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ミルの世界はとても狭い。
海の側にある小さな村に生まれたミルは、産み月よりも早く母親の体内から出てきてしまった子供だった。そのせいか体が小さく、とても大人になるまで育たないだろうと言われていた。
それでも、もともと女の子が欲しかった両親にとって4番目にしてようやく生まれた女児を諦めるという選択はなかったようで、ババ様に頼み込んで助言をもらい、些細な事で体調を崩すミルを大切に大切に育てていた。
上の兄たち二人も同様で、どこに行くのも抱いて連れていくありさまだった。
そんな過保護な生活の中、下の兄のヒューゴだけが少しだけミルに厳しかった。
「咳も治まったんだから、外に行くぞ」
貧しい村だ。
3つも過ぎれば、それぞれに家の手伝いが始まる。
山の方にある泉で水を汲む。海岸に食べられる海草や貝を拾いに行く。猫の額ほどに小さな畑の草を抜く。
全て子供たちの大切な仕事であるが、体の弱さを言い訳にミルはほとんど参加したことがなかった。
だが、それはお手伝いであると共に、子供達にとっては大切なコミュニケーションの場でもあった。
「家にばっかりいたら、いつまでも弱っちいまんまだろ!体調がいい時はちゃんと運動させた方がいいって言われたぞ!」
ババ様を味方につけたヒューゴは、過保護な家族を言い負かして、ミルに他の子たちと同じように過ごすように連れ出したのだ。
体も小さく体力のないミルにとって、どの仕事も重労働だった。
当然同じようにはできないし、時間もかかる。
上の兄たちは「かわいそう」「ミルにはまだ早い」とすぐに助けの手を差し伸べたが、ヒューゴはただ見守るだけだった。
べそをかいて座り込むミルの荷物を半分持つことはあっても、抱き上げる事はない。
一緒にいる幼馴染の方が見かねて手を出すことがあるほどだった。
最初の頃、ミルはヒューゴが怖かった。
真綿でくるまれるような優しい世界の中でヒューゴだけが厳しかったし、ヒューゴの連れ出す外の世界は苦しい事がたくさんあったからだ。
しかし、そのうちにミルは自分からヒューゴの後ろをついて歩くようになる。
家の中では見れない景色や楽しみがあることに気づいたからだ。
泉から直接飲んだ水の甘さや、苦労して登った木の上で食べる果実には感動したし、海に跳ねる魚に驚いたり、貝を拾おうとして突然襲ってきた波にびしょ濡れになったりするのも楽しかった。
なにより家での静かな時間と違い、同じ年ごろの子供達とお喋りしたり笑いあったりするだけで、時はまるで飛ぶように早く過ぎていくのだ。
村の大人たちは忙しいので、子供たちはハイハイする頃には上の子の背中に負ぶわれて子供たちのコミュニティーに参加するのが普通である。そんな中、3歳になってもろくに外に出てこないミルの存在は異質だった。
それゆえに、最初は遠巻きにされることが多かったが、すぐに打ち解ける事ができた。
連れてきたヒューゴがどれだけミルがもたもたしていても放っておくため、同情されたせいである。
世話好きの女の子がまずは手を差し伸べ、体は弱くともいつもニコニコと穏やかなミルの性質が分かると、小さな子供を中心に周囲に人が寄ってくるようになったのだ。
そうして、定期的に寝込みながらも、なんとなく村の子供達との関係も良好になり、日々を楽しく過ごしていた頃、変化が起こった。
最初は、肌のかゆみだった。
背中のあたりがかゆくて、無意識のうちに掻いた肌には傷がついた。
しかし、もともと肌が乾燥気味だったこともあり、ミルは気にしない事にした。
7つになったミルは日々外に出るようになってそれなりに体も強くなっていたし、丁度母親が下の妹を産んだばかりで忙しそうにしていたのもあり遠慮したのだ。
生まれたばかりの小さな命にみんなの視線が集中する中、誰にも知られることなくミルの肌のかゆみは少しずつ範囲を広げていった。
それでも、多少の体の不調には慣れていたミルは、これくらい大丈夫と訴えることなく耐えてしまった。
丁度、冬の時期で水浴びどころか体を拭く事もまれな時期に重なったのも悪かったのだろう。
雪が解けて、ヒューゴが気づいたとき、ミルの肌にはまるで魚の鱗のようなひび割れが刻まれていた。
位置的に、ミル自身が見る事はできなかったため、異変に気付かなかったのだ。
「いいな、兄ちゃん以外に見せたらだめだ。かゆいのは分かるけど出来るだけ触るなよ?」
険しい顔で言い含めるヒューゴに不安になりながらも、ミルは大人しく頷いた。
ヒューゴがどこからか持ってきたクリームを塗りながら、かゆみに耐えていた日々はそれほど長くなかった。
「ちがう!神様の印なんかじゃない!ただの傷だよ!!」
必死に叫ぶヒューゴが大人に抑えられどこかに連れていかれるのを横目に、ミルは綺麗に飾り立てられた神輿に乗せられ社へと運ばれた。
村人が祝福の声をあげ花弁が舞い散る中、嬉しそうに笑う母親の腕の中に眠る小さな妹が、突然の事に混乱しているはずのミルの目に残り、いつまでも記憶に焼き付いていた。
そうして、ミルのもともと狭かった世界はさらに狭くなったのだ。
「もう、大丈夫……です」
小さな声で訴えて、ゆっくりとミルは体を起こした。
「そう?眩暈はおさまりましたか?」
体を起こすミルの背中をささえて手伝いながら、ミーシャはゆっくりと問いかけた。
「はい。すごい速さで、びっくりしてしまっただけなので……」
少し恥ずかしそうに頬を赤らめるミルの声は、小さいのに芯があり良く通った。
(歌っていなくても、とてもきれいな声だわ)
ひっそりと思いながら、ミーシャは上半身を起こしたミルの様子をしっかりと観察する。
早かった呼吸も落ち着き、顔色も良いようだ。
視線もしっかりとこちらを捉えているし、受け答えにも問題ない。
そこまで見て取って、ミーシャはにこりと微笑んだ。
「それでは、改めまして。私の名前はミーシャです。旅の途中で船から海に落ちて、イルカとカシュールに助けてもらいました。薬師を生業としていて、今回はお二人からの依頼でこちらに呼ばれました」
突然、挨拶をはじめたミーシャに、ミルは驚いたようにパチパチと目を瞬いた後、ニコリと微笑み返す。
「ご丁寧にありがとうございます。海巫女に名はないとされていますが、ここでだけでもミルと名乗らせてくださいね。きっと兄さんが無理を言ったのでしょう?今日はわざわざこんなところまでありがとうございます」
まるで光に溶けてしまいそうなふわりとした儚げな笑みだった。
「名がないわけないだろう!お前は今も昔もミルで、俺の妹だ」
「……兄さん」
怒ったように声をあげるヒューゴに、ミルは困ったように目を向けた。
頑是ない子供を見るような顔は、どちらが年上か分からない。
「とりあえず、もしミルさんが嫌でなかったら患部を診せていただいていいですか?」
微妙な沈黙を破るように、ミーシャはとりあえずこの場に来た最大の意味を解消しようと、ミルに声をかけた。ピクリ、とミルの穏やかな微笑みがかすかにひきつった。
「診て、どうできるというのでしょう?」
ミーシャの問いかけに、ミルは静かな声で問いで返してきた。
伏せられた長いまつ毛の奥、瞳が寂しそうな光を浮かべる。
「この肌に印が浮かんだ以上、私の役目は決まっているのです」
(あぁ、彼女は自分の運命を諦めているんだわ)
その瞳を見て、ミーシャは不意に思った。
突然、家族から引き離されて、海巫女という役目を押し付けられた。
そこから8年。
外の世界で生きていたよりも長い時間をその役目の中で生きてきたのだ。
その時間の中で何があったのかはミーシャには分からない。
だが、その時間は確実にミルから、子供らしい笑顔と希望を奪ってしまっていた。
ミーシャは、キュッと唇をかみしめた。
沸き起こってくるのは悲しみと怒りだった。
「なにができるのか、は私にもまだ分かりません。ですが、変えたいという思いがあるなら、人はそこからどんなふうにでも変われると思っています」
ミーシャの脳裏に浮かぶのは、今まで出会ったたくさんの人たちの顔。
思いもよらぬ運命に翻弄されて、怒りの声を叫ぶ人。起き上がれずうずくまってしまった人。それでもまた、立ち上がろうと顔をあげた人……。
運命は変えられない。
残酷な現実があることを、ミーシャだっていやというほどわかっている。
全てが物語のように『めでたしめでたし』で終わるのなら、母親はあんな死に方をしていなかったはずだし、今でもアナは祖母と笑いあっていただろう。
だけど。
だからこそ、ミーシャは強く思うのだ。
「生きている限り、人は変われるんです」
ミーシャは、目の前に座るミルの目を覗き込む。
穏やかに見える微笑みは、ミーシャには長い年月の中でミルが身に着けた自分を守るための鎧に見えた。抗えない運命に、これ以上傷つかないように。
ミーシャは、自分の身を守ることが悪い事とは思わない。心の傷が、命を縮める事があるという事を知っていたからだ。
だけど、ミルのために、ミルと同じ時間をかけて抗おうと藻掻いている2人の一端を知ってしまったから、そんな風に笑ってほしくないと願ってしまうのだ。
「でも、それは本人が心から願わなければ意味がありません。周囲がどれほど手を尽くして道を整えたとしても、歩くのは自分自身なのですから」
真っ直ぐに見つめるミーシャの瞳に射抜かれたような気持になって、ミルは我知らず息をのんだ。
生きていくために作られた『村』という運命共同体の鎖。
気がつけばがんじがらめに絡めとられていたその鎖から、ミルは逃れる事など出来ないと思っていた。
薄暗い洞窟の中から歌を捧げながら、どこまでも続く青い空と海に、ミルもこの歌のようにどこまでも飛んでいきたいと願っていた。
遠く海風に乗って聞こえるかつての友の声に、胸を引き絞られるような寂しさを覚え、ほほを涙で濡らしたことも数え切れぬほどある。
どうして自分がと、ひび割れる肌を掻きむしり、自分を傷つけるなと叱られもした。
その全てをミルが諦念と共に微笑みの下に押し込めるのに、どれほどの年月が必要だっただろう?
ようやく、穏やかにほほ笑めるようになったというのに……。
(希望を持てば、また傷つく……。それに私は耐えられるかしら?)
迷うように瞳を揺らすミルの背に、大きな手がそっと添えられた。
伝わる温もりに顔をあげれば、いつの間にかそこにはヒューゴが寄り添っていた。
幼い頃から、誰よりも自分の味方でいてくれた兄。
社に閉じ込められた自分のために、厳しい鍛錬を乗り越え、望む力を手にいれてみせた。
そして、岩の亀裂から隠れるように指先を絡めて伝えるしかできなかった温もりが、今こうして顔を合わせて触れ合えるようになった。
それはわずかな偶然と文字通り血のにじむ努力の賜物だと、世間から隔絶された時間を長く過ごすミルだからこそ、強く感じる事ができた。
「ミル……」
じっとヒューゴを見つめるミルの耳に控えめな声が飛び込んでくる。
それは、もう一人のミルの寂しさを支えてくれた人の声だった。
一つ年下の幼馴染であるカシュール。
気がついたらすぐ近くにいて、家族の次に一緒にいた優しい男の子。
海巫女の称号と共に家族との縁が切れたと、ヒューゴ以外の家族はよそよそしくなってしまった。
仲良くしていた友人や良く子守をしていた幼子すらも、ミルに対して畏怖の目を向けるようになってしまていた。
その中で、ミルが好きだった野辺の花や綺麗な貝殻をそっと社の格子戸の隙間から投げ入れては、何も言わずに去っていった不器用な背中を知っている。
数年続いたその贈り物の存在をどこで知ったのか、ヒューゴがいつの間にか悪だくみの仲間に引き入れてしまったようで、秘密の逢瀬に連れてきたときにはミルは心から驚いた。
けれど、まるで昨日の続きのようなそっけない態度で「よう」と手をあげられた時、ミルは嬉しくて泣いてしまったのだ。
まだ自分の事を、ただの女の子として見てくれている人がいる事を知って……。
(そうだね。兄さんもカシュもあきらめてないのに、肝心の私が逃げちゃダメ、だよね……)
ミルは、キュッと唇をかみしめると、しっかりとミーシャを見つめ返した。
「診察を……お願いします。どうか、私を助けてください」
翠の瞳が、嬉しそうにほころんだ。
読んでくださり、ありがとうございます。
ミルちゃんの回でした。
ただの女の子が、いつの間にか村という共同体の中で『海巫女』という象徴へと祭り上げられた悲劇。
もうちょっと、教信者っぽい感じを出すかと迷いましたが、さしあたりマイルドに。
そもそも、ここまで丁寧にミルちゃんを語る気はなかったのですが……?
不遇の美少女って萌えますよね。
という、作者の性癖が垣間見えたところで、次回こそ診察に行きます!(多分……)




