5
「ミーシャ」
助けを呼ぶ声にとっさに駆けだそうとしたミーシャの腕を、ヒューゴが掴んで止めた。
「なに?どうして止めるの?」
訳が分からず眉をひそたミーシャは、次の瞬間ハッとしたように目を見張る。
「そうよね!薬箱持っていかなきゃ、二度手間になっちゃう。私ったら慌てて、だめね」
「ちがう、そうじゃない」
何も持たずに飛び出そうとした事に気づいて少し恥ずかしそうに頬を染めるミーシャに、ヒューゴが首を横に振る。
「目立つことをするな。今後がやりにくくなる可能性がある」
冷静な一言に、ミーシャは目を見開いた。
一瞬言われていることが理解できなったのだ。
「なにを言っているの?」
しかし、時間と共にヒューゴの言葉の意味がじわじわとしみこみ、ミーシャは険しい顔でその手を振り払った。こみ上げる怒りで意識が白く塗りつぶされていく。
理性のどこかでは、ヒューゴの言っている事も一理あると分かっていた。
王都に向かう旅路は始まったばかりだ。
ここで力を示せば、下心をもってすり寄ってくる人間も出てくるかもしれない。
そうなれば、それを振り切る為の余計な手間もあるだろうし、下心どころか悪意を持つ者を引き寄せてミーシャをいいように使うために攫われる危険だってある。
いつも守ってくれていた大人たちは側に居ない。
唯一共に旅するヒューゴだけが頼りの中、目立つ行動は避けるべきだし、護られる立場の人間が逆らうなど言語道断だろう。
それでも……。
悲痛な声で助けを乞う男の方にちらりと視線を向けてから、ミーシャは立ちふさがるヒューゴを見上げた。
「私の薬師としての知識は、困っている人のためにあるの」
まるで凍える氷のように冷たい声がミーシャの口からこぼれ落ちる。
「幼い頃からずっと、人を救うために母に鍛えてもらったのよ。それなのに起こってもいない何かのために、救えるかもしれない命から目をそらし隠れていろって言うの?」
冷たい声とは裏腹に、まるで燃えるような瞳が怒りをたたえてヒューゴを睨みつける。
そこにはいつものほんわかとした少女ではなく、別の何かが立っていた。
「っ!!」
翠の光に射抜かれたような気がして、ヒューゴはびくりと体を竦める。その瞳に逆らうなと、本能が警告しているのを感じた。
「どいて」
体が強張ったように動けないヒューゴの体を押しのけて、ミーシャは自分の荷物から薬箱を取り上げる。
「邪魔するなら、許さないから」
そして未だ動けずにいるヒューゴの横をすり抜けて、ミーシャは今度こそ馬車の方へと駆けだしていった。
「あいつは……なんだ?」
呆然とその背中を見つめながら、ヒューゴがポツリとつぶやいた。
ミーシャが優れた薬師だという事は分かっているつもりだった。
マヤの目が改善していくのを見ていたし、それゆえに妹の件でも希望が持てたのだ。
だが、それだけだ。
幼い容姿からは信じられないほどの知識を持っているしマヤ曰く調薬の腕も抜群だというが、普段のミーシャはヒューゴのたわいのない悪戯にむきになったり、なんてない食事にも目を丸くして喜んだりと、どこにでもいる少女だった。
そのはずなのに。
先ほど、ヒューゴはミーシャに睨みつけられて動くことができなかった。
日々鍛錬を欠かさず、それなりの修羅場も潜り抜けたことのあるはずの自分が、幼い少女の気迫に負けたのだ。
「あの……眼」
ミーシャの特徴の一つであるこぼれ落ちそうなほど大きな翠の瞳は、皮肉屋のヒューゴですら、純粋に見惚れる事があるほど綺麗だった。
まるで宝石のように美しく、鏡のように少女の心を移してコロコロと表情を変える。
だが、あの瞬間。
翠の瞳は言葉で表現できない不思議な光りを宿していて、ヒューゴの体と心を縛り付けたように感じた。
「いったい何者なんだよ」
それは、ヒューゴが妹を救ってくれるかもしれない少女という以上にミーシャを意識した瞬間だった。
「失礼します。私は薬師です。息子さんを診させてください」
木箱を抱えて駆け寄ってくる少女を、男は涙で霞む瞳で見た。
ところどころに焚かれた焚火の炎が少女の髪をキラキラと輝かし、こぼれ落ちそうなほど大きな翠の瞳が真っ直ぐに男を見つめ返している。
「薬師……様?」
「はい」
目の前に立つ少女は、息子とそれほど変わらぬ年頃に見えた。
だが、その幼げな容姿に関わらず、まっすぐに立つその姿は不思議と大きく頼もしく感じた。
「お願いします!息子を……息子を……!」
気がつけば膝をつき懇願していた男の肩を、少女がそっと叩く。
「力を尽くします。何があったのか教えていただけますか?」
穏やかに促され、男は何度も何度も頷いた。
「これは……」
素早く荷台に乗り込んだミーシャは、山のように積まれた野菜の間にかろうじて作られた隙間に横たえられた少年を見て眉をひそめた。
「いてぇ……いてぇよぅ……」
体を丸めて自分自身を抱きしめる様にした少年は、うわ言のようにつぶやいている。
しかめられた顔は赤く痛みに耐える様にギュッと目を閉じて、全身が汗にぬれていた。
ときおりびくびくと痙攣し、呼吸も荒い。
口元には嘔吐したらしい跡も見られた。
「いつからこの状態ですか?」
素早く少年の全身状態を観察したあと、ミーシャは少年の首筋に手を当てて脈を計った。
汗をかいてしっとりとしているのに、予想外にそれほど体は熱くなく、ミーシャは一瞬眉をひそめる。
「昼飯を食べるまでは何ともなかったんだ。体がなまるとそこら辺を駆け回るくらい元気で……。それなのに馬車を動かしてからしばらくしたら体が痛い気持ちが悪いって言いだして。飯も全部吐いちまった」
荷台の縁に縋り付くようにこちらを見ている男が半泣きで訴える。
「昼食はなにを食べましたか?」
「今朝、出る時に母ちゃんが持たせたパンと果物だ。同じものを俺も食べたけど、変な味はしなかった……と、思う……」
食中毒を疑ったミーシャの質問に、男は素早く答えた。痛んだ食事が腹痛や下痢を引き起こすことは誰でも知っている。男も子供に食べさせるものは気を付けるように妻から口うるさく言われていたし、十分に注意しているつもりだった。それでも自信がなさそうに語尾が小さく消えるのは、目の前に苦しんでいる息子がいるからだ。
「そう……。少しお腹触るね」
苦痛を耐えるためか丸まろうとする少年の体を優しくあお向けにすると、ミーシャは腹部を何か所か押してみた。
痛みの強い場所を探ろうとしての行動だったが、硬直は認められるのに圧痛はないようでミーシャは違和感に眉を寄せた。
「聞こえますか?どこが一番痛いか、答えられるかな?やっぱりお腹?」
朦朧としている様子の少年の顔に手をあて覗き込みながら、ミーシャはゆっくりとした声で話しかけた。もう片方の手では、腹部をゆっくりと撫でる。
痛みを耐えるように閉じられていた少年がミーシャの声にこたえる様にうっすらと開かれた。
涙で濡れた瞳がしっかりとミーシャを捉える。
「おなか……も……。ほかも……ぜんぶ………いたぁ…………ぃ」
ポロポロと涙をこぼしながら荒い息の中必死に答えると、それが限界だったようでまた体を横にして丸まってうめきはじめる。
「息子はどうなんだ?やっぱり飯が悪かったのか?」
「そうですね……」
すがるように声をかけてくる男をよそに、ミーシャはしばらく考え込んだ。
悶えるほどの腹痛に嘔吐、痙攣に意識混濁。
一見、急性胃腸炎のように見えるが、ミーシャの薬師としての勘が違和感を訴えていた。
(お腹だけじゃない痛みの訴え、圧痛がないのはなんで?それに発熱がないのも気になる。……何を見落としているの)
もう一度、しっかりと少年を観察して、ミーシャはふと少年の足に目をとめた。
苦痛を耐えるために身をよじり丸まろうとする中で、妙に片足が伸び切って動きが悪いように見えたのだ。
(もしかして)
ミーシャの脳裏に一つの可能性が浮かび上がる。
「昼の休憩の時、走り回っていたと言っていましたが、もしかして靴を脱いでいた?」
「へ?どうだったかな……?」
唐突なミーシャの質問に男は首を傾げた。
「そういえば近くに小さな小川があって、そこに足を突っ込んでたな。水も冷たくなってきたし風邪をひくから止めろと止めたんだが」
「ちょっと失礼」
男の言葉を聞いたとたん、ミーシャは少年の靴をはぎ取った。
そしてズボンの裾もまくり上げ、丹念に調べる。
「あった。やっぱり……」
少年のくるぶしの少し下にそれを見つけて、ミーシャは小さくつぶやいた。
「なんだ?いったい何があったってんだ?!」
突然のミーシャの行動にあっけにとられていた男が、小さなつぶやきを拾ってその手元を覗き込んだ。
針でついたような小さな赤い跡がポツリと一つ、そこにはあった。
「なんだ?これは」
「これはおそらくアカゲグモの噛み跡です」
気にしなければ見逃してしまいそうなほど小さな跡だ。首を傾げる男に、ミーシャは素早く馬車から降りながら答えた。
「アカゲグモ?」
「一センチにも満たない小さなクモで、毒があります。普段は臆病で大人しいクモですが、不用意に触ったり踏んだりすると噛みつくことがあるんです。川べりの草が茂った砂利地でよく見かけるので、おそらく遊んでいる時に知らずに踏みつけるか何かして噛まれたんでしょうね」
説明しながらも、ミーシャの手はせわしなく動き、調薬を開始するために薬箱の中から道具や薬草を取り出していく。
「すみません。手元が見えにくいので、誰か明かりを掲げてくれませんか?」
秤を組み立てながら時間が惜しくて顔もあげずに声をかけると、フッと手元が明るくなった。
礼を言うために顔をあげると、そこにはランプを手にしたヒューゴが立っていた。
辛うじて見える口元はしっかりと引き結ばれているため、ミーシャの行動を全面的に受け入れたわけではないのだろう。それでも、希望にこたえて動いてくれたヒューゴに、ミーシャはわずかに口角をあげる。
「ありがとう」
視線を手元に戻しながら短く礼を言ったミーシャに答える声はないけれど、秤の細かいメモリが見えやすいようにランプの位置がわずかに調整されただけで充分だった。
「そんな。息子が苦しみだしたのは昼めし食ってから一時間以上経ってたんだぞ?そんな恐ろしいクモに噛まれたなんて……」
「アカゲグモに噛まれた時は、ほとんど痛みを感じないんです。赤ちゃんが噛まれたとしても泣きださないほど微かな刺激と言われるくらいで。それから1時間程かけてじわじわと痛み始めるため、原因を特定するのが困難になるのですが、今回はすぐわかって良かったです」
信じられないと首を横に振る男に、ミーシャは淡々と説明した。男の口から言葉にならないうめき声がもれる。
「毒って……、そんな……。息子は死んじまうのか……?」
「死にませんよ」
ミーシャの隣にへたり込み、絶望の声を漏らす男に、薬草の粉を計ろうとしていたミーシャは顔をあげるときっぱりと否定した。
「本来、アカゲグモの毒はそんなに強いものではないのです。人によっては、症状が出て一時間もすれば痛みも治まるほどで。ただ、原因は分かっていないのですがまれにひどい症状を起こす人がいて、息子さんのように全身に強い痛みや吐き気などを感じて苦しむことがあるんです。でも、毒消しを飲んで安静にしていれば痛みは治まるし、変な後遺症も残ることはないです」
ミーシャは顔色の悪い男をじっと見つめて説明すると、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。すぐに良くなりますよ」
ふわりと柔らかに溶ける翠の瞳に見つめられて、男は恐怖に震える体から力が抜けていくのを感じた。
目の前の少女に託しておけば息子の命は助かるのだと、なぜか安堵感が沸き上がってくる。
それは、きっぱりと言い切られた言葉や自信ありげな堂々とした態度もだが、なによりも真っ直ぐに見つめる瞳の力強さのおかげだった。
その瞳にごまかしや嘘は一つも見当たらなかったから……。
「よろしくお願いします」
だから、自分の半分も生きていなさそうな少女に向かい、男は何の気負いもなく素直に頭を下げた。
突然の男の行動に、ミーシャは目をパチパチと瞬いた後、少し面映ゆそうな表情でコクリと頷いた。
「はい。お任せください」
そうしてミーシャは今度こそ、必要な薬をつくる為に調薬に没頭するのだった。
「少し落ち着いてきたみたいね」
静かに寝息を立てる少年を見て、ミーシャは小さく微笑んだ。
毒消しと共に痛みを抑えるための薬と軽い睡眠薬を処方してから、一時間が経とうとしていた。
正直睡眠薬は余計かとも思ったけれど、アカゲグモの毒には痛み止めが効きにくい事がある為、毒消しが効き始めるまでいっそ眠っていた方がいいかと判断したのだ。
「それにしても、話には聞いていたけど本当に重症化する人がいるんだな……」
額に浮かんでいた汗をそっとぬぐいながら、ミーシャは小さくつぶやく。
実はアカゲグモ自体はそれほど珍しいクモではない。
極寒の地は苦手とされているが、ユス山脈を越えて北の方に行けば生息数は激減するらしいがカーマイン大陸の南方なら普通に生息しているため、ミーシャの住んでいた近辺でも年に数件は噛まれる事故が起きていた。
症状が軽微の場合は「なんか節々が痛いな」ですんでしまうため、薬師や医師のもとに連れてこられない場合も入れたら、もっと多くの人が噛まれているのではないかと言われている。
ミーシャも何度か患者に遭遇したことがあったけれど、「噛まれた」とはっきりと分かっている人は半数にも満たなかったし、少年程重症化している患者に遭遇したのは初めてだった。
何度か実際に噛まれた人を見ていたこと、母親が治療しながらこういう症状もあると教えてくれていなければ、気づくことはできなかったかもしれない。
処置が遅ければ、まれに命を落とすこともあるので、気づくことができてよかったとミーシャはホッと胸を撫で下ろした。
少年の呼吸が落ち着いていることをもう一度確認して、ミーシャは静かにテントから外に出る。
一時騒然とした野営場は、すでに落ち着きを取り戻していた。
明日も早いため、早々に休んでいる人も多い様で人影も少ない。
「大丈夫とは思いますが、こんばんは隣で気を付けてあげてくださいね。また、明日の朝見に来ます」
「ありがとうございます」
テントは小さく一緒に中に入ることができずに入り口で待っていた父親は、ミーシャに静かに頭を下げると入れ替わるようにいそいそと中に入っていった。
安らかに眠る姿を見ながら、大切な息子を失くさずにすんだ幸運を噛みしめるのだろう。
「あぁ~、疲れた」
その姿がテントの中に消えるのを見送って、大きく伸びをしたミーシャの手からフッと薬箱が取り上げられる。それは、父親と共にミーシャの治療が終わるのを待っていたヒューゴの仕業だった。
「持つ」
短い言葉と共にさっさと歩き始めてしまう背中を、ミーシャは慌てて追いかける。
「止めたこと、悪いとは思ってないからな」
その背中にミーシャが声をかけようとするより先に言葉が降ってきた。
「今後を考えれば、俺は間違った事は言ってない」
振り返らぬままぶっきらぼうに告げるヒューゴに、ミーシャはクスリと笑う。
「そうね。でも私も悪いことしたとは思ってないし、同じことがあれば何度だって飛び出すと思う」
振り返らない背中に、ミーシャもまた独り言のように小さな声でつぶやいた。
救いを求める声がある限り、ミーシャは考えることなく走り出すはずだ。
それは本能といってもいいほどの衝動で、ミーシャ自身にも止める事など出来ないのだろう。
「……そうかよ」
先を歩くヒューゴはため息を一つ落とすと、辿り着いた自分たちのテントの前でようやく振り返った。
その場に沈黙が落ちる。
しばらく無言で見つめあっていた後、最初に動いたのはヒューゴだった。
じっと立ち尽くすミーシャの胸に手にしていた薬箱を押し付ける。
「それがお前の絶対に譲れないものなんだな?」
何かを伺うようにこちらを見つめるヒューゴに、薬箱を受け取ったミーシャは、ただ一度コクリと深く頷いた。
「……先に寝ろ。俺はもうしばらく起きてるから」
もう一度、大きくため息をつくとヒューゴは、ポンとミーシャの頭に手を置いた後だいぶ炎の小さくなった焚火の側へ座り込んだ。そのまま適当な枝で燃え残りをいじり始める。
「おやすみなさい」
その背中をしばらく見つめていたミーシャは、ふっと目を伏せると大人しくテントの中へと入っていった。
読んでくださり、ありがとうございました。




