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「ミーシャ、こっちだよ」
マヤと共に社への山道を登っていたミーシャは、道半ばでマヤに手招かれた。
まるで天然の生け垣のようにみっしりと木々が生えて、茂った枝葉で先を見通すことはできない。
しかし、ミーシャの戸惑いなど気にせずにマヤは茂みをかき分けてその奥へと消えていった。
「え?ババ様⁈」
ミーシャは目を瞬いた後、急いで追いかける。
「え~い!ババ様が消えたんだし、行けるはず!」
人の通れる隙間などなさそうに見えるこんもりとした茂みに、一瞬迷った後ミーシャは思い切って腕をつき入れてみた。
「すごい。あっさり通れたうえに、通り抜けた跡も残ってないわ」
気合を入れてかき分けようとした腕があっさりと奥まで突き通り、勢いのままに向こう側へとすっぽりと抜けたミーシャは、突然開けた視界に目を白黒させた。
思わず振り返るとそこにはやはり緑の壁が立ちふさがっている。
「面白いだろ?人が抜けれるように細工してあるのさ」
生垣の向こうで待っていたマヤが、驚いているミーシャを見てクツクツと笑う。
「半歩ほどもずれたら、隙間はないから、気を付けるんだよ?」
「……本当だ。不思議……」
マヤの言葉にミーシャが立っている位置を50センチほど横にずれて手を伸ばしてみると、しっかりと絡み合った枝葉が先をふさいでいた。
緑の壁を抜けられる隙間は人一人分ほどの幅しかなく、正確な場所を知らなければ通り抜ける事は不可能だった。
いろんな木が巧妙に配置され人の手が入っているとは露とも感じさせない、見事な仕事に、ミーシャは感嘆のため息をついた。
「ババ様が細工したの?」
「もともとは補給部隊の連中が道をふさぐのによく使う手なんだけどね。私は無駄に長生きしているから、余計な知識も多いのさ」
クツクツと笑いながら、マヤは歩き出した。
(それって、道をそれると迷子になるから?それとも、重要な場所に気づかれないようにするためにあえて迷子になるように誘導するため?)
マヤの背中を追いかけながら浮かんだ疑問を、ミーシャは口に出すことはしなかった。世間には、知らない方がいい真実というものがあるのだ。
「どこに行くの?」
「いくら人気がないからって正面からあんたを社の中にいれて万が一誰かに見られたら面倒だからね。別の道から入るんだよ」
人一人がやっと通れるような細い獣道が笹薮の中をひっそりと続いていた。
あまりにも藪が深いため、慣れない人間ならすぐに道を見失ってしまいそうだが、マヤは迷う様子もなくどんどんと進んでいく。
「もともとは山全体に張り巡らされた大きな洞窟を利用しているんだ。探せばいろいろな支道が隠れてるんだよ」
なんでもない事のようにうそぶきながら、マヤの足でゆっくり進む事10分弱。
再び茂みをかき分けると、洞窟というより少し大きめのひび割れと言いたくなるような隙間が現れた。
小柄なミーシャでも体を横にしないと入れないような小ささだが、マヤは意外な素早さでするりと中へ入りこんでしまった。
「もう。置いていかないでくださいよ」
ミーシャは小さくぼやきながらも、二回目なのでためらいなく後を追いかけていく。
岩肌に体をこすりつけそうになりながら十メートルほど入ったところでポンっと広い空間に抜けた。
「おや、早かったね」
抜けた先に置いてあったらしいランタンに火を灯しながら、マヤがニヤリと少し人の悪い顔で笑った。
先の見えない隙間に体をねじ込むことをためらって、辿り着くのにもう少し時間がかかると予想していたのだ。
「だって、ババ様が私をだましてひどいことする理由もないですから。とはいえ、少しは説明してから動いてほしいですけどね」
少し唇を尖らせて苦情を言うミーシャに、マヤは少し目を見張った後笑いだす。
「そりゃ、悪かったね。このまま少し行ったら巫女達の居住空間に出るんだよ。ノアはもうほとんど寝たきりだから、直接部屋に訪ねるよ」
広いとは言ってもそれは今までと比べてというだけで、二人横並びにすすめるほどではない。
ランタンで足元を照らしながら歩き出したマヤの背中に、ミーシャは大人しく付き従った。
しばらく進むと通路が木の板でふさがれていた。
「あ、私が」
「横にずらしとくれ」
マヤが板を動かそうと手を伸ばすのを見て、ミーシャは慌てて隣をすり抜けて板に手を伸ばす。
「お待ちしていました」
予想していたより軽かった板に肩透かしを食らいながらも、マヤに言われたとおりに横にずらすと、光が差し込んできた。小さなランタンの明かりに慣れていた目は、突然の光に対応できず、ミーシャは目を細めた。
「おや、わざわざお出迎えかい?」
「はい。そろそろおいでになる時間と思って」
そこにはマヤの持つものの倍以上はある大型のランタンを掲げたミルが立っていた。
ふわりとほほ笑むミルの姿は、シンプルなワンピースだった昨夜とは違い、白地に青い糸で波のような刺繍を施された華やかなドレスを着ていた。
背中をさらしたホルターネックのワンピースの上に袖口の広い長袖の長衣を羽織ったスタイルは独特で、高く結い上げられた髪がすっきりとした首筋を強調している。
「ミーシャさんも、昨夜はありがとうございました」
「いいえ。今日はよろしくお願いします」
たおやかな仕草で頭を下げるミルに、ミーシャも慌てて挨拶をすると、その横をさっさとマヤがすり抜けていく。
「挨拶はそれぐらいにしておくれ。ノアが待ってるんだから、サッサと行くよ」
「「はい」」
こちらに見向きもせずに歩み去るマヤに、二人の少女は顔を見合わせた後慌てて先を行くマヤの背中を追いかけた。
せかせかと前を進むマヤの後を付き従いながら、ミーシャはこっそりと辺りを観察した。
先ほどまでのほとんど手の入れられていない細い洞窟と違い、今歩いている通路は地面も真っ直ぐに整えられて細かい砂利が敷き詰められ、壁も滑らかに削られて手すりが備え付けられていた。
等間隔に燭台が備え付けられており、光の差さない洞窟の中でも苦労することはなさそうである。
もっとも今は火が点されていないため、マヤとミルの持つランプの明かりが頼りではあるが……。
「ここは海側にある祈りの間と居住区をつなぐ通路の途中になります。お二人が来られた通路は非常時の抜け道で、昔ババ様が先々代の海巫女様と共に作ったそうです」
ミーシャの隣を並んで歩くミルがなんだか楽しそうに微笑む。
「あの通路からこっそり抜け出して、先々代の海巫女様は、外の世界を見て回っていたそうです。その間、ばれないようにババ様は海巫女様のふりをして誤魔化していたんですって」
「余計なことまで言うんじゃないよ、ミル」
くすくす笑うミルに、マヤの声が飛ぶ。
「あら。だって、ババ様達が教えてくださったのではないですか。どんな冒険譚よりもワクワクするお話ばかりで、私、大好きなんです」
少しだけ唇を尖らせて言い募るミルの瞳には憧れの光が煌めいていた。
自分と同じ海巫女ながら、自由に外に飛び出した先々代の海巫女はミルのあこがれだった。
「まったくあんたもノアも、他人事だから笑うけど、当時のあたしは大変だったんだよ」
眉間にしわを寄せていやそうな顔をしみせながらも、ほんの少しだけマヤの口角は上がっていて、その思い出が嫌な事ばかりではなかったことを示していた。
二人のやり取りを聞きながら、ミーシャもなんだか楽しい気持ちになってくる。
まるで孫と祖母のような気やすいやり取りに二人の関係が伝わってきた。
「なんだか、私も興味がわいてきました。今度、その冒険譚、ぜひ教えてくださいね」
「喜んで!とっても楽しいんですよ」
「おやめ!」
そんな話をしている間も三人の足が止まることはなく、やがて洞窟の壁にいくつもの扉が並ぶ区画へとたどり着いた。
「こちらへどうぞ」
そのうちの一つをミルが開くとそこは土間になっていた。
招かれるままに靴を脱げば、すぐに囲炉裏が据えられた部屋があった。
(煙は何処に抜けるのかしら?)
思わず上を見上げれば、外へと煙が抜ける様に囲炉裏の真上に穴が開いている。
もともとあった亀裂を工夫したのかあえて人工的に開けたのかは分からないが、それが途方もない労力であった事だけは確かだ。
(もともとお姫様が住んでいたとしたら、それだけの手は加えられているって事かしら?)
「ミーシャ!なにをしてるんだい?こっちだよ」
思わず過去に思いをはせるミーシャをマヤが呼んだ。
囲炉裏の部屋の奥、引き戸を開けて半分体を入れながらも、不思議そうにこっちを見つめるマヤに、ミーシャはわずかに頬を染めた。
ここまで訪ねてきた本懐を忘れ、思考を飛ばしていた所を見られて、少し恥ずかしくなったのだ。
急いで後を追いかければ、困った子供を見るような顔を向けられてしまい、さらに恥ずかしくなるが、マヤはそれ以上何も言わず、先にすすんだ。
三畳ほどの狭い前室を経て、もう一枚引き戸を開ければ、そこは今日の目的地。
ノアの住む居室だった。
「ノア、起きているかい?」
「……どうぞ」
柔らかな声音で声をかけ、マヤが静かに戸を開けると、囁くような微かな声が返ってくる。
小さなろうそくだけが揺れる薄暗い部屋の中、中央に引かれた布団からゆっくりと体を起こす人影があった。
「ノアさん。無理しないで」
ランプを前室へと置いて、起き上がるのを助けるためにミルが急いで部屋に駆け込みその背中を支える。
「ありが……と………」
小さな声は、かすれて聞き取りにくかった。
それに、微かにもつれたような発音から、ミーシャはその人が声を出すことも苦労している事に気づく。
そんな状況でも、助けに礼を言う事を忘れないその人柄に、ミーシャはマヤが心を痛める意味を知った。
(とても強くて、優しい人なんだわ)
苦境の時にあっても人を思いやれる人間は一握りだと、ミーシャは知っていた。
まして、理不尽に人生を病によって歪められて、自由に外を歩く事もできない隔離されたような生活の中、歪まずにいられる方が奇跡の様なのだ。
「明かりを点けるよ?」
突然明るくして目がくらむことがないように一声をかける気遣いを見せながら、マヤがまずは小さな自分の持っていたランタンを部屋に持ち込んだ。
それと同時に、ミルが部屋の隅に置かれていた照明に火を灯していく。
徐々に明るくなる部屋の中。
布団の中に座るノアの姿をミーシャはじっと見つめ続けていた。
最初はマヤのように皴が寄っているのかと思った。
しかし、それは違うとすぐにミーシャは気づいた。
顔全体に走るひび割れ。ごつごつと隆起した鱗というよりまるで岩のように変形した肌。
村人たちは良く日に焼けた小麦色の肌をしていたが、ノアの肌は白っぽくそれも相まって本当に岩が張り付いているように見えた。
頬や首筋ほどではないけれど瞼や口元にまで皮膚の変容は起こっていて、声が出しにくいのもそのためだと予測できた。
すべての明かりが灯された時、ゆっくりとミーシャは部屋の中へと足を進めた。
半分しか開ける事が出来ていないノアの瞳とミーシャの瞳がしっかりと合わされた。
(水の色だわ……)
今までミーシャの出会った村の人達はマヤを除いてみんな黒や茶色など濃い色の瞳を持っていた。
しかし、ミーシャと見つめあうノアの瞳は薄い水色をしている。
(底まで見通せるような、透き通った水の色)
ふいに、ふわりと水面が揺れ動くようにノアが目を細めて微笑んだ。
「…初め……まして、小さな…薬師……さま。おうわさ……は、聞いています」
かすれる声はやはり聞き取りにくかったけれど、優しく細められた瞳と相まってひどく穏やかに響いた。
「初めまして。海のみ使い様の好意でこの村に送り届けられました。薬師のミーシャと申します」
ミーシャは布団の横に膝をつくと、胸に手を当てて頭を下げた。
「わたし……は、ノアで……す。どうか…ミルのた……め、知恵をおか……し、ください」
ゆっくりではあるが声を絞り出し、ノアもまたわずかに頭を下げた。
しかし、そのためにバランスを崩したようでゆっくりと体が傾いていく。
「おばさま、無理すると駄目よ」
予想していたのか、側についていたミルが慣れた手つきでその体を支えゆっくりと横たえた。
「……が…とぅ」
困ったように目を細めた後、ノアは大きく息を吐いた。
「ここ半年は自分で体を動かすのも辛いようなんだ。食欲もなくてね……。無理に食べると腹痛を起こしたり気分が悪くなったりでまともに食べる事もできないんだよ」
マヤの言葉に、ミーシャは改めてノアを見た。
(顔色……は分からないな。呼吸は小さく浅い。呼気からは酸っぱいような腐ったような匂いがするから、胃腸に問題がありそう)
「ちょっと失礼しますね」
そっと手を伸ばしノアの首筋に触れる。
固くごつごつとした皮膚の変質は首にまで広がっていて、脈をとることはできなかった。
そっと布団の中から取り出した腕も同じように固く、特に左腕は肘も手首も微かにしか曲げる事はできないようだった。
「肌の角質異常かなぁ?」
頑なった皮膚の表面を爪先で掻くようにしたり、軽く叩いたりして確認しながら、ミーシャは小さくつぶやいた。
「なんだい、それは?」
耳ざとくその小さな声を拾ったマヤに、ミーシャは目を瞬いた。
それから、自分の服の袖をめくり皮膚を露出して見せる。
「人間の皮膚は毎日少しずつ生まれ変わります。古い皮膚は通常剥がれ落ちるんですが、何らかの異常が起こって古い皮膚が剥がれ落ちず、そのまま表面にたまっていく事があるんです。そうすると皮膚が厚くなり固くなっていくんですけど……。
ミーシャは、母親に教えてもらった知識を思い出しながら、マヤだけでなくミルやノアにも分かりやすい言葉を使って説明していく。
それでも思ったように伝わっていない様子に、ミーシャは首をひねって考え込んだ。
「足のかかとが厚くなって、多少石とか踏んでも平気な人っていませんか?冬になって乾燥するとひび割れて痛くなったり……」
「漁師の奴らに、いるねぇ。あいつら濡れると面倒くさいって夏は裸足で歩き回るから」
マヤが何かに思い至ったように、ポンと手を叩く。
「あれは強い刺激に皮膚が硬質化した状態ですけど、それのひどい状態が全身に広がっているように見えませんか?」
説明しながらもミーシャは持ってきていた薬箱を広げて聴診器を取り出した。
手で触れても脈拍を取る事がかなわなかったので、聴診器で聞いてみようと思ったためだ。
筒状の聴診器は、ラインから言わせたら前時代のものらしいが、幼い頃から慣れ親しんでいた形状と母親の形見であるという思いから、あえて使い続けているものだった。
そして、発案者である森の民にとっては旧式のものでも、その他にとっては見慣れない道具であることには変わりない様で、マヤ達は目を丸くしていた。
一通り使い方を説明すると、ミーシャは服をはだけてもらいノアの体内の音を聞いた。
(脈も弱ってるし、お腹の音も聞こえづらい……。食欲がないと言っていたし、やっぱり内臓疾患もあると考えた方がいいかも。とりあえず胃腸の働きを助けるお薬かなぁ?)
前から後ろから場所を変えて、心臓、胃腸、肺の音などを確認していく。
それと同時に胴体の皮膚状態も確認していくミーシャは、先ほどから思い出せそうで思い出せない記憶に苦しんでいた。
(ミルさんの時もだったけど、この皮膚の状態、何かを思い出すんだよな……。見たこと……は、ないはず。こんなにインパクトのある病状、一度見たら忘れられないもの。でも……なあ?)
ミルに比べてノアの皮膚に走る亀裂は深く、皮膚も厚みがある。
それは岩肌のようにも、乾燥しきった大地のようにも見えた。
ふいにミーシャの脳裏にひとつの光景が蘇る。
経験したことがないほど暑い日が続いていたある夏の日。
いつものように母親と共に訪ねた村で、何日も雨が降らずひび割れてしまった大地を見ながら患者さんと木陰でおしゃべりをしていた時の事だ。
遠い町から嫁いできて、妊娠しても頼れる人が少なくて不安になっていた新妻の話を聞くのもミーシャの大切な仕事だった。
『私の故郷の方でたまにかかる人がいる病気でね、あの畑みたいに肌がカサカサになってひび割れるの。私の祖母の兄がかかってたみたいで……。この子にも症状がでたらどうしようって不安なんだよね』
濡らした布と団扇で暑さをしのぎながら憂い顔で大きなお腹を撫でていた。
「あ、思い出した!ネネさんだ!」
唐突に甦った記憶に目を見張り、ミーシャはポンっと手を叩いた。
「ねねさん?」
真剣な顔でノアの背中に聴診器を押し当てながら黙り込んでいたと思ったら、いきなり大きな声を出したミーシャに、ミーシャのすることを黙って見守っていたマヤとミルが驚いてビクッと肩を揺らす。
「あ、ごめんなさい」
驚かしてしまった事に気づいたミーシャは、素直に謝るとはだけていたノアの服を元に戻し、横向きになってもらっていた体を真っ直ぐに戻して布団をかけた。
そして、マヤの方に体を向けると、ニコリとほほ笑んだ。
「もしかしたら、この病に効く薬があるかもしれません」




