第70話 ゼシリーアの助け
激しい水音を立てて川に落ちると、刺すような冷たさが全身を襲いリーシェは顔を歪ませる。けれどそれよりも縛られたままでは浮上することができないことに焦った。
(大福!! ゼシリーア!! こういう時は助けてくれるんじゃないの!?)
前回も最後の最後には助けてくれた。そう思って心の中で叫ぶが、川の水の中にあの美しい神殿は見えてこない。
(ヤバい!! 沈む……!!)
いくら手足を動かしても縄は解けそうにない。水の流れが速く、身体が勝手に浮き沈みを繰り返す。それでも顔が水面に上がることはなく、リーシェの息は限界に近付いていた。
(く、苦しい……)
視界が暗くなってきて、いよいよもうだめだと諦めかけた時、視界が白くぼやけた。
『里沙、大丈夫か?』
「大丈夫じゃない!!」
暢気な声が聞こえて、思わず怒りに任せて声を上げると、自分の声が聞こえて目を見開いた。
目の前に白い宮殿が見えている。息苦しいはずの呼吸は普通にできていて、思わずのどに手を触れる。
『里沙、今回はお前を助けることはできない』
「え!? どうして!?」
『色々と問題があって……』
どこから聞こえてくるのかよく分からない声が、なぜかごにょごにょと歯切れの悪い言い方になって、リーシェは眉を吊り上げた。
「問題!? そっちの事情なんて知らないわよ!! とにかく今はピンチなの!! 助けてくれたっていいでしょ!?」
完全に冷静さを失ったリーシェが怒鳴ると、今まで声しか聞こえなかったゼシリーアがゆっくりと姿を現した。
水の揺らめきの中で、大きなドラゴンがこちらを見上げている。
『今はこれくらいしかできないが、まぁ、お前ならこれで助かるだろう』
大きなかぎ爪がゆっくりと前に差し出されると、その瞬間ブチッと何かが切れる音がした。
その途端、一瞬で視界が元に戻る。息苦しさが限界で、ゴボッと息を吐き出してしまい、リーシェは慌てて手を動かした。
(縄が切れてる!!)
手足が自由になっていることに気付いたリーシェは、慌てて水面を確認する。水底近くまで沈んでいた身体を起こし、力いっぱい水底を蹴り上げる。
必死に手足を動かしてやっと水面に顔を出すと、思い切り息を吸った。
「た、助かった……」
肩で息をしながら呼吸を続けるが、水の流れが速く上手く浮いていられない。今までのことで体力も限界になっていたためか、手足に力が入らない。
更に水の冷たさが身体の芯まで凍らせて、思考まで鈍くなっていく。
(まずい……、泳ぐ体力が……)
湖で泳ぐのとは違う、水の流れに逆らうように泳ぐには体力が必要だ。
濡れたドレスが重い枷のごとく身体に圧し掛かる。あまりの辛さに顔を歪ませた時、激しい馬の足音が聞こえてきた。
「リーシェ!!」
「ルゼ!!」
岸に走り寄ったルゼオンが馬から飛び降りると、その勢いのまま水にザブザブと入り、こちらに近付いてくる。
その行動にリーシェは目を見開いた。
「リーシェ!!」
「ルゼ! ダメよ!! あなたが溺れちゃう!!」
必死の形相で助けようとするルゼオンに、リーシェは慌てた。
川はそれほど浅くない。足が付かなくなってしまえば、ルゼオンは溺れてしまう。そうなる前に自分が岸に泳がなければと、リーシェはルゼオンに向かって全力で泳ぎ出した。
「リーシェ! リーシェ!!」
ルゼオンが何度も名前を呼んでくれている。そこに向かってリーシェは最後の力を振り絞る。
そうしてついにルゼオンの身体に手が触れると、しっかりとその手を掴んでくれた。
「リーシェ!!」
「ルゼ!!」
力強く抱き締められて、リーシェの目に涙が溢れる。
「殿下!! リーシェ!!」
「ルゼ様!!」
「お二人をお助けしろ!!」
「誰か縄を投げろ!!」
たくさんの声に視線を向けると、岸にはエヴァンや騎士たちもいて、こちらに縄を投げかけようとしている。
その様子に、やっと助かったのだとリーシェは心の底から安堵した。
兵士たちの助けも借りて二人は岸に上がると、エヴァンが身体を支えてくれる。
「早く火に! 誰か毛布を持ってこい!!」
河原には焚火が焚かれ、そのそばに座ると身体に毛布を掛けられた。
「リーシェ」
ルゼオンが抱き締めてくれて、一緒に毛布にくるまる。奥歯がガチガチと鳴るほど寒かったけれど、火の温かさとルゼオンの体温にゆっくりと身体の強張りがとけていった。
なんとなく自分がいた崖の上を見ると、兵士たちの姿が見える。どうやら野盗たちはすでに倒されたらしく、騒がしくはあったが争っている様子ではない。
「どうやら、ベルナールがやってくれたようだな」
「ね、ルゼ。皆は無事? コーネリアたちはどうなったの?」
「彼女らは無事だ。すでに離宮に戻っている」
「そう……、良かった……」
ルゼオンの肩に頬を寄せて、リーシェは安堵の息を吐いた。
きっと3人なら大丈夫だと思っていたけれど、それを聞いて本当に安心した。
「殿下、着替えを。指揮は取れるかい」
「大丈夫だ。リーシェはここで温まっていろ。さすがにここで着替えはさせてやれないから、まだ寒いようならもっと毛布を持ってこさせる」
「うん、分かった」
エヴァンに言われ立ち上がったルゼオンは、そうリーシェに言って焚火から離れていく。
(寒くないかしら、ルゼ……)
ルゼオンは濡れた上着を脱いで、手渡されたシャツに袖を通すと、そのまま騎士たちに指示を出し始める。
髪からはまだ水が滴り落ちていて、リーシェは少し心配になった。
「殿下! 全員捕らえました!」
「よくやった、ベルナール」
ベルナールの後ろには縄で縛られた野盗たちと、フードの男がいる。そのフードが後ろに落ちていて、リーシェは遠目に見たその顔に驚いた。
「まさかあなたが犯人だとは思いませんでしたよ、バイエ司教」
「殿下……、これは何かの間違いなのです……。私は……違うのです……」
ルゼオンの前に跪かせられたバイエ司教が、必死な様子で訴える。
「野盗に金をやってリーシェを殺そうとしたのはあなただったのですね」
「これは……その、私の意志では……、命令されてしたことなのです!」
「それは調べれば分かること。全員離宮に連行せよ。まだ仲間がいるかもしれん。周囲の捜索を」
ベルナールがバイエ司教を立たせ歩かせていく。その姿を見送ってリーシェは視線を焚火に戻した。
(命令……? もしかして王妃様に頼まれてバイエ司教が……?)
パチパチと火が爆ぜるのを見つめながら考える。確かに王妃は自分を目の敵にしていた。殺したいほど憎いのかもしれない。けれどそれならわざわざバイエ司教を使う必要はない気がする。
王妃ならきっともっとすごい殺し屋みたいな人でも雇えるのではないだろうか。
リーシェは“殺し屋”というものすごくあやふやな想像をしながらも、今はそういう難しいことはルゼオンに任せようと考えるのをやめると、空を見上げる。
いつの間に止んでいたのか、灰色の雲の隙間からは、美しい青空が見えていた。




