24
「今の時間だったら、海側の方がいいかもな」
ミーシャをしばらく見つめた後、カシュールがポツリとつぶやいた。
カシュールにとって、ミルは隣に住む一つ上の幼馴染だった。
体が弱くて、季節の変わり目には必ず体調を崩すし、胃腸が弱いせいであまり食事もとれず、体が小さいから年上と思った事もなかった。むしろ、ヒューゴの真似をして世話を焼いていたように思う。
足も遅くて要領も良くなかったから、同じ年ごろの子供たちについていけず良く置き去りにされていた。
でも、それでいやな顔をすることなく、残された小さな子供たちの面倒を見て笑っているような、穏やかで優しい子だった。
だから、ミルに愛し子の印が現れた時、カシュールは「やっぱりそうか」となんとなく納得したものだ。
だけどヒューゴから「海巫女になると社から出てこれなくなる」と聞かされて、それはだめだと思った。
天気の良い日に、日向ぼっこをしながら赤ん坊の面倒を見ながら子守唄を歌うミルの幸せそうな笑顔を見れなくなるのはいやだったからだ。
結局、隠し事がばれてミルがいなくなり、日常の中からミルの姿が消えた時の何とも言えない感覚をカシュールはいまだに忘れる事ができないでいた。
(あれが喪失感ってやつだったんだろうな)
当時は名前を付ける事もできなかったそれのおかげで、ヒューゴほどではないものの自分の運命も随分変わってしまったとカシュールは思っている。
荒れるヒューゴと幼くして家族から引き離されたミルを哀れんだ先代海巫女の計らいで、その後も細々と縁は続いていったけれど、岩の隙間からわずかに覗く笑顔では満たされることなくさらなる渇望を呼んだ。
(俺はずるいな)
ヒューゴをとがめるふりをしながら、結局は無関係の少女を利用しようとしている自分自身を、カシュールは心の奥で罵った。
(これなら、自分の欲望のまま手を伸ばすヒューゴの方がよっぽど誠実だ)
それでも、差し出された希望を無視することなど出来ないのだ。
キュッと唇をかみしめて、カシュールは櫂を操り始めた。
「そうだな。今は引き潮だから船のまま行けるだろう」
カシュールの内心の葛藤を悟っているだろうヒューゴは、そんなことはおくびにも出さずにあっさりと頷く。
「海の方?」
滑るように動き出した小舟に、ミーシャが首を傾げる。
小舟は島影を辿るように、トンブを採った岩場を通り過ぎていく。
月明かりではよく見えないが、あの日海巫女の歌う声を聴いた洞窟のある崖を回り込み、さらなる奥へと向かっているようだった。
「この先に、潮が引いた時にだけ現れる洞窟があるんだ」
ヒューゴの指さした先に、波に隠れるようにぽかりと開いた穴を見つけて、ミーシャは目を見開いた。
指さされなければ見過ごしてしまいそうなほど小さな洞窟で、さらに岩場が入り組んでいるため目にとまりにくい。
「頭をぶつけるから伏せてくれ」
指示されて、ミーシャは急いで船底へと伏せた。
ほとんど小舟の幅ほどしかない小さな洞窟の中へ、カシュールは何処にもぶつけることなくするりと入り込む。
そろりと目を開いてみるが、そこはほとんど何も見えない闇の中だった。
入ってきた入り口から、かろうじて月明かりが射しこんでいるがあまりにも頼りない。
だが、カシュールは迷いなく櫂を操り、奥へと進んでいく。
「ここは、たまたまカシュールが見つけたんだ。潮が最大限引いた時でも、この船が通る程度しか顔を見せない。洞窟ってよりほとんど亀裂の域だな」
暗闇の中、少し笑いを含んだヒューゴの声が響く。
次の瞬間、明かりが灯された。
「位置的には海巫女の歌を捧げる洞窟の裏側にある。もしかしたらって見つけた瞬間、衝動的に突っ込んだんだってさ、こいつ」
舟底に伏せた体勢のまま、ヒューゴがどこからか出した小さなランプを灯したのだ。
「別に、これだけ空間があれば空気は確保できるし、最悪船を捨てて泳いで戻ればいい。考えなしに無茶をしたわけじゃない」
クツクツと笑うヒューゴに、カシュールの不機嫌そうな声が答える。
(え?先の見えない暗闇に突撃したって、十分無茶な気がするんだけど……。だって、もう月明かりも入ってこない)
小舟はすでに、手元の明かりだけでは入ってきた入り口が分からなくなるほど、奥まですすんできていた。
「まぁ、大当たりだったんだけどな」
にやりと笑いながら、ヒューゴは懐から小さな鈴を取り出して鳴らした。
小さなランプだけが照らす薄闇の中、チリーンチリーンと鈴が鳴り響く。
涼やかなその音を聞いているうちに、ミーシャは徐々に洞窟の天井が高くなっていくことに気づいた。
そして、小舟は唐突に洞窟を抜け出した。
「うわぁ、すごい!」
屈めていた体を起こして、ミーシャは感嘆の声をあげる。
辛うじて小舟が通るだけの洞窟の先には、十畳ほどに広がった空間が広がっていたのだ。
天井の高さも十分で、大人が立っても余裕があるほどだった。
さらに、舟を止めるだけの陸地があり、奥の方にはポカリと洞窟が続いていた。
「さて、秘密の密会現場へようこそ」
ランプを掲げて、ヒューゴがおどけたように笑うと、ザッと顔の半ばまでを覆う長い前髪をかき上げた。
そして、初めてあらわにされた顔に、ミーシャは思わず息をのむ。
切れ長の涼やかな黒い瞳には同じ色の長いまつ毛が影を落とす。鼻梁が細く通った鼻筋。目尻にあるほくろが婀娜な雰囲気を醸し出す、美しいと形容するしかないような美貌だったのだ。
これまでの粗野な仕草や乱暴な言葉遣いとあまりにも乖離した美しさに、ミーシャは思わず見とれてしまった。
驚くミーシャに、ヒューゴは悪戯が成功した子供のような顔でニヤリと笑った。
「見惚れるのは分かるけど、惚れるなよ?」
わざとらしくシナを作って見せながら流し目を送られて、ミーシャはホゥと感嘆のため息をついた。
「えぇ~~。今まで出会った人の中で一番綺麗な顔で、びっくりしました。なんで顔を隠しているのかと思ったけれど、このためだったんですね」
しみじみと呟くミーシャに、ヒューゴは戸惑ったような顔でカシュールを振り返った。
「なんか、思ったのと反応が違うんだが?」
幼い頃からまるで突然変異のように突出した美貌の持ち主だったヒューゴは、良くも悪くも特別扱いされてきた。
長じてからは男女問わず欲のこもった視線を向けられることが多かったし、そのころにはそれを利用するしたたかさも持ち合わせていた。とはいえ、煩わしいのは煩わしいので、極力顔を隠すようにして生きてきたのだ。ミーシャの言う通り、長い前髪もその対策の一環だった。
最年少で補給部隊に選ばれたのは、磨き上げた技術や知識もさることながら、この顔が外の世界で利用価値があると判断された所も大きい。
それなりに危険な目にも合ってきたし、同じ数だけそれを潜り抜けてきたため、ヒューゴは自分に向けられる視線には敏感になっていた。
ところが、ミーシャの目に浮かぶのはまるで美しい花や芸術品を眺めているような純粋な感嘆だけで、ヒューゴは妙な居心地の悪さを感じてしまう。
「だから子供だって言ってるだろ」
いたずらが不発に終わり、何とも言えない表情で振り返るヒューゴに呆れたような視線を向けながら、カシュールは舟を止めた。
岸に上がったカシュールが、舟が流れていかないように打ち込まれた杭に紐でつなぐ。
この杭は、舟を停めるためにカシュールが用意して、地面に打ち込んだものだった。
「迎えに行ってくる」
鈴をヒューゴから受け取り、カシュールが走るように洞窟の奥へと消えた。
チリーンチリーンと一定の間隔でなる鈴の音が遠ざかっていく。
「この洞窟は、海巫女様のお社までつながっているの?」
「そうだ。おそらく、先祖がこの地にたどり着いて間もなく造ったもので、長い年月の中忘れ去られたかもともと秘された隠し通路だったんだろう。見つけた時には半ば崩れて塞がりかけていたのを、俺たちが時間をかけて復活させたんだ」
楽しそうに笑いながら、ヒューゴは壁の一部に巧妙に隠された戸棚を開け、中から椅子を二脚取り出した。背もたれもない、角材を組み合わせただけのものだが意外と座り心地は悪くない。
「まだ、整備完了して一年もたってないが、おかげでミルに気兼ねなく会えるようになった」
悪辣に笑うヒューゴは、村の人間を出し抜けるようになったこの環境を、心から楽しんでいるようだった。
もともと隔離されている海巫女たちの住処に入り込む村人は滅多にいないため、この隠し通路の中で会っている分には事が露見する可能性は限りなく低い。
ちょっとした不在は、最初から共犯者になってくれている先代巫女が誤魔化してくれていた。
気を付けるのは、洞窟の中に入り込む瞬間くらいだが、船持ちになった漁師は個人行動が多いため視線を外れて行動するのはそう難しい事ではなかった。
さらに、カシュールがいない時でもヒューゴの身体能力なら、鍛錬を装って独りになった瞬間を使って山側から崖をおり、身一つで泳いで辿り着くことも可能だった。
一番危険なのは洞窟の先が分からないからであり、どれくらいの距離を泳げばたどり着けるかとか行った先の地形とかが分かってさえいれば、水に沈んだ入り口から潜りこむのも恐れるほどの事ではなかったのだ。
よって、カシュールより自由時間が多いヒューゴは潮が引くまで待つ事無く、暇を見つけてはせっせと整備に通い詰めたのだった。
「すごい執念ですね……」
勧められるまま椅子に座ると、ミーシャは改めて辺りをぐるりと見渡した。
カシュール達が発見した当時どれほど荒れていたかは分からないが、現在は陸の部分もここから覗ける限りの洞窟の中も地面はでこぼこもなく丁寧に均されていた。
おそらくは体が弱いという海巫女……、いや、妹が躓かないために綺麗にしたに違いない。
(どれくらいの労力がかかったのかしら?)
ぐるりと海を回ってきた時間を考えれば、海巫女が住む場所まで相当な距離があるはずだ。
そもそも、本当に海巫女たちの住居へとつながっているかも確証はなかった。
どうつながっているか分からない洞穴を、崩れる危険も顧みず黙々とすすむのは、精神的にもかなりの負担だったはずだ。
それを、カシュールとヒューゴは二人きりでやり遂げてしまったのだ。
「まぁ、な」
いささかあきれたような顔のミーシャに、ただ、ヒューゴはにやにやと笑うだけだった。
そんな表情さえも綺麗なのだから、ヒューゴの美貌は大したものだ。
フウッと一つため息をついて気持ちを切り替えたミーシャは、表情を改めてヒューゴに向き直った。
「海巫女様の一日の過ごし方って分かりますか?」
「あ?なんだ?突然」
突然真面目な顔を向けられたカシュールは面食らって目を瞬いた。
「洞窟がふさがる前に戻らないといけないなら時間が限られてるだろうから、診察する前にできる情報収集をしておいた方がいいと思ったんです」
潮の満ち引きがどれくらいの時間で進むのかをミーシャは知らなかったが、潮が引いた時だけ現れる洞窟だという事をしっかりと覚えていた。
洞窟に閉じ込められるのは遠慮したいし、泳げないわけではないけれど、二人と違って暗闇の中進んできた道を潜って戻れるかと言えば無理と胸を張って言える自信がミーシャにはあった。
「あぁ、そういう。まぁ、確かに。洞窟が水に沈んだら。船を引っ張り出すのも大変だしな」
納得したように頷くと、ヒューゴはミーシャの前に用意したもう一脚の椅子にドカリと座った。
「普段の過ごし方……ねぇ。俺が知っている限りは、規則正しい単調なものだぜ。朝起きて海に向かって歌を捧げ、食事を作ったり掃除をしたり。それから先代巫女に読み書きや勉強を教わり、過去の巫女たちが残した記述を読み解く。合間合間に祈りを捧げ歌を捧げ、社の前で何か言ってる村の人間の話を聞いて、必要がありそうなら鈴を鳴らす。そんな感じでかれこれ8年目か?」
まるで流れる水のように一気にまくしたてられて、ミーシャは情報量の多さに目をしばたたかせる。
「つまり、お社の中で規則正しい毎日を送られているってことですね。体が弱いと聞きましたが、今も?」
「強くはないだろうな。季節の変わり目に寝込む事はあるし。ただ、そうだな。死にそうなほどひどい状態になるってのは、ないんじゃないかと思う。……まぁ、たまにしか会えないから誤魔化されていたりしたかもしれないけどな」
ミーシャの質問に、ヒューゴは苦虫をかみつぶしたかのような顔をした。
所在なく膝に置かれた手の指が、いらだたし気にトントンとリズムを刻む。
「きちんと向かい合う事ができたのなんて、ここを見つけたほんの一年前くらいからで、それまでは良くても顔半分ほど覗く隙間から話ができる程度だ。それだって日にちを合わせるのが困難で月に一度あればいいほどだったから、誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せる。あいつは、優し過ぎるほど優しいから……」
過ぎ去った日々を思い出して唇をかむヒューゴを、ミーシャは無言で見つめていた。
波の打ち寄せる音だけが響く静かな空間に、走る足音が一つだけ響いてきて、ミーシャは洞窟の方に目をやった。
同じくその音に気づいたらしいヒューゴが、クツクツと笑う。
「満ち潮の時間に焦ってるのはミーシャだけじゃなかったみたいだな」
笑うヒューゴのつぶやきが終わるか終わらないかのタイミングで、カシュールが飛び込んできた。
その背中には、女の子が一人、おぶさっている。
「ごめん、またせた!」
「待ってねぇ。どんだけ走ったんだよ。ミル、目ぇ回してないか?」
ミーシャの想像通り、この洞窟から海巫女たちの居住区までそれなりの距離があるうえに、上り下りが結構険しかった。
頑張って整備したとはいえ、もともと天然洞窟を利用して作り上げた隠し通路だったので、どうしても限界があったのだ。
ミルをここまで連れてくる時には、いつもはもう少し時間の余裕を見て呼び出すので、運動もかねてのんびり移動するのだが、今回はほぼ思い付きの突発だったため余裕がなかった。
少しでも時間を多く採ろうと、カシュールがミルを背負って駆け抜けてきたのだ。
普段は漁師として海にいる事が多いが、幼い頃からヒューゴの鍛錬に巻き込まれることが多かったカシュールもそれなりに身のこなしは軽かった。
安全には当然配慮したものの、焦りもあって結構なスピードで急な段差を飛び降りたり駆け上がったりしたため、もともと大人しい性質のミルには刺激が強かったのだ。
「わぁ!ごめん!!」
かろうじて意識はある様子ながら、明らかに青い顔でぐったりとしているミルにようやく気づいたカシュールは、慌ててミルを背中からおろした。
「こっちよこせ」
ミルの細い体を受け取ったヒューゴが、いつの間にか広げていた厚手の布の上にそっと横たえる。
「おい、ミル!大丈夫か?」
「ミル、ごめん。俺、加減したつもりだったんだけど」
そうして、枕元に座り込み口々に声をかける二人に、ミーシャは大きくため息をついた。
「二人とも、お静かに!耳元で騒いだら、ただでさえ目が回って苦しいのに頭に響くでしょ!?」
パンッと大きく手を叩いて二人の意識を引き付けると、ミーシャは精いっぱい険しい顔で言い放つ。
「どいてください!」
ミーシャの厳しい顔に驚いて固まるカシュールとヒューゴを追い立てる様に場所を開けさせると、ミーシャはミルの顔を覗き込んだ。
「少し触りますね」
先ほどと打って変わって穏やかで静かな声で話しかけると、ミーシャはそっとミルの髪をかき分けて額をあらわにすると体温を確認する。ミーシャの手が冷たくて心地よかったようで、少しだけ眉間に寄っていたしわが薄くなった。
「手ぬぐいか何か布があれば、海でいいから濡らしてきてください。あと、何か飲み物はありませんか?」
次いで服の襟元をくつろげながら背後に立ち尽くす男たちに指示を飛ばす。
バタバタと動き出した気配を背後に感じながら、ミーシャはそっと囁いた。
「ミルさん、眩暈はありますか?胸が苦しかったり、吐き気は?」
柔らかに響く声に、ミルの閉じられていた瞳がうっすらと開く。
「……少しクラクラします」
ようやく耳に届くほどの小さな声が返ってきて、ミーシャは安心させるように微笑んだ。
「急な動きに体がびっくりしたんでしょうね。少し休めば元に戻るので大丈夫ですよ」
「「本当か!」」
背後から響いた大声に、ミルの眉間に再びしわが寄った。
それを見て取って、ぐるりと顔だけ振り返ったミーシャの表情に、大声の犯人達はビクッと一歩後ろに後ずさる。
「お静かにできないなら、それを置いて離れていただいていいですか?」
笑顔なのに目が笑っていないミーシャは、非常に怖かった。
「はい、すみません」
その背後に般若の顔を幻視しながら、それぞれ手にしていた布とコップを渡して、ヒューゴとカシュールはすごすごと後ろに下がった。
「ヤベェ。前に相対したことある盗賊より怖かったんだが……」
「おれ、ババ様の仕事を邪魔した時を思い出した」
ひそひそと囁きあう二人を無視して、ミーシャは冷たい海の水で冷やされた布を額に置いたり、水を口に含ませたりとせっせと世話を焼いている。
「まぁ、まかせよう」
「そうだな」
少し顔色が良くなってきたミルの様子に、二人はホッと胸を撫で下ろした。
読んでくださり、ありがとうございました。
ようやくミーシャとミルが顔を合わせる事が出来ました。
ここまで長かった……。
さて、次回はミルちゃんの病の正体を探っていきます。
そして、またやっちまいました!
なんでか指が勝手にディーンって打ってしまうんです。
もはや呪い⁈
いっそ、名前改名した方が間違いがなくなるのではと思いはじめました。
嘘です、ちゃんと頑張ります。
混乱させてすみませんでした。
感想や誤字報告で教えていただいた方、ありがとうございました。




