そして彼は知る事となる
高校生の頃に書いたもの
歩行者信号が青色に変わった。炎天下の中、団扇や扇子、日傘を差し立ち尽くしていた人々が動き始める。時折、湿気を含んだ熱風が吹きつけて息苦しい。
「ほら、早く渡らないと」
片手に水色のプールバッグをぶら下げた少女が、同じプールバッグを持った少年をせかす。しかし、少年の動きは緩慢だった。
眩しさで目を上手く開けられないからだった。横断歩道の白線は、日光の照り返しが厳しく、狭い視界は全ての輪郭をぼやけさせる。少年には暑さも相まって、一種の幻想的絵画に感じられた。
白のワンピースを着た少女は、横断歩道と半ば同化しているようだ。手招きをする彼女は揺らめいていた。その揺らめきは手の動きに合わせて形を変え、白い炎のようであり、あぶられている気分になっていた。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
少年は歩き始めた。信号は点滅しており、二人は駆け足で渡りきる。頬に当たる風は肌に絡みつき、肺に流れ込む空気は酷く重たい。
少年はプールに行きつくまでの距離を思った。まだ、少々時間がかかる。それまで無事にたどり着けるだろうか。頭がぼんやりとして、しかし、熱があるわけでもない。少年は少女の後姿を追う事をプログラムされた機械のようだった。
ただ、それだけのために存在しているようで、希薄な感情は目に映る景色を受動的に受け入れる。無批判の映像は少女しか存在せず、少年は眺める事だけに徹していた。
この状態は、いつからなのか少年には思い出せなかった。起床し、ぼんやりした感覚がいつまでも抜けない。日に日に大きくなって行き、暑さと共に加速しているようだった。
「私、あと少しで二十五メートル泳げるよ」
少女は笑った。柔らかい、それでいて強烈に脳へ突き刺さる。一度見たら消える事は無く、深く深く少年の中へと侵入した。
「へー、そっか」
気が籠らない返事だった。少年は関心が無かったわけではない。言葉が飛んで行ってしまうのだ。思い浮かべては消える。目には見えないが感覚で分かる。細かい灰が風で砕ける様子に似ていた。
「自分は泳げるからって、調子に乗らないでよ」
少女は怒った素振りをした。
呼吸をする度に少年は大気中に拡散していった。意識が少女の中へと埋没し、形を失う。漂う少年は少女の周囲を取り囲んでいる。
滑らかな白い肌。花のように真っ赤な唇。肩を覆う黒髪。細い指先はささくれ一つなく、小さな爪は輝きを放っていた。
少年は少女の全体を俯瞰し、少しずつ近づき、また離れる。何度もそれを繰り返している少年は、火へと向かう小さな羽虫だった。白い炎の少女を延々と周回し、その身が焼かれようと動きを止めない。滅びを恐れず、そもそもそのような概念など存在しなかった。
ぶん……ぶん……、とうるさく飛び回る少年を迷惑なそぶりもせず、そっと少女は指先に止まらせるのだった。
指先は羽虫のごく細い手足でも感じられるほど、心地の良いものだった。体が内側から痛みもなく自然に消えてゆくようだった。
「あっ。アゲハチョウ」
少女が指さした先には黄色い蝶が飛んでいた。悠然と、しなやかに。
しばらく見とれるが、ふと気が付く。あれは飛んでいるのではない。舞っているのだ。少年のように不格好な飛び方はしない。青い空の舞台の上で華麗に動き回り、小さな羽虫など歯牙にもかけない。緩やかに羽ばたく両翼は黄色と黒の残像を残し、少女の目を奪う。
「綺麗だね。私好きなんだ、アゲハチョウ」
ぽつりと呟いた少女の言葉は消えなかった。喉を伝い口から流れ出たものはシャボン玉のようだった。
ゆっくり昇って行き、蝶がそれを捉え吸い始める。蝶は言葉と一体になった。
少年はアゲハチョウを羨ましく思った。しかし、あがいたところで羽虫が届く存在ではない。まさしく女王に相応しい外見は、比べる事さえおこがましい。
「ああ……」
少年はうめいた。悲痛なうめきだった。暗い穴の底から、薄気味悪く響いているようなものだった。
いっその事、食べてくれれば良いのに。少年はそう願うが、蝶は羽虫を食べない。花の蜜や、綺麗な水を飲むのだ。
「ほら、着いたよ。もう、みんな集まってる」
市民プールの入り口では、同じ年の頃の子どもが幾人か集まっていた。
少女は駆け出した。
少年は落とされないようにしがみ付く。かといって、少女を傷つけてしまわぬように、細心の注意を払った。