15
気づけば一月以上間が空いているという……
時間泥棒は何処でしょうか?
ゆっくりと。丁寧に。
ライの実をすり潰していくミーシャを横目に、ガンツは棚の方からいろいろな器具を取り出してトレイに並べているラインの方に視線を向けた。
視線に気づいたラインが、こちらを振り向いた。
「おい、遊んでる暇ないぞ。さっさと試薬の準備しろよ」
「ミーシャはなにか心因性のストレスを抱えてるのか?」
先ほどのミーシャの、不自然な様子を思い出しながらガンツは囁いた。
それに、僅かに片眉を上げて見せてから、ラインはシッシッとガンツを手で払う。
「気になるなら後で話してやる。今はそんな余裕ないだろう。もうそろそろ辿り着くぞ」
素気無く呟き背を向けるラインに、ガンツはため息を一つ落として、指示された試薬液を用意するため動き出した。
「ミーシャちゃん、ちょっと来て」
ライの実の処理が終わったタイミングで声をかけられたミーシャは、サッと手を拭くと振り返った。
壁際に置かれた別の台の上で、ガンツが手招きしている。
「患者は大量の血を失っているらしいから、輸血……体外から新しい血を取り込む事を輸血と呼んでるんだけど、その処置をする事になる」
早足で側に来たミーシャに、ガンツが手元にある道具を示しながら説明を始めた。
「現在、血液には3つの種類がある事が判明しているんだ。そして種類の違う血を輸血したら、拒否反応が起こり、ひどい時には死んでしまう」
ミーシャは、前に母親がしてくれた話を思い出しながら、こくりと頷いた。
(母さんは、血の秘密がわからないって言ってた。だから、運が悪ければ父さんは死んでしまうって)
つまり、父親は三分の一の確率に打ち勝ったのだ。
「患者が来たら、まず血液を採取して型を調べる。取り急ぎ協力者に来てもらうように声をかけてもらってるけど、1人から採取できる血液の量は決められてる。もしかしたら、ミーシャちゃんにも血液の提供をお願いする事になるかもしれない。良いかな?」
「私の血も使えるんですか?」
突然の名指しに、ミーシャは目を瞬いた。
「まぁ、ミーシャちゃんにはラインの助手をお願いしたいから、本当に最終手段だけどね。とりあえず血液の型を調べよう。手を出して」
身構える間もなく腕を取られ、薄い布でサッと拭われる。
スッとした感覚と独特の香りに眉を顰めたミーシャに、ガンツが少し笑う。
「アルコールを蒸留して度数を強めたものだよ。消毒する効果がある。さ、少しチクっとするよ」
細い針のついた筒のようなものを手にしたガンツに一瞬身を固くしたものの、何が行われるかの好奇心の方が勝ったミーシャは、ジッとその針先を凝視した。
プツッと微かな抵抗感のもと、針が刺された。
と、筒の中に赤い色が吹き出す。と思ったら、あっという間に針が抜かれた。
「検査には数滴の血があれば十分だからね。刺した後を、この布で圧迫してくれる?」
プツリと虫に刺された程度の小さな跡に布を当て指示されたミーシャは大人しく布を抑える。
「5分くらい、そうしてて。で、目はこっちね。血液を調べる薬液の中に落としていくよ」
三つ並んだ小さなガラスの器の中にガンツがミーシャから採取した血液を慎重に落としていく。
「1つの器以外、血液が固まっていくのがわかる?」
クルリとそれぞれの器を硝子の棒でかき混ぜるガンツに、器から目を離さないままミーシャはこくりと頷いた。
「もし、この薬がない場合は、単純に血液同士を混ぜ合わせたら良い。こうして固まらなければ同じ血液の型と判断して大丈夫。輸血して良い」
「輸血して死んでしまうのは、このせい?」
「そう考えられているね。血管の中で血液が固まって詰まっちゃうんだ。……うん。ミーシャちゃんは1型、だね。ラインと同じだ」
薬液の中を確認して、ガンツがコクリと頷いた。
指し示された薬液の中をミーシャが改めて眺める。
「血縁者は同じ型になる事が多いんだ。法則は、改めてあとで、ね」
そう言って、ガンツは部屋の外へと足を向けた。
唐突な動きに首を傾げかけたミーシャの耳が、近づいてくる人の声と騒音を拾った。
「来たみたいだな。ミーシャ、手に傷はないな?」
背後から飛んできたラインの声に、ミーシャは自分の手に目を走らせた。
「大丈夫」
傷ひとつない手指に一つ頷くと、ラインへと掲げて見せる。それに、さっと目を走らせて確認した後、ラインが重々しく頷いた。
「ミーシャには助手を頼む。ガンツは輸血準備なんかはなんとかなるが、中身を見たら目を回してぶっ倒れる。あいつ、動物も捌けないんだわ」
「………中身」
思わぬ言葉に、ミーシャはなんと言って良いのか分からず、口をつぐんだ。
微妙な表情で黙り込むミーシャに、ラインが苦笑する。
「まぁ、そういう体質のやつもいるんだ。ミーシャは大丈夫そうで良かったな」
さらりと「体質」でまとめてしまったラインは、スッと目を細めると扉に向けた。
「とりあえず側にいて指示に従ったり、器具を渡してくれればいい。来るぞ」
表情がさして変わったわけではない。それでも、確実にラインが纏う空気が変わったことを敏感に察知したミーシャも、気持ちを引き締める。
遠くに聞こえていた人の声と物音が近づいてきた。
最初に感じたのはむせ返る様な血の匂いだった。
青白い顔をしたガンツがまず駆け込んでくると、先ほど準備していた試薬の方へと直進していった。
その後を追うように、人の塊がなだれ込んでくる。
担架の代わりにしたらしい、戸板の上に乗せられた小さな体は包帯でぐるぐるにまかれていたが、白かったそれは抑えきれない出血で赤く染まっていた。
それに縋り付くように名前を呼んでいるのは母親だろう。
「こっちへ移すぞ」
大人たちの勢いに押されて壁際へと押しやられてしまうミーシャをしり目に、ラインは淡々と指示を出していた。
「そっと、丁寧にだ」
戸板を支える男たちがベッドの横に同じ高さにそろえ、付いていた一人が、そっとその体を滑らせるようにベッドへと移動させた。
(小さい)
おそらく年は5~6才だろう。
すでに意識はない様で、ぐったりとしたままピクリとも動かない。
微かに上下する胸の動きだけが、その子供が生きていることを知らしめていた。
ラインは素早く子供の上に身をかがめると、そっと瞼を開いたり全体の様子を観察していく。
「ガンツ、型が分かったなら皆を外に誘導して血の準備を。ミーシャ、服を脱がす。一番大きな鋏を取ってくれ」
顔を向けることもなく出される指示は冷静で、押しやられてしまった壁際で遠巻きにしていたミーシャは小さく飛び上がると、いろいろな器具がそろえられた小さな台に駆け寄った。
「なにをしている。早く外に出ろ。時間がたてばたつほど、あんたらについた細菌はまき散らされ、子どもの命を縮めるぞ」
縋り付こうとする母親を押しとどめながらも、その場に立ち尽くしていた男たちは、その声にびくっと体をすくませた。そして言葉の意味は良く分からないまま勢いに押されるように部屋から出ていく。
不思議と、ラインの声には皆を従わせる何かがあった。
最後に、死に瀕している息子の側を離れることを嫌がる母親の肩を、ガンツがやんわりと、しかし抗えない力で外へと押し出すと、その場には、ラインとミーシャだけが残された。
「脱がしていたら傷に触る。残っている衣服と包帯は切り取るぞ」
ミーシャの手から鋏を取り上げると、ラインはためらいなく衣服を切り裂いていく。
その手は迷いなく素早いのに、ほんのわずかも子供の肌を傷つけることはなかった。
「……ひどい」
そうして、すべてが取り去られた後、さらされた子供の体を見てミーシャは息をのんだ。
手足はあらぬ方向に曲がり、何か所かは骨が飛び出している。
腹部の傷は、まだ血がじわじわと溢れてきていた。
まだ、息があるのが奇跡のようだった。
立ち上がる血の匂いに巻かれて、ミーシャの顔が青ざめる。
そもそもミーシャは、酷い外傷の治療に携わったのは父親の傷が初めてだったのだ。父親の治療の時とは違う命の奔流は、あの時とは別の生々しさをもっていた。
「チッ、腹の中が傷ついてるな。ミーシャ、消毒液10倍に薄めたやつ………ミーシャ!!」
ラインの声に、ミーシャはハッと我に返った。
「動けないなら外に出ろ。邪魔だ」
感情を移さない、ラインの静かな瞳に見据えられ、ミーシャはキュッと心臓を掴まれたような気持ちになる。
(そうよ。飲まれてる場合じゃない。この子を助けなきゃ!)
一分一秒の戸惑いが、目の前の患者の命を左右する。
その事を、ミーシャは本能で悟っていた。
無言のまま、クルリと反転し、すでに作ってあった消毒液のベースを指示通りに手早く薄める。
「動けます!コレはどうしますか?」
自分を見つめる瞳に、ラインはニヤリと笑った。
初めての手術現場だ。
どれほど訓練で優秀であっても、生々しさに凍りつく新人は多い。
ミーシャが今まで、受傷後すぐの患者に対応した事がない事をラインは知っていた。
それゆえに、正直使い物になるかは半々だと思っていたのだ。
しかし、ミーシャが現場の空気に呑まれたのは一瞬で、すぐに立て直してみせた。
(まずは第一段階、クリアだ)
ラインは、楽しそうに唇を歪めながらサラリと言い放った。
「時間がない。腹の傷にぶっかけろ」
「はい!……はい?」
勢いよく頷いたミーシャは、次の瞬間、首を傾げた。
あまりにも予想外な言葉だったためだ。
(この傷だらけの体に、コレをぶっかける?)
意味はわかるが理解ができず固まるミーシャの手から、舌打ちと共に器を取り上げたラインは、その言葉通り、子供の腹の傷へと消毒液を降りそそいだ。
「いちいちご丁寧に拭いてる時間はねぇ」
子供の傷を洗った消毒液は、ベッドを伝い石造りの床を伝って流れていく。
それは緩やかに流れ壁際の溝をつたい小さな穴へと吸い込まれていった。
それを見て、ミーシャはようやく床が気にならない程度に傾斜していることに気づいた。
(「処置室」って、言ってた)
ミーシャは、ここに来る前のラインとガンツの会話を思い出す。
この部屋は、こういう場面を想定して、最初からその為に作られていたのだ。
ミーシャは、ゾクゾクっと背筋を何かが這い上るような感覚を覚え身震いした。
(私の知らない知識)
きっと、この部屋一つをとってみても、ミーシャの知り得ない様々な工夫が施されているのだ。
そして、それは部屋だけではなく、きっと台の上に並べられた大小様々なナイフやその他の道具も同様である。
何より、それらを操るラインの知識と技術。
それこそが、この場で1番尊く価値のあるものだった。
「意識が戻ることはないだろうが、反射で動かれても厄介だ。麻酔薬を吸わせておけ」
「はい」
今度はすぐに動いたミーシャは、指示通りに用意されていた麻酔をしみこませた布を子供の口元へと運ぶ。
ラインと重ねた旅の中で、実践を伴いながら色々な事を教わってきた。
それは、様々な病の症状に対してどんな処方が適しているか、とか、外傷に対する処置など、多岐にわたった。
しかし、「俺の専門外だがな」と呟くラインの言葉を、ミーシャはきっとイマイチ理解していなかったのだ。
好んで戦場を渡り歩き、死神に連れ攫われそうな命を力づくで取り返してきた。
切り裂かれた傷を縫い合わせ、時には腹の中に手を突っ込んで内臓をこねくり回す。
切り落とされた腕や足をつなぎ、砕けた骨すらも修復する。
それこそが、ラインの真骨頂だった。
比較的、平和な旅の中では出会うことのなかったシュチュエーション。
それが今、目の前にある。
ミーシャは、目の前の出来事を一つも見逃すものかと気合を入れて目を見開いた。
「全身を強く打ち付けた衝撃で内臓が破裂してる。切るぞ」
「生きている人の体の中って、あんな綺麗な色をしてるんですね」
どこかぼんやりとした表情のまま、両手でお茶の入ったカップを持ちながらミーシャがぽつりとつぶやいた。
不幸にもその言葉が耳に入ってしまったガンツは、思わず飲んでいたものを噴き出し、その正面に座っていたラインは、いやそうな顔で素晴らしい反射神経を披露した。
「ミーシャちゃん、言い方」
辺りにまき散らされてしまったワインを拭きながら、ガンツは咎めるような視線でミーシャを呼んだ。
完全に無意識だったミーシャは、名前を呼ばれて我に返り、目の前の惨状を見てきょとんとした顔をする。それから、自分の言葉を思い出し、微かに頬を染めた。
「あの…その…違うんです。一応、人体の解剖自体は経験済みなんですが、生きている方の、というのは初めてでですね…」
あわあわと言い訳をしようとするミーシャを、空になったグラスに再びワインをなみなみと注ぎながらラインが笑う。
「いいじゃないか、卒倒するよりはよっぽど将来有望だ」
ニヤニヤと笑うラインに、ガンツが嫌そうな顔で顔をしかめた。
ラインたちが治療を施す傍らで輸血の補助をしていたガンツは、かたくなに患者の首から下へは目を向けようとはしなかった。
「はいはい。僕と違って優秀優秀。あ~あ、可愛いミーシャちゃんも、ラインみたいな切り裂き魔への道を歩むのかと思うと泣けてくるね」
こちらもワインのグラスを傾けて、わざとらしくなげいて見せるガンツ。
「あぁ?言うじゃねぇか、試験管覗いて変な笑い浮かべてる研究オタクが」
「君たち現場の無茶ぶりを、どうにか叶えようと頑張ってる研究職にそんなこと言っちゃう?」
「あぁ?それを言ったら、誰のおかげで貴重なデータが集まってくると思ってんだよ、引きこもりどもが!」
突如始まった口げんかに、ミーシャが目を丸くしていると、そっと肩を叩かれた。
「ああなっちゃうと長いから、ミーシャちゃんは気にせず寝ちゃいなよぅ。私もそろそろお暇するからねぇ」
困ったように微笑むアンジェリカに、少し迷った後、ミーシャは素直に手の中のお茶を飲み干した。
(すごかった、な。伯父さん)
部屋に戻り、ベッドに横になった途端に、体が重く感じる。
極限まで神経を張り詰めていた反動でミーシャが考えているよりも体は疲れ切っていた。
しかし、神経が高ぶっているのか少しも眠気はやってこなかった。
ベッドに体を横たえながら、思い出すのは、素早く的確に動くラインの指先だった。
子供の腹を開けば、そこは赤で埋め尽くされていた。
その中、的確に患部を見つけ出し、処置を施していくラインの手に迷いはなかった。
ミーシャは言われるままに、血を拭きとったり、処置する際に腹の開口部が閉じないように抑えている事しかできなかった。
せめて、行われている処置を少しでも理解して先読みしようと努力したものの、あまりのスピードについていけなかったのだ。
(伯父さんのやっていることの、半分も分からなかった)
潰れた患部を切り取り、必要な血管や神経をつなぎ合わせていたのは理解できた。
だけど、どうしてその処置が必要なのか。どの血管を生かし、どうふさぐのか。
机上の知識では全く歯が立たなかった。
もともと、ミーシャの知識は、病を薬草で対処する方向に偏っている。
師事して指示していたレイアースがそうであったためだ。
今回、ラインが行った処置は、その対極にあると言っていい。
物理的に人の体に刃を入れ、患部を切り取ったり、つなげたりする。
ふと、脳裏に片腕を失くしたシャイディーンの顔が浮かぶ。
「ライン伯父さんがその場にいたならきっと、シャイディーンさんは腕を失くすことはなかった」
ミーシャの口利きで、ちゃっかり森の民の里へと同行する権利を獲得したシャイディーンは、最短で帰る人たちと共に去っていった。
「またな」と朗らかな顔と別れたのは、随分前の事のように感じるが、彼らはもう村へとたどり着いたころだろうか?
「私にも、出来るようになるかしら?」
ラインの域に達するまで、どれほどの時間と努力が必要かと思えば、気が遠くなりそうだ。
それでも、ミーシャはワクワクしている自分から目をそらすことはできなかった。
患者は、無事一命をとりとめた。
まだ意識は戻っていないし、予断を許さない状況ではあるが、最悪は脱したと言っていいだろう。
もちろん、その命を救いとったのはライン一人で成しえたことではない。
事故の直後、ラインへとバトンを渡すために奔走した医師、ここに運ぶために協力してくれた町の人たち、輸血の準備をしたガンツに実際に血液を提供した家族や協力者の人たち。
どれか1つが欠けても、あの子供の命は助からなかったはずだ。
ミーシャにも、その一員になれたことの誇らしさはもちろんある。
だけどそれ以上に、ミーシャはラインの手技に憧れた。
まるで神業のような、その指先の動きと深い知識に。
ミーシャの目指す、薬師としての理想の形。
その姿に、また一つ新たな要素が加わった瞬間だった。
大きく深呼吸をして、ミーシャはしっかりと目を閉じた。
(明日、解説してくれるって言ってたし。どこまで理解できるかは分からないけど、まずは一歩ずつ、だよね)
意識して呼吸を深くして、ゆっくりと呼吸を数えていると、ゆるやかに眠気がやってくる。
その波に逆らわず、ミーシャは意識をゆだねた。
読んでくださり、ありがとうございました。
ちなみに、ラインたちの口げんかは酔っぱらうといつもの事です。
子どもに運び込んできた医者のお爺さんと両親がついてます。
ここまでこのお話にお付き合いくださる方たちには今更でしょうが、作中の医療行為およびお薬は半数以上がでっち上げでできております。あんな薬品はありません。
合言葉は「ファンタジー」です。
あしからず……。




