第73話 お見舞い
選定が休止となり、リーシェは離宮でなんとなく手持無沙汰に時間を持て余した。残りの試験はテーブルマナーとピアノと詩なのだが、事件のせいかさすがに練習に身が入らずにいる。
あれからコーネリアたちがよく部屋を訪れてくれるようになり、その都度手を止めると、お茶やおしゃべりをして時間を過ごした。
そして、何もなく5日が過ぎた日の午後、クロエが慌てて部屋に入ってきた。
「リーシェ様!」
「どうしたの? クロエ」
絶対に廊下を走ることのないクロエの慌てた様子に、また何か事件かとピアノの練習の手を止め走り寄る。
「殿下がお倒れになったそうです!」
「え!? ルゼが!?」
「ええ。さきほど王妃様の執務室に行かれた帰りに、廊下でお倒れになったそうです」
やっと冷静さを取り戻してきたクロエが、息を整えてふうと息を吐いた。
「病気!? 具合はどうなの!?」
「熱があるそうで、今は部屋で休んでおります」
「熱? 風邪ってこと?」
「そのようです」
思い返してみればルゼオンは自分を助けるために川に入った後、ろくに乾かしもせず兵士たちに指示を出していた。その後も、休まず捜査を続けていたから、たぶん疲労が溜まって限界に来ていたのだろう。
「クロエ、お見舞いに行っても大丈夫かしら」
「今は選定も休止しておりますし、直接お部屋に行っても問題はないかと思います」
選定中は二人で会うのを禁止されていたが、クロエの言う通り、今の状況なら許されるとリーシェも思い、「よしっ!」と気合いを入れる。
「クロエ、まずは厨房よ!」
「は? え? 殿下のお部屋に行くのでは?」
部屋を出て歩き出したリーシェの後ろを、クロエが慌てて付いてくる。
一階の端にある厨房に到着すると、キッチンメイドたちが驚いてこちらを見た。
「お邪魔するわね」
「リーシェ様、このような場所までお越しになるとは、なにかご用でしょうか」
年長のキッチンメイドが丁寧に挨拶をして聞いてくる。リーシェは使いやすそうなキッチンを見てにこりと笑うと、袖を捲った。
「ごめんなさいね。少しだけキッチンを使わせてくれる?」
「え? リーシェ様が?」
「ついでに食材も少し使わせてもらえたら嬉しいんだけど」
「そ、それは構いませんが……」
困惑した表情でキッチンメイドが振り返ると、料理長であろう恰幅の良い年配の女性が仕方ないという風に頷いた。
了承を得たことを確認したリーシェは、手を洗うとテーブルに並べられた大量の食材を見る。
「わあ、すごい量」
「それはそうですわ。ここにいる全員分の食材ですもの。夕食一回でも大変な量です」
「塔で暮らしてた時の、なけなしの食材で料理をひねり出していた時が懐かしいわ」
リーシェの言葉にクロエが首を傾げる。リーシェは苦笑しながらパンを手に取ると、鍋を用意した。
「なにをお作りになるのです?」
「ミルクパン粥よ。ルゼが風邪ぎみの時に作ってあげたことがあるの。あの時は眉間に皺を寄せてたけど、たぶん好きな味よ」
すでに火の入っているかまどに鍋を置き、ミルクを注ぐ。パンをちぎって中に入れ、沸騰したら火から下ろし、とろ火でよくかき混ぜてパンがとろとろになるのを待つ。
途中でハチミツをたっぷり入れると、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「はぁ、驚いた。手際が良い。どこで習ったんです?」
気になっていたのか、近くで見ていた料理長が驚いて聞いてくる。リーシェは笑いながら肩を竦める。
「子供の頃に少しね。今回はこれで命を救われたわ」
「命を?」
不思議そうなクロエにリーシェは頷きながら、味を確かめる。優しい甘さに笑みを浮かべると、皿によそった。
「これで完成ですか?」
「ううん。最後はこれよ」
リーシェはそう言うと、ポケットから瓶を取り出す。
「あら、それはエイミーが持ってきたいちごジャムですか?」
「そう。この前来てくれた時に、置いていってくれたでしょ? これを上に掛けて……」
白いミルクの上に赤いいちごジャムが乗って、とても美味しそうな出来だ。
「はい、完成!」
「まぁ、美味しそう……」
クロエの感心した声に、「今度クロエにも作ってあげるね」と笑うと、クロエは少し驚いた後、嬉しそうに笑った。
皿に蓋をしてトレイに乗せると、料理長に向かって言った。
「お邪魔してごめんなさい。洗い物は頼んでしまっていいかしら?」
「もちろんです。そんなことお気になさらずとも大丈夫です。殿下のところへ持って行くんでしょう? さぁ、冷めない内に」
察しの良い料理長の気の良さそうな笑顔に向かって、リーシェは「ありがとう」と返事をすると、料理を持ってルゼオンの部屋に急いだ。
ルゼオンの部屋に行くと、丁度エヴァンが出てくるところだった。
「エヴァン」
「やぁ、リーシェ。お見舞いかい?」
「ええ。ルゼはどう?」
「大丈夫。ちょっと疲れただけだよ。ただ落ち込んでるみたいだから、慰めてやって」
「落ち込んでる?」
リーシェが首を傾げると、エヴァンは苦笑して頷く。
「色々と反省しているみたい」
「反省?」
「あ、料理が冷めちゃうね。ごめん、引き留めて。僕はもう行くよ」
「あ、うん」
そう言うとエヴァンは手を上げて廊下を去って行った。
クロエが扉を守る騎士に取り次ぎを頼むと、すぐに入室の許可が降りて扉が開かれた。
室内にはリーシェ一人で入り、天蓋付きの豪奢なベッドに近付く。静かにテーブルにトレイを置きベッドを覗き込むと、柔らかな金髪が揺れて、こちらに顔が向いた。
「リーシェ……」
「うん、お見舞いに来たよ。大丈夫?」
「あぁ……」
ぼんやりとした返答と潤んだ瞳に熱の高さを感じ、リーシェはルゼオンの額に手を当てる。
「うーん、結構高いかな……。お粥作ってきたけど、食べられる?」
「食べる……」
ルゼオンがぼそっと呟きゆっくりと起き上がる。寝起きのぼさぼさの髪がなんだか塔にいる時のことを思い出させて、リーシェは少しだけ懐かしい気持ちになった。
起き上がったルゼオンの背中に枕を当てて上げると、リーシェはベッド脇にあった椅子に座り、皿を持った。
一瞬そのまま渡そうとして思いとどまり、スプーンでパンを掬うとルゼオンの口許に持っていく。
「はい、あーん」
リーシェがそう言うと、ルゼオンはちらりとこちらを見てから口を開けた。
「どう? 美味しい?」
「……ああ、美味い。前に食べた時と同じ味だ」
「あ、覚えてたんだ」
「当たり前だ。お前の味は全部覚えている」
あの頃の料理の味なんて、ルゼオンはもう忘れていると思っていた。
本当に毎日有り合わせの物でごまかしながら作っていたようなものなので、城の美味しい料理を食べてしまえば、記憶など簡単に上書きされてしまう気がする。
だからルゼオンが覚えていてくれたことに驚いたし、とても嬉しかった。
「野盗のアジトで料理を作っただろう」
「え? なんで知ってるの?」
不思議そうなリーシェに、ルゼオンは苦笑を漏らす。
「かまどの鍋に残っていたスープがお前の味だった」
「味見したの?」
「匂いがお前の料理のものだったから確かめただけだ」
二口目を飲み込んだルゼオンは、さも当たり前のように言う。けれどそれはとても特別なことだ。ルゼオンがどれだけ自分との思い出を大切に心にしまってくれているか、それで十分分かった。
「……リーシェは、身体の調子はどうだ?」
「私は全然平気よ。私の故郷にはね、”寒中水泳”という悪しき伝統があるのよ」
「寒中? なんだそれは?」
「冬のつめたーい海に入るって行事」
「なんのためにそんなことをするんだ?」
心底不思議そうなルゼオンにリーシェはクスクスと笑うと、もう一口ルゼオンに勧める。
「さあ? 心身を鍛えるとかなんとか言ってたような気もするけど、よく分からないわ」
「すごいな……、お前の国は……」
ルゼオンと話しながらなんとなくエヴァンの言葉を思い出したリーシェは、少し考えてから聞いてみることにした。
「さっきエヴァンが、ルゼが落ち込んでるって言ってたけど」
リーシェの言葉にルゼオンはすぐには返答しなかった。ゆっくりと咀嚼し飲み込んだ後、ポツリと呟くように話し出した。
「お前を守れなかったことが悔しくてな……」
「え……、守ってくれたじゃない」
「もっと俺がしっかりしていれば、あんな危険な目に合うことはなかった……」
低い声でそう言うルゼオンは、本当に悔しそうで、リーシェは掛ける言葉に迷った。少し考えてから、お皿をテーブルに戻すと、ルゼオンの握り締めた拳の上にそっと手を乗せる。
「ね、私を助けるために、川に飛び込んでくれたのよね?」
「ああ……」
「ゼシリーアの教えに反するって思わなかったの?」
「あの時はお前のことしか頭になかった。助けたい一心で……」
「泳げないのに?」
「そんなこと構っていられる訳ないだろ」
俯いたまま答えるルゼオンに、リーシェは笑みを深くすると、腰を浮かせそっとルゼオンの首に腕を回し抱き締めた。
「リーシェ?」
「ありがとう、ルゼ。それで十分よ。私が頑張れたのは、あなたがきっと助けにきてくれると信じていたからよ。そしてあなたはちゃんと助けに来てくれた。あなたの声が聞こえた時、本当に嬉しかった」
「リーシェ……」
ゆっくりとルゼオンの腕が背中に回ってギュッと抱き締められる。熱のある身体はいつもよりずっと温かい。その温もりを噛み締めて、リーシェはルゼオンの耳に囁いた。
「大好きよ、ルゼ」
「リーシェ……、お前……」
ルゼオンの声に驚きが混じっている。それにリーシェは笑うと、少しだけ身体を引きルゼオンの顔を間近で見つめた。
「私、ルゼのことが好き」
「リーシェ……」
驚きに目を見開くルゼオンの顔を見つめ、リーシェは満足げに笑う。
やっと心からルゼオンに好きだと言えて、もやもやしていた心は晴れ晴れとした。
「俺もリーシェが好きだ」
「知ってる」
笑ってそう言ったリーシェが自分から唇を寄せると、ルゼオンは本当に嬉しそうに笑いながらキスをした。




