32
(気持ちいい……)
ポカポカと温かい心地よさに浸って、ミーシャの意識は揺蕩っていた。
最近は一晩休んでも体に重く蓄積されていた疲労感も不思議と感じられず、まるで羽のように軽く感じる。
『おかえ……な……い、いと……い……』
ふいに耳を優しい声がくすぐった。
(なに……?なんていっているの?)
うまく声が聞き取れずミーシャは眉をしかめようとした。
そして、自分が指一本自由に動かせない事に気づく。
(あれ?どうして?)
頭の中が霞がかかったかのように上手く働かず、浮かんだはずの疑問もすぐに霧散してしまう。
ただ感覚だけは鋭敏だった。
ふわりと何かが頬を撫でた。
『も……すぐ……あえ……わ……』
ミーシャはその感触を知っていると感じるけれど、それが何だったかは思い出せない。
(あなたは誰?)
やはりピクリとも動かせない体にもどかしい思いをしながら心の中で問いかけるミーシャに、くすくすと笑う気配がする。
『わ……しは…………よ。あ……たが……のを、待っているわ、ミーシャ』
最後の声だけがやけにはっきり耳に響いた瞬間、閉じた瞼の裏にパンッと光が弾けた気がした。
「待って!行かないで!!」
突然叫びながらガバリと体を起こしたミーシャに、のんびりとお茶を飲んでいたラインは驚いたように目を見開いた。
「どうした?ミーシャ。起きたのか?」
歩み寄ってくるラインを、ミーシャはぼんやりと見つめていた。
「ミーシャ?」
体を起こした姿勢のまま微動だにしないミーシャに、ラインが怪訝そうに名前を呼ぶ。
「……何か……夢を見てたみたい」
ぼんやりと答えながら、徐々にミーシャの目に光が戻ってくる。
「でも忘れちゃった。すごく気持ちよかったんだけど……」
「寝ぼけてるだけか?お茶を淹れたところだけど飲むか?」
そっと額に触れながら覗き込むラインに、ハッとミーシャは目を見開いた。
「蜂蜜茶!飲みたい!」
昨夜飲み損ねた好物のお茶を思い出しバッと顔を輝かせるミーシャに、ラインはホッとしたように笑う。
「目が覚めたみたいだな。今日はテーブルで食事しよう。こっちにこい」
小さな小屋には寝具がなく、暖炉の前の毛皮の上で毛布に包まれていたミーシャはいそいそと立ち上がりラインの後を追った。
昨夜は疲労のあまり気づいていなかったけれど奥の方に煮炊き用の小さな竈とテーブルセットが置かれていた。
二脚しかない椅子の片方に腰を掛けたミーシャの元にお茶の入ったカップと食事が運ばれてくる。
「そういえば、こんなカップとかもってなかったよね。材料も」
スープの中にたっぷりと入った数種類の野菜とソーセージにミーシャは今さらながらに首を傾げる。
「ここは一族が管理している小屋なんだ。そろそろ到着すると報せを出していたから、念のために食料と薪の用意がしてくれてたみたいだな」
ライン一人なら村まで一日あれば余裕で進む距離だったけれど、幼い子供連れという事を考えて村の人が休憩所として整えていたのだ。
「村についたらちゃんとお礼を言わなくちゃ」
見知らぬ誰かに感謝しながら、ミーシャはまだ柔らかいパンをありがたく頬張る。
「ついでに、こっちは早起きなレンのお手柄だ」
大きな鳥肉が刺さった串焼きは朝から食べるには重たそうだったけれど、昨晩はスープ一杯で寝落ちしてしまった腹ペコミーシャにはごちそうだった。
「すごい!レン、ありがとう!!」
ニコニコの笑顔を向けられてテーブルの下で一足早く食事をいただいていたレンが誇らしそうに尻尾を振った。
ぐっすり眠って栄養たっぷりの温かい食事で英気を養ったおかげか、蓄積された疲労で重くなっていた体がすっかり軽くなったミーシャは元気いっぱいにラインと共に山を登っていく。
本日は天気も良好で久しぶりの太陽が顔をのぞかせている。
陽の光に照らされる白樺の森も美しく、ミーシャの目を楽しませた。
同じような風景が続く白樺の森は登っているうちに少しづつ方向感覚が狂っていくのだが、ミーシャは気づかない。
柔らかい新雪はぽつぽつと足跡を残したけれど、それもヒラヒラと音もなく舞い降りる白い欠片があっという間に消してしまった。
ずいぶんと歩いたはずなのにいつまでも白樺の森を抜けない違和感にようやくミーシャが気がついたのは太陽の位置がだいぶ変わってからだった。
「……もしかしたら同じような場所をグルグル歩き回ってない?」
「ようやく気づいたのか」
ピタリと足を止めたミーシャにラインがにやりと笑う。
「おじさん?!」
「まぁ、まて」
からかわれていたのかと怒りの声をあげようとしたミーシャをラインが手をあげて止めた。
「確かにグルグルと歩き回っていたが、コレも村にたどり着くために必要な手順なんだよ」
「必要な手順?」
意外なほど真面目な顔で告げられた言葉に、ミーシャはコテリと首を傾げた。
「隠里の行き方が、単純ですぐ人にばれるようだとまずいだろう?ついてくる人間がいないか確認と、もしついてくるようなら排除する必要がある。
まぁ、さすがに今日はいないみたいだけど、一族の村がトランドリュースにあることは一定数知られているから、不届き者はある程度いるのさ」
再び歩き出したラインの後を追いかけながらミーシャは考える。
(誰も知らない病の薬。千切れた手足もつなぎ合わせる技術力。……そういえば死者も蘇る薬を持っているって言われた事もあったっけ。村を発見したらその力が手に入るって思われているのかしら?)
不思議な力で解決していると思われているようだが、実際はたゆまぬ努力の結晶である。
(あ、でもその知識を教えてもらえるならどんなことでもするっていうお医者さんや薬師はきっと多いんだろうな)
ミーシャ自身も母親の故郷を見て見たい気持ちもあるが、自分の知識不足を知り、それを補いたいと思っている気持ちもある。
比率としては半々だろう。
「さて、到着だ」
ラインの到着の声にハッと我に返ったミーシャは、景色が変わっていることに驚いて目をパチパチと瞬いた。
ミーシャが考え事をしている間にいつの間にか白樺の森を抜けていたのだ。
すらりとした背の高い白樺ではなく、周囲には幹が太くごつごつとした針葉樹が生えている。
「あれ?これってハイマツ?」
見上げた葉の特徴がリュスト山に登った時に見た高山植物に似ていて、ミーシャは思わず首を傾げた。
森林限界と呼ばれる高山特有の場所で見たハイマツは、木の高さがミーシャの背を越えるものはほとんどなかった。しかしここでは白樺ほどではないものの見上げるほどの高さがあった。
「ハイマツの一種ではあるな。風の少ない温かい土地だと上に伸びる事もあるんだ。しかも、ここら辺の樹はちょっといじってもいるしな」
肯定しながら、ラインはひときわ幹の太い古木の前に来るとばさばさとその根元の雪を払った。
そして複雑に絡まりあっているように見える根の部分に何かを振りかけると、ヒョイヒョイと動かしていく。
やがて人一人が通れるほどの空間が姿を現した。
「押さえててやるから中に入れ。これ、手を放すとすぐに元の形に戻るんだよ」
促されて、ミーシャはぽっかりと開いた穴の中をしげしげと覗き込んだ。
真っ暗で良く見えないけれど、穴の壁に一応縄梯子のような物がかかっていた。
そっと足を下ろすと足を置く場所は板が張られているらしく、しっかりとした感触が伝わってくる。
おそるおそる下に降りていくと二メートルほどで底についた。
「精霊石を出せるか?」
精霊石とはかつてリュスト山で迷った時に手に入れた石だ。
光を吸収する性質があり、日中太陽に当てておくとぼんやりと光るため、ランタンほどの明るさはないが手元くらいは十分に見えるし、火を灯す手間もない。そのため、緊急時には何度も役に立ってきた。
ミーシャは急いでマントの隠しポケットから精霊石を取り出した。石の放つ柔らかな光が当たりを照らし出す。
「横道があるだろう?そっちに逃げてくれ」
ラインの声にぐるりとあたりを見渡すと、ミーシャがギリギリ立って入れるくらいの穴があった。
竪穴自体は一メートル四方くらいなのでミーシャがいつまでもそこに居ればラインが降りてこられないのだ。
「よけたよー」
素早くそちらに体を滑り込ませて声をあげると、レンが身軽に飛び降り、間髪入れずにラインまでもが飛び降りてくる。
突然目の前に降ってきたラインに目を丸くしたミーシャは、すぐに苦笑を浮かべた。
二メートルほどの高さだ。
穴の底がどうなっているか知っているラインが、わざわざ縄梯子を使うわけもなかった。
「それでも一言くらい言ってくれてもいいと思うの」
「手を放すと結構すぐ塞がるから、こうした方が早いんだよ」
それでも一応苦言を呈するミーシャに、ラインは頭上を示した。
「え?なんで?」
そこには、誰も触れていないのに、勝手に木の根が動き穴をふさいでいくという不思議な光景があった。
「あれはハイマツの根じゃないんだよ。蔓植物をハイマツに埋め込んでそれっぽく形を整えてるんだ。一度成長すると、どれほど動かしても元の形に戻ろうとする性質がある。本来ならもっと固くて動かすのが大変なんだが、あれは品種改良した特殊個体で、酒を振りかけてやると一時的に柔らかくなるんだ」
やがてすっかり穴がふさがり、精霊石の明かりだけが暗闇を照らし出した。
「さて、進むか」
自身も精霊石を取り出すとミーシャの隣へと体を滑り込ませてくる。
中途半端に腰をかがめる体勢はきつそうだが、気にした様子もなくラインはするすると洞窟を進んでいった。
「置いていくぞ、ミーシャ。天井は直ぐに高くなるがそれまではぶつけないように……。あぁ、ミーシャの身長なら気を付けるまでもないか」
「おじさん、ひどい!」
いまだ上を見上げていたミーシャは、ハッとしたようにラインの後を追いかけて横穴を進んだ。
ラインの言葉通り横穴の上部は傾斜しているようで、進むごとに少しづつ天井が高くなる。
やがて、ラインがまっすぐに立っても問題ないほどになった。
「自然の洞窟を利用しているの?」
洞窟の内部はごつごつとした岩に覆われていた。足元も最小限にしか整えていないため精霊石の光だけでは心もとなく、ミーシャは最大限に足元に注意を払いながらゆっくりと歩いた。
人がすれ違う事もできないほどの細い洞窟にはいくつもの分かれ道があった。
それを迷いなく進むラインの後姿を、ミーシャは見失わないように必死についていく。足元がおろそかになったけれど、危ない所はレンが鼻先でつついて注意を促してくれるため問題なかった。
進むごとに洞窟は険しさを増し、ラインが道を間違えているのではないかとミーシャは少し不安になる。
ついには、ラインがどうにかすり抜けられるかの細い亀裂にまで体をねじ込んでいく。
当然リュックを背負ったままでは通れないため、後からミーシャが押し込んだ。
「一人の時はどうしてるの?」
「紐を括り付けておいて、後から引っ張るんだよ」
亀裂の向こうからなんでもない事のように答えるラインの声に、ミーシャは一つため息を落として自分も亀裂に体を押し込んだ。
外から見たらわからなかったが、亀裂の中は研磨されたようにつるつるで、肌が傷つくどころか服の繊維が引っかかる事もないほどだった。
明らかに人の手が入った状態に、ミーシャはここが正しい道なのだと思い知る。
これまで通ってきた道も、人が通った痕跡を見つけられることがないように巧妙に取り繕われていたのだろう。
ミーシャは滑らかな岩肌を手でなぞって楽しみながら向こう側に抜けた。
亀裂の向こう側で待っていたラインが、すかさずミーシャのリュックを手渡してくる。
いそいそとそれを背負っていれば、レンがするりと隙間を飛び出してきた。
ぶるぶると体を振って毛並みを整えるレンに笑って、ミーシャはそっとの真っ白な毛を撫でつける。
「それにしても、こんな道を進むなら体型にも気をつけないといけないし、荷物も多くは運べないから大変だね」
ラインは身長はあるし全身しなやかな筋肉に覆われているが体型は細身の方だ。
そのラインがギリギリ通れる道ではがっしりした体型や肥満体型の人は通行不可能になってしまう。
「そういうやつは、また別の道を使うさ」
「別の道があるの?」
ネルと共に去っていたシャイディーンを思い出していたミーシャは目を瞬いた。
「たどり着ける道が一つだけだといざという時に困るだろう?入り口だけでも数か所あるしこの洞窟を使わない道もある」
あっさりとラインが頷く。
「一応、小型の馬車が通れる大きな道もあるぞ?そっちは事前に申請が必要だし、滅多に使われることもないがな」
さらには予想外のことも言われて、ついにミーシャはぽかんと口を開けた。
「隠里なのに、そんな大きな道があっていいの?」
「もちろん、ちゃんと道も隠してるさ。だから事前に申請が必要なんだ。それより、ミーシャ、面白いものを見せてやるよ」
道の話しに飽きたのか、ラインはそういうとおもむろに洞窟の壁に手に持っていた精霊石をぶつけた。
カーン、と予想以上に固い音が鳴り響く。
するとぶつけた場所から波紋が広がるように光の筋が壁を走った。
「え?なにこれ」
「壁に精霊石の成分が入ってるみたいなんだ。こうして光を宿した精霊石をぶつけるとなぜか光が走る。綺麗だろう?」
目を丸くするミーシャに笑いながら、ラインが何度も精霊石をぶつける。
カーン、カーンと澄んだ音共に次々と光の波紋が広がるさまは、幻想的で美しかった。
「私もやりたい!」
ミーシャも自分の持っている精霊石を壁にぶつけてみる。
カーンとラインの時よりもさらに硬質な音が鳴り、光が走る。
「少し光の色が違う?」
ラインの作り出した光の筋とミーシャの物とでは少し色の質が違って見えた。
「あぁ、不思議なことに、ぶつける人によって色がわずかに違うんだよ。こっちでもやってみろ」
手渡されたラインの石をミーシャはまた同じようにぶつけてみる。
「あ、同じ色になった。石じゃなくて、ぶつける人の問題なのなんでなんだろう?」
「さあな?そもそも精霊石がなぜ光るかも解明されてないんだ。いいんじゃないか?害はないんだし、不思議な事なんて世の中には溢れてるしな」
「まぁ、確かに。綺麗でいいね、これ」
病の事になると突き詰めようとする森の民だが、それ以外は大らかだったようだ。不思議は不思議として素直に受け入れる。
それゆえに、不思議の塊である人ならざるものとも相性がいいのかもしれない。
その後も、定期的に光りの波紋をつくりながら進んでいくと、やがて道が平らにならされて支道も少なくなってきた。
秘密の通路の終わりを感じて、ミーシャの胸が高鳴ってくる。
「もうすぐ?」
「あぁ、そうだな」
胸の高鳴りを現して弾むようなミーシャの声に、短く答えるラインの口元もわずかに上がりリラックスしているのが見て取れた。
道幅が広がり、天井もどんどん高くなっていく。
やがて、目前に大きな木の扉が現れた。
中央に嵌められた大きな精霊石にラインが不思議なリズムで自分の手にした石をぶつける。
まるで楽器の様なキーンと響く不思議な音。
頭が揺さぶられるような音の連なりにミーシャが目を細めて耐えていると、ふいに音が止んだ。
ガチャン、と扉の向こうから何かを外す金属音がした。
そしてゆっくりと扉が開いていく。
隙間から差し込んでくる明るい光は、精霊石の柔らかな光になれた目にはまぶしくてミーシャは思わず目を閉じた。
『おかえりなさい』
次の瞬間、ふいに耳が懐かしい声を捉えた気がしてミーシャは瞳を開いた。
「おかえりなさい、ミーシャ」
まず飛び込んできたのは、駆け寄ってくるミランダの姿。
驚いて目を丸くしている間に、ミーシャは柔らかな腕に抱きしめられた。
その体越しにたくさんの人の声が聴こえる。
「やっとたどり着いたのう。待ちくたびれたわ」
「ようこそ一族の村へ」
「いらっしゃい、寒かっただろう?温かいものを用意してるからね」
知っている声も知らない声もあった。
ただその全てに言えるのは、ミーシャを歓迎する温かい言葉ばかりだという事だ。
「ミランダ、放してやれ。他の奴らに顔が見えないだろう?」
「やだ、ごめんなさい。待ち遠しかったものだから、つい」
呆れたようなラインの声と同時に、ミーシャは柔らかな抱擁から解放された。
照れたようなミランダの笑顔が一歩横にずれて、ようやくミーシャの視界が良好になる。
そこにはたくさんの人たちがいた。
その中央一歩前には、見覚えのある老人が立っている。
「雪の中、難儀だったじゃろ?まったく、ラインに任せたのが失敗じゃったわい」
ミーシャに気づかいの言葉をかけた後、チロリとその後ろに立つラインに視線を投げかけるのは、レッドフォード王国で仲良くなったネルだった。
その背後にも同じように顔見知りになった顔がいくつか見える。
その全てが笑顔を浮かべ、ミーシャを見つめていた。
多少の濃淡はあれどそのほとんどが翠の瞳に白金の髪を持っている。
(あぁ、帰ってきたんだ)
なぜか胸に強くその思いがこみ上げてきて、ミーシャは気がつけばにっこりと笑顔を浮かべていた。
「ただいま戻りました。これからよろしくお願いします!」
読んでくださり、ありがとうございました。




