13
カーテンを閉めた薄暗い部屋の中、コンコンと苦しそうな咳が響く。
老婆は、数日前から体調を崩してから、止まらない咳に苦しんでいた。
「熱も下がらないし………。やっぱりお薬買ってくるわよ?」
娘は年老いた母の背中を心配そうにさすりながら声をかけた。
「………薬飲むほどじゃないよ。寝てれば治るさ」
咳き込みすぎて少し嗄れた声で老婆は答えた。
年老いた母娘の二人暮らしだ。けして楽ではない生活の中、薬代を捻出するのは大変だ。
それをよく分かっているから、軽い風邪程度で薬を買うのは気が引けた。
たとえ、それがいつまでも倦怠感と微熱が引かずいつもと様子が違っても。
………老婆は不安を自分の年のせいだと片付けた。
70を過ぎてだいぶ経つ。昔と違って体力も落ちたのだから、治りが遅くてもしょうがない、と。
「………でも」
それでも心配そうな娘に、老婆は皺だらけの顔で笑ってみせた。ここ数日続く微熱のせいですっかり窶れてしまったその笑顔は痛々しいだけではあったが。
「暑くなったり寒くなったり、雨のせいで湿気も酷いしね。なぁに、お天道様が顔を出せば、すぐ元気になるよ。さ、良いから、あんたは仕事にお行き。気になるなら、たんと稼いで、なんか美味しいものでも食べさせておくれよ!」
渋る娘をどうにか部屋から追い出して、老婆は閉められたカーテンの隙間から外を眺めた。
さっき、ようやく止んだと思った雨が、また、しとしと降り出していた。
「まったく、変な天気だよ。雨は止まないのに、妙に蒸し暑いし………。まるで、あの時みたいじゃないか」
忌々しげに空をにらんだ時、また、込み上げてきた咳の発作に老婆は体を2つに折って噎せた。
脳裏をよぎった不安は、咳の苦しさにどこかに飛んで行ってしまう。
そうして、薄暗い部屋の中、老婆の苦しそうな呼吸だけが静かに響いていた。
「見つけた〜。みんな、何してるの?」
降り続く雨の合間をぬって、アナ達の家を訪ねたミーシャは、子供達は湖に出かけたと聞いて探していたのだ。
湖の岸辺の藪の中に入り込んでいた3人を見つけられたのは本当にラッキーだった。
大人の腰ほどはある葦のような植物の陰になって岸辺からは見えにくかったのだ。
教えられたポイントに子供の靴が置いていなければ、そのまま見過ごしていただろう。
「あ〜、ミーシャお姉ちゃん!」
ミーシャの声に顔をあげたアナは頬に泥をつけたままニッコリと笑顔を浮かべた。
そのまま、ゴソゴソと藪をかき分けてミーシャの元へと戻ってくる。
「あのね〜、昨日仕掛けた罠を見てたの」
岸辺の泥に浸かっていた足だけでなく、簡素なワンピースの裾まで水で濡らしたアナは、満面の笑みで教えてくれた。
「お魚取ってたの?」
「うん!キャラス!お婆ちゃんが元気ないから、食べさせてあげようって思って〜」
元気一杯の返事にミーシャの頬が一瞬引きつった。
脳裏にバケツの底でうごめいていた姿がよぎる。
見た目はアレだが、この街では本当にあれが滋養強壮の1つとして市民に親しまれているらしい。
「とれた?」
「うん。さっき、1匹かかってたの!もう1つの方にも、はいってるみたい」
引きつったミーシャの表情にも気づかず、アナが嬉しそうに頷いた。
最近、体調を崩して寝込みがちな祖母に食べさせてあげれると思えば、嬉しさもひとしおなのだろう。
「大漁!もう1つの方に2匹もかかってたぜ!」
そこに泥だらけになった少年2人が満面の笑みで戻ってくる。手に持っている竹で編んだ深い籠を掲げて見せる様子は、本当に満足そうだった。
ユウの言葉に、アナが飛び上がって喜んでいる。
「すごいね!今夜はご馳走だね!」
(…………トマト煮、は、美味しかった。おいしかったよ、ね。うん)
はしゃぐ子供たちの様子にミーシャはそっと心の中で自分に言い聞かせた。
テトの持つ籠の中を覗く気にはなれなかったが………。
「姉ちゃん、どうしたの?」
一頻り、キャラスが取れたことを喜び合った3人は、ようやく意識をミーシャの方へと向けた。
なんだか、少し疲れたように見えるのはどうしたことだろう?
「うん。トマトのお礼にお家に行ったのだけど、みんながいなかったから探しに来たの。それより、お婆ちゃん、病気なの?」
首をかしげるミーシャに、子供達は心配そうに顔を見合わせた。
「………病気、って程でもないんだけどさ。元気ないんだ」
「身体がだるいってよく横になってる」
「お熱もチョットだけ高いの。お婆ちゃん、年寄りは疲れやすいんだって言うけど………」
(風邪の初期症状かしら?)
しょんぼりとした3人の様子に、ミーシャは首を傾げながら辺りをつける。
「お姉ちゃん、お薬作れるの。お婆ちゃん、お病気かどうか、診てみようか?」
柔らかなアナの蜂蜜色の髪を撫でながら、ミーシャはニッコリと微笑みかけた。
「ほんと?!」
アナの目が驚きに見開かれる。
「もちろん。でも、とりあえず、手と足の泥を落としましょう?」
「うん!」
無邪気に喜ぶアナの横で、ユウとテトが少し戸惑ったように顔を見合わせた。
ユウ達は薬が高価なものだと言うことを知っていたのだ。野菜を作って商売しているユウの家は食うに困る事は無いが、気軽に医師にかかれるほど裕福な家庭でも無い。
その戸惑いを読み取って、ミーシャはクスリと笑うと少年達2人の頭を撫でた。
「お友達のお婆ちゃんのお見舞いに行くのは不思議じゃ無いでしょ?それで、症状にあった薬をたまたま持ってたら分けてあげるのも。ね?」
「………うん!」
柔らかな笑みとともに促すように軽く背中を押されて、2人は泥を落とすために急いで湖へと駆け込んだ。
倦怠感と咳の発作。熱は高くないが、夜になると微熱が出る。覗いた喉は赤く腫れていたけれど、咳が続いた為だろう。
胃のむかつきもあるため食欲が落ちていた。
「風邪の初期症状でしょうね。喉の痛みを抑える薬と胃薬を出しておきます。食事をとる少し前に飲んでください。念の為、解熱剤も置いておくので、発熱した時に飲んでくださいね。後は、食欲がなくても栄養があるものを出来るだけ取ってください」
裏庭に面した寝室で横になっていた老婆は孫とそれほど年の変わらない幼い少女に少し面食らっていたものの、落ち着いた所作で診察されるにあたって、申し訳なさそうな表情になった。
孫達が連れてきた少女が「薬師」だと名乗ったときは、てっきり親がそうである子供のごっこ遊びだと思っていたのだ。
子供の遊びに付き合ってあげようという軽い気持ちで受け入れたら、どうも「本物の」薬師であるらしい。
説明とともに並べられる薬もおそらく「本物」なのだろう。
「診察していただいてから申し訳ないのですが、この程度の病で薬を買う程の余裕は我が家には無いのです」
困り顔で断りを入れる老婆に、ミーシャはゆっくりと首を横に振った。
「お金をいただくつもりはありません。私は薬師ではありますが商売をしているわけではありません。隣国より遊学にきた身で、商売する予定もないんです。今日は、お友達のお婆ちゃんのお見舞いに来ただけですから」
ミーシャの言葉に戸惑いつつも、老婆は、首を縦にふることは出来なかった。
ミーシャの渡そうとした薬を手に入れるために支払われる代金は、自分たち家族の3日分の食費くらいにはなるであろうことが分かっていたからだ。
困った顔で受け取ろうとしないアナ達の祖母にミーシャも困ってしまう。
まさか、受け取ってもらえない事態が起こるとは考えもしていなかったのだ。
戸惑い顔を見合わせる一同に、壁際で待機していたテンツがスッと一歩前にでた。
「ミーシャ様は、お孫さん達のおかげで行き詰っていたお仕事の現状を解決する糸口を掴むことができました。そのお礼と思ってどうぞ受け取っていただけないでしょうか?」
生真面目な表情そのままに告げる言葉は柔らかな思いやりに満ちていて、そのギャップに困惑に強張っていたその場の空気がフッとほどけた。
「アナちゃん達、本当にお婆ちゃんのこと、心配してて、少しでも、力になりたかったんです。そもそも、この薬草も元々私の住んでいた森に生えていたものを私が摘んで来たものです。必要な人に使って貰えたほうが、嬉しいんです」
テンツの支援に力を貰って、ミーシャはジッと相手の瞳を見つめた。その横で、アナ達も必死の表情でコクコクと頷いている。
複数の真剣な瞳に見つめられ、老婆は、ぎこちないながらも口元を笑みに綻ばせた。
「心遣い、いただきますね。ありがとうございます」
「はい。足りなくなったらおっしゃってくださいね!と、いうか、また、様子を見に来させてくださいね!」
やっと了承の言葉を得たミーシャは満面の笑みを浮かべた。
勢い込んで言葉を重ねるミーシャの姿は、大好きなものを手に入れた子供のようで、垣間見えたその幼さに老婆はようやく自然な笑顔を浮かべることが出来た。
(立派な薬師様のようだけれど、やっぱり子供なのね)
森に住んでいたと言っていたから、この少女にとっては貴重な薬草も野に生えている草花と同じ価値なのかもしれないと老婆は考えた。そう思えば、幼いアナが野草の花束を差し出してくる笑顔と被って見えるから不思議なものだ。
そうならば、笑顔で受け取るのが大人の務めというものだろう。
目の前で渡された薬を飲んで見せながら、老婆は包み込むような柔らかな笑みを浮かべ、もう一度「ありがとう」と礼を言うのだった。
「アドルさん、この国の医療機関ってどんな風になっているのですか?」
薬草園の方針を転換するにあたり、薬効の無い薬草を大切に育ててもラチがあかないだろうと一度全部引き抜いてしまった。
しかし、薬としては使えなくともハーブティーのようにして飲めば僅かなりともに効力はあるはず、との目論見で、ミーシャ達は薬草を一部乾燥させて利用することにした。
その、陰干しした薬草の選別をしながら、ミーシャは疑問に思っていた事をアドルに聞いてみることにしたのだ。
先だってのアナの家族の様子から、この国の人達は簡単には医者にかかれないように見えた。
ミーシャの故郷でも医師や薬師は貴重であったからわからないでは無いが、それでも、ミーシャの知る限り、簡単な痛み止めや咳止めくらいは自宅に常備していたように思う。
少なくとも、母について回った小さな農村のいくつかではそうだった。
それでも手に負えない重症化した患者達を主に診るのが母の仕事だったのだ。
もっとも、仕事といっても母が金銭を受け取ることはほとんど無く、良くて野菜や干し肉などが殆どだったのだが。
「森の恵みを皆で分け合うことは当然のことなのよ」と言うのが母の口癖だった。
「そうですね。普通に開業している医師や薬師もいますが、王都では何軒か無料で診察をしてくれる医療所があります。ただ、診察は無料なのですが、薬代はいただくので貧しい方達は滅多に訪れませんね」
手元の作業に集中しながらアドルがさらりと答えた。
「薬は有料なんですか?」
「王都では薬は基本他所から持ってくるしかないのでどうしても割高になるのですよ。………ここが、本来ならその解消策になるはずだったのですが」
ミーシャの疑問は、アドルの深いため息と共に解消された。
(薬草園がうまくいけば、その医療所では薬も無料か格安で配るはずだったのかな?)
陰干しのおかげでほどよく水分の抜けた薬草は濃縮された香りがした。
ハッカのような味のする薬草を一枚コッソリと口に運んだミーシャは首を傾げた。
数年前に起こったという謎の流行病を受けて、国としてはいくつかの対策を講じようとしているが、どうにもうまくいっていないのが現状なのだろう。
鼻に抜ける爽やかな香りを楽しみながら、ミーシャは黙々と作業を続けるアドルを横目で眺めた。
「…………頑張りましょうね」
ポツリと呟かれた声に顔を上げたアドルは、いまいちわけがわからないままに至近距離で翠の瞳を見つめ返した。
「そうですね」
柔らかな笑顔と共に頷いたアドルは、1つ頷くと薬草の選別作業へと意識を戻した。
読んでくださり、ありがとうございました。
キャラス再び(笑)
取り方はウナギな感じ。専用の籠罠に餌を入れて半日から1晩湖に沈めて取ります。
自分たちで食べたり、小遣い稼ぎに業者に売ったり、近所の子供達のちょっとした収入源になってたりします。




