第10話 魚釣り
リーシェの朝は早い。陽が昇り始めると自然に目が覚め、身支度を整えて1階に下りる。すっかり手洗いにも慣れた洗濯をさっさと済ませ、その後は朝食を作る。
火打石で火を付け、薪をくべて料理を始める。朝は簡単にベーコンエッグが多い。ルゼは文句も言わず食べてくれるので、毎日同じメニューにしてしまっている。
手押しポンプで水を汲み、お茶のために湯を沸かす。セドリックがハーブのような茶葉を持ってきてくれたので、それを食後に飲むようにしている。
料理が出来上がりテーブルに並べ終わると、7階まで駆け上がる。
「ルゼ! 朝ご飯よ! 起きて!!」
扉をドンドンと容赦なく叩き声を掛ける。中は静かなままだ。
もう一度扉を叩き、「食べちゃうからね!!」と叫ぶと、声にならないような低い唸り声が聞こえる。
その声が聞こえるとリーシェはふふふと笑って踵を返した。1階まで戻り椅子に座る。少し待っていると、髪がいつも以上にボサボサのルゼが姿を現す。
「おはよ」
「ああ、おはよう……」
開いているのか疑わしい目を見つめてにこりと笑い掛ける。ルゼはあくびを噛み殺しながら正面の椅子に座ると手を合わせた。
「はい、いただきます」
「いただきます……」
いつの間にかルゼも食べる前には手を合わせて挨拶をするようになっていた。それがなんだか微笑ましくて笑ってしまう。
こうして二人で朝食を済ませ後片付けをすると、この後は仕事の時間だ。
この世界に来て20日が過ぎたが、毎日湖を泳ぎ続けている。もはや夢の中だのなんだのと悩むことはなくなった。
夢だろうが現実だろうが、やれることをやるだけだ。
「雨が降りそう……」
見上げる空は今にも降り出しそうな曇り空だ。少し気温も低く、水に入ったら風邪をひいてしまうかもしれない。
両手を腰に当てて湖を睨み付ける。水面を渡ってくる風に髪を揺らしながら、リーシェははっきりと宣言した。
「よし! 今日はお休み!!」
笑顔でそう言うと、踵を返し塔に戻る。休みと決めたらやることは決まっている。
ガラクタの中にあった釣り竿を引っ張り出し、使えるかどうか確かめる。古いが竿も糸もしっかりしていて壊れそうにない。糸の先にはシンプルだが針も付いている。
「いけるわ!!」
釣り竿を掴み外に出ると、木桶も抱えて水際を歩きだす。
(ああ、やっと魚が食べられる!!)
逸る気持ちが足を速める。
この頃、リーシェはだいぶ肉料理に飽きてきていた。セドリックが持ってきてくれるのは、大抵塩漬けの豚で、それを切り分けて料理に使うのだが、とにかくしょっぱくて味が濃い。
さっぱりとした料理を作ろうにも肉がそれではどうにもならず、不満は溜まる一方だった。
そんな中、湖に潜っている時、ふとそこに沢山の魚が泳いでいるのに気付いた。当たり前だったが、意識して見ていなかったのでそれまで気付かなかった。
それからリーシェの頭の中は、魚でいっぱいになった。
「ここだわ」
大きな岩のある場所に着くと荷物を一旦下ろし、水中をじっと見つめる。
潜っている時に見つけた魚のいるポイントだ。岩の下に上手く隙間ができていて、多くの魚が隠れていた。
ここなら入れ食い状態で釣れるんじゃないだろうかと思っていたのだ。
釣りはそれほど上手くないが、水泳と同じように、それなりに経験を積んでいる。
岩の上に座り桶の中に入れていたベーコンを取り出す。懐かしい記憶の中で、父が魚肉ソーセージを餌にして釣りをしていたのを思い出したのだ。
「さてさて……」
釣り針に小さく千切ったベーコンを付けると立ち上がる。
「お願い! 釣れてちょうだい!!」
声と共に竿を振るう。ポチャンと小さな音を立てて針が水面に落ちると、後はもう待つだけだ。
しばらく立って待っていたが、当たりはなくその場に腰を下ろす。見上げる空は相変わらず曇天で、灰色の雲を見上げて溜め息を吐く。
(なんなのかしら、これ……)
明らかにゲームの世界に迷い込んでいる自分。けれどゲームはすでにエンドを迎えた後らしく、自分は悪役令嬢の姿でこの世界に生きている。
断罪後に生き残って、ではその後はどうしたらいいのだろうか。目的もなにもない状態で、ただぼんやりと生きていていいのだろうか。
(ルゼとの生活はまぁまぁ楽しいけど……)
ただOLとしてあくせく働いていただけの日々より、よっぽど毎日は楽しい。平凡で退屈な日々だが、やることは多くあっという間に時間は過ぎていく。
リーシェの姿でいることも、この中世のような時代に生きることも慣れてしまった。
(元の世界に戻れるのかしら……)
そんなことをぼんやりと考えながら釣りを続けていると、足音が近付いてきた。
顔を向けるとルゼがゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。
「リーシェ、なにをしてるんだ」
「なにって見ればわかるでしょ? 釣りよ、釣り」
「そんなことは分かっている。探索はどうした?」
「今日はお休みよ」
「休み?」
なにを言っているんだと言わんばかりの顔で聞いてくるルゼに、リーシェは肩を竦めて答える。
「今日は気温が低いし、毎日泳いで少し疲労が溜まってるから有給休暇なの」
「ゆうきゅう? なんだって?」
「有給休暇! ルゼ知らないの? 働く者が持つ当然の権利よ。休みも仕事の内なの」
「お前はたまにおかしなことを言うな」
怪訝そうな顔でそう言ったルゼは、隣に立つとリーシェと同じように釣り糸の先を見た。
「で、その休みで釣りか?」
「そ! 魚が食べたいの!」
「魚? 魚が食べたいならセドリックに頼めばいいだろう?」
「だめ。セドリックが持ってくる魚って塩漬けじゃない」
「塩漬けじゃない魚の他になにがあるっていうんだ」
「新鮮な魚が食べたいのよ!」
「はあ?」
リーシェは真剣な目をルゼに向けると、ビシッと指を突き付ける。
「いい? 私は塩漬けじゃない新鮮な魚が食べたいの! ここにいる魚を釣って、焼き魚にするのよ!」
「焼き魚? なんだそれは?」
「ルゼ、焼き魚食べたことないの!?」
曖昧に頷くルゼに、目を見開きリーシェは声を上げる。そして俄然食べさせたくなった。
焼き魚の美味しさがどれほどのものか、絶対ルゼに知ってもらいたい。
「よーし! じゃあ絶対釣って食べさせてあげる!! お腹空かせて待ってなさい!」
気合い十分でそう宣言すると、ルゼは呆れたような顔を見せて踵を返した。
「まぁ、一日くらいゆっくりしろ」
ルゼはこちらを振り向かずにそれだけを言い塔へ戻って行った。
また一人になったリーシェは一度竿を引き上げる。新しい目標が増えて是が非でも釣らなくてはと意気込む。
餌がまだ食べられていないことを確認すると、もう一度竿を振るった。
――3時間後、ついに当たりが来た。ピクンと揺れた反応を見逃さず竿を振り上げる。
釣り針にしっかりと食い付いた魚を見て、リーシェは目を輝かせた。
「やったー!!」
興奮したまま糸を持つと魚をじっくりと観察する。マスやイワナにそっくりで、セドリックが持ってきた川魚と同じ姿だ。
食べられることを確認すると、針を口から外した。湖の水を汲んでおいた木桶に魚を入れると元気よく泳ぎだす。
「よしよし」
また針にベーコンを付けると、竿を振るう。ルゼと自分、二人食べるには一匹ではもちろん足りない。
こうして昼を跨いで夕方になるまで集中して釣りをした結果、木桶の中には魚が泳ぐスペースがないほどになった。
嬉々として木桶を抱えたリーシェは、小走りで塔に戻る。もう空は夕暮れの赤に染まりつつある。夕飯には丁度良い時間だ。
キッチンに入ると手早く支度を始める。この頃は種火を残してあり、かまどに火を入れるのも簡単だ。
魚の捌き方はかなりうろ覚えなのだが、とにかく内臓を綺麗に取れば大丈夫だろうと念入りに水洗いする。後は塩を振り、適当に棒を通す。
こんな時だけ直火があることを感謝しつつ、火の周りに魚を差した棒を刺していく。
本当はご飯が欲しいけれど、さすがにそれは無理なのでパンを用意すると、急いで階上に走った。
「ルゼ! ルゼ!! 焼き魚よ!!」
扉を勢いよく叩き声を掛ける。昼寝でもしていたのか寝ぼけた顔でルゼが部屋から出てくる。
のんびりと階段を下りるルゼの手を握ると、1階まで引っ張って行く。
かまどの前まで連れて来ると、立たせた魚を見てルゼは目を瞬かせた。
「どう!?」
「なんだ、これは?」
「これが私の食べたかった焼き魚よ!」
「こんな料理見たことがない……」
「本当? すっごい美味しいのよ。ちょっと待ってて。もうすぐできるから」
キッチンの中は魚を焼く良い匂いが充満している。ルゼは興味を持ったのか、椅子に座ることなく魚を観察している。
リーシェはそれを微笑ましく見ながら、作り置きしているスープを温め直した。
そうしてこんがりと焼き色の付いた魚を確認すると、ルゼの前の皿の上にそのまま置いた。
「おい、これはどうやって食べるんだ」
「もちろん、ガブリと行くのよ」
「ガブリ?」
「いっただっきまーす!」
楽しげな声でそう言ったリーシェは棒を両手で持つと、言葉通りガブリと腹に食い付いた。
すると口の中いっぱいにほんのりと塩味のきいた淡泊な魚の味が広がる。味までイワナそっくりでたまらなく美味しい。
「んー! 美味しい!! すっごく美味しい!! ルゼも食べてみて!!」
「そ、そんな下品な食べ方ができるか!」
「やってみてって。こうやって食べるのが一番美味しいのよ」
リーシェが勧めてもルゼは顔を顰めて魚を睨み付けるだけだ。
まさか食べないつもりかしらと思い、リーシェは頭を巡らせるともう一言添えてみた。
「誰にも言わないから、ね?」
こんなにボサボサの髪で、着る物も頓着していないルゼだったが、妙に仕草や食べる所作は上品なのだ。
それを見越してリーシェが言ってみると、それで納得したのかルゼがおずおずと口を開き小さく魚をかじった。
「う、美味い……。なんだこれ……、すごい美味いじゃないか……」
「でしょ! すっごく美味しいでしょ!! これが食べたかったのよ! 私!」
感慨深く呟いたルゼに、リーシェは嬉しくなって声を上げる。
ルゼは顔を上げこちらを見ると、珍しくとても自然に笑みを見せた。
「すごいな。ただ焼いただけで、こんなに魚って美味しいんだな」
ルゼの本当に素直な感想にリーシェも笑みを見せて頷く。
「そうなの。新鮮な魚を焼いて食べると、こんなに美味しいのよ」
向かい合って二人で笑い合う。こんなことでルゼと分かり合えると思っていなかった。それがとても嬉しかった。
ルゼはそれから上品に、でもなかなかの勢いで魚を食べてくれた。リーシェもお腹いっぱいになるまで魚を堪能すると、その日はただただ幸せな気持ちで眠りについたのだった。