11
1日あきました……。
促されるままに家の中に入ったミーシャは、部屋に上がろうとして、ふと足を止めた。
叫び声に反射的に飛び出したミーシャは裸足であり、当然足は砂まみれに汚れていた。
隣に残された木で作られた靴を見れば、このままの足で部屋に上がってはいけないのは一目瞭然だった。
膝ほどの高さのある段差を、曲がった腰を伸ばしてよじ登るように部屋へとあがり、そのまま這うように囲炉裏へと進んでいた老女は、後に続かないミーシャに気づいて振り向いた。
そして、困ったようにもじもじと自分の足元を見ているミーシャに、全てを納得したように小さく笑った。
「そこにあるのが水瓶だよ。すぐそばにあるタライを使って水を持っておいで」
指さされた先には、大きな壺が置いてあった。
ミーシャはいそいそと駆け寄ると、指示された通りに、壺に斜めに立てかけてあったタライに水を汲み、部屋の方へと持っていった。
「ほら。そこで足を洗って上がりな」
「ありがとうございます」
いつの間に用意したのか、手拭いを渡してくる老女に礼を言って、ミーシャはありがたく足を清めた。
冷たい水は気持ちよく、気分をシャキッとさせてくれる。
「こっちへおいで。お腹が空いただろう」
囲炉裏のそばに座った老女が手招きしている。
ミーシャが誘われるままにそばに行くと、先ほど見た鍋の蓋がとられ、老女が中身をかき混ぜているところだった。
あたりに立ち込める食欲をそそるいい香りに、ミーシャの腹が大きな音で空腹を訴えた。
「うぅ」
先程に引き続く暴挙に、ミーシャは、顔を赤く染めて腹を押さえた。
老女が楽しそうにカラカラと笑う。
「一昼夜、何も食べてないんだ。お腹が減って当然さ。体が健康な証拠だよ」
なみなみと注がれたスープは、大きく切られた魚といくつかの野菜が、ゴロゴロと入っていた。具沢山で、とても美味しそうだ。
「いただきます」
匙を添えられた湯気の立つ大きな深皿を受け取ると、ミーシャは、火傷しないように気をつけながら、まずスープを口にした。
少し濁りのある薄茶色のスープは、味付けは塩だけのようだったが、骨ごと煮込まれた魚から旨味が出ているようで物足りなさは感じなかった。
また、1日食事を抜いていたミーシャの体を思い遣ってか、野菜は舌で潰れるほど柔らかく煮こまれている。ミーシャは、そのさりげない心遣いが、とても嬉しかった。
そんな、夢中で食事を頬張るミーシャを、老女が観察するような目で見ていた。しかし、食事に夢中のミーシャは気づかない。
おかわりまで綺麗に平らげて、ようやく人心地ついたミーシャは、満足そうにため息をつくとようやく器を下に置いた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「口にあったなら良かったよ。体の調子も、良さそうだね」
茶碗を渡す老女に、ミーシャは有り難くそれを受け取った。
フワリと嗅いだ覚えのある香りに、ミーシャは小さく首を傾げた。
「もう、体を温める薬草はいらないと思うけど……」
夢現の中飲んだ薬草茶の味を思い出して、ミーシャは眉を下げる。
蜂蜜の甘味があったとはいえ、舌を刺す独特の辛みは、必要がないならあまり何度も味わいたいものではなかったのだ。
「おや、やっぱり薬草がわかるんだね」
その表情に、老女は、きらりと目を光らせた。
「さっきの様子といい、お前さんは薬術か医術の心得があるようだね。一体どこでその知識を得たんだい?」
「私は……」
質問に、ミーシャは再び迷うように視線を彷徨わせる。
(この人はどんな人なんだろう)
ミーシャは、手元に視線を落とした。
そこには、瀕死の自分を温めてくれたであろう薬草茶が、まだ湯気を立てていた。
海から流れ着いた自分を、助けてくれた人。
物の少ない室内や、先ほど飛び出した時に見た外の様子から、この村がけして裕福な暮らしをしていないことをミーシャは感じ取っていた。それでも、どこの誰とも知れぬ人間を救いあげてくれたのだ。
(信じてみよう)
誰も知る人のいない、どことも知れない場所でその決断をするのは勇気が必要だった。
それでもミーシャは、心を決めると顔をあげた。
「私の名前は、ミーシャと言います。私の母親が薬師だったので、幼い頃から教えを乞うことができました。今は、若輩ながら、薬師を名乗らせてもらっています。母親の故郷を訪ねるために旅をしている途中で、船から海に転落したのが、最後の記憶です。次に目を覚ましたのがこの家だったので、この村の方に助けられたのだと思います」
真っ直ぐにこちらを見つめる翠の瞳に、老女はゆっくりと頷いた。
「私はマヤ。この村で薬師の真似事をしているババアさ。とは言っても、いくつかの薬草を知っているだけで大して役にはたっちゃいないがね」
穏やかな口調で、老女…マヤは自己紹介を返す。
「お前さんは、み使い様が、漁に出ていたこの村の若者に託されたのさ。意識がなかったから、私のもとに担ぎ込まれてきたんだ」
「み使い様?」
簡単に自分の状況を教えられ、ミーシャは聞きなれない単語に首を傾げた。
「大きな魚だよ。イルカ、といった方がお前さんたちには伝わるかねぇ。この村では海の神様のお使いと信じられていて、み使い様と呼んでいるんだよ」
み使い様の正体を教えられたミーシャは、大きく目を見開いた。
航行の間に、何かと姿を現しては魚をプレゼントされたり、素敵なジャンプを披露してくれた海のお友達。
彼らは、ミーシャの命まで救ってくれたのだ。
「実は……」
これまでの交流を説明して、もしかしたらその時のイルカたちかもしれないと零したミーシャに、マヤは納得したように頷いた。
「み使い様はとても賢い生き物で、人が大好きなんだ。とりわけお前さんの事を、気に入っていたんだろうね」
「お礼、伝えないとですね」
感動に目を潤ませながら、ミーシャは、無意識のうちに手に持っていた茶碗を口に運び、別の意味で目を潤ませることになった。
「まぁ、体を温める他にも滋養強壮の効果もあるから、薬と思って頑張って飲んでおしまい」
笑いながらそう言われて、ミーシャは、微妙な顔をしながらも素直に飲み干すことにした。
脳裏に「私の気持ちが少しは分かったでしょう?」と勝ち誇ったように笑う某国の王女様の顔がちらついたが、ミーシャはそこから目をそらすことにした。
「ババ様~~、いるか~~?」
薬湯の後に白湯をもらって後味を流していたミーシャは、玄関の方から響く元気な声に、視線をそちらに向ける。
そこには、日に焼けた小麦色の肌に、まるで月のない夜の色を移しとったかのような真っ黒の髪と瞳を持った少年がが立っていた。
「あ、目が覚めたんだ」
囲炉裏の部屋は、家の入り口からは土間を間に置いているだけで、遮る様な壁も戸もない。
必然的に真っ直ぐ顔を合わせる事になったミーシャを見て、少年はパッと顔を輝かせた。
そのままズカズカと中に入ってくると、ドカリと部屋のふちへと腰を掛ける、
「すげぇ、顔色悪かったし、体も冷え切ってたから心配してたんだ。もう、大丈夫なのか?」
「はい。手厚く看病していただいたおかげで、すっかり元気です」
無邪気に問いかけられて、ミーシャは勢いに押されるようにオズオズと頷いた。
「突然なんだね。礼儀がなってないよ、カシュール」
そんなミーシャの戸惑う様子に、マヤがあきれ顔で口をはさむ。
「ミーシャ、この子はカシュール。まだ14だけれど、そこそこ腕のいい漁師で自分の船も持っていてね。ミーシャをみ使い様から託されて連れて帰ってきたんだよ」
ミーシャは、その言葉に目を見開いた。連れて帰ってきた、という事は。
「助けてくださって、ありがとうございます」
大きな声で礼を言い頭を下げたミーシャに、カシュールは戸惑ったようにほほを掻いた。
「いやぁ。俺は連れてきただけだ。拾ってきたのはみ使い様だし、命を救ったのはババ様だろ」
「もちろんイルカ達やマヤ様には感謝していますが、連れて帰ってくださったおかげで治療をしていただけたのですから、やっぱりあなたも命の恩人だと思います」
きっちりと言葉を尽くし、再び頭を下げるミーシャに、カシュールは困った顔で助けを求めるようにマヤを見た。
「カシュールは素直に礼を受けたらいい。そして、ミーシャもそろそろ顔をあげな。困らせているよ」
促されて顔をあげたミーシャは、困惑顔のカシュールに、眉を下げる。
お礼を伝えたいだけで、困らせたいわけではないのだ。
「まぁ、感謝の気持ちは受け取った。ミーシャを拾ったおかげで、俺たちにも恩恵があったんだから、そんなにかしこまらなくていいよ。後、話し方も普通でいい。丁寧過ぎると居心地わりぃ」
ションボリと眉を下げたミーシャに、カシュールは気を取り直したようにそう言うと、肩をすくめた。
マヤには礼儀知らずと怒られたが、所詮三軒隣りどころか村中の人間が親戚みたいな、小さな漁村の育ちである。
ここで生まれ、ここで育ち、ここで生きていく。
狭い世界しか知らないし、自分の名前も書けるか怪しい所だが、それで困ったこともない。
そうやって生きてきたカシュールにとって、丁寧な言葉遣いというのは耳の奥がくすぐったいような不思議な感覚を覚えるものだった。まして、それが自分に向けられているなら、なおの事。
まして相手は、見たこともない白い肌を持つ自分と同じ年ごろの美しい少女だ。
(美しい…で、あってるよな?)
日に焼けたこともなさそうな滑らかな白い肌に、まるで木々の葉の色を移しとったような美しい翠の瞳。
海からすぐいあげた時も綺麗だと思ったけれど、息を吹き返し生命力にあふれた少女は、今までカシュールが遭遇したことのない人間だと本能的に感じていた。
「うん。ありがとう。私も春がくれば14になるの。同じ年だね」
どこかぶっきらぼうに言われた言葉は、それでも気づかいに満ちていて、ミーシャは嬉しくなってにこりと微笑みかけた。
その笑顔に見惚れかけたカシュールは、一瞬遅れて告げられた言葉の意味を理解して目を丸くした。
「嘘だろ?春が来たら同じ年?そんなに小さいのに?!」
驚愕に目を見開くカシュールに、ミーシャは思わずムッと口をへの字に曲げた。
「小さくないもの!カシュールが大きいんだわ!!」
思わず立ち上がり反論するが、床の上と下であるにもかかわらず、カシュールとの視線はほとんど変わらない。しかも日々の漁業で重い網を引き揚げるカシュールにはしっかりとした筋肉がついていて、腕はミーシャよりも一回りほど太そうである。
「いや、小さいだろ。二つ下のジュジュだってもっと大きいぞ?」
脳裏に数少ない村の子供を思い浮かべながらつぶやいたカシュールを、ミーシャが不満そうに睨みつける。
故郷を飛び出し、方々を旅するうちに、もしかしなくても自分が小柄な方なのではないかとうすうす感づいてはいたが、周囲には大人が多く、同じ年ごろの女の子といえば某国の王女様くらいだ。
わざわざ他と比べられる機会もなかったので、実は自分の体格を誰かに指摘されたのは、初めての事だった。
「ちょっと成長が遅いだけだもの。父さんも母さんも大きかったし、私だってそのうち成長するもの」
唇を尖らせて拗ねたようにつぶやくミーシャに、どうやら地雷を踏んだらしい事に気づいたカシュールが、少し慌てたような顔になる。
人づきあいが狭いなりに、女性には触れてはいけない話題というものがあるのを、カシュールはしっかり学んでいた。
主に自分の母親や幼馴染から……。
「ッと、そうじゃなくて。俺、届け物を持ってきたんだよ。これ、ミーシャの物じゃないか?」
慌てたように横に置いていた箱を持ち上げる。
木製の箱は、あの日ミーシャと共にイルカたちが運んできたものだった。
ミーシャをマヤに託した後、すぐに港へと取りに戻ったのだが、イルカたちの贈り物である大量の魚の処理作業に巻き込まれそれどころではなくなり、ついうっかり失念していたのだ。
今朝、漁に出ようと船に行って箱を見つけ、ようやくその存在を思い出したのだ。
しかし、陽も明けきらぬ早朝に訪ねるわけにもいかず、あと半日くらい遅れても問題ないだろうと開き直ってそのまま漁に出て、ようやく今持ってきたのだった。
「あ!薬箱!!」
目の前に捧げ持つようにさらされたそれに、ミーシャはおもわず大きな声をあげる。
あの日、自分と共に海に落ちた薬箱だった。
ミーシャは自国を旅立つとき、形見分けとして、母親の使っていた薬箱を持ち出していた。
長い年月を越えて大切に使われてきた薬箱は、飾り気はないものの表面に艶がでて美しい。
もともと自分の使っていた物より一回り大きく頑丈なそれは、それなりに重さがあり、長い旅の間運ぶのは大変だった。
しかし、ずっしりとしたその重みは母親が側にいてくれるような安心感をもたらしていて、ミーシャの心の拠り所の一つでもあったのだ。
「やっぱりミーシャのだったんだ。み使い様が一緒に持ってきたんだよ」
たった数歩の距離すら耐えられないというように駆け寄ってきたミーシャに、カシュールは木箱を手渡した。
「表面は一応拭いたけど、開け方が分からなかったから、中はどうなってるか確認できてないんだ。水が入ってなきゃいいんだけど」
少し申し訳なさそうにそういうカシュールに、ミーシャは薬箱を抱きしめながら、一生懸命首を横に振った。
失ったと思っていた大切な薬箱が、こうして手元に戻ってきたことが嬉しくて、声が出せなかったのだ。
薬箱の、しっかりとした重みを抱きしめて、ミーシャはしばらくぎゅっと目を閉じて固まっていた。
そんな様子を、カシュールとマヤが心配そうに見ていたが、ミーシャは、どうしても動くことができなかった。
今声を出したら、泣いてしまいそうだったから。
(よかった。失くしてなかったよ。戻ってきたよ、母さん……)
読んでくださり、ありがとうございました。
予約投稿してないと、ぬけますね。
やっぱり。
カシュール君、改めて再登場、です。
少しは物語が進んでくれると良いのですが、なかなか亀の歩みですね……。
頑張ります。




