1
お久しぶりです。
新章はじめます。
「う~ん、いい天気」
甲板の上、潮風を浴びながらミーシャは大きく伸びをした。
昇り始めた太陽に、空と海が朝焼けに染まるさまを見ながら目を細める。
あまりに早朝過ぎて、周囲にちらほら船員の姿があるだけだが、ミーシャは気にしない。
それよりも、この美しい景色を独り占め気分でご満悦である。
「それにしても、予想外だったなぁ」
ちなみに、いつでも足元にまとわりついているレンの姿もなかった。
理由はひとつ。
「前の時は大丈夫だったから油断してた。まさか、船の大きさや航路で船の揺れが変わるなんて思わなかったよ」
レンが、船酔いしてしまったのである。
出航直後は良かったのだが、船が陸を離れ、沖を進むにつれてレンの元気がなくなりフラフラし始めたのだ。
それでも最初は頑張っていたのだが、昼食をとる頃には力なく倒れて、丸まって動かなくなってしまった。
食事に目もくれずに、舌をだらりとだして浅い息をつく様子を見て驚くミーシャをよそに、冷静に様子を観察していたラインがあっさりと「船酔い」の診断を下したのだった。
「前にレッドフォード王国に向かう船に乗った時は平気そうだったし、今もそんなに船が揺れている感じでもないのに?」
「どんな船だったかは知らないが、今回の船は大きいうえに波の影響を受けにくい外海を走ってるからな。ゆったり揺れるのが苦手なんだろ」
不思議そうに首を傾げるミーシャに、ラインが笑いながら教えてくれて、ミーシャは初めて波の動きや船の形によって、いろいろと変わるのだと知った。
「船酔いを治す薬はないの?」
ぐったりと気分悪そうに横たわるレンが可愛そうで、そっとその背中を撫でながら尋ねたミーシャに、ラインは何か考えるように首を傾げた。
「人間用のものならあるが、狼にはどうかな?試してみるか?」
「グゥ……」
ラインの言葉に、レンが嫌そうに鼻にしわを寄せて小さく喉奥でうなる。
不快な現象を和らげるために人の便利な道具を使ったがゆえに、大切なミーシャを見失うという失態を犯したことを、レンは忘れてはいなかった。
「ウゥゥ」
自分は平気だというように、小さく唸りながら立ち上がろうとするレンを、ミーシャが慌てて押さえた。
「無理しちゃダメ。足元フラフラなんだから、滑って転んだり、間違って隙間から海に落ちたら大変じゃない」
「グゥゥ」
なだめるように背中を撫でられても、レンは不満そうにうなる。
「まぁ、しばらく船旅は続くんだし、そのうち体が慣れるだろう。それまでは、諦めて大人しくしとけ」
いつの間にか水が満たされた皿をレンの側に置くと、ラインも自分のベッドへと体を投げ出した。
ヘッドボードに背を預けて、本を読みだしたラインにミーシャは呆れたような目を向けてから、チラリと窓の方に目を向けた。
貴人用の部屋である船室には、小さいながらもガラスをはめられた窓があった。
そこからは午後の陽光にきらめく海が見えている。
きっと甲板に出れば果てしない水平線が見える事だろう。
(でも、なぁ)
うずうずする気持ちを感じながらも、ミーシャはクタリと横になるレンへと視線を戻した。
(……ついてこようとするよ、ね。きっと)
森ではぐれたあの日から、片時もそばを離れようとしないレンを思い出せば、きっと今も具合が悪いのを押して、ついてこようとするのは簡単に想像できた。
「……鞄の整理でも、しようかな」
外に出て、海を眺めたいのは山々だけれど、ミーシャは今日の所は諦める事にした。
レンがミーシャを大切に思ってくれているのと同じように、ミーシャだってレンが大切なのだ。無理をさせてまで、自分のしたい事をする気にはなれなかった。
幸い、というか。
この数日の強行軍で鞄の中身の細かい整理や、時間の隙間に採取したまま、必要な処理をしていない薬草なども細々と溜まっていた。
時間を潰そうと思えば、できることは色々あったのだ。
「キュ~ン」
ミーシャの言葉に、レンが申し訳なさそうに鼻を鳴らす。
それに、ミーシャは笑顔を返すと、そっとレンを撫でた。
「大丈夫。明日も明後日も、チャンスはまだあるし。レンの体が慣れたら、一緒に探検しようね」
「キュンキュン」
子犬のような甘えた声で返事をしたレンは、一度ぺろりとミーシャの指先を舐めると目を閉じた。
結局、午後一杯を船室内で過ごし、夕食をとるころにはレンも水を飲めるくらいには回復していた。
まだふらつきと不快感はあるようだが、浅い呼吸は落ち着いてきたため、ミーシャもほっと息をついて、こっそりと用意していた酔い止めの薬をしまい込んだ。
どうしても回復しないようなら、内緒で食事に混ぜ込んでしまおうとたくらんんでいたのだ。
「レンの鼻なら、すぐにばれそうだけどな」
ミーシャの考えていることなどお見通しだったらしいラインが苦笑していたけれど、ミーシャは気づかないふりでベッドにもぐりこんだ。
そして、いつものように朝日と共に起きだしたミーシャは、穏やかに寝息を立てるレンとラインに安心して、起こさないようにそっと抜け出してきたのだった。
この船の中では最高ランクの客室とはいえ、船内の所詮限られたスペースの中での割り振りである。
部屋はベッド2つとソファーのセットを置けば、余裕はほとんどなかった。
森の中で広々と生活していたミーシャにとっては、そんな部屋に半日も閉じこもっていた時間は、ストレスでどうにも我慢の限界だった。
「少しだけ、外の空気を吸うくらい、いいよね」
誰に聞かせるともなく小さくつぶやくと、軽くストレッチをして体をほぐしていく。
「よう、嬢ちゃん、早起きだねぇ」
そんなミーシャの横を船員らしき男が、バケツとモップをもって通り過ぎていった。
「おはようございます。今からお掃除ですか?」
いかつい海の男にも物おじすることなく、ミーシャは朗らかにあいさつを返した。
思ってもみなかった笑顔を返されて、男はきょとんとした顔をしてから笑い出した。
日に焼けた顔に、ムキムキの体。
いかにも海の男な外見を持つゆえに、女子供に怖がられても笑顔を返される経験など皆無に等しかったのだ。
「人懐っこい嬢ちゃんだな。ご明察通り、今から甲板掃除だ。本当はお客さんが出てくる前に、終わらせるはずだったんだがね」
けらけら笑いながら、手にした掃除道具を軽く振って見せる。
そのバケツには、長いロープが括り付けられていた。
「そのバケツって、何に使うの?」
大きなバケツに括り付けられたロープが不思議で、ミーシャは首を傾げた。
「これかぁ?甲板の上からおろして海の水をくみ上げるんだよ。真水は貴重だから掃除に使うわけにもいかないからな。やってみるか?」
不思議そうに指をさすミーシャに、男は冗談でそのバケツを振って見せた。
「本当?やってみたい!!」
まさか、キラキラの笑顔で頷かれるとは思ってもみなかった男が目を白黒しているうちに、ミーシャはその手からバケツを奪うと早く行こうと促した。
「どこから汲むの?どうやって汲むの?」
船の甲板から海面まではかなりの高さがある。
ロープで垂らして引き上げるのは、かなりの労力が必要なはずなのに、どうするのかとミーシャは興味津々だった。
その笑顔に、いまさら冗談だったとも言えず、男は戸惑ったままミーシャを伴い歩き出した。
(まぁ、物好きな子供に体験させてたって言えば怒られることもねぇか)
そっと心の中で言い訳を呟き、男は自分の隣にちらっと眼を向ける。
弾むような足取りでついてくるミーシャの姿に、なんだか面倒な掃除を始めるのが楽しくなってきた男は、我知らず笑顔を浮かべていた。
「で、朝食前に一仕事してきたってわけか」
レンの不機嫌なうなり声で起こされたラインはあくびをかみ殺しながら、戻ってきたミーシャに呆れたような目を向けた。
「そうなの。甲板の端の方に滑車みたいな専用の器具があってね。そこに縄を取り付けてハンドルを回すことで、海に放りこんだバケツのロープを手繰り寄せることができるの。
海水を掬うんだけど、船が動いているからバケツが流されて重いの!カーターさんはかんたんにまわしてたけど、やらせてもらったら私ひとりじゃハンドル回すこともできなくて、大変だったんだよ!」
そんなラインの目もなんのその。
初めてのお仕事体験をしたミーシャは、楽しそうに報告してくる。
「甲板にその海水を流してゴシゴシこするんだけど、すごく毛の堅い長い柄のついたブラシでね。毛を触ったらチクチクするんだけど、それでこすると汚れが良く落ちるの!聞いたら、トンプっていう木の皮から採れる繊維なんだって。伯父さん知ってる?」
「あぁ。海辺に生えている背の高い木の事だ。繊維が硬いから、鍋のコゲ落としなんかにも使われるけど、見たことなかったか?」
興奮状態のミーシャに、早々に苦言を呈するのを諦めてラインは話に乗ることにする。
「そうなんだ。森の家ではチュルスの実を腐らせて取りだした繊維を使ってたよ?でも、トンプほど固くなかったわ」
「船に使う木は固くて軽い木を使ってるし、特殊な塗料を塗るから良いが、普通の床材だとトンプに負けて傷だらけだ。まぁ、適材適所だな。それより、少し落ち着け。置いて行かれたレンが、お前の足元でお怒りだが、目に入ってるか?」
ひとしきりしゃべらせた後、ラインが少し意地の悪い笑顔を浮かべて、ミーシャの足元を指さす。
そこには、いつの間にかにじり寄ったレンが、「不満です!」と言いたそうな目でじっと見上げている姿があった。
「あ……、レン」
そういえば、寝ている間に少しだけ風にあたりに抜け出したのだという事を思い出して、スゥッと、ミーシャの興奮が冷める。
「ガゥ」
小さく吠える声にいつもほどの覇気はまだないけれど、昨日よりはずいぶん調子がよさそうである。
ラインの言うとおり、時間とともに、船の揺れにも慣れてきたのだろう。
もっとも、今は、別の意味で機嫌が悪そうではあるが。
「あ……、あのね、レン?ちょっと、風にあたったらすぐに戻ってくるつもりだったのよ?」
ミーシャは床に膝をつくと、じっと自分を見つめる紅い瞳と目を合わせた。
「でもね?一生懸命お掃除している人がいて、お手伝いしたくなっちゃって」
言い訳を始めたミーシャを、レンの冷たい瞳がじっと見つめる。
「あ、そうだ。仲良くなった船員さんから、後で魚釣りするのも見せてくれるって言ってたから、今度はレンも一緒に行こう?」
内心冷や汗をかきつつ、ミーシャは、どうにかレンの機嫌を取ろうと言葉を重ねた。
しかし、レンはふぅッと一つため息をつくとベッドの間に作られた自分の寝場所へと戻って行ってしまう。
「あぁ~~、ごめんってば。忘れてたわけじゃ……ちょっとはあるけど。えっと、そうじゃなくて」
基本嘘がつけないミーシャが、言葉を重ねれば重ねるほど墓穴を掘っていく様子を、ラインは笑いながら見ていた。
目が覚めてミーシャがいないことに気づいて不機嫌なレンに早朝からたたき起こされたラインとしても、助け舟を出す気にはなれなかったのだ。
「ああ、気にしないでくれ。ちょっと遊んでるだけだ」
朝食を運んできた船員が、必死に犬に向かって言い訳をしている少女という図に目を丸くしていたが、ラインは、気にすることなく中に招き入れるとテーブルにセッティングするように促す。
「わかった。おやつにジャーキーあげる!いつもの2倍!」
「グルル~」
「私の秘蔵のドライフルーツもつけるから、機嫌直してよぅ」
「グルルゥ」
二人のやり取りは、朝食のセッティングを終えた船員がほほえましいものを見る目で外に出て行った後も、しばらく続いたのだった。
読んでくださり、ありがとうございました。
ミーシャの新たな旅が始まります。
相変わらず、ゴールだけは決まっているのに、そこにたどり着く道筋がなかなか見つからず大変でしたが、何とか細い道が見つけられたので、見切り発車です。
無事辿り着けるように頑張ります。




