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少し短めですが、キリが良かったので投稿します。
霧の中、レンは一人走り回っていた。
突然立ち込めた霧の中、道を見極めるため先行して、戻ってきてみれば大切な主人の姿が消えていたのだ。
反射的に走り出して、しかし、すぐにレンは違和感に気がついた。
何よりも大好きな匂いが見つからない。
先ほどまでそこにあったはずの残り香さえ見つける事ができないのだ。
普段なら、意識することもなく見つけられるほど鼻になじんだ匂いなのに、まるでふつりと切り取られてしまったかのように何も感じられないのだ。
(なんで?なんで?)
ミーシャの存在から切り離されてしまったかのような恐怖に、レンの頭は混乱する。
「ウヲォォ~~ン!(ミーシャ~~!)」
声の限りに呼んでも、返事は聞こえない。
それでもあきらめずに、もう一度と胸を張り顔を上にあげた時、首に巻かれたスカーフが突っ張った。
(あ、これ)
温泉の匂いにぐったりしていたレンを可哀想に思ったガンツが巻いてくれたものだった。
(これの中に、においが気にならなくなる薬が入ってるっていってた)
気分の悪くなる匂いが、これを巻いていたら半分くらい気にならなくなって、なんだか鼻がひんやりとして気持ちよかったから、レンはとても気に入っていた。
何の匂いも分からなくなるわけではなかったし、狩りをするのにも特に支障を感じなかったから、町の外に出てもそのままにしていたのだ。
これを巻いてくれたガンツの気遣いも嬉しかったし、レンなりの友好の証、のつもりでもあった。
だけど。
レンは、前足でどうにかスカーフを取ろうとあがき始めた。
これをつけていると、自分の自慢の鼻が半分ほど使えないことを思い出したのだ。
(この霧は、森のかみさまの力だ。これに対抗するのには、このままじゃ無理!)
レンは、由緒正しい跳び灰色狼で、跳び灰色狼は森の生き物だ。
だから、森の神は身近な存在で従うべきものだった。
(でも、ミーシャはぼくの家族だ!)
深い穴の中からすくい上げてもらったあの日から、レンにとってミーシャは何よりも大切な存在だった。
(僕からミーシャをかくしてしまうなら、森のかみさまになんてしたがわない!)
しっかりと結ばれたスカーフはなかなか取れなかった。
無理に引っ張るせいで首が絞まって苦しくて、レンは鼻にしわを寄せた。
それでも、やめようとは思わなかった。
(これさえ取れれば、こんな霧くらいなんでもない。ミーシャの匂いを見つける事ができる)
前足も後ろ脚も使って、それでも取れないから狂ったように転げまわって、岩や木の枝にスカーフを擦り付ける。
人間のように器用な手があれば、すぐにこんなもの取りされるのだろうと思うが、うかつに離れたせいで、今ではラインの匂いをたどることすら難しかった。
(自分でがんばるしかないんだ)
グルグルと低くうなりながら、レンは一人、孤独な戦いを続けた。
ミーシャがきれいに整えてくれた白い毛は泥や落ち葉にまみれてドロドロだ。
強く体を擦り付けたせいでとがった岩が皮膚を傷つけ、ところどころ赤い色が滲んでいる。
痛くて、苦しくて。でも、レンはやめようとは思わなかった。
ミーシャがどこに連れていかれたのか分からない。
もしかしたら、ただ楽しくお話しているだけかもしれない。
でも、それでも……。
(ミーシャの側にいなきゃ。もしかしたら、困ってるかもしれない。寂しくて泣いてるかもしれない。笑ってるならそれでもいい。でも、どんな時でも、側にいなくちゃ。ミーシャの側にいなきゃいけないんだ!!)
そして、ついにスカーフがブチリと鈍い音共にちぎれて、レンの勝利が決まった。
ボロボロになったスカーフをポイっと地に落とすと、レンは、勝利の雄たけびを上げた。
視界の悪い森の中、レンの遠吠えが大きく長く響き渡る。
その声は、白い霧を震わせているかのようだった。
ブルリと体を震わせると、レンは大気の匂いを嗅いだ。
まだ、いつもよりは鈍いけれど、先ほどよりはいろいろな香りが戻ってきていた。
(ん。この香り、じゃま)
足元に落ちたスカーフから香る薬の効果に、レンはいやそうな顔を向けた。
町では大変お世話になったし、こうなる前はむしろ気に入っていた香りだったが、これのせいでミーシャの探索が阻害されていた今となっては、見るのも嫌だった。
(一度、ラインの所に行こう)
クンッと鼻を利かせれば、思っていたよりも近くにラインの匂いを感じることができる。
(でも、まだ鈍いし。ラインなら、元通りにしてくれるかも)
その時、遠くからレンを呼ぶラインの声が聞こえた。
「ウヲォォ~~ン!!(ぼくはここだよ!)」
途端に、ハッキリとラインがどこにいるかが分かったレンは、大きく声をあげ返事をすると、まだ立ち込める霧の中を走り出す。
その足取りに、もう迷いはなかった。
(ん?冷たく……ない?)
水に落ちる瞬間、衝撃と冷たさの予感に身を固くしたミーシャは、予想外の事に目を開いた。
そして、自分が水の中をどんどんと沈んで行っていることに気づき、目を見張る。
ミーシャが落ちたのは、洞窟の突き当りにあった小さな淵だったはずだ。
しかし、今。
ミーシャは果てが見えない水の中をゆっくりと沈んでいた。
(これって……、竜神様の時と似てる?)
どこまで行っても薄明るい水の中は、晩秋にあるまじき水温だった。
(っていうか、ここって本当に水の中なのかしら?)
息苦しさを感じて、ミーシャはつめていた息を思い切って吸ってみた。
「……息、出来るわね」
まるで何の問題もなく呼吸ができる事に、半ば予想していたこととはいえ、ミーシャはがっくりと肩を落とした。
「招待するなら、もう少しわかりやすい案内が欲しいんですけど……」
つぶやきと共に、ようやく底にたどり着いたようで、ふわりと体勢を立て直し着地する。
地面は細かい砂のようで、足をつければふわりと細かい砂塵が舞い上がった。
「感覚は水の中っぽいけど、普通に息はできるし地面に立つこともできる……ね」
舞いあがりまたもとのように降り積もる砂塵と共に、ミーシャの髪やスカートもふわりと下へ落ちた。少し裾が上がったままのスカートをパンパンと手で払うように整えると、ミーシャは辺りを見渡した。
「ねえ、どこにいるの?私をなんのために、ここに呼んだの?」
はるか頭上から、キラキラと波紋と共に光が降り注ぐ。
ヒラリとミーシャのすぐそばを通り過ぎた影は、小さな川魚だった。
竜神の世界に入り込んだ時と違い、ここでは生き物の姿であるらしい。
もっとも、ミーシャが普通に水の中で呼吸をできているのだから、ここが特別な場所であることは確かだし、泳いでいるのも普通の魚とは限らないのだろうが……。
『いらっしゃい、みーしゃ』
『はじめまして』
『ひさしぶり』
『あえてうれしい』
『まってたよ』
『うん。ずっとまってた』
ウワァンッと、水が揺れて、いくつもの声がまるで波紋のように重なり合い、ミーシャの元に届く。
突然に響いた音に、ミーシャは驚きながら耳を抑えて、辺りを見渡した。
『ここだよ』
『そう、ここ』
くすくすと笑う声と共に魚たちがひらひらと泳ぎ回る。
見慣れた姿をしていたはずの川魚は、いつのまにか姿を変え、虹色の鱗をきらめかせて、長く伸びた尾びれでまるでからかうようにミーシャの頬を撫でていく。
「さかな?」
首を傾げたミーシャに、魚たちは嬉しそうにミーシャの周りをくるくると回る。
『そうよ。すがたをかりたの』
『みーしゃにみえるようにね』
『みーしゃにはみえないもの』
『まだね』
『もうすぐね』
くすくすと笑う声に重なるように声が響く。
驚いたミーシャを気遣ってか、少しだけ小さくなった声に気づき、ミーシャは困ったように笑った。
「それで、魚さんたちは、なんで私をここに連れてきたの?あの霧も、守り袋を川に流したのも、あなた達なのでしょう?」
そっと指を伸ばせば、魚たちは小さく指先に口づけを落とした。
『そうよ。わたしがよんだの』
『わたしたちがよんだのよ』
『おとしものをかえすの』
『ずっとまってたの』
嬉しそうにミーシャの周りを泳ぐ魚たちはどんどんその数を増やしていった。
きらきらと放たれる虹色の光がまぶしくて、ミーシャは目を細めた。
「落とし物?」
『そうよ。むかしむかし、あのこがおとしたおとしもの』
『みーしゃにあげる』
『かえしてあげる』
『たいせつなものなのよ』
『そう、とてもたいせつでとくべつ』
くるくると回りを泳ぎ回る魚たちに押されるように、ミーシャは足を進めた。
そして、導かれた先には大きな水晶があった。
魚たちの光を浴びて同じようにきらめく水晶のその中に、何か、黒く四角いものを見つけて、ミーシャは首を傾げた。
「これ……?」
ミーシャは、ここに来る前に淵の中で光っていた何かを思い出す。
水の中できらりと光ったものに興味を惹かれて覗き込んだ結果がこの状態だったことを思えば、間違いではないのだろう。
無意識に伸ばした指が水晶に触れたと思った瞬間、ふわりとそれは水に溶けて消えた。
後に残されたのは、ミーシャの両手に乗るほどの長方形の薄い箱だった。
何かに導かれるように、ミーシャはそれを拾い上げる。
『かえしたよ』
『あげるよ』
『あのこのもの』
『たいせつなあのこの、たいせつなひとのおとしもの』
魚たちが嬉しそうに、楽しそうに笑いざわめいた。
「あの子って誰?大切な人ってだれなの?その人に、これを渡せばいいの?」
くるくると自分の周りを泳ぎざわめく魚たちに、ミーシャは問いかける。
手の中の箱は、思ったよりもずっしりと重く、しかし不思議とミーシャの手になじんだ。
『あのこはあのこ。たいせつなこ』
『みーしゃもかわいい。たいせつなこ』
『あのこはいってしまったわ』
『ひとのこはもろい。でもつよい』
ミーシャの問いかけに、答えになる様なならないような返事を返しながら、周囲を泳ぎざわめいていた魚たちが、一つ二つとその影を重ねていく。
滲むように溶け合って、一つの塊になった魚は、もう魚の形をしておらず、柔らかな光を放つ光の球になった。
煌めく虹色の魚が集まったはずなのに、その光は柔らかな緑の色を放つ。
強く、弱く。
まるで木漏れ日のように柔らかに。
『それはあなたにあげる』
『たいせつなあの子も、あのこの大切な人も、もういってしまったから』
『あなたにあげる。大切にしてね』
幾重にも重なって聞こえていた声は、魚の姿が減るごとに不思議と静かな落ち着いたものへと変化していった。
やがて最後の魚が光の玉に吸い込まれていった瞬間、ミーシャもまた、その光の中に取り込まれていた。
まぶしさに目を閉じたミーシャの頬を、誰かの手がそっと優しく撫でた。
『さぁ、お帰りなさい、愛しい子。あなたにはまだここの空気は長くいると毒になる。会えてうれしかったわ』
耳元にささやかれる声に、ミーシャはなぜか泣きたいほどの安心感を覚えた。
(私、この声を知っているわ)
魚たちの重なるように響く声とは違う、しっとりと落ち着いた女性の声。年寄りのようにも若者のようにも聞こえる不思議なその声を、ミーシャは確かに知っていると思った。
優しく触れる指先から滲む慈しむような感情も……。
「あなたはだれ?」
目を開けようとして、そのまぶしさに耐えられず再び瞼を閉じたミーシャは、必死に手を伸ばして掴もうとするが、すぐそばにいるはずの誰かに触れることはなかった。
なぜかこみ上げる切なさに泣きそうになりながら問いかけたミーシャは、柔らかく抱きしめられたのを感じた。
耳元には軽やかな笑い声。
『大丈夫。また会えるわ、愛しい子。お迎えがきたみたいね。かわいいお友達を大切に、ね』
優しい声がそう囁いた瞬間、ぐらりと体が揺らいだような感覚がして、ミーシャは何もわからなくなった。
読んでくださり、ありがとうございました。
前話からすでに二週間が経過してしまいました。時間がたつのが早すぎます!!
今回は、レン君が頑張ってます。
レン君主体、とても楽しく書けたのに、その後のミーシャの部分がなかなか難しいでした。
情景が、少しでも伝わっていると嬉しいのですが……。
次話はもう少し早く上げれるように頑張ります。




