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少し短めです
「うぅ…、ひどい目にあったよ」
エラが持つ採取かごの中に入っていた布を渡され、濡れてしまった髪を拭きながらミーシャはしょんぼりと肩を落とす。
「まぁ、波しぶきがかかっただけで、大して濡れなかったんだし、良かったじゃん」
萎れるミーシャを、エラが笑い飛ばした。
幸い、下向きになっていた視線の端で盛り上がる海面に気づいたミーシャが、とっさにトンブを引きちぎるのを諦めて体を引いたおかげでびしょ濡れになることは免れていた。
そうでなければ、晩秋のこの時期、風邪を引くからと速やかに家に帰る羽目になっていただろう。
(まだ一つも採取できてないのに、それはいや過ぎるわ)
しっとりとした髪や肩口から丁寧に水けをふきとりながら、ミーシャは改めて気を引き締めた。
「ありがとう。じゃあ、採取の方法、改めて教えてくれる?」
「あぁ、こっちに来て」
導かれたのは波をかぶった現場からさらに100メートルほど村から離れた岩場は少し凹凸が減り、岩棚のようになった場所だった。
「今は引き潮だから平らな岩が見えてるけど、潮が満ちるとあの断崖まで海の中に隠れるんだ」
二十メートルほど先にある断崖絶壁を指さされて、ミーシャは空を仰いだ。
これほどに離れた場所にいるのに、断崖は見上げるほど高く、その上はどうなっているのか分からない。
ごつごつとした地層がむき出しになった断崖は、ところどころ波に浸食されたのか抉れて、崩れ落ちていた。
「さ、こっちだよ」
「あ、これなら私でも採れそう」
指さされた岩のくぼみにできた潮だまりの中に生えるトンブに、ミーシャが歓声をあげる。
せいぜい一メートルほどの幅しかない小さな潮だまりだ。淵から手を伸ばしたとしても十分採取できそうだった。
「だろ?じゃ、目標はこの篭いっぱいね。採れたら、真水で洗って干すところまで今日中にしたいし、他にも見せたいから、早いところ終わらせよう」
「はーい」
促され、ミーシャは先ほど教わったトンブの様子を思い出しながら、丁寧に一房ずつちぎり始める。
その横では、エラが豪快な手つきで毟っていた。
「ん?何か、声が聴こえる?」
しばらく無言のまま夢中でトンブを採取していたミーシャは、ふと波音に混ざって何かが聴こえる事に気づいた。
思わずかがんでいた腰を伸ばし、耳を澄ます。
「どうした~?ミーシャ?」
目を閉じて耳を澄ますミーシャに、エラが怪訝そうな顔を向ける。
「……歌が」
潮騒に混ざって、微かに歌声が聞こえてきたのだ。
「あぁ。海巫女様が歌ってるんだよ」
同じように耳を澄ましたエラが、何でもない事のように答えた。
「海巫女様?」
初めて聞く言葉に、ミーシャが首を傾げると、エラが先ほどの断崖を指さした。
「あそこ。ちょっと、でっぱりが邪魔で見えにくいけど、崖の真ん中くらいに洞窟あるの見えるだろ?あそこに海巫女様がいるんだよ」
ミーシャが指さされた場所に目を凝らすと、確かに崖の中ほどにある岩のでっぱりの陰に洞窟らしき穴が見えた。
「いるって、あそこに暮らしているの?あんな場所にどうやって行くの?」
驚いて目を見張るミーシャに、エラがなんでもない事のように笑う。
「あぁ、山のお社の方から、洞窟が海の方まで続いてるのさ。必要なものはそっちから持っていくんだよ。海神様をお慰めするのに歌うのが海巫女様のお役目なんだ」
「……海の神様」
海辺の村が、海を神格化して祀るのはよくある話だ。
豊漁や航行の安全を祈り物や芸術を奉納する。
ミーシャも、旅の中で通った海辺の町で素晴らしい奉納舞を見た事があった。
年に一度のお祭りで、代表者の少年少女たちが厳かに楽器を奏で歌い踊っていた。
それは厳かだが、どこか明るく楽しげな雰囲気だった。
「あんな場所で?」
潮騒に交じり細くとぎれとぎれに届く歌声は、綺麗だけどどこか物悲しく聞こえる。
それは、楽器の音色もなくたった一人の声だからなのか……。
ぽかりと開いた洞窟はここからではただ黒い穴のようにしか見えない。
それが、なぜか恐ろしいもののように感じて、ミーシャはただじっと見つめ続けた。
「ミーシャ、さっさと終わらせないと、潮が満ちてきちまうよ!」
「え?あっ……。はーい!」
ぼんやりと見つめていたミーシャは、威勢のいいエラの声にハッと我に返る。
海の方を見ると、少しだけ水際が近づいているように感じた。
「他の薬草も見たいんだったら、急げ急げ!あ、でも丁寧になぁ~」
「わかってるぅ~」
いつの間にか離れたところで採取していたエラにはっぱをかけられ、ミーシャも大きな声で返事を返す。
(時間は有限。次はどんな薬草かな)
トンブのように、まだ知らない薬草はたくさんある。それを知ることができるのは、ミーシャにとっては大きな喜びだった。
(トンブの処理も楽しみ。どうやって洗うのかな?どうして乾燥させたら匂いが無くなるんだろう?)
考え出すと止まらなくなって、無意識のうちににこにこしながらミーシャはいそいそとトンブを採取していく。
歌は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
時は少し遡る。
足早に自室へと戻り、腹を切り裂かれたレンの治療を終えたラインは深く息をついた。
麻酔が効いているレンはぐったりと目を閉じてピクリとも動かない。
幸いにもナイフは腹膜に達してはいたものの重要な内臓は傷つけていなかった。
失った血の量によっては予断は許さないものの、おそらく一命はとりとめた事だろう。
「さすがに人の血を輸血するわけにもいかんからな。頑張れよ、レン」
浴びていた血液を拭きとったせいで少ししっとりと濡れている体を優しく撫でてやりながら、ラインは小さく囁いた。
「しかし、……まさか身のうちに敵を隠してるとは思ったが、顔見知りとは思わなかったな」
食事を運んできたりする際一言二言言葉を交わすことはあったが、不審な様子には気づけなかったラインは、もう一度深くため息をついた。
ミーシャに至っては、随分馴染んでいたようだったから、なおの事簡単におびき出されてしまったのだろう。
『森の民』としてばれていたというよりも、特等客室にいたため、上客と思われ人質の価値があると判断されたのだろう。
「慣れない長期の船旅だから少しでも居心地のいい部屋でと思ったのが、仇になるとはなぁ」
本来なら、あまり目立たぬように二等客室をとるつもりでいたのだ。部屋は狭いし二段ベッドにはなるが一応個室でプライベートは保たれるし、それで十分のはずだった。
しかし、たまたま助けた貴族の好意で譲られた乗船券に、つい欲が出た。
何を見せてもさせても楽しそうなミーシャに、貴族御用達の豪華船室を見せたらどんな顔をするのだろうと。
さらに、一月近くろくに入浴できない苦痛から逃れられるという思いもあった。
治安が悪くなったという情報もあったから半端な大きさの船より、巨大客船の方が防衛もしっかりしているから襲われることはないだろうという計算もあった。
まさか、海賊が徒党を組んでいるとは思わなかった。
まさか、潜入者が身近に潜んでいて、ミーシャが目をつけられるとも思わなかった。
「……いや、全ては俺の慢心から、だな」
独りなら、どんな修羅場を潜り抜ける自信があったし、そうして生き残った実績もあった。
たった一人。
そのたった一人を守ることなどたやすいはずだったのだ。側にさえ、いたら……。
無意識のまま使用した道具を手入れして片付けていたラインは、強く唇をかみしめた。
自分の驕りが、大切な存在を危険に陥れている。
悔やんでも悔やみきれない思いが胸のうちで渦巻いていた。
「……よし」
渦巻く激情と共に、パタンと道具箱を閉める。
バサリとマントを羽織るラインの表情は、わずかに赤く染まる唇に名残を残すだけで、すでにいつものものに戻っていた。
「レン、ちょっと待ってろよ。確認してくるから」
未だ意識が戻らないレンの頭をもう一度撫でると、ラインは部屋を出て甲板へと向かった。
未だ、血痕や刀傷など戦闘の痕が残る甲板には縛られた海賊が転がり、横付けされていた海賊船へと残党処理のため味方の船員が続々と乗り込んでいる。
そんな喧騒の中、船の周辺をうろうろとする小舟が数艘あった。
「お~い、もっとそっちを照らせ!」
下に向かい叫ぶ大きな背中を見つけたラインは、真っ直ぐにそこへと足を向けた。
「どうだ?」
「あぁ、ライン……」
振り返ったカーターの表情は暗い。
言葉を聞くまでもなく、その表情ですべてを悟り、ラインは一瞬眉をひそめた。
「すまねぇ。すぐに船を下ろして探してるんだが、見つからねぇ」
「これくらいの木の箱は、浮かんでなかったか?」
沈痛な表情で頭を下げるカーターに、ラインは三十センチほどの大きさを手で作って見せた。
部屋にミーシャのリュックはあったが、マントと薬箱は消えていた。
という事は、ミーシャは薬箱を持って出たはずだ。
おそらく、自分か誰かが怪我をしたからとおびき出されたのだ。
「ミーシャの薬箱だ。あれは密閉性が高いから中に水が入らず浮かぶはずだ」
肩掛けのそれを身に着けていたら、意識がなくともうまくすれば沈まずにいてくれるのではないかと思っていたのだが、ラインは甲板に来る途中に寄った落下現場で、紐を固定していたはずの金具が落ちているのを見つけてしまった。
何らかの衝撃で紐が壊れている可能性が高い。
それでも、海に浮かんだ薬箱を見つける事が出来れば、ミーシャがどの方向に沈んだのかのだいたいの検討にはなるはずだ。
「いや、それらしいものは見つかってないと思う。嬢ちゃんがどのタイミングで部屋の外に出て海に落ちたかは分からん。一応、戦闘終了時は帆を下ろしていたが、それでもアンカーを打ち込んでいたわけじゃねぇ。船は緩やかに動いていたから……」
険しい表情で呟く声は苦い。
海中に沈み、海流にのってしまえばあっという間に見失うだろう。
広い海の中。
知らぬ間に消えた少女一人を見つけ出すのは、奇跡に近い。
それでも、頑張って浮いていてくれればと探すのだが、それらしき気配は何処にもなかった。
好奇心に目を輝かせて船内をうろついていたミーシャと仲良くなった船員は多い。
興味深く話を聞いたり、手荒れやちょっとした不調に薬を分けてもらっていた者もいた。
万に一つの可能性を諦めきれず、いまだに探索を続けているのはそのせいだ。
誰もが、少女の笑顔を思い出し、奇跡を願っていた。
「そうか……。手間をかけてもらってありがとう。もう引き上げてもらって構わない」
ぎゅっと手のひらを握り締めた後、ラインは何かを振り切るように顔をあげた。
「そんな、まだ可能性は!」
カーターが、驚いたように声をあげる。
仲の良い伯父と姪だと思っていたラインの淡々とした様子が信じられなかったのだ。
「ベテランの水夫らしくない。これだけ時間をかけても見つからないなら、潮流に乗ってもうこの辺にはいないと思うべきだ。薬箱はなかったんだろう?」
その肩をなだめるようにポンと叩いて、ラインは首を横に振った。
「俺たちの都合でいつまでもこの場所にとどまるわけにもいかない。海賊たちの処理もあるし、この船にはほかにも多くの客や荷物が乗っているんだろう?」
「それは……そうだが……」
どこまでも冷静なラインの様子に、カーターは唇をかみしめた。
「言っておくが、諦めたわけじゃないぞ?」
渋い顔のカーターに、ラインは二ッと笑って見せる。
「薬箱が見当たらないって事は、ミーシャもそれに掴まって共に流されている可能性はゼロじゃない。次の港で降りて周辺を当たってみるつもりだ」
「お……おう」
ラインの言葉にあっけにとられていたカーターの目が徐々に力を取り戻していく。
「分かった。それなら、ここら辺の潮の流れを予測した地図を見せてもらえるよう掛け合ってやるよ。こっちだ」
力強く頷くと、カーターはしがみつくようにのぞき込んでいた手すりから離れて歩き出す。
「そうだよ、嬢ちゃんはあんなに海の神様たちに好かれてたんだから、きっと大丈夫なはずだ。海の神は懐が深い方だからな」
自分に言い聞かすようにつぶやいているカーターの声が聴こえてきて、ラインは少し笑うと、その背中を追って歩き出した。
読んでくださり、ありがとうございました。
ミーシャと別れたライン君。
本当なら海に飛び込んで探したかったでしょうが、レンを助ける方を優先しました。
これからミーシャを探して走り回ることになります。




