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フローレンの意識が戻ったのは、鼻腔栄養を始めて二日後のことだった。
決められた量を決められた時間に流す。
筒いっぱいのスープを流すのに一時間程かかるのだが、片時もそばを離れず目を凝らすナタリーの様子には執念すらも感じさせた。
もちろん、ナタリー以外も交代で側についていたし、中でもエディオンは真剣だった。
小さな男の子が飽きもせず、意識のない姉に寄り添う姿は胸を打つものがあった。
そのかいあってか、一度も誤嚥を起こすことなく、フローレンの体調は改善していった。
はっきりと意識が戻らないまでも、体動が増え、下がりきっていた体温が上がり始め、眉間のしわも薄れていった。
頬に血の気が戻ってきた時には、ナタリーは感激して涙をにじませ、まだ早いとみんなを呆れさせたりしていた。
そして、二日目の昼食後に、フローレンは無事に目を覚ましたのである。
「まあ、意識もしっかりしてるみたいだし、管外しても大丈夫だろ。あまりこの生活を続けると、今度は喉の筋肉が衰えて本当に自分で食事を飲み込めなくなる事もあるからな」
昼食後のお茶を飲んでまったりとしていた所を、駆け寄ってきたナタリーに引きずられるようにテントへと連行されたラインは、苦笑と共にあっさりと管を抜いてしまった。
目が覚めたばかりで横になったままのフローレンの目を側にあった布で覆うと、「動くなよ」との一言と共にズルリと。
まさしく「あっという間」。
管を差し込む時を見ていなかったナタリーは、止めようと手を伸ばしかけたのだが、予想以上にするすると長い管が取り出される光景に衝撃を受けて固まってしまった。
すぐそばに張り付いていたエディオンも、目を丸くしている。
眼をふさがれたフローレン自身は、何が起こっているのかも分からず、ただ、何かに喉奥や鼻の中を擦られているような不快感にわずかに眉をしかめていた。
そもそも、起きたばかりで体の感覚も鈍く、自分に聞いたこともない治療が施されていたなんて、気づいてもいなかったのだ。
「ほい、おしまい。片付けよろしく」
さっさと抜去を済ませたラインは、呆れた顔で隣に控えていたミーシャに、管を手渡した。
「何かするなら、その前に説明をしてください!」
速やかにテントの梁から吊り下げられていた筒などの道具をかたづけ始めたミーシャに、ようやく我に返ったナタリーが苦情の声をあげる。
「こういうのは、下手に説明したほうが怖くなるんだよ。痛くなかっただろう?」
それを軽くいなして、ラインは、目隠しを外すとニコリとフローレンに笑いかけた。
少し気持ち悪かったくらいで確かに痛みを感じなかったフローレンは、素直にコクリと頷く。
「ナタリーさん、たぶん喉に違和感あると思うから、これ、少しだけ含ませてもらっていいですか?」
それでも何か言いたそうなナタリーを誤魔化すように、ミーシャが小さなコップを渡す。
「うまく飲み込めるかの様子も見たいので、小さじ一つ分ほどでお願いしますね」
そっと、体を起こすのを手伝いながらそう言われては、ナタリーは矛を収めるしかない。
そもそも文句をつけたいというより、予想外のことに動揺して思わず口をついて出ただけなのだから、いつまでも引きずることはなかった。
そんな事よりも、大切なお嬢様のお世話の方が大事に決まっている。
「まずは、一度口の中に含んで、ゆっくり飲み込んでみてくださいね」
背後から支えながら、驚かさないように小さな声で囁く。
フローレンは、素直にうなずくと、そっとナタリーが差し出した小さなスプーンを口に含んだ。
ほんのり甘くて花の香りがするそれは、寝込んだ時に母が手ずから入れてくれた花蜜水を思い出させた。
コクリと飲み込めば、少しだけスッとした感じと共に、のどのイガイガとした違和感が和らぐ。
「おいし・・・・・・」
ほっとしたように小さくつぶやくフローレンの様子に、再びナタリーの瞳に涙がにじむ。
そのままあと二口ほど、問題なく飲み込めるのを見届け、ミーシャはストップをかけた。
「次は一時間ほど間を開けてからにしましょう。気分が悪くなったりしたら教えてください」
安心したように笑うミーシャに、ナタリーは真剣な顔で頷くと、いそいそとフローレンのそばに座り込む。このまま、側について様子を見るつもりのようだ。
当のフローレンは、疲れたように目を閉じるとうつらうつらと眠りに落ちた。
「エディオン、お姉さんは大丈夫。起きたばかりだから、まだ体が眠りを必要としてるのよ」
心配そうな顔でフローレンを覗き込むエディオンの髪を優しく撫でると、ミーシャは外へと促した。
「あっちでおやつを食べよう。おいしい干しイチジクをあげるわ」
「うん」
少し迷いながらも、眠る姉の邪魔をしてはいけないだろうと、エディオンはミーシャの後をついてテントを出た。
それとすれ違うように、いつの間にかテントの外に出ていたラインがグリオを伴って戻ってくる。
「ミーシャ、エディオンにおやつを食べさせた後でいいから、少し薬草を採ってきてもらってもいいか?今回で手持ちがだいぶ減ったからな。今の時期なら、セデスの新芽が出てきてる頃だ」
「わかったわ、おじさん。ついでに、エディオンにいくつかわかりやすい薬草を教えておくわね」
前にしていた会話を思い出して、ミーシャはエディオンの頭を撫でながら請け負った。
「本当?僕にも覚えられる?」
薬草を調合するミーシャの手元を除きながら、「僕にもお薬作れたらいいのに」とこぼしていたのだ。
目を丸くして驚くエディオンに、ミーシャは笑顔で頷く。
「傷に効く薬草は、その場で適当にすり潰して張り付けるだけでも効果があるから、覚えておくといいわ。私も小さなころからお世話になってたし、便利よ?他にも、熱さましや痛み止め。覚えてしまえば山や草原は薬の宝庫よ?」
「僕!頑張って覚える!!」
今回の道なき道を進む強行軍で、歩くだけでもいくつもの擦り傷を作ったことを思い出し、エディオンは力強くこぶしを握り締めた。
それに、痛み止めや熱さましは、良く体調を崩す姉のためにも覚えたい。
「護衛に一人、若いのを連れて行ってもらえますか?ついでに、そいつにも知恵を分けてもらえると助かります」
図々しいですが・・・・と頭を下げるグリオにも快くうなずくと、ミーシャは、「早く行こう」と張り切るエディオンを「おやつを食べて力をつけてからね」となだめながら、簡易かまどの方へと去っていった。
その小さな背中をなんとなく見送ると、グリオは表情を引き締めてテントの中へと足を踏み入れた。
「ああ、やっと来たか。こっちへ」
先に中に入り、フローレンの様子を見ていたラインが、グリオを手招いた。
「無事、意識が戻ったし、飲み込むのも問題なさそうだった。今後きちんと栄養と薬を取れば、お嬢様も回復するだろう」
「あぁ、お嬢様。よかった・・・・」
意識を取り戻した事に喜んでいたナタリーは、改めてラインのお墨付きをもらい、ほろほろと涙をこぼした。
話があると呼び出されたグリオも、その事かとほっとしたように体の力を抜いた。
「て、事で、改めて聞くが、あんたたちに今後の当てはあるのか?」
その不意を突くように、ラインがズバリと切り込んだ。
グリオが、息をのむ。
「アンバー王国のキーンズ辺境伯が王家への反逆罪をとわれ、領地へ攻め込まれたそうだ」
黙り込むグリオとナタリーを見ながら、ラインはゆっくりと口を開いた。
「王にたてつくなんて、愚かなことだな」
「旦那様は反逆を企てるような方ではございません!争いを好まず、領民思いの穏やかな方です。旦那様は謀られたのです!!」
「ナタリー!!」
耐えかねたように叫ぶナタリーを、グリオがあわてて制止する。
その様子に、ラインは肩をすくめた。
「やっぱりそこ所縁の人間か。ちなみに屋敷は焼けたらしいが、辺境伯夫婦の生死は不明だそうだぞ?上手く逃げ延びてるかもな」
「それは本当ですか!?」
今度は制止していたはずのグリオが詰め寄ってきた。
「おう。今朝がた仲間から放たれた鳥が運んできた情報だから間違いない」
ラインはその勢いに笑いながら、あっさりと小さく折りたたまれた紙をグリオに放り投げた。
受け止めた薄紙を震える手で破らないようにそっと開いたグリオは、中に書かれた文字に目を通すと崩れ落ちた。
「ああ、神よ。感謝します」
そこには、後ろ髪を引かれる思いで後にした領地のその後の様子が、ざっくりと書かれていた。
ずっと、知りたくてたまらなかった故郷の今がそこにはあった。
あの日、何の前触れもなく攻め込まれた城は火の手に包まれた。
崩れ落ちた城跡から黒焦げの遺体がいくつも発見されたようだが、ハッキリと辺境伯夫婦を示す遺体はなかったそうだ。
正確には指に領主の証である指輪をつけた遺体があったそうだが、損傷が激しく本人確認はできなかった。
しかし、指輪の件を以て、辺境伯としたと、そこには書かれていた。
「旦那様は、指輪は剣を握るのに邪魔だと日ごろからつけていらっしゃいませんでした・・・・」
かみしめる様な声は微かに震えていた。おそらく、喜びで・・・・・。
「奥様・・・・奥様は・・・・?」
奪い取るようにして手紙を読むナタリーは望む情報を見つけられず小さく震える。
その背を励ますようにグリオが優しく撫でた。
「旦那様が一緒にいて、奥様に傷一つつけるものか。エヴァンズ達もいる。きっと無事だ」
「・・・・そう。そうですよね。亡くなったという証拠があるわけではないもの」
自分に言い聞かせるようにつぶやくナタリーは、潤む瞳を隠すようにエプロンの裾で顔を覆った。
「早めに城に火の手が上がったおかげって言ったらなんだが、領地の方はあまり荒らされることもなかったみたいだな。収穫間近だったようだし、相手方も利を減らす事を良しとしなかったんだろう。今は隣の領の伯爵が権利を手にしたってさ」
ラインが何処からか出した紙片を、もう一枚グリオに渡す。
「そうですか。領民に被害が少ないならよかった」
ほっとしたように肩を落とすが、その表情は晴れない。
今は良くとも、これからどうなるかはその任された領主しだいだ。
そして、件の伯爵は、あまり良いうわさを聞かない相手だった。
「まあ、そっちは残ったやつらがどうにかするだろう。現状、いつ故郷に帰れるかわからない以上、落ち着く先の当てくらいはあるんだよな?」
切り替えろというように、ラインの声が響く。
「せっかく体調が改善しても、もともと虚弱体質のお嬢様が逃亡生活を続けるのは難しいだろう?俺たちもいつまでも付き合えないぞ」
尤もな言葉に、グリオ達の顔色がさらに沈み込む。
「おそらく国を越えて追手がかかることはないと思います。元アザレの南に私の姉が嫁いでいるのでその縁を頼ろうと思ってはいたのですが・・・・・」
「元アザレ…ねえ。レッドフォードにちょっかいを出してつぶされた国、だな。最近は落ち着いてきたとはいえ、人の面倒ごとをしょい込むほど余裕ができてるかは微妙なところ、かあ」
紅眼病で弱っていた所を戦を仕掛け、国を継いだばかりの若き前国王を打ち取った国である。
相手が弱っているところをつけ組むのは戦の常套手段とはいえ、やり口の汚さに周辺国の反感を買い、王を打ち取られたレッドフォードを支援する気流ができ、結果わずか三か月ほどで首都を取り返された挙句、半年後には国自体がつぶされてしまった。
もともとカーマイン大陸の屋根ともいわれるレガ山脈に沿うように発展した山岳民族主体の貧しい国だった。
いくつかの部族が寄り集まった国でその中の一つが力をつけ王というか独裁者となり、国土を広げようと虎視眈々と周囲を狙っていたようだ。
現在は王家の血脈は廃され、それぞれの部族の自治区へと解体したうえ、レッドフォードより監視役を派遣することでかろうじて自治を認められていた。
ちなみに今ミーシャ達がいるのが元アザレ国の中であり、隣国のジョンブリアン国境近くである。
領土としてはレッドフォードであるため、特に止められることもなく入り込むことができた。
八千メートル級の山々が連なるレガ山脈の植生は特殊なものが多く、さすがに高所まで登るつもりはないが裾野だけでも散策してみたいと、観光気分で寄り道していたのである。
グリオの姉の嫁ぎ先がどんな家かは知らないが、他国のお家騒動をしょい込むには状況が悪すぎるだろう。
そもそも、追手がかけられないというのもグリオ達の希望的観測でしかないのだ。
何しろ、キーンズ辺境伯といえば。
「継承権を放棄したとはいえ腐っても王弟様だしなあ。その血筋を放置してくれるか?」
ぽつりとつぶやかれたラインの言葉に残る二人は唇をかみしめた。
それは、どうしようもない事実だった。
エディオンたちの父親であるジョブソン・キーンズは、現アンバー国王の義母弟だった。
とはいっても母の身分は第三側室の上に、ジョブソンが生まれたころには現国王はすでに立太子しており、権力争いが起こる要素もなかった。
ジョブソン自身もその意思はなく、幼い頃から継承権を捨て、母の実家であるキーンズ辺境伯を継ぐつもりだと事あるごとに宣言していたのだ。
ところが、長じるにつれてジョブソンのカリスマ性が無視できないほど台頭してきてしまったのが、不幸の始まりだったのだろう。
前国王譲りの美しい赤毛と光が当たれば青くきらめくラピスラズリの瞳。
護国の英雄とうたわれた辺境伯譲りのたくましい体と武術の腕。
皇太子の兄は色こそ同じだが、長ずるにつれ問題なくなったとはいえ線の細く、武術の腕もいまいちであった。
その代わり、頭脳明晰で国を率いるのに何の遜色もない人物だったのだが、人というのはわかりやすい旗印をあげようとするものだ。
本人たちの思惑とは別に、周囲が反目しあいギクシャクする日々。徐々に兄の自分を見る目が険しくなっていくのを感じ取ったジョブソンはあっさりと王都を去った。
そして自分は国境から兄上の治世を守ります、と公言したのだ。
その言葉通り、ジョブソンはその後、数えるほどしか王都の地を踏んでいない。
そこまでしたのに、兄王は、ジョブソンをどこか警戒する様子を止めることはなかった。
表面上は問題ない。兄王自身もばかげた妄執だと分かってはいたのだろう。
だが、長い年月をかけて植え付けられた疑惑と、決して認められないコンプレックスを捨て去ることができないでいる様だった。
ふとした瞬間に透けて見える兄王の苦悩に、ジョブソンは、寂しい目で「自分にはこれ以上どうすることもできない」と愛する妻にだけ、そっとこぼしていたという。
「旦那様は、本当に国王様をお慕いしていたのです。もともと、旦那様が武を極めようとされたのも、王弟として国王様をお支えしたいと思ってのこと。幼い頃は兄に褒めてもらえるのが一番の褒美だったと・・・・・」
悔しそうに唇をかみしめるグリオの目には涙がにじんでいた。
辺境で領民に寄り添い、国力の支えになればと隣国のコーラルンとの貿易にも力を入れていた。
そのコーラルンが、シルバ帝国に侵略を受けた時は、その後を思い、支援を訴えるも受け入れてもらえることはなかった。
せめてもの支えになればと、自領をやりくりして物資だけでもと支援をしたが、きっとそれも兄のなにかに触れてしまったのだろう。
もともと豊かな辺境をねたんでいた隣領の伯爵に嵌められてしまった。
正確には、国王がその言葉に便乗して目障りな目の上のこぶを取り除こうとしたのだろう。
「辺境は王都から遠いからなあ。視界に入ることで兄の負担になるならと引っ込みすぎたのも駄目だったんだろう。文字だけでは伝わらない思いもあるんだ。本当に互いを思うなら、側を離れすぎちゃいかんかったんだろうよ」
うつむき肩を震わせるグリオとナタリーに、ラインは困ったようにつぶやいた。
自身とて、大切なたった一人の妹と距離を取った時期もあったのだ。
共に励もうと誓った思いを裏切られたような気がして、許せなかった。
掲げた理想からそれていく妹が信じられなくて、悔しくて。
ラインにも、そんな若く幼い時代があった。
だけど、風のうわさで妹がひどいけがをして領地の端に追いやられたと聞いて、いてもたってもいられず駆け付けた。
そして、小さな赤ん坊を抱いた妹と顔を合わせ、ようやく理解したのだ。
妹は、薬師としてのプライドを捨てたわけでも、あの日の誓いを裏切ったわけでもない。
ただ、その在り様が変わったのだと。
言葉だけでは伝わらない。
かといって、側にいるだけでは足りないのだ。
本当に分かりあいたいなら、傷つこうが苦しかろうが、何度でもぶつかって言葉を交わし、互いに努力するしかないのだ。
まあ、そんなことをいまさら周囲が言っても詮無きことだ。
人は今を生きるしかない。
そして、今、自分が手を伸ばしたのは目の前にいる小さな姉弟と忠義者の家来たちである。
(な~んでミーシャの側には厄介ごとが寄ってくるのかねえ)
正直、そんなに情に厚いほうじゃない。
どちらかというと個人主義で自分勝手といわれるし、その自覚もある。
だけど、なんでかミーシャの側にいると自分まであのお人よしが移ってしまうようなのだ。
(まあ、切り捨てられない以上しょうがない、か)
面倒だという気持ちをため息一つで押し込めて、ラインは救いの手を差し伸べた。
「行き場所がないなら、用意してやってもいいぞ?少し遠くなるが、そこに行くまでの手段も紹介してやる。どうする?」
読んでくださり、ありがとうございました。




