第20話
霞む目に映る音乃の視界はおぼろげで。
その、よく見えない背中は確かに抗っていた。
「…歴史の中でしか名を聞かぬ存在に、よもや直接相まみえることになるとはな」
既に構えは一切の油断を許さぬ、心身共に完全なる戦闘態勢。
【勝手に歴史の狭間に放り込んでもらわないで欲しいものだね。これでもぼくはずぅっと生き続けてきたわけだけど】
「生きる?笑わせるな。生じてより六百年の年月を経ても幼子の姿のままで在る化け物に、生きている、などと全ての命ある者に対する侮蔑というものだろうが」
【酷いことを言うのだね、君も。生まれ落ちて一歳も経たぬうちに生涯を終える定めの生き物もおれば、百年を越えてなお盛んな生き物もいる。ぼくはただ単により永らえているだけなのだとは思わないかい?】
「………」
ターナは応えない。
答えに窮した、のではなく音乃の容態が心配でならず、しかし前方から注意を逸らせない状況に臍を噛むしかないからだった。
【見解の相違、というのならばそれで構わないよ。それにこうして事情の一端を知る輩との会話は、懐旧の念を満たしてくれるのだからね】
そんなターナの葛藤を見抜いてのことか、この場の者全員の頭に響く声はその言の通り、楽しげですらあった。
(くそっ…ヤツの認識が捉えられん…本当に遠祖の怨敵で間違い無いようだな)
眼前の子供状のモノから此方が如何に見えているか、全力で計ろうとしてみても木石にそう試みた時のように手応えが無い。
竜の娘としての戦闘能力は同族の中では劣るターナだったが、その分認識を捉える力においては、姉を除けば群を抜いている。その気になれば動物のそれすら捉えることも不可能ではない。
そのターナに、一切の把握を許さないのだ。生ける者でないのだとしたら無機物か何かだとしか思えない。
(あるいはリリィアも同じ想いをしたか…いや、単に遠祖の力に我らが及ばないだけだろうな)
この力を疎ましく思ったことの少なくないターナだったが、初めて力の足りないことを口惜しく思う。
親友を害した相手に対し、何も報いを与えられない我が身に歯噛みする。
だが、今は矜持を捨て去ってでも救わなければならない。
「…ウヅキ、聞こえるか?」
「え?…あ、は、はい」
振り向きもせず、自身で庇った背中の二人のうち、返事が出来そうな方に問う。
「ネノの息はあるか?」
「………えっと、…はい」
よもや胸に耳を当ててたりしてないだろうな、とこの場にそぐわない妙な心配をしてみたが、それどころではないのは承知している。
それでも、右手に一刀を構えて前に出し、半身を捻って心中線を相手に晒さない姿勢のまま、一瞬だけ後ろを見ようとするが。
【………】
脳裏に、向き合う宿敵の息づかいのような音が響く。
この野郎、嫌がらせか。
内心で舌打ちすると、こめかみを汗が一筋垂れ落ちた。
だがターナが羽月に声をかけることまでは妨害する様子はない。
ならば。
「…ウヅキ、ネノを連れてここを出られるか?」
「…っ、はい!やってみせます!」
よほどこの場に居続けることを恐れているのか、あるいはターナに頼られたことに喜びでもあるのか。
【何をするつもり、もなにもないか。ぼくがそれをさせるとでも思うのかい?】
「思わんな。だが、取り引きだ。この二人を無事にこの建物から外に出させろ。そうすれば、わたしの身を貴様がどうしようが構わない」
【へぇ…】
響く声に、驚きの色が混じる。まさかターナがそこまで言うとは思わなかったのだろう、一転して乗り気になったように、一歩近付いて言う。
【…本人にそのつもりがあるのなら、やってみてもいいかな。いいよ。悪くない話だ。いや、悪くないどころかお釣りを払ってもいいくらいだよ】
「何をするつもり、もなにもないな。いいだろう。この身、くれてや…」
「…かって、な…こと、いわない、で…よ」
「…ネノ?」
思わず振り返って確かめる。
音乃は、支えようとする羽月の手を振り払い、反対の腕一本で上半身を支えるように体を起こそうとしていた。
「音乃さん?!まだ起きたら…」
「羽月くん…コレ」
「え?」
そして、払った手に持っていたスマホを突き付け言う。
「…マキが待ってる。行って。私たちのことは何とかする」
「え……は、はい!分かりました!」
「ありがと。あの子のこと、お願い」
気弱な印象のあった羽月だったが、音乃の依託にゆっくりと、だが確かに頷いて立ち上がり、最早振り向くことをしようともせず、この場を離れて駆けていった。
それを見送った音乃は、気が抜けたようにぺたんと尻餅をつくように座り込む。
自分の行動に子供の姿をした存在が何も言わなかったのは意外だったが、取り引きがどうのこうの、と言っていたからそれを違えるつもりはないのだろう。
「……これで、まあいいか。いいわよ、私もつき合う。代償は彼を逃がしたので充分だから」
「ネノ、お前バカか?!」
「バカはあんたよターナ!!」
悲鳴じみたターナの声に、轟然と立ち上がる音乃。
その両足にはまだ少し震えがあったが、自分を罵ったターナを二歩下がらせるくらいに迫力はあった。
「自分のこと犠牲にして私のことを逃がそうとかって、ホントに救いがたいおバカよね、ターナは!それで私が一人だけ逃がしてもらって喜ぶとでも思ってるの?!バカ!」
「…バカバカ言うなこのバカ!お前が喜ぶかどうかは知らんがこうでもしないと誰も助からないんだから仕方がないだろうが!いいかよく考えろよ!こいつはわたしの一族の仇敵なのだ!関係の無いお前を巻き込むわけにはいかないだろうが!」
「はあ?!だったら余計にお節介ってものよ!ついでにターナも物忘れが酷くて心配にもなるわよ!」
「どーいう意味だこのバカ!」
「だってターナ」
やおら、音乃はいかった肩を下ろして、切なそうに微笑む。
豹変とさえ呼べそうな変化にターナはたじろいで、むしろ音乃の体に変調でも起きたのかと慌てる。
「…あんなに、竜の娘っていう自分の立場に苦しんでいたじゃない。そんな子が急に一族の敵、とか言い出しても無理しすぎ、って思うしかないじゃない」
「え……あ…」
その通りだ、と思う。思わざるを得ない。
「ターナは誇り高くて、そして強い女の子だよ。でも、さ。知る人の誰もいない場所にたった一人で飛び込んで、それでやっぱり一人で居続けられるほど無神経に強いわけじゃないって思うんだけどな」
「ネノ…」
握った拳は解かれた。
そしてそれと共に、握っていた白刃は取り落とされ、甲高い金属の鳴る音で我に返る。
【…なあんだ。君、自分からこちらに来たのかい。じゃあやっぱり無駄なんだろうね】
それはその声の主にしても同じことなのか、呆れかえったという態で、最早この場に興味のあるものなど何も無い、とばかりにターナの横を歩いていく。
「待て」
それを黙って見送っていたターナだったが、相手が部屋を出るべく扉の敷居を跨いだところで、声をかけた。
【…なんだい?こちらはもう君に興味などないよ。そこの優しい娘の無事を喜ぶなり乳繰り合うなり、好きにすればいいさ】
「乳繰りって、お前な…」
その一言ですっかり毒気を抜かれたか、ターナばかりか音乃も揃ってこれ以上、子供の形をしたナニカがその場を去ろうとするのを止める気にもならず、じっとしているのだった。
「はぁ………」
それから何秒経ったかは分からないが、ようやく気の抜けた音乃が座り込むのを潮に、ターナもその身にまとっていた鎧を解く。
「それで、体は大丈夫なのか?」
そうして、体育座りでいる音乃の顔をのぞき込み心配そうに声をかけると、音乃は僅かに頬を朱に染めて、「…うん」とだけ短く答えた。
「そうか。ただ、後に残るとよくない。とりあえずここを出よう…というか、結局その前に襲ってきた連中は何だったんだ?」
「…さあ。でも、羽月くんと合流した方が良さそうだね。マキのトコに行くよう伝えたから多分一緒にいるとは思うけど」
ターナに片手を預けながらだったが、音乃は立ち上がると、億劫そうにお尻のホコリを手で叩いて落とす。
「お前、あの短い時間でどうやってそんなことやったのだ…」
「マキの返信見せて持たせただけだよ。居場所があったからそれ見せればそっちに行くかな、って思って」
「そうか。気が利くのだな、ネノは」
「…お褒めに預かり恐悦至極」
「何を言ってる、バカ」
照れ隠しに戯ける音乃と、それを見て自然に笑みの沸くターナ。
さっき応酬した「バカ」の連呼とも違う、気遣いと感謝に満ちた眼差しが互いの眼の間を交錯する。いつまでもこうしているのも悪くはない、と思いながらそうも言ってはおられず、ターナが先に立ってこの場を後にした。
気になること、追わなければならないことが幾つもあろうが、一先ずは音乃と自分が自分の足で立って、訪れていた危難から逃れられたことだけは喜んでもいいのだろう。
そうして、外に出た。
外といってもビルの隙間の小路から、夜の繁華街へ、というだけのことだから、清々しさのようなものは一切無い。
が、ターナはそんな賑わいがどこか懐かしく感じられ、音乃には悟られぬように一人口元を緩めるのだった。
「…さて、マキノのところに行くか。どこにいるのだ?」
「えーとね……って、私マキが居場所送ってよこしたスマホ羽月くんに渡したままじゃん」
ポケットをさぐろうとしてその事に気がついた音乃。
「間抜けか。まったくネノは、しっかりしてるか抜けてるのかよく分からんな。なら電話で連絡すればよかろう」
「だからその電話が無いんだってば。ターナだって抜けてるじゃない」
間抜け呼ばわりに傷ついたのかムカついたのかは定かではないが、どちらにしても気分を害した音乃はふくれっ面に更に口を尖らせている。
「……ふふ」
「…なにか可笑しい?」
「いや。音乃は可愛いな、と思ってな」
「……バカ」
また少し、色と熱の異なる「バカ」を口にする音乃だった。




