恋人
王太子妃の激しすぎる姉妹喧嘩は、城の中でそれなりに噂になったらしい。不思議なもので、噂というものはいつの間にか尾ひれがつき、話が大きくなって、事実よりも少々大げさになって広まるようだ。
エラは今まで誰にでも優しい素晴らしい王太子妃を気取っていたのだが、勘違いで妹を責め立て、骨を折る程の大怪我をさせただとか、気に入らないという理由で侍女を辞めさせただとか、随分と酷い悪女のように噂されるようになった。
「聞きまして?エラ殿下のお話…」
「ええ、リリー様の宝石箱からあれこれ持って行ってしまうのでしょう?」
今日もまた、事実とは異なる噂が増えている。エラはリリーの宝石箱から何か持って行った事は無い。好みではないし、そもそも欲しいと思えばルーカスにおねだりするのが常だからだ。
「普段は何も言わずに好きにさせていらっしゃるようだけれど、トーマス殿下にいただいた指輪だけは守ったらしいわ」
「恋人からの贈り物まで奪おうとなさったの?」
それはまあ大体合っていると小さく頷きながら、リリーは一人城の長い廊下を歩き続ける。噂が落ち着くまで、エラはリリーに近付かないつもりでいるようで、ここ数日とても平和に快適な生活を送らせてもらっている。
頬に貼られていたガーゼはもう外れているが、まだ痛む背中を締め付けずに済むように、リリーは異国風のエンパイアラインのドレスを着ている。
「リリー、ここに居たか」
「トーマス殿下、おはようございます」
「おはよう。今日の予定は?暇なら少し散歩でもしないか」
にっこりと微笑みながら恋人に寄り添うトーマスの姿は、城の人々にとってはとても珍しい姿だったようで、リリーとトーマスが一緒にいるととても目立った。
トーマスはいつも眉間に皺を寄せ、あまり人を寄せ付けないようにしているらしい。おかげで好き勝手噂を立てられているのだが、そんな男があんなにも幸せそうな表情で恋人と過ごしていると貴族たちの間で話題になっていた。
「お仕事は宜しいのですか?」
「ああ、今日は良い」
リリーの言った「お仕事」とは、ルーカスの代わりをしなくて良いのかという事なのだが、トーマスはそれを分かっているようで、首を横に振った。
それならば一緒に過ごそうかと、リリーは誘われるがまま庭に向かって歩き出す。
日差しが温かく気持ちが良い。まだ背中は少し痛むが、散歩を楽しめるくらいには回復した筈だ。
庭のあちこちを彩る花は、リリーの目を楽しませてくれる。大輪の薔薇が良い香りで、胸一杯に息を吸い込んで、リリーは嬉しそうに口元を綻ばせた。
「うっ」
「まだ痛むだろうに」
深呼吸などするのではなかったと若干の後悔をしながら、リリーは小さく呻く。隣を歩くトーマスは呆れながら背中を摩ってくれたが、仲睦まじい二人の姿は、遠巻きに眺めている人々の目に微笑ましく映っているだろう。
「異国風のドレスも似合うじゃないか」
「楽で良いですね。ご懐妊ですか?と何度か聞かれましたけれど」
思い切り噴き出したトーマスは、ぶるぶると肩を震わせながらリリーに掌を向ける。ちょっと待ってくれという仕草なのだが、リリーは笑われるような事を言った覚えはない。
「何と答えたんだ?」
「神とトーマス殿下にお尋ねくださいと」
「んっふ」
堪えきれなくなったのか、トーマスはその場にしゃがみ込んで声を殺して笑い出す。
それでは暇な貴族たちに好き勝手噂をされるだけだと声を震わせたトーマスの目尻には、うっすらと涙が溜まっていた。
「その調子なら、今度の夜会も心配いらないな」
「夜会ですか?」
「何だ、聞いていないのか?母上主催の夜会なんだが」
目をぱちくりさせながら立ち上がるトーマスを見つめつつ、はて?と首を傾げ、リリーは自分の予定とエラの予定を思い出す。リリーはキャンベル夫人のレッスン以外の予定は殆ど無いが、エラはレッスンの他に王太子妃として公務を始めたり、貴族令嬢や夫人のお誘いで外出の予定がある事は覚えている。
王妃主催の晩さん会がある事は覚えているが、夜会の予定などいくら思い出しても分からない。
「晩さん会は存じておりますが」
「晩さん会?」
今度はトーマスが首を傾げ、しゃがみ込んだまま考える。だが、トーマスの記憶にも晩さん会の予定は無かったようで、何の話だともう一度リリーに聞いた。
「王妃様主催の晩さん会があると姉から聞いておりますが…」
「いや、夜会の予定はあるが、晩さん会の予定は無いぞ」
「お食事ではなく、踊る方ですか?」
「踊る方だ」
おや?と二人揃って首を傾げるが、リリーはきっとエラが間違えて覚えていたのだろうと結論付けて溜息を吐く。
どうせ準備の手伝いが面倒で、適当に話を聞き流しているうちに分からなくなったのだろう。
「国王夫妻が踊った後、王太子夫妻の二人も踊るんだ。俺も踊れと言われているんだが…」
「…やめた方がよろしいかと」
眉尻を下げ、エラのダンスは酷いものだと呟いた。何度教わってもステップを覚えない。どうせドレスに隠れて足元なんて見えないのにと文句しか言わない上、レッスンの後は疲れたと不機嫌になるばかりで上達はしていない。
「継母はきちんとレッスンを受けさせてくれたのですが…」
「真面目に受けなかったんだな」
その通りですと頷いて、リリーはそっと溜息を吐く。きっと国王夫妻に恥を欠かせてしまうと不安になるが、元はと言えばエラが真面目にレッスンを受けておけば良かっただけの事。
両親も継母も淑女としてのあれこれはきちんと学ばせてくれたし、同じ環境で育ったリリーは真面目にレッスンを受けていたおかげで問題なく踊る事が出来る。
「…まさかとは思うが、エラ嬢は君に役割を代われと言わないだろうな?」
「言いますね、絶対に」
大騒ぎになってからろくに口を利いておらず、入れ替わりもしないままだが、まともに踊る事が出来ないのに王妃主催の夜会で招待客に見守られる中踊る度胸は無いだろう。
「トーマス様も、参加されるのですよね?」
「ああ、その予定だ」
「ダンスの相手はお決まりですか?」
「踊る気が無かった」
「私と踊る気はございますか?」
ここまで言って漸く、トーマスはリリーが何を考えているか分かったのだろう。にんまりと笑いながら、そっと手を差し出して腰を折る。
「私と踊ってくださいますか、レディ?」
物語の王子様のような仕草をするトーマスの手をそっと取り、リリーはにっこりと微笑んだ。会話の内容が聞こえていなければ、仲の良い恋人たちがじゃれ合っているだけのように見えるだろう。
「足を踏んでもお許しくださいね」
「三回までは許す」
冗談っぽく笑ったトーマスは、風で少し乱れたリリーの髪に指を通して直す。耳に髪の一房を掛けると、それを遠巻きに見ていた女性が二人、小さく悲鳴を上げた。
仲睦まじいカップルの逢瀬を見ているのだから、若い令嬢たちが興奮気味に見ている事に何ら不自然な事は無い。
トーマスにはあまり良くない噂があるようで、それを信じている者はリリーに夢中でうっとりと見つめる姿を信じられないと言うし、信じていない者であっても、あのトーマスがと口をあんぐりと開く。
リリーはトーマスの事をよく知らない。
あまり良くない噂を耳にした事はあるのだが、それは城の外に愛人を沢山囲っていて、何人もの庶子がいるだとか、娼館通いをしていて金をばら撒く事が好きだとか、リリーの知っているトーマスがやらなそうな事ばかりが噂されている。
「どうかしたか」
「いえ…」
そんな噂を思い出しながらぼうっとしていたせいだろうか。トーマスは物思いに耽っているリリーの顔を覗き込み、つんつんと肩を突く。
本当に、この人は外で女の人を抱いているのかしら。
そんな事を気にしたって仕方ないのに、どうしてもそんな疑問が頭の中でぐるぐると回る。
いつか私はこの人の妻になる。
愛の無い、ただ未来の国王夫妻になる為だけの関係だとしても、夫が外で愛人を作っているという事に我慢が出来るだろうか。
森の中で出会ったあの日、抱いてしまった恋心を今更思い出してしまった。あの日出会った王子様は姉に奪われたのだと思っていたが、実はそうではなかったと知ってしまった。
あの日抱いた感情を忘れなくても良いのだろうか。姉に叩かれた時トーマスは怒ってくれた。俺の妻と言ってくれた。
少しでも、この感情に期待を持っても許されるのだろうか。
「何だか…その、人が少ないな」
「え?ええ…そうですね」
気を遣われているのか、普段散歩をしている人が多い筈の庭はリリーとトーマスの二人だけ。目を凝らせば遠くに人が居るのが見えるが、近くには誰もいないようだ。
そわそわと落ち着かないような顔で、トーマスは手を握ったり開いたりを繰り返している。
その様子が何だか可笑しくて、リリーはふふと小さく声を漏らして笑った。
「何故笑う?」
「いえ、何でも」
女性慣れしていない殿方のようだと言ったら怒られるだろうか。適当に笑って誤魔化したが、トーマスは面白くないのか、恥ずかしいのか、こほんと小さく咳払いをした。
もしも噂が本当ならば、トーマスは女性に慣れていないなんて事はないだろう。むしろ手慣れていると言っても良い筈だ。
女性と二人きりで散歩をするくらいなんてことはない。
「あー…その、リリーは何色が好きだろうか」
「色ですか?そうですね…青が好きです。いただいた指輪のような、深い青が」
そっと指輪を撫でて微笑むと、トーマスは顔を真っ赤にして何度も頷いた。
青、青だなと繰り返すその姿は面白いのだが、普段と違う姿を見ていても良いのだろうかと何だか落ち着かない。
「好きな食べ物は?」
「お魚が好きです」
「動物は?」
「兎でしょうか。ふわふわしていて可愛らしいです」
「宝石は?」
「あまり縁がありませんでしたから…」
やたらと質問攻めにしてくる意図が分からないまま、リリーは聞かれた事に一つ一つ答えていく。聞いてどうするのだと言いたいような事も聞かれたが、トーマスなりに気まずい沈黙が流れないように気を遣ってくれているのだと思った。
「観劇は好きか?」
「いいえ、行った事がありませんので…一度行ってみたいとは思っているのですけれど」
観劇に興味を持った頃には、父が亡くなりそれどころでは無かった。城に来てからも何かと忙しく、外に出掛けるなんて事は一度もしていない。
よく考えれば、エラとして外に出た以外はずっと城にいる。リリーとして外に出た事は一度も無かった。
「それなら、今度一緒に行ってみないか。今流行りの演目があるらしい」
言ったぞ!と小さく拳を握っているトーマスは、顔を真っ赤にしたままリリーを見つめる。
そんな顔をされてしまうと、何だかこちら迄恥ずかしくなってきた。
口を開く事が出来ず、リリーは何度も頷いて「行きます」と返事をした。
「今度予定を決めよう。目一杯めかし込んできてくれ」
「私がお洒落をしても大して変わり映えしないと思いますが…」
眉尻を下げて言うリリーの肩を、トーマスが掴む。ぶんぶんと首を横に振り、いつもよりも少し張った声で言った。
「リリーは綺麗だ!」
言ってから冷静になったのか、耳まで顔を赤くしたトーマスはリリーから距離を取って口をもごもごと動かす。
言われたリリーも同じように耳まで真っ赤にして俯き、傍から見ていれば子供でもまだマシなやりとりをするぞと呆れられそうだった。
「その、恋人を美しいと思ってはいけないだろうか」
「恋人…」
初めて会った日の王子様の姿をふと思い出す。
黒馬に乗った、黒髪の綺麗な王子様。苺が沢山生っている場所を教えてくれた、優しくて素敵な人。
もう一度だけ会いたいと思っていた、淡い恋をした相手。
例え後継者を生む為だけの妻だとしても、それでも良いと思った。
だというのに、こんなにも真っ赤な顔をして、恋人を美しいと言うような人に期待をしてはいけないだろうか。本当に、心の底からリリーとして愛してくれるのではないかと。
「…頑張ります」
消え入りそうな声でそう返事をするのが精いっぱいだったリリーは、もう開放してくれと天に祈る。
もうこれ以上は、心臓が破裂してしまいそうで怖かった。