②
「腹立たしいやつだ! 何とか言ったらどうだ!」
冷静に――この場は、大人しく殴られた方が良さそうだ、と判断する。勿論、衝撃は受け流すが。
そのまま拳を待ち構えていると、何かがゾランの前に立ちはだかった。庇うようにイストに背を向けて、ゾランと対峙している女性がいる。
顔は見えない。体の線が細く、しなやかだ。髪は一つに、きっちりと纏められている。
「子供に手を上げようとするとは、何事だ、恥さらしめ!」
イストより背の低い女性が、凛々しい声を張り上げる。そんなに子供じゃないけど……と思いつつ、成り行きを眺めた。ゾランの顔を見ると、イストと目が合った時とはまた違った表情で歪んでいた。
「メリル嬢、わざわざそちらから出向いてきたのか。何、ちょっと礼儀知らずの平民がいたものでね。気にする事はない、すぐに済む」
幾分声も柔らかい。だが相手を見下す雰囲気は変わらず、自分が圧倒的優位に立っているという自信が声音に表れていた。
――メリル嬢?
先ほど食堂で聞いた名である。今目の前に立っている彼女こそ、ゾランに目を付けられた哀れな女性なのではないか。
「何度も言うが、私は貴方の妾になるつもりは無い」
メリルと呼ばれた女性は、屹然とした態度で言い返した。
「こちらも何度も言うがね、上位の者の言う事は絶対だ。元貴族とは言え、君はもう何も持たない町娘だろう? 私に選ばれるなんて運がいい。妾になればもっといい生活が出来る。何にせよ数日の内には強制的に屋敷へ連れて行くから、そのつもりで」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ゾランが殊更丁寧に説明した。イストにも状況がよく飲み込めた。
「私はそんな生活を望んでいない」
反抗する態度を崩さないメリルに対し、ゾランは肩をすくめて口を閉じた。諦めたわけでは無く、呆れているようだった。
イストへの興味を無くしたのか、メリルとの会話を最後に、ゾランは側にいた従者へ「行くぞ」と声を掛けた。
「邪魔だ、どけ」と言い、人垣を手で散らしながら、ゾランは大通りの人込みに紛れていく。やがて完全に見えなくなった。
イストを助けてくれたようなので、礼を言おうと思い、イストは女性の後ろ姿に声を掛ける。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
メリルが振り返った。
後ろ髪は束ねてあるが、顔をイストに向けた時、前髪は頬にかかっていた。彼女は邪魔そうに、髪を指でかき分ける。彼女の目が見えた。
「礼には及ばない」
物々しい話し方とは裏腹に、ほっそりと小さな顔に、厚い睫毛で縁取りされた大きな瞳が鮮烈だった。あまり見ない金色の瞳。朝露を落としたように光を反射して、月の色が輝いている。頬は陶器のように白く、滑らかだ。
これなら確かに、貴族の屋敷で大切に囲いたくもなる。そう思ってしまう程、彼女の顔立ちは整っていた。
――不覚だ。
どんな豪胆な女性かと思えば、見た目は全く真逆ではないか。
凛々しい口調と可憐な外見が相俟って、異様な魅力を放っている。
意志の強い眼差しが、イストを見ていた。
着飾らない美しさがある。華美な服装ときつい香水を纏って言い寄ってくる女性達とはまるで違うものだ。
それは本能だった。何を警戒するでもなく、ただ純粋に、欲しいと思った。
「僕は旅行で度々この町に来ています、イストと言います。貴女の名前を伺ってもいいですか?」
イストは即座に外面を作り上げる。下心など無いかのように、感謝の念を前面に出して、人の良い顔を模った。
「メリル・アーガストだ」
メリルは疑う素振りも無く、笑顔で名乗り返した。
メリル・アーガストは、「そこの下宿で働いている」と言って、通りから見える建物を指差した。
年齢は、イストよりも年上だろうか。二十歳か、少し下に見える。
可憐と言っても、彼女はどちらかと言えば中性的な見た目だ。男装すれば、綺麗な男性に見えるかもしれない。今も女性用と思われる服を着ているが、動きやすさを重視したような服装で、きびきびとしている。背筋が真っ直ぐと伸びており、対面すると、こちらも思わず姿勢を正してしまいそうだ。
何とか親しくなろうと、イストは色々と話題を振った。必死な心情を決して悟らせない表情で、メリルの事を知ろうとする。御礼もかねてと言いながら、巧みに彼女と会話を続けた。そこで下宿の話も出てきたのである。
メリルは落ち着いていて、ゾランとのやり取りを見ても、物事に対してあまり動じない性格のようだ。
彼女が進んで話そうとしたわけではないが、持ち前の話術で“元令嬢”のくだりも聞きだした。
アーガスト家は没落貴族、血縁はもう居ないとの事である。下宿の主人が、亡くなったアーガスト家の当主と知り合いで、厚意で置いてもらえているのだという。
「父に恩があると言って、路頭に迷う所だった私を拾ってくれたのだ。下宿の主人には感謝してもしきれない」
町の住人はゾランのせいで貴族嫌いのようだが、メリルに関しては好意的に接している。アーガスト家は没落前までこの街に貢献していた貴族だったようだ。メリルも元は貴族でありながら、その言動の節々に、貴族を良く思っていない様子が感じ取れる。
「さっきの……ゾラン・ステヴンさんでしたっけ。あの人に妾になれと言われて、迷惑しているんですよね? だからメリルさんも、貴族が嫌いなんですか?」
ゾランの時と同じ失敗をしないように、顔色を窺いつつ、慎重に尋ねる。
メリルはイストの顔を見つめ、逡巡した。「いや……」と言いかけて、目を逸らす。ぽつりと、「あれは関係無い。個人的な恨みによるものだ。それに……」再びイストを見る。
会って間もない相手に、話していいものか迷っているのだろう。油断を誘う笑みを浮かべ、続きを促す。
――何も警戒する事は無いですよ。
「……私が恨んでいるのは、貴族というより、王族だ」
メリルはそこで言葉を止めた。
ぎくりとする。
メリルとは初対面なのだから関係無いと思ったが、王族という言葉に反応しそうになった。動揺が表に出ないよう、顔に力を入れる。
「それはまた、どうして」
神妙な顔で聞いたが、
「すまない、まだ仕事が残っているんだ」と言って、メリルは会話を終わらせようとした。長く話しすぎたようだ。
すかさず、「また会ってくれませんか?」と、重く受け取られないよう気を付けながら言った。無理には引き止めない。あくまでも、友人になりたいのだと匂わせて。
メリルは数度瞬きする間考え込んで、「私でよければ」と答えた。
害はないと判断されたようだった。
メリルは基本的に下宿に行けば会えると言った。イストはそれを心に留めて、下町を後にする。
食堂でメリルの話題が出た時は、干渉するつもりは毛頭無かった。しかし、こうなっては話は別だ。
メリル・アーガストはまだ、誰のものでもない。妾になどさせてなるものか。
彼女を手に入れるために、イストは自ら動く事を決めた。