第51話 散歩
ゼシア王国はあっという間に雪景色になった。選定が始まってまもなく20日が過ぎようとしている。手ごたえもないままとにかく必死に勉強を続けるリーシェにとっては、辛い日々が続いている。
午前中の講義が終わって昼食になり、少しの自由時間になった。昼食は4人で食事をするのだが、早々に食事を終わらせたリーシェは席を立った。
だいぶストレスが溜まっているのが自分でも分かって、少し息抜きしないと午後の講義が乗り切れないと判断し、散歩でもしようと廊下を歩きだす。
(地理の内容が耳から出ちゃいそうだわ……)
午前中はみっちりゼシア王国周辺の地理を勉強した。少しはクロエに教わってはいたが、その範囲を大きく超えて小さな村の名前まで教えられた。
挫けそうな気持ちを浮上させるには、なにか癒しが必要だ。部屋に戻って大福の背中に顔を埋めるか、甘いお菓子を食べるか。
寒い廊下を進みながら考えていると、ふと壁に掛かっている風景画に目が留まった。
(あ、そうだ。ルゼの子供の時の絵を見に行こう!)
以前見た天使のような恰好をしている、可愛い子供時代のルゼオンを見れば完全に癒されるはずだと、リーシェは行き先を決めると止まっていた足を動かした。
迷うことなく歩いていたリーシェだったが、長い廊下の先に紫の人影を見つけてピタッと足を止めた。思わず曲がり角に身を隠してしまう。
(別に隠れる必要はないんだけど……)
苦手意識が先行してついコソコソしてしまう自分が情けないが、廊下でばったり会って嫌味を言われるのは今の精神状態では避けたいところだ。
このまま道を引き返そうかと考えていると、王妃の声が微かに聞こえてきた。
「では、そのように。失敗は許されません。よろしいかしら?」
「もちろんでございます、王妃様」
男性の低い声がそう返事をすると、王妃はサッと身を翻し、足早にその場を去っていった。
(なんの話をしていたのかしら……)
お供も付けずに王妃が出歩いているのが不思議で少し考えるが、分かる訳もないのでリーシェは廊下の角から出ると元来た道を戻り出した。
王妃に出会ってしまったことで、もうウロウロする気を無くしてしまった。しょうがないので予定を変更して大福に顔を埋めようと歩いていると、正面の曲がり角から男性が現れた。
「聖女様!」
リーシェをそう呼んだ男性は神官服を着ていた。白髪の少し混じる茶色の髪を背中で三つ編みにしていて、人の良さそうな笑みをリーシェに向けている。
胸にある星の紋章で、それがハルニエ教の神官だと分かった。
リーシェはとりあえず挨拶をと腰を落とす。
「ごきげんよう」
「ああ、やっとお会いできましたね」
目の前まで来て足を止めた男性は、嬉しそうに挨拶を返す。
「私はハルニエ教会で司教をしております、ユーグ・バイエと申します」
「リーシェ・エルナンドです」
「知っておりますとも。ゼシリーアの聖女様にご挨拶したいとずっと思っていたのですよ」
司教って確かハルニエ教会では一番偉い人よねと頭の中で確認しつつ、リーシェは笑顔を張り付かせて会話を続ける。
「ハルニエ教の司教様がなぜ私にお会いしたいと?」
「神に仕える者として、聖女様のお話をぜひお聞きしたいと思っておりましてね」
「お話するようなことはなにも……」
ゼシリーア教会のオーヴェル教皇のような穏やかな印象とはまったく違い、中年の活力のみなぎるような話し方にリーシェは少し気持ちが引いてしまう。
「王太子妃候補に選ばれたのはまことに喜ばしいことですが、神に仕える気はないのですか?」
「私ごときが聖女など、おこがましいばかりです」
「謙虚な方ですね」
ハハハと声を上げて笑うバイエ司教に、リーシェも引き攣った笑みで答えていると、廊下の先から足音がした。
遠目にもそれがセドリックとベルナールだと分かり、リーシェはホッとした。
二人は小走りで走り寄ると、バイエ司教に挨拶をする。
「リーシェ様、このようなところでどうしました?」
「ちょっと散歩をしていたら、偶然司教様に会って……」
「姿が見えず探しておりました。部屋に戻りましょう」
セドリックの言葉に笑顔で頷く。
「バイエ司教は、ここでなにを?」
「あー、いや、教会のことで王妃様にご相談があってな」
「そうですか。リーシェ様、行きましょう」
ベルナールの語気の強さに、バイエ司教が少し動揺した顔をして答える。ベルナールはそんなことを気に留めることもなく、リーシェを促して歩き出した。
二人に挟まれて歩き始めたリーシェがちらりと振り返ると、バイエ司教がそそくさとその場を後にするのが見えた。
「リーシェ様、司教となにを話していたんですか?」
「なにって、だからばったり会って挨拶しただけよ。司教様はなんだか私に会いたかったとか言っていたけど」
セドリックにもう一度聞かれて、同じことを答える。なにか問題があっただろうかと首を傾げるが、それ以上セドリックは話を続けない。
「二人は私を探していたの? なにか用?」
「いいえ、そういう訳ではなかったのですが」
「あら、じゃあ、助かったわ。私ああいうタイプ、ちょっと苦手なのよね」
偶然とはいえ二人が来てくれて助かった。あのままバイエ司教の立ち話に付き合わされていたら最悪だっただろう。
「ベルナールも、ありがとね」
一言も話さないベルナールを見上げてそう言うと、やっとベルナールがこちらを見た。
「王太子妃候補になった割に、あまり変わっていないな」
「変わるってどういうこと?」
「もうちょっと、王太子妃候補っぽくなっていると思っていた」
「ベルナール、リーシェ様には敬語を使え」
セドリックの注意にベルナールはしれっと顔を背ける。
「王太子妃候補っぽいってどういう意味?」
「そのままの意味だ」
意味が分からず首を捻る。もうこちらを見ていないベルナールの綺麗な横顔を見上げる。長い銀髪が窓から差し込む光に照らされてキラキラしている。
(うーん、眼福だわ……)
とりあえずこの麗しい姿で癒されようとリーシェが思いながら歩き、勉強部屋まで戻ってくるとベルナールが扉を開けてくれた。
「リーシェ様、あまり一人で出歩かないようにお願い致します」
室内に入るリーシェにセドリックが声を掛ける。
「うん、分かった。ベルナールも、一緒に来てくれてありがとう」
「ああ」
そっけなくも返事をしたベルナールにリーシェは笑みを向ける。ベルナールがさっさと背中を向けてしまうと、セドリックが慌ててそれを追い掛けた。
ふうと息を吐いて自分の席に行こうとすると、コーネリアと目が合った。
「リーシェ、今のベルナール様よね?」
声を掛けてきたのはミレイアだった。目を輝かせてこちらに身を乗り出している。
「うん、そうだけど」
「リーシェはベルナール様とも仲が良いの?」
エセルも興味津々という顔で話し掛けてくる。
「仲が良い訳ではないと思うけど、普通に話すくらいはするわね」
「ベルナール様ってすごく素敵よね。でも気難しい方で、全然女性と話して下さらないのよ」
「ああ、分かる気がするわ」
気難しいというか、ちょっと天然という感じだが、彼と普通に話すのが難しいのはよく分かる。
「私、近くで初めて見たけど、物語に出てくる方みたいに麗しいお姿ね」
エセルの言葉にリーシェは笑いながら頷く。きっとエセルの中では憧れの人なのだろう。
「コーネリアもそう思うでしょ?」
「うん……、そうね」
ミレイアが同意を促すと、コーネリアはぼんやりしていたのか、ハッとこちらを向いて笑みを作り頷く。
「さぁ、もうすぐフリント教授がいらっしゃるわ。席に着きましょう」
コーネリアがいつもの調子に戻ってそう言うと、3人は少し浮かれた気持ちを引き締めてそれぞれの机に戻った。




