隠し扉が開き、機嫌が良いのかにこにことしているエラが呑気に戻ってきたのだ。
つい先程ルーカスが部屋から出て行ったばかり。もしかしたら鉢合わせしていたかもしれないというのに、酒でも飲んでいるのか呑気なリリーは鼻歌混じりにくるくる回っている。
「ああ、楽しかった!久しぶりに出てきたからつい遅くなっちゃったわ」
帰りが遅くなるだろうと予想はしていたが、こうも呑気にされていると腹が立つ。面倒な事を妹に押し付け、自分は夜まで遊び歩いて戻っても来ない。代われと言うのならせめて戻る時間くらいは守ってほしいと苛立つのは当然の事だろう。
今機嫌の良いエラに文句を言ってしまえば、また殴られるだけだ。殴られる事には慣れつつあるが、怪我をしている姿をトーマスに見られるのは何だか嫌だった。
「…今ルーカス殿下がおやすみを言いにいらしたわ。体調があまり良くないと言って追い返してしまったけれど…明日上手く誤魔化してね」
「分かったわ。昼間はどうだった?」
「特に問題なくこなせたわ。お茶会もね」
「そう、分かった。疲れたからもう寝るわ。着替えさせてくれない?」
どこで何をして疲れたのか知らないが、当たり前のように妹を侍女扱いするエラは、早く窮屈なドレスを脱がせろと衝立の向こうへ歩いて行く。
仕方ないなと溜息を吐きながら、リリーは姉の後を追いかけて、気付いた。
フッと口元を緩め、ゆっくりと背中を締め上げている紐を解いていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。徐々に呼吸が楽になっていったのか、リリーは深く息を吐いて背中を伸ばす。
「やっぱり重たいドレスは疲れるわ」
「もっと軽い物は無いの?」
「あるわよ。でも好みじゃないの」
「じゃあルーカス殿下におねだりしたら良いのよ。姉さんの事を愛しているんだから」
「そうね、そうするわ」
ふふんと鼻を鳴らし、エラは大人しく自分の世話をするリリーの髪に触れた。
二人揃って同じ金色の髪。毛先をちょいと摘まむと、何がしたかったのかぽいと放り投げるようにして放した。
体が痛いとあちこち摩りながら文句を言うエラの背中を見つめながら、リリーはにんまりと口角を上げる。
どうせもう少ししたら、どれだけ望んでもこれだけ豪奢なドレスは着られなくなるだろう。もっと身軽になれるよう、もう少しだけ我慢をしてねと心の内で微笑みながら、リリーはせっせと姉の寝支度を手伝い続けた。