世界に華開く彼岸花
迫り来る満月が照らしたのは戦士の背中だった。
荒んだ心を狂おしく照らしだす月光は色濃く落とされた影に命を吹き込んだ。
それは、しゃがれた声で戦士に訊ねる。
貴様の手は血塗られた。世界はその手を赦さないだろう。
ならば貴様は、なんとする。
貴様の手を塗った血反吐は貴様にそう望んだ有象無象の希望の影。
虚像に、鏡像に、狂像だ。
ならば貴様は、なんとする。
真は偽に裏返り、偽は神を為し人を喰らう。
それは世界に華開く人の欺瞞であろう。
だから世は荒むのだ。
観よ。
貴様が踏みしだく幾千も幾万もの死屍累々を。流された血を。
まるで闇夜に咲き乱れた彼岸花のようではないか。
貴様が護ろうとしているものは其の花園だ。
今一度謂おう。
貴様が手を差し伸べ塗られたのは、その血反吐だ。
ゆめゆめ忘れぬことだ。
有象無象はその名の如く、像もなさぬ望みを吐き出し像を為す。
故にそれに流されれば、気がつけば、虚無の只中に立たされると。
その血反吐はそこに立った証だということ。
別の影が怨嗟の影を覆った。
戦士はひとつ溜息をこぼすと薄紺の夜空を見上げた。
そこには満月を背負い夜空を滑る白鷺の姿があった。
※
動くなよ。
儚げで、いまにも壊れてしまいそうな声が云った。
ブロンドを頭の上で結った女戦士は、折り重なる累々とした屍がつくった穴の中で、うずくまった。泥と血生臭さ。漏れ出た排泄物の中で、男の声を聞いた。屍の穴倉にうずくまり、剣を豊満な胸に抱え込み目をつむった。
同じ声が今度は咆哮を挙げる。
それは狂った獣のようだった。
女戦士は堪らず耳を塞ぎ「なんなの、なんなの、なんなの、なんなの」と小さく力なく口から溢した。神への祈りのつもりだったのか。
いや、この世界に神は居ない。神は想像の産物だ。
人の欲望が世界の底にうねり、猛り、狂い形を成す。ただそれだけだ。
先ほど女戦士に声をかけた男は、それに立ち塞がるやはり狂った存在だった。戦士は狂い、仲間の頸を跳ねたが女戦士だけは屍の穴倉へ放り込んだ。そして燻りの灰王子に立ち塞がったのだ。
女は最後に戦士の名を呼び、そして囁いた。
助けて——と。
だが、その声は咆哮に掻き消され屍の穴倉に染みてしまう。
※
「闘いの輝きルゥ・ルーシーよ。
類まれなる愛欲に溺れた魔導師よ。溺れるが故にその御神体は爛れひだを濡らすのであろう。違うか? あれの弱さ強さ、強靭な身体、しなやかな心。その全てでお前はお前の虚な穴を埋めたいのだろう?
あれは刻がくれば宵闇を継ぐ。
その前にまぐわい光輝の手から奪うが良いさ。そうだ。身体を重ねあれの首筋に舌を這わせろ。腋も腹も舐め上げ、足の爪先までお前の匂いで覆い尽くすのだ。後はわかるな? 焔の王子が全てを焼き尽くし、あれはお前の腕のなかで永遠の番となるだろう。精を吸い尽くし、心の臓を引き出し、喰らうがよい。ともすればあれの全てはお前のものだ。
儂はその手助けをしてやろう」
しゃがれた声の魔導師は純白のローブに身を包み、フードを目深に被る。その忌みに満ちた言葉が純白さを滑稽にみせた。しわしわの手を前に組み、忙しなく指を動かすものだから、その滑稽さは更に強調される。
壇上に立った魔導師の前に跪き、天を仰ぎ、言葉を聞いたのは女魔導師だった。
紺碧の魔導師のローブに身を包み、くせっ毛の目立つ金髪が特徴的だった女は、目前の魔導師に顔を見上げた。まだ幼さの残る双眸。そこに浮かぶ茶色の瞳は、少々、下膨れした顔を、人形のように思わせた。
「そうは云うけれど、本当に皆んなに危害はないの?」
女魔導師は少年のような生一本な声でそう訊ねると膝を払いゆっくりと立ち上がった。
直上遠くから鐘の音が鳴り響く。
ルゥは天井を仰ぎ見る。
丸みを帯びた壁面に描かれた天使の姿が見えた。
純白のトーガに身を包んだ天使の顔は、見る角度が悪いのか——下卑た表情をこぼしているように思えた。
「ああ、約束しよう」
しゃがれ声の魔導師はそう返すと、ローブの裾を擦りながら壇上から滑るように降りる。そうして女に近寄ると奇妙な形をした首飾りを手に突き出した。
「機は任せる。然るべき堕落をお前の手中へ収めることが条件だ。ゆめゆめ忘れるな。機を逸すれば喰われるのは、闘いの輝きルゥ・ルーシー、お前の純潔だ」
もう一度。
直上の鐘が鳴り響くと、礼拝堂の扉が重々しい音をひっぱり、開け放たれた。
「長居は無用じゃ。さあ行け。偽りの輝きの女」
しゃがれた声で魔導師は云うと、ルゥ・ルーシーを追い払うような仕草を見せた。
※
ルゥ・ルーシーは純白で、荘厳で、威厳をひけらかした教会が嫌いだ。
だから、追い立てられるよう教会から出されたのだとしても全くをもって気にもしなかった。ただ、外に出た矢先、気持ちの良い春の日差しが出迎えたのだけは気に食わない。くるんとしたブロンドが目立つから嫌なのだ。だから、<闘いの輝き>は、春の空を憎々しく睨みつけ、紺碧のフードを目深に被った。
教会の前に伸びる弓形をした橋を静かに渡ったルゥは、橋の下に広がる青々とした池に魚が跳ねるのを見ると、腹のあたりを撫でつけ「ああ、お腹すいた」と小さく漏らしていた。
それは無理もない。
メルクルス教会の鐘が知らせたのは、昼食の時間だ。
そろそろルゥは仲間と合流をしなければならなかった。
フォーセット王国属州のベルガルキーでは馬の肉を喰うのだそうだ。
馬と共に生き馬と共に死ぬ。それがベルガルキーだ。だからなのか、首都クルロスでは旨い馬肉料理を出す店が多い。
「アランたち、席とっておいてくれるかなー」
ぼそっと溢したルゥは橋を渡り切ると急いで宿場街に馳けていった。