酔の一言
「おめぇさん、そうやって笑ってりゃ何でも上手くいくとおもってんだろぉ?」
へらへらと笑いながら、ビール腹で痛風のおっさんは赤ら顔でジョッキを煽った。
私は驚いた。
どうして、バレたのだろう。
その店の名前は、”酒”
一応、バーである。
そう見た目は大将、自称マスターは主張している。
外見は小さな木造の蔵であり、店内は人1人すれ違えないカウンターと椅子だけで一杯だ。
そして、横開きの扉の暖簾に、達筆だか下手だか分からない文字で”酒”とだけ書いてある。
唯一その蔵が飲食店であると主張するはずののれんも、マスターは偶に出し忘れるので、店に”繁盛”の文字は縁遠い。
それでも、こんな蔵を”バー”だと発見し、足繁く通ってくれる常連客が居るので、マスターや厨房の”たけじぃ”、アルバイトの私も食いっぱぐれはない。
先程言ったように、目が回るように忙しくなることもないので、静かな雰囲気を好む客や働く側としても”いい店”である。
白鉢巻に黒いTシャツ、青いジーンズと白い腰巻エプロン。
おまけに顔は、ロシア人の曾祖母とのクウォーターのせいかほんのちょっぴり本人離れした、いかつさである。
そんなマスターの風貌は、どう見ても”バーのマスター”のイメージに寄らない。
良くて”大将”、場合によっては”板前”である。
せめて服装を所謂”バーテン風”変えることは出来るんじゃないかと思うが、楽、という理由だけで服を変えようとはしない。
にも関わらず、マスターは”大将”等と呼ばれるのが大嫌いである。
神サマであるお客様に、わざわざ訂正したり、あまりにしつこく間違うと、ますたーと呼ぶまで酒を出さないこともある。
「始まりが道楽」だから構わないという、飲食店のタブーのような事を平気で実行する偏屈な人だ。
そして、バーの食べ物を一人されているのが、50代半ばのたけじぃである。
たけじぃもマスターに似たような服装の鉢巻と腰エプロンで、違いはズボンに乗っかった大きなお腹と、如何にも”頑固親父”という雰囲気の顔である。
顔同様、性格も頑固で、店の裏で時折マスターと喧嘩をしているが、店のことは好きらしい。
それに、表には出さないが、私には優しく、まかないは何時もマスターのそれよりも1品多かったりする。
そして、大学生アルバイターの私。
ただ”ウィスキーが好き”という理由だけでこの店のアルバイトに応募した。
他にも酒好きの応募者は居たにも関わらず、何故か私だけがマスターとたけじぃの目に留まった。
自覚はないが、多分どこかしか変なんだろう。
変な人が店を経営すれば、自然と何処かクセのある客が集まる。
例えば、3か月前。
その日は誰も客が居らず、閑古鳥が鳴いてよく響いていた。
マスターとたけじぃは厨房でのんびりし、私はカウンターの中にある椅子に座って、店内に流れるジャズ欠伸紛れに聞いていた。
突然、、店の扉がどん!という剣呑な音を立てて開いた。
そして、開くと同時に肌が日に焼け体格のいい、童顔の男性が文字通り転がり込んできた。
地べたに這いつくばり、ぜぇぜぇと荒い息をしながら、その男は叫んだ。
「匿ってくれ!」
「は?」と私が言うが早いか、男はカウンターの中に入り込み、小さく丸まって祈るように両手を握り締めていた。
「何だ何だ」とマスターが店内に戻ろうとした瞬間、今度は女性が入ってきた。
モデルのような綺麗な体躯、肩甲骨まであるブロンドに染めた髪、華やかな顔。
”美人”とはこの事を言うのかと思わせる程の美女だった。
彼女もかなり急いできたらしく、息が乱れていた。
私とマスターは、さては痴情のもつれかな、と思った。
どうせこの足元の男が、何かとんでもない失礼をしでかし、この美女が怒って追いかけたのだろう。
ならば庇うこともないかなぁ、と私が思いつつ「いらっしゃいませ」と声をかけた。
美女は店内を見回し、呼吸を整えて一言。
「ここに日焼けした男が来なかった?」
とても、野太い声だった。
私が聞き間違いかと動揺し、答えに急してしまった。
しかし、私がまごついていると流石はマスター、素早く助け舟を出してくれた。
「今日は男性どころか、猫の子一匹来てないですなぁ。いやぁお恥ずかしい」
そう言いがはがはマスターが笑っていると、美女(?)は「あらそう、失礼」と言って電話をかけながら出て行った。
野太い声で。
私がそっと外を伺いつつ扉を閉めると、カウンターの中で蹲っていた男は草臥れた様子で、のそのそと出てきて入口から一番奥の席に座った。
「災難だったなぁ」とマスターがねぎらい、力ない返事で男がそれに応じる。
ぽつぽつと酒の力を使って男が喋った内容を要約すると、女性だと思って声をかけた相手が男性で、しかもその相手にいたく気に入られたらしく、機を見て逃げてきたらしい。
おまけに、そのお相手は強大なネットワークを持ち、複数の”彼”の友人(もちろんみんな、そういう男性)にいつ撮ったのか知れない顔写真を送り、かなり大規模な捜索をされているとのことだ。
ここまで聞くと、私もマスターも、最初に疑って申し訳ないという気持ちで一杯になってしまい、最初の1杯は店からの奢りとなった。
結局その日は朝までこの店に隠れ続け、帰り際も、ドラマで見る指名手配犯さながらであった。
その男は今でも、2・3週間に1回はうちに隠れにやって来る。
そんな客の中でも、一際頻繁に店にやって来る常連に、”しげちゃん”という人が居る。
従業員だけでなく、常連客の中でも有名人のしげちゃんは、”おっさん”という言葉がぴったりの容貌だ。
大きなビール腹に丸々太った手足。赤ら顔の上に乗っかった灰色のハンチング帽がトレードマーク。
入院する程の痛風持ちなのに、食べるは枝豆、飲むはビールのみ。
3日から5日に1回は病院から抜けて来て、毎度厨房から出てきたたけじぃと一緒に、その大きなお腹を順調に肥やしている。
一見ただの酒飲み親父だが、しげちゃんは、すごいのだ。
賭け事はからっきしだが、人間を見抜く目は、マスターですらあっと驚かされるほどである。
ある日、しげちゃんはいつもの気前の良さで、私達に「好きな酒を飲め!」とお酒を何杯も奢ってくれた。
すると、店の扉が開き、サラリーマン風の男女が入ってきた。
何気なく対応していると、しげちゃんがその2人組を一瞥し、すっとお手洗いに立った。
その瞬間、私達は”まずい客”が来た事を、しげちゃんに知らされるのだ。
しげちゃんが他の客を見て、私達に何の断りもなくお手洗いに立つのは、しげちゃんからの警告だった。
そういう客は、マスターのいかつさが生きる時でもあり、私はしげちゃんのみを相手し、2人連れはマスターが対応した。
2人が帰った時、マスターの額には薄く脂汗が浮き、しげちゃんはにやついていた。
「やくざだ。俺も元やくざと間違われた。危うく同類だと思われる処だった」
やっぱりなぁ!というしげちゃんの高笑いが店中に響いた。
「どうしてわかったの?」
丁寧な物言いを嫌うしげちゃんに、私はいつも通りの口調で訊いてみるが、「分かるもんは分かる!」「おめぇさんは節穴だ!」と言われるばかりで、人を見抜くコツは一向教えてくれない。
そんなしげちゃんと、偶々2人きりになる時があった。
マスターは足りない酒を、たけじぃは届けられなかった食材を買い足しに出かけてしまった。
しげちゃんはビールしか飲まないので、私でも対応できるだろうという、些か失礼な理由で1人にされたのだ。
「けいちゃん!ビール無くなった!」
「はいはーい」
私はビールを注ぎながら、しげちゃんと愉快に飲んでいた。
「なんだ、今日はマスターもたけもいないのか?」
「今だけだよ、買い物に行ってるよ」
「おめぇさんが残ってどうすんだ!下っ端がよぉ!」
そう言って、がはがは笑った。
しげちゃんも私に対しては無礼講なので、マスターの判断とはお相子の様なものだ。
しかし、しげちゃんは一頻り笑い終わると、左肘をカウンターにつき、手を顎に添え、私に向かって構えた。
「よく笑うねぇ」
口調はいつものおおらかな口調だが、顔が真剣だ。
見られているのだ、私が!
「普段はあのおっさん2人が居るから言わないけどよぉ」
僅かに唇を突き出し、右の眉がくいっと上がる。
そして構えを解き、口元にうすら笑みを浮かべながら、ジョッキを持った。
「おめぇさん、そうやって笑ってりゃ何でも上手くいくとおもってんだろぉ?」
私は思わずどきりとした。
へらへらと笑いながら、ビール腹で痛風のしげちゃんは、いつもの赤ら顔でジョッキを煽った。
私は驚いた。
どうして、バレたのだろう。
「おっ、びっくりしたなぁ。分かり易いなぁけいちゃん」
へっへっへと笑いながら枝豆を一個、つまみ上げる。
「面白くもないのに、そんなに笑ったんじゃあ、その内笑うのに疲れちまうぜ。時と場合で、ちゃあんと使い分けねぇとな」
そう言い、ぽいと口の中に枝豆を放り込んだ。
それ以上は、いくら訊いてもしげちゃんは柳に風が吹き抜ける気持ちのいい位の無視をされた。
以来、しげちゃんはぱったりと店に来なくなってしまった。
マスターやたけじぃは口を濁すが、多分、亡くなったんだろう。
他のお客さんの話だと、痛風以外にも、肝臓なんかも悪くしていたらしい。
図らずも、独り身のしげちゃんの遺言を聞いたような形になってしまった。
ただ、しげちゃんの性格だと、きっと今生の別れの一言だと思って大事にすればするほど怒られそうだ。
寂しいが、酒飲み親父の酔の一言だと思うようにしている。
しげちゃんもきっと、笑って頷いてくれるだろう。