8
「きもちい~、お部屋で温泉に入れるって贅沢だよね~」
ゆったりと湯船につかり、ミーシャは窓の外を眺めながらつぶやいた。
寝ぼけ眼なままでも「温泉」の言葉はしっかりと聞き取っていたミーシャは、うやむやのうちに話を切り上げてお風呂へと逃亡を図ろうとした。
昨日は野営だったため、当然入浴はしていなかった。
夕食時に飛び込んできた患者の対応でバタバタしていた為、お湯の準備もままならず体を拭くこともできていなかった。
移動は馬車に乗っているだけで季節柄汗もかいていなかったけれど、せっかく入浴できる施設があるならさっさとサッパリしたい。しかもそれが温泉だというのだから、欲求は倍増だ。
ミーシャ的には話もいち段落したことだし問題ないだろうと荷物を漁りだしたのだが、その様子にヒューゴは大きくため息をついて部屋にある扉の一つを指さした。
「風呂ならそこにあるから」
「え?」
思いがけない言葉に目を丸くしたミーシャは次の瞬間指さされた扉に飛びついた。
「部屋は小さいけど、ここの宿は全室に温泉がついてるんだってさ。源泉から吹き出す湯の力を使って二階までお湯を押し上げる仕組みらしくって、ずっとお湯が出っぱなしだからいつでも入れる。風呂好きなんだろ、ミーシャ」
はたして、飛びついた扉の向こうには小さなベンチと体を拭くための布が積み上げてあり、その向こうには湯気の立つお湯をあふれさせる湯船があった。
「すごい!贅沢!!」
お湯を汲み上げてもらう手間もなく、いつでも入れる温泉にミーシャは目をキラキラと輝かせて歓声を上げた。
「先に入っていい?入っていい⁉」
「いや、いいけど……」
そのままくるりと振り返って見上げてくるミーシャのキラキラした瞳に、ヒューゴはたじたじとしながら頷いた。
勢いに押されるように脱衣所から退散しかけて、ヒューゴはハッと振り返った。
「じゃねぇ。ミーシャ、一つ聞きたいことがあるんだけど、もしかして髪の毛染めてる?」
改めて着替えとお風呂道具を取りに行こうとヒューゴの後を付いてきていたミーシャは、ぎくりと体を強張らせた。
「……え?何、突然」
「髪の根元が色変わってきてるし、全体的にもなんか最初にあった時と変わってきてる気がするからそうなのかと思ったんだけど」
恐る恐る見上げれば、なんでびくびくしているのか分からないというように不思議そうな顔をしたヒューゴがいた。
「染粉持ってるなら染め直したら?ないなら似た色あるから使うか?」
「え……うん?」
あまりにもあっさりと提案されて、ミーシャは戸惑いながらも首を傾げた。
「似た色って、なんで染粉なんて持ってるの?」
「は?前に言ってたじゃん。兄妹設定にするつもりだったから、一応ミーシャと似た色の染粉持ってきてたんだよ。結局タイミング外して染めそびれたけど」
驚くミーシャに、ヒューゴがあっさりと答える。
補給部隊の仕事の中では雰囲気を変えるために髪型や服装を変える事がよくあったため、ヒューゴにとっては髪の色を変える事もよくある変装術の一つだった。
最もヒューゴの元の髪色は真っ黒なため他の色が乗りにくく、持ってきてはいたものの染めるのが面倒で「まあいいか」と使っていなかったのだ。
「なんで色変えてるかとか聞かないの?」
「え?それ、知らないと面倒なことになるやつ?」
恐る恐る尋ねれば、ヒューゴはいささかいやそうな顔で質問に質問で返してきて、ミーシャは再び首を傾げた。
「……どうだろう?ヒューゴが気にならないなら別にいいかも?」
『森の民』の特徴である色を隠すために染めた髪だったけれど、瞳の色は元に戻っていても誰も何の反応も示さなかったため、本当に隠すことに意味があるのかミーシャ自身も自信が無くなっていたのだ。
黙り込んだミーシャからなにを感じ取ったのか、ヒューゴはその小さな頭にポンと手を置くとサラリと髪を撫でた。
「とりあえず理由は聞かないけど、染粉あるなら元みたいに髪染めとけよ。そのために風呂がついてる部屋を借りたんだし」
「……うん。そうする」
ミーシャは、素直に頷くと、必要なものを抱えて風呂場に籠ることにした。
そもそも外界から閉ざされた村の人達を基準に考えるのが間違っているのだが、その事実をミーシャに指摘する人はいなかった。
余談であるが、海巫女を引き受けながらも外の世界にこっそり抜け出していた件のネルの友人は『森の民』の存在まではたどり着いていたのだが、下手に希望を持たせるより確証を得るまでは……と黙ったまま事故ではかなくなってしまったため、マヤに情報が届いていなかった、という経緯があった。
今、のんびり温泉を楽しむミーシャの髪は本来の色を取り戻している。
ヒューゴの指摘通り随分色落ちしていたようで、特殊な薬剤で髪を洗った後も思ったより水が濁ることはなく、風呂場を汚さずにすんだミーシャは胸を撫で下ろした。
一月ほどしか変えていなかったはずなのに、光に透ける白金色がなんだかひどく懐かしい。
(うーん、なんだかホッとするような落ち着かないような不思議な感じ……)
ふいに脳裏にレイアースがよぎる。
(母さん、なんだかずいぶん遠くまで来ちゃったよ。というか、本当ならそろそろ村についてたはずだったのに、おじさんがいろいろ寄り道するから……)
思わず脳裏の母に愚痴をこぼせばクスクスと笑う幻影が見えて、ミーシャも楽しんでいたじゃない、と声が返ってきそうだと思ったら、ミーシャは知らずに微笑んでいた。
お湯の中で揺れる髪先から視線を外に戻して、ミーシャは微かに首を傾げた。
明日越えるはずの山の頂上付近にうっすらと雲がかかっているように見えたからだ。
王都に向かう道程で一番の難所とされている山は、ミーシャが暮らしていた山より標高は低いけれど、ごつごつした岩肌が目立ち、傾斜も急な所が多いため道を通すのが大変だったと聞いていた。
「お天気、崩れそう?」
見つめる先で、雲はどんどんその厚みを増していった。
山の天気は変わりやすいとよく言われるが、山暮らしが長かったミーシャは、何度もその言葉の意味を経験していた。
先ほどまで青空が見えていたのに、急に土砂降りの雨が降ることもよくあるのだ。
「明日、出発できるのかしら?」
ふとつぶやいたミーシャの言葉を後押しするように、風に揺らされた窓がカタリと音を立てた。
ミーシャが入浴している間に、情報収集でもしようかと宿の外に出ていたヒューゴは、思いがけず有力な情報を手にいれる事に成功し、機嫌よく宿へと足を進めていた。
(ミーシャの奴、喜ぶかな?)
村にある雑貨屋の主人が数日前に王都へと買い出しに行った際、海賊船が捕縛されたという噂を聞いてきたというのだ。
結構な大捕物だったらしく、大騒ぎになったらしい。
雑貨屋の主人が王都についた時には数日たっていたそうで、残念ながら海賊たちを見る事はできなかったけれど、港につながれたボロボロの海賊船や修繕中の客船は見る事ができたそうだ。
その上、商人や漁師たちを中心に「小さな女の子が海に落ちて、その行方を捜している」という噂が海賊たちの捕り物話に混ざって流れていた。
(どう聞いても、ミーシャの事だろう)
ミーシャが「おじさんが探している」と言っていたのを聞いた時、ヒューゴは半信半疑だった。
大きな客船が航行するような沖の方で船から落ちて、命が助かるのは奇跡的確率だ。
大抵の人間が死んだものと諦めて、わざわざ時間と労力をかけて捜索するとは思えなかったのだ。
しかも、王侯貴族でもない一個人である。
(だけど、本当にミーシャのおじさんは探してた)
不可能と思える事を諦めないその姿が、妹と自分の関係に重なって感じて、ヒューゴはなんだか心が浮き立つのを感じた。
残念ながら雑貨屋の主人の意識は滅多にない大捕り物に向いていたらしく、捜索の噂はそれ以上詳しく出てこなかったけれど、詳細は王都につけば見つける事ができるだろう。
「いい知らせだぞ、ミーシャ」
無意識に軽くなる足取りのまま宿の扉を開けたヒューゴは息をのんだ。
部屋の窓辺に、見慣れないキラキラとした白金の色を見つけたからだ。
まるでそれ自体が柔らかな光を放っているかのように見えるそれは少女の長い髪だった。
驚いたようにふりかえった動きでサラリと広がり、光を振りまく。
丸く開かれた瞳は鮮やかな翠。
それが、ヒューゴの姿を認めた瞬間、柔らかにほころぶ。
「あぁ、驚いた。おかえりなさい、ヒューゴ」
届いたのはこの数日のうちにすっかり耳に馴染んでしまった透明感のある高い声。
「……ミーシャ?」
思わず伺うように名前を呼べば、目の前の少女がコテリと首を傾げる。
「なぁに?」
不思議そうな顔はよく見れば見慣れたもので、さらに服装だってさっきまで着ていたエラのお下がりとは違うものの、見たことのある物だ。
ただ、髪色がよく見かける茶色から珍しい白金へと変化しているだけで……。
「本当はそんな髪色してたんだな。雰囲気違うから、驚いた」
ポロリとヒューゴの口から言葉がこぼれ落ちる。
「すごく綺麗だな」
ひねくれもののヒューゴにしては何の含みもない素直な称賛に、ミーシャの目が驚いたように見開かれた。頬がほんのりとバラ色に染まっていく。
「ありがとう。お母さんと同じ色なんだ~」
髪先を指でからめとりながらはにかむミーシャに、自分の言動を思い返したヒューゴはなんだか自分まで照れ臭くなったけれど、変な空気を振り切るようにズカズカと室内へと足を進めた。
「で?結局染めるのやめたのか?」
「あ、それね。できれば手伝ってほしくて!」
手にしていた荷物を自分の使う予定のベッドに放り投げながら話題を変えようとしたヒューゴに、ミーシャはパチンと手を叩いた。
「は?自分でできないのか?」
首を傾げたヒューゴに、ミーシャが唇を尖らせる。
「だって、この部屋鏡がないんだもん。前の時はおじさんが手伝ってくれたし……」
元の色に戻すのは全体的に薬剤を馴染ませてから染髪するだけだったため、入浴のついでに1人でも可能だったが、染色するには髪だけにむらなく薬剤を塗り付ける必要がある。
鏡なしでは地肌につけたり塗りそびれてまだらになる自信があったミーシャは、手を出しあぐねていたのだ。
結果二度手間になるくらいなら、多少嫌味は言われるかもしれないけれど素直にヒューゴを頼ろうという結論に至ったのだと、ミーシャは必死に説明をした。
「前は小さいけど手鏡を持っていたんだけど、船に置いてきちゃったし……」
しょんぼりと肩を落としたミーシャに、ヒューゴはため息をついてからガリガリと自分の頭を掻いた。
「しょうがねぇなぁ。染粉はあるのか?」
「うん!一回分だけど、薬箱に入れてたの。作り方もわかるから足りないなら調合もできるよ」
手伝いを引き受けたヒューゴに、ミーシャは嬉しそうにピョンと跳ねると、いそいそと机の上に染髪用の薬剤と道具を並べ始めた。
「人に髪梳いてもらうの久しぶり。ヒューゴ、上手ね」
薬剤の説明を聞いた後、ヒューゴが染色の前準備としてひどく指通りの良い髪を軽くくしでといていると、ミーシャがその慣れた手つきに目を丸くした。
「ミルの髪整えるのも、俺の仕事だったからな」
何でもないように答えながらも、ヒューゴの手が止まることはない。
黒髪が多い一族の中で珍しくミルの髪は茶色に近い色をしていた。
幼い頃はさらにそれがさらに顕著で光に当てるとキラキラと輝き綺麗だったけれど、他の家族に比べてこしのない細い髪はもつれて絡みやすかった。
朝起きたら毛玉ができていることもよくあり、複雑に絡んだ髪を綺麗にするのは根気のいる仕事だったため、一番下のヒューゴに押し付けられたのだ。
「髪も結えるぞ?やってやろうか?」
久しぶりに触れた自分以外の髪の感触に懐かしさを覚えて、ヒューゴがにやりと笑った。
「……なんか、嫌な予感がするから、遠慮しときます」
「おや、残念」
首を横に振るミーシャに笑いながらも、ヒューゴの手は器用に動き、ミーシャの髪に薬剤を塗り付けていく。
「そういえば、王都で海賊を捕まえた客船が入港したって話題になってるみたいだぞ」
「本当?!」
髪を染めながら、ふと思い出したように告げられた言葉に、思わず振り返りそうになったミーシャの頭が、ガシッと押さえられた。
「染粉が飛ぶだろ。動くなよ」
「……はぁい」
冷静に制止されて、ミーシャはシオシオと顔をもとの位置に戻した。
先ほどの勢いで振り向けば、ヒューゴの言う通り、振り回された髪から薬剤が飛び散って大惨事になっていたのは確実だった。
「海賊の話題の方が大きくて詳しい情報はなかったけど、お前を探してるらしい話もあったから、王都についたら、意外とすぐに合流できるんじゃないか?」
「そうかな……。そうだと、いいなぁ」
暇を見つけてはこまめに鳥笛を吹いているのだが、一向にカインどころか他の伝鳥達も降りてくることはなくて気落ちしていたミーシャは、ヒューゴの言葉に小さく唇をかみしめた。
何の根拠もなく、村から出たらすぐにライン達に会えるような気がしていたミーシャにとって、長引く一人の時間は心に暗い影を落としていた。
ヒューゴがともにいるとはいえ、それとこれとは別なのである。
「おじさん、元気にしてるかな。レン、私のこと忘れてないかしら……」
ミーシャから思わずこぼれた弱気な言葉に、ヒューゴは一瞬目を丸くした後、ペシリと目の前にある小さな頭をはたいた。
「大丈夫に決まってるだろ。変な心配してないで、終わったから髪洗ってきな。夕飯にしようぜ」
「……痛いよ。ヒューゴ、暴力反対!」
そっけない言葉で背中を押されたミーシャは、唇を尖らせて文句を言いながらも、振り返ることなくいそいそと風呂場の方へと足を向けた。目尻に浮かんだ涙を見られたくなかったのだ。
その背中を見送ったヒューゴは適当な布で手に残った薬剤をぬぐい取る。
「……これ、変な匂いがしなくていいな。ていうか、むしろいい香りがする?」
指先に残る香りを確認しながら、ヒューゴは首を傾げた。
ヒューゴの持つ染粉は独特の酸っぱいような刺激臭がするし、皮膚につくとわずかではあるがヒリヒリとした痛みを残したが、ミーシャに渡された染粉は手についても特に気になることはない。
「こんな薬でも、ミーシャの方が優れてるんだな」
その事実にヒューゴは一瞬眉をひそめた後、茶色に染めても艶を失くしていなかったミーシャの髪を思い出す。
普通、染粉を使うと髪が痛んでどこかのっぺりとした印象になる。それがなかったから、最初のうちはミーシャの髪が染められているものだとヒューゴは気づかなかったのだ。
「これの作り方、聞いたら教えてくれねぇかな」
自分の利になるものなら、敵対するよりは取り込むほうがいいと割り切って、ヒューゴは後でミーシャに交渉してみようと心のメモの描きとめる事で、胸のうちに浮かんだ微かな羨望を飲み込んだ。
「雨、降ってきたね」
「あぁ、風も強そうだ。今夜は冷え込みそうだし、もう一枚毛布貰ってくるか?」
宿の食堂で夕食をとった後、部屋に戻ってきた二人は顔を見合わせる。
賑やかな食堂ではさほど気にならなかったけれど、部屋に戻ると窓をうつ風雨の勢いはかなりのものになっていた。
「まぁ、この時期の天気が変わりやすいのはいつもの事だし、大丈夫だろう」
明日の事を気にするミーシャに軽い調子で答えながら、ヒューゴは自分のベッドから毛布をとるとミーシャの方に投げた。
「俺は予備の毛布をもらってくるから、それ使っていいぞ。これ以上、風がうるさくなる前に眠っちまえよ」
「……はぁい。おやすみなさい」
さっさと部屋を出ていく背中を見送りながら、ミーシャは小さくつぶやく。
おそらく、ヒューゴはしばらく戻っては来ないだろうとこの数日の経験からミーシャは悟っていた。
ミーシャの安全を確保すると、ヒューゴは情報は命とばかりに時間の許す限り動き回っている。
適当を装いながらも実は真面目なヒューゴらしいとは思うけれど、キチンと体も休めてほしいとミーシャは心配していた。
同じような行動をラインもしていたけれど、ヒューゴのように全力で動いている風ではなく、どこか余裕があった。
「……せめて宿の中だけにしてくれたらいいけど」
窓の外は激しさを増している。
外に出たら、あっという間にびしょ濡れになってしまいそうだ。
「まぁ、止めたってはぐらかされるだけなんだろうけどね」
小さくため息をつくと、ミーシャはベッドにもぐりこんだ。
ついには遠くで雷迄聞こえ始めたから、ヒューゴの言う通り、早めに休んでしまおうと考えたのだ。
しっかりと布団にくるまるとミーシャは目を閉じた。
遠雷を数えているとすぐに眠気はやってきた。
(……明日は晴れますように)
読んでくださり、ありがとうございました。




